キャビアの想い出

 

世界三大珍味といえば、フォアグラ、トリュフ、キャビアである。長くイランに居たことがある小生にとってキャビアには懐かしい想い出がある。今日はキャビアについて書いてみよう。
キャビアはチョウザメの卵の塩漬けである。カスピ海以外ではアムール川でも採れることが知られているが、カスピ海産のキャビアが世界で一番評価が高いだろう。カスピ海産といってもロシア側のものよりイランで採れるものの方が高級?高品質と言われていた。今は日本でもチョウザメを養殖してキャビアを生産しようとしているところがある(例えば愛知県の山村)。チョウザメは成長してキャビアができるまでには10年はかかるとかである。話をイランのキャビアに戻そう。
キャビアの品質はチョウザメの種類によっても異なる。最も大きなチョウザメのベルーガ (Beluga) は体調 3m から4m、体重300kgを超えるものがある。キャビアの粒も大粒で黒より灰色に近い。産卵まで20年以上かかり、体重の15%程度のキャビアを採ることができる。体調2m程度のがオシュトラ(Astra) である。キャビアは中粒で茶色気味の黒褐色、時には金色に変化するものもあり、ゴールデンキャビアといって珍重される。私はカスピ海沿岸のラシュトの町に2年ほど滞在したことがあるが、その時に何度かお目にかかることができた。最も小さいチョウザメがセヴルーガ(Sevruga)である。体長1~1.5mで体重も25㎏以下であるため、キャビアも小粒である。色は暗灰色で黒に近い。日本でキャビアというと殆どこのキャビアであるが、他の大きなチョウザメのキャビアの味の方が数倍上である。

上の表は私が随分前にキャビアの生産量を調べた時のものである。イラン暦の年で書いているので1365年元旦=1986年3月であるから、以下、1991年、1996年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年である。ご覧の通りキャビアの生産量は年々減少している。試験場では1970年頃から養殖を行っていたが簡単ではないようだ。チョウザメの肉の量も示されているが、1379年からはキャビもその数値に含まれている。ちなみにチョウザメの肉の味は淡白で嫌みのない美味しいものであった。塩味で炙る(キャバーブ)エスタージョンキャバーブをホテルのレストランで何度も食べた。いつも醤油を持って行ってちょっと付けるととても美味しかった。チョウザメのことをペルシア語ではماهیان خاویاریという。キャビアの魚という意味である。英語はSturgeonである。ホテルのボーイは「エスタージョンキャバーブ」と大きな声で私たちに勧めてくれたものだった。

私の勤めていた会社の社長は日本からイランに来るときにはいつも高級なマグロの塊?山?を沢山買い占めて持参してきた。それを大使館やら商社の支店長など、現地の有力者たちへのお土産にしたのだ。そして日本に帰るときにはキャビアを買い占めて日本へのお土産にしたのだった。私がテヘランにいるときはキャビアを買いに行くのが私の役目になっていた。キャビアは専売品なので専売公社のオフィスへ買いにいった。一度に沢山は売ってくれないから苦労したものである。ある程度通って顔なじみにもなってきたので苦労はなくなったが、その都度、手土産を持参したものである。彼らが一番喜んだのは日本や外国の少しセクシーな写真の多い雑誌類であった。

キャビアの産地であるラシュトに住んでいるときに、キャビアを買いに行く役目はなかったが、自分のために買う機会が増えた。売りに来るのである。専売品なので横流しの物なのかもしれないが、日本人なら買ってくれると思って家に来るのである。しかもそれがゴールデンキャビアなのである。ゴールデンキャビアは市場には出ていないので最高の珍味であるが、味は特にうまいわけではない。キャビアだって好きでないという人は沢山いる。私は酒の肴にして食べたが美味かった。何しろ日本に比べて格安なのだからガバッと食べることができた。若かったから飲んだ後、ちょっとご飯を食べるが、ご飯の上にキャビアをドンとのせて掻き込むのである。最高の贅沢であった。ケチ臭くチビリチビリ日にちをかけて食べているうちに、傷んでいることに気づかず酷い目に遭った日本人を医者に連れて行ったこともある。キャビアで当たると怖いのである。

冒頭の画像はアマゾンで販売しているキャビアの一部である。もう長い間、キャビアを食べたことがない。

ペルシア語通訳の想い出:大臣の通訳から犯罪者の通訳まで

春爛漫の季節になりましたね。桜は満開です。上の写真は家のすぐそばの公園の桜です。遠くに行かなくてもこんな奇麗な桜が見ることができることは嬉しいことです。2枚目は我が家の庭のアーモンドの木の花です。桜より10日ほど早く満開になって、花の期間も桜よりは長いのがアーモンドの良いところです。花は桜に似ています。そのアーモンドに写っている小鳥はシジュウカラのの雌です。軒下に掛けておいた巣箱にせっせと苔を運び入れているのです。ここ2~3日は巣作りの仕上げとして犬の白い毛を集めて運び込んでいます。もうすぐ産卵、そして可愛いヒナが現れることでしょう。

このブログに中東・イスラム関係以外のことを書いたことはありませんが、この春の陽気につられて、たまには日常のことに触れることがあってもいいかなと思いました。これからも季節に合わせて、私生活の記事も書いていくかも知れません。その方が人間らしくて良いような気がします。

さて、今日から4月です。この年になると新年度だと言っても何も変わることはありません。孫たちの新学期や入学の季節程度です。一昨日、ある筋からペルシア語の通訳についての問い合わせがありました。今回はお断りしたのですが、ペルシア語の通訳という想い出について今日は書かせていただきましょう。

私のペルシア語は外国語大学の4年間が基礎になっています。企業に就職し、海外要員(といっても勿論ペルシア語の現場イランですが)育成のために2年間の期間がありました。イランの砂漠を緑にするという水資源開発計画に関わる会社だったのです。技術中心の会社です。ですから、私自身も名古屋大学の工学部の授業を受けに行かされたりしました。例えば土木計画学、土木施工学、建設機械学、などなどです。本職はコーディネーターですから、技術は関係ないのですが、やはり少しぐらい技術者たちのやっていることを知っておくようにとの会社の方針ですが。イランで革命が起こる前の8年ほど駐在していましたので、その間にペルシア語は鍛えられました。そこで通訳の想い出です。

このブログの中にも「幻のイラン新幹線」という記事を書いていますが、このプロジェクトのために日本の当時の国鉄の錚々たるメンバーがイラン入りして現地調査をしました。私はずっと同行してフォローしました。調査そのものが楽しいものでした。専用の特別車両を使って在来線を何日もかけて辿ったのです。食事はシェフが乗り込んでいてダイニング車両で食べるのです。途中の町ではライオンズクラブのメンバーがランチ会に招待してくれたりするわけです。すべて私が通訳しなければなりません。会議室の車両ではイラン国鉄の技術者と日本の技術者とのやり取りがあり、ずっと通訳しました。フィージビリティスタディが終わり、マスタープランが作成されて、分厚い報告書が完成しました。日本から当時の国鉄副技師長が報告書を持参して、深夜のメフラバード飛行場に着きました。そして、その日の午後に運輸大臣にプレゼンテーションする計画でした。私は当然、大使館の方が通訳すると思っていたのですが、副技師長が私にやってくれて言われたのです。調査中、ずっと一緒にやって来たので彼は私を信頼してくれていたのです。嬉しかったですが、大変な通訳でした。今から考えると、よくできたもんだと思うのです。この会議はその後もありました。

とにかく日本から誰かが来ると、駆り出されることが多かったです。有名な作家、有名な写真家、芸能人、有名な考古学者、ODAのメンバーなどなどは通訳というより、同行して案内してあげるというようなことでした。

さて、日本に帰ってからですが、日本では殆どペルシア語の需要はありませんでした。いまでも余りないでしょう。でも何処で調べて来るのでしょうか。弁護士さんから電話がかかりまして、留置所のイラン人との通訳を頼まれるようになったのです。昼間は会社勤務があるので、その後の7時ごろの夜でした。かなりの回数出かけました。一度引き受けると、ほかの弁護士さんからも依頼がありました。余談ですが容疑者の言うことを信じて、それを証明しようとして一生懸命事実関係を調べる弁護士さんがいました。また別のケースでは、事実関係はどうでもいいから、罪を認めなさいと、容疑者にいう弁護士もいました。彼が言うには、早く罪を認めた方が、結局は自分のためには一番良いんだということでしが。この弁護士さんは腕利きのように思ったものです。色々勉強させてもらいました。その後、裁判での通訳も依頼されたのですが、昼間の勤務を口実にお断りして、日本語の達者なイラン人を紹介して、その方が引き受けてくれました。でもそのうちに、自分の国の人の裁判には関わりたくない。悲しくなるということで、辞めることにしました。

長々と書いてしまいましたが、そんなことがあったのだと振り返ってみました。今私の実力は非常に落ちています。語彙もどんどん忘れているでしょう。ただ、今はペルシア語の詩を読むのが楽しみです。詩は少し難しいですが、理解して、それをアラビア書道(ペルシア書道)の作品にするのがライフワークになっています。私の作品はこのブログに何度か紹介している通りです。そういえば春分の日はイランのノウルーズ(新年)でした。今が一番美しい季節です。そして、元旦から13日目の日はsizdah bedarといってお弁当を持って外に出かけるピクニックデーなのです。そのような場所を通りかかると、ベファルマイ、ベファルマイと言って無理やりごちそうしようとするのです。メフマンドゥースト=おもてなしの国なのです。

 

ペルシア語講座 34:ペルシア語はインドヨーロッパ語族です!

次第に暖かくなり、すこし春めいてきましたね。久しぶりに今回はペルシア語の話です。ペルシア語はアラビア文字を使用することは、このブログを読んでいただいているかたは既にご存知の通りです。ですから、ペルシア語とアラビア語は言語学的には近い関係にあると思われがちですが、まったくそうではありません。日本語と中国語の関係と同じようです。日本語は中国語と全然違う言葉ですが、日本語は中国で発達した感じを使用している。それと同じように考えるといいでしょう。ペルシア語の歴史を簡単に説明するのは難しいのですが、古代ペルシア語の楔型文字から、ある時はパフラビー文字を使い、イスラムによる支配のあと、アラビア文字を使用しているわけです。それはそうとして、ペルシア語は言語学的にはインド・ヨーロッパ語族に属する言葉なのです。

インド・ヨーロッパ語族となると英語と同じということです。ですから、ペルシア語と英語は同じグループなのです。ペルシア語習得の難易度は英語程度と言えるでしょう。私にとっては男性や女性名詞がある言語などに比べると易しい言葉だと思っています。アラビア語と比べるとこれはもう圧倒的にアラビア語は難易度が高いです。大学で習ったときに教授は「難しいということが分かればそれでいい」と言われました。

さて、ペルシア語を学生時代に学んで、それが英語と同じグループだと実感したのは、英語の daughter という単語でした。ペルシア語では دختر と書いて dokhtar と読みます。中学生の時に英語の daughter を習ったときに、なぜ gh があるのだろうと思ったのでした。英語ではこのghを発音しなくなったけど、ペルシア語では発音しているわけです。同じ語源の単語だということですね。そういう目で見ると、兄弟の brother は برادر barodar バローダルです。

勿論、英語と共通の単語ばかりというわけではありませんが、そういうことを知るとペルシア語が遠い存在ではなくなったのでした。。アラビア語から取り入れた単語が多いのも特徴です。本来のペルシア語の単語とアラビア起源の単語とを並べて強調するようなこともあります。日本語でも今は外来語が沢山溢れています。ペルシアではフランス語の外来語が多いかもしれません。テレビは英語でもテレビジョンですが、ペルシア語ではテレビジオーンとフランス語っぽく発音します。プレゼントはカアドウです。勿論、ヘッディエと言う語もありますが、カアドウの方をよく耳にしました。電話で受話器を取った時にはアロー、アローです。ありがとうはメルシーが普通。日本語でも若い人々の会話は今風に変化しています。他の言語もきっとそうなのでしょうね。今日はここまでにしておきます。

想い出の中東・イスラム世界:パーラヴィー国王の切手

前回はロシアとウクライナの戦争にこじつけて、無理やり中東の金貨に結びつけたのでした。金貨に描かれていたのはイランのパーラヴィー国王でした。今回は、パーラヴィー国王つながりで、世界最大級の切手を紹介いたしましょう。1979年の革命までの1970年代は彼の全盛期でした。この切手の大きさにもそれが伺われるのではないでしょうか。子供時代に切手収集に夢中になっていた私が買ったのは言うまでもありません。沢山買いました。そして、日本の色々な人に書いた手紙に貼り付けました。当時の通信手段は手紙だったのです。

会社の事務的な通信はテレックスでした。電話回線を通じて文章を印字するタイプライターのような機器がありました。国際電話(国際通信)料が時間で加算されるので、事前に原稿をタイプしてテープに穴をあけて(さん孔というのかな)、電話回線が通じたらそれを一気に流すというものでした。緊急の場合は国際電話ですね。プライベートな場合の通信となると、国際電話はやはり高くつくので、もっぱら手紙になるわけです。今のようにメールがあれば随分違ったでしょうね。また、孫の様子を日本の祖父母たちに見せることは今ではラインやスカイプで世界中どこでも簡単ですが、70年代はそんなものはありません。我々は8mmフィルムで撮影して、フィルムを送ったのでした。親たちはそのフィルムを現像して映写機で映して見たわけです。今考えると隔世の感がしますが、その当時は最先端だったのです。

この国王の切手は1枚だけ記念にとってあります。これを貼って家族に送った手紙もとってあります。次の画像がそうです。封筒の幅いっぱいに貼った切手の大きさがお判りでしょう。私も若かったころの思い出の一枚です。

モスクを知る❹:ペルシア型のモスク

前回モスクにはアラブ型、ペルシア型などがあることを知ったので、その辺りについて考えてみよう。先ず、イスラムが生まれたのはアラブ社会の中である。そこで生まれた礼拝の場であるモスクは当然アラブ型といえるだろう。いま、ペルシア型のモスクというと何が違うのであろう。ペルシアはアラブとは異なる文化圏である。イスラムが7世紀に誕生して、イスラム世界を拡大し始めた時、北西にはビザンツ帝国が、北にはササン朝(226年 – 651年)という二つの帝国が存在していた。そのササン朝は642年にニハーヴァンドの戦いでイスラム軍に敗れ、その後滅亡したのである。こうした歴史を経てペルシアはイスラム化していったのである。そこで造られたモスクがアラブ型のものとは異なっていても不思議ではない。ササン朝ペルシアといえば、シルクロードを経て中国へ、そして奈良へと洗練された文化を伝えた国である。その後のモスク建築にも独特の様式が取り入れられているのであろう。

先日紹介した神谷武夫氏のサイトでは次のような説明がある。
モスク建築の歴史に 画期的な変化をもたらしたのは、ペルシア(現在のイラン)が、ササン朝の遺産である「イーワーン」を モスクに もちこんだことである。初めはごく控えめに、中庭に面する礼拝室のアーケードの中央スパンを 他よりも幅広くし、アーチの高さも高くして、ミフラーブに向かう中央身廊を強調したのだった。この場所に イーワーンを設置すると、中庭が一気に活気づく。ササン朝宮殿のイーワーンは玉座や謁見室としての機能をもっていたのだが、この場合には そうした機能は不要なので、モスクを造形的に美化しようという意図のほうが強かった。

フィールーザーバードの アルダシール宮殿遺跡(イーワーンの元)


こうして中心軸が強調されると、中庭において このイーワーンと向き合う面にも その対応物が欲しくなる。そこで ここにもイーワーンを設けて向かいあわせると「ダブル・イーワーン型」のモスクとなる。列柱ホールが中庭を囲んでいただけの単調なモスク型は、こうして大いにメリハリのある建築となった。さらに、中庭を囲む他の2辺の中央にもイーワーンを設置すると、4基のイーワーンが 縦・横の中心軸上に向かいあう「四イーワーン型」のモスクとなって、飛躍的に造形効果が増大する。

ザワレの金曜モスク

 四イーワーン型の 最初の作例といわれるのは、12世紀の ザワレの金曜モスクである。地方都市なので 規模は小さく、中庭は約 16m角の正方形である。そこに 各辺の長さの 1/3ほどの幅をもつ イーワーンが 向かいあうのだから、アラブ型モスクとは まったく異なった中庭空間となった。4基のイーワーンに囲まれた中庭の求心性は強烈で、奥の礼拝室自体よりも シンボリックな空間となる。イスファハーンの金曜モスクでは、アッバース朝時代の 古典的な列柱ホール・モスクが、12世紀に 四イーワーン型モスクへと 劇的に変えられた。イーワーンのアーチの内側は 半ドームや半円筒形ヴォールトの天井とされ、しばしば華麗な ムカルナス装飾 がほどこされた。アラブ人よりも、見た目の美しさを重視する ペルシア人の 感性の発露だったと言える。

さて アラブ型からペルシア型への 変化部分は 、他にもあった。まず 屋根の不燃化である。アラブ型では シリア・ビザンティンの伝統に従って 木造の陸屋根が基本であったが、ペルシアでは 木材の欠如から、すべてをレンガ積みでつくろうとする。柱から柱へは すべてアーチを架け渡し、4つのアーチで囲まれた区画ごとに 小ドーム天井を架けたのである。それと同時に、ミフラーブの手前は 柱を取り除いて広い正方形の空間をつくり、ここに 大きなドーム屋根をかけた。この 天井の高い場所が主空間となり、均質的なアラブ型とはちがう、メリハリのある礼拝室となったのである。

以上で大体の違いがお分かりであろう。ペルシア型の最大の特長はイーワーンである。四角い壁のような入り口がアーチになっている面である。このイーワーンが四角い中庭を囲む対面の2カ所、あるいは4面に設けられているわけである。有名なイスファハンの「王のモスク(現在のイマーム・モスク)の図面は以下の通りである。

王の広場から入っていくと図の中庭にでるのであるが、中庭を囲む四面がイワーンであることがわかるであろう。王の広場から入っていくときに通る最初の門もイーワーンである。次の写真はそれを私が写したものである。

ドームと尖塔という取り合わせのアラブ型に対してペルシア型はイーワーンとタイルが特徴と言えるかもしれない。ペルシア型にも尖塔はある。前にも述べたことがあるが地方の素朴なモスクが好きである。私が写したそんなモスクのイーワーンも紹介しておこう。

2022年正月スタート

早いもので2022年の新年も4日になりました。コロナのせいで帰省できなかった子供・孫たちも2年ぶりに年末から帰ってきました。ところで西暦の1月1日が正月で、お祝いをするというのは世界中が同じというわけではありません。ご存知のように中国では春節といって2022年の場合2月1日から始まります。つまり旧暦でお祝いするのです。さて、中東ではどうでしょうか。イスラム世界ではイスラム暦の1月の1日はなんのお祝いもしません。ただ年が変わるだけです。お祝いするのは断食明とかなどの宗教上の大切な日です。イスラム国といってもイランの場合は異なります。イランには独自の暦があります。イスラム暦の紀元と同じなのですが、イスラム暦に太陰暦に対して、イラン暦は3月の春分の日を始まりとした太陽暦なのです。従って、月と季節が一致しています。イラン暦の正月はノウルーズと呼ばれて、盛大にお祝いします。春分の日が来て、これまでの冬の寒さから解放されて、草や木の芽が膨らむ季節は正月に相応しいものです。正月のお供えも7S(ハフト・シン)Sから始まる7つのものを飾ります。例えばニンニクなど。ノウルーズはイスラム以前のゾロアスター教の名残というか風習が引き継がれてきたものでしょう。イラン以外でもノウルーズの正月を祝う地域はあるようです。

簡単ですが新年の挨拶にさせていただきます。

経済協力推進を確認 イスラエルとUAE

昨日のテレビニュースではイスラエルの首相がアブダビを訪問し、UAEの事実上の指導者ムハンマド皇太子と会談したことが伝えられました。両国の国交樹立から1年余が経ち、ベネット首相の訪問が実現したのです。

13日、アブダビで、イスラエルのベネット首相(左)を迎えるアラブ首長国連邦(UAE)アブダビ首長国のムハンマド皇太子=イスラエル政府提供(AFP時事)
13日、アブダビで、イスラエルのベネット首相(左)を迎えるアラブ首長国連邦(UAE)アブダビ首長国のムハンマド皇太子(AFP時事)

このニュースをこのブログで取り上げる意味はどこにあるでしょうか。私は、今後の中東情勢が非常に不透明になりつつあると思うのです。単純に言えば、この先の状況が分からないということです。

アラブの国であるUAEとユダヤ国家が友好関係を築き、平和な中東社会が実現するならば歓迎すべきことと言えるでしょう。でも両者の思惑はまた別のものがあるようです。メディアも注目するのはイランとの関係です。両国が協力する分野は多々あるでしょうが、政治的な面では対イラン政策です。イスラエルはUAE以外のアラブ諸国とも関係を改善しつつあります。それらは結局はイラン包囲網を築くということなのです。イランはアラブではありません。イランとアラブ諸国の関係はサウジアラビアのように険悪なところもあれば、オマーンのように関係が良好な国もあります。が、全体としてみれば関係は良くありません。イエメンの内戦ではイランとサウジアラビアの代理戦争の体をなしているわけです。イスラエルのアラブ接近の動きはトランプ大統領時代のアメリカの仲介によるものです。つまり、アメリカの対イラン政策の一環であるわけです。

話を広げましょう。いまサウジアラビアがレバノンからの輸入をストップさせています。レバノンは政治も経済も混乱状態にあります。政治への国民の信頼は崩壊しています。経済はサウジへの輸出が頼みの綱的な面もあったのですが、それがサウジの輸入規制によって、ますます混乱しているのです。レバノン国内の宗教分布は非常に多岐にわたっています。そこで現在の政治の運営はキリスト教徒、イスラムシーア派、イスラムスンニー派と3者から選出された三頭政治になっていたのです。もうおわかりでしょう。シーア派はイランの影響、とくにヒズボラの影響をうけています。スンニー派はサウジアラビアの影響をうけているわけです。そして、レバノンはフランスの植民地でありましたから、宗主国であるフランス(キリスト教)がいまだに影響力を有しています。日産のゴーンさんを思い出しますね。
今回のサウジの輸入禁止の原因はシーア派から出ている政治家の発言に対して、サウジ側が激怒した結果と言われているのです。

イランを巡って、今後さらに中東情勢が複雑化する予感がするのです。イランには中国やロシアが接近します。そしてこれまで通りシリアに影響力を及ぼします。逆にアメリカとイスラエルはアラブを仲間に入れようとしているわけです。そこにインドも加えようとの動きもあるようで、日本・アメリカ・オーストラリア・インドのクアッドに習い、これを中東のクアッドと呼ぼうとしているようです。ますます目が離せなくなる今後の中東情勢です。

世界史学習:パルティアとササン朝ペルシア

1.パルティア

 

作業1: A=ローマ帝国 B=パルティア王国 C=クシャーナ朝
作業2: 絹の道(シルクロード)

2.ササン朝ペルシア

問題の答: トラヤヌス帝⇒a パルティア王国 ホスロー一世⇒b 東ローマ帝国

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イラン民族が築いたペルシア帝国といえば、アケメネス朝、ササン朝、サファヴィー朝の3つが帝国という名称をもって有名であるが、今回取り上げたパルティア王国もイラン民族の築いた王国であった。「世界史の窓」ではパルティア王国を以下のように説明している。

遊牧イラン人の建国
紀元前3世紀の中頃から紀元後3世紀初めまでの約5百年にわたり、イラン高原を支配した、イラン系民族の国家。アルサケス朝とも言い、パルティア帝国ともいう場合もある。パルティアはイラン西北部ホラーサーン地方の一部で、カスピ海南岸の地方。前3世紀にバクトリア王国に追われた中央アジアの遊牧イラン人パルニ族がこの地に定住、ヘレニズム国家の一つセレウコス朝シリアの支配を受けていた。
前247年ごろ、パルティアはセレウコス朝から独立をはたし、さらに前238年、族長アルサケスが即位してアルサケス朝を開いた。都はいくつかを移動した後、イラン北部のヘカトンピュロスとされた。セレウコス朝滅亡後、イラン高原からメソポタミアに進出し、クテシフォンに遷都。紀元後1~2世紀には、西のローマ帝国、北のバクトリア、東のクシャーナ朝と争いながら、東西交易路を抑え、繁栄した。しかし、特にローマとの抗争は国力を消耗させ、226年に農耕イラン人のササン朝ペルシアに滅ぼされる。

パルティアを滅ぼしたササン朝もイラン民族であるが、ササン朝は農耕民族であり、パルティアは遊牧民であった。それにしても、パルティアは500年程も続いた割には、注目度が低いように思われる。中国では「安息」という名で呼ばれた。

 

 

イスラムの美②:陶器

前回の「イスラムの美①:タイル」の評判が良かったので、タイルに続いて陶器を紹介することにしました。前回同様にヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の所蔵品の紹介です。

白地藍黒彩文字文壺。エジプトまたはシリア。14世紀。高さ37センチ。

青釉黒彩透彫鳥首水差。イラン、カーシャーン。12世紀末~13世紀初期。高さ29センチ。

白地色絵人物文鉢。イランおそらくカーシャーン。12世紀末期~13世紀初期。直径20.7センチ。

白釉雄牛像。シリア。12世紀。高さ22.2センチ。

白地藍黒彩草花文壺。イラン。17世紀。高さ52.5センチ。

白地藍黒彩獣文壺。イラン。17世紀。高さ29.8センチ

左:白地藍黒彩三美人図鉢。イランおそらくカーシャーン。13世紀初期。直径29.7センチ。
右:ラスター彩騎馬人物図皿。イラン。1208年。直径35.2センチ。

グルガーン出土陶器類各種。全品が13世紀初期のカーシャーン産フリットウェア器物の埋蔵品の一部。このような上質の陶器を扱った行商人の手持ち商品と推定される。

白地藍彩アラベスク文台付鉢。トルコおそらくイズニク。15~16世紀。高さ23.5センチ。

白地多彩草花文台付鉢。トルコおそらくイズニク。16世紀中期。高さ26.5センチ。

白地多彩花文モスク・ランプ形壺。トルコおそらくイズニク。1557年頃。

白地多彩花文墓標。トルコおそらくイズニク。16世紀。高さ42.2センチ。

白釉青彩赤ラスター彩蓋付壺。イタリア、グッピオ。1510年頃。

左:白地藍黒彩草花文鉢。イランおそらくカーシャーン。13世紀初期。直径24.4センチ。
右:白地藍彩葡萄文皿。トルコおそらくイズニク。16世紀初期。直径39.1センチ。

円卓天板。9枚の別個のタイルから成り、それぞれイランの国民叙事詩『王書』に啓発された場面を描いたものである。中央図下部の銘文は、当品がロバート・マードック・スミス少将の注文によりアリー・ムハンマド・カシュガル・イスファハニーが、西暦1887年に相当するヒジュラ歴1304年に制作したものであることが記されている。直径136センチ。

12世紀以後の各地で作られたものであるが、中には日本の陶器と見間違うようなものもありますね。イスラム世界のものであるのに、人物像が描かれているものもあることに、オヤッと思われた方がいるかもしれません。でもそれらは、イランの作品です。イランはご承知のようにシーア派の国であります。イランでは第4代カリフ・アリーの肖像を飾ることがあるように、人物像を描くことを厳格に禁止しているわけではないようです。ペルシャの絵皿には独特の顔の人物像が描かれているものです。

 

ペルシャ語講座31:数に関する表現

以前のペルシャ語講座14あたりで数の表し方を扱っています。今回は数に関連してもう少し詳しく述べて見たいと思います。
まずは1~10です。序数とは英語なら、first, second, third・・・というものです。

基数 読み方 序数 読み方
1 یک  yek  یکم  yekom
2 دو do دوم dovvom
3 سه se سوم sevvom
4 چهار chahar چهارم chaharom
5 پنج panj پنچم panjom
6 شش shesh ششم sheshom
7 هفت haft هفتم haftm
8 هشت hasht هشتم hashtom
9 نه noh نهم nohom
10 ده dah دهم dahom

1に対して1stは yekom ですが、yek を yak と発音する人は yakom と発音しています。しかしながら、普通はアラビア語由来の avval アッヴァルを使うことの方が多いでしょう。例えば first night なら شت اول シャベ・アッヴァル というわけです。farvardin 月の最初の日 なら روز اول فروردین  ルウゼ アッヴァル ファルヴァルディン となります。

以後、箇条書き風に述べていきましょう。
一度や二度という場合の言い方は yek daffe,  yek bar, yek martabe でいいでしょう。二度なら yek の部分を do ドウにして下さい。daffe, bar, martabeは回数や度数などを表す言葉です。それぞれ دفحه بار مرتبه と書きます。

日本語では物を数えるときに例えば本なら冊、動物なら頭(トウ)などと付けますが、ペルシャ語も同様です。
2頭の馬=دو رأس اسب  ドウ ラス アスブ
2冊の本=دو جلد کتاب  ドウ ジェルド ケターブ
2人(二人)=دو نفر  ドウ ナファル
鉛筆のような小さなものの場合は adad を使って 彼は5本の鉛筆を買った پنج عدد مداد خرید
複などの場合は dast を使って、私は1着のスーツを買った یک دست لباس خریدم
一軒の家を彼は買ったの場合は門という意味のba-b باب を使って、
یک باب خانه جرید
卵のような小さなものは da-neを使って、彼は卵を10個持ってきた
ده دانه تخم مرغ آورد
まだまだ沢山ありますが、これ位にしておきましょう。

カップ一杯のお茶=یک فنحان چای  yek fenjan chai   イエク フェンジャーン チャイ
コップ一杯の水=یک لیوان آب  yek livan a-b  イエク リヴァーン アーブ