ペルシャ語講座16:昨日、今日、明日など

久しぶりにペルシャ語講座の開催です。前回は時刻の表し方を学びました。今回は表題のような内容にしましょう。原稿を用意しておいて書いているのではなく、思いつくまま書いていくので整然としていなくても、ご了承のほどお願いいたします(笑)。

今日 امروز emru-z エムルーズ 備考
昨日 دیروز diru-z ディルーズ
一昨日 پریروز pariru-z パリルーズ
明日 فردا fardou ファルドー
明後日 پس فردا pas fardou パスファルドー
今年 امسال emsa-l エムサール
昨年 سال گذشته palsa-l サーレゴザシュテ
来年 سال آینده sa-le-ayand サーレアーヤンデ

一昨日よりもっと前を表現したい時もあるかもしれません。例えば一昨日の前だとすれば、3日前ということになりますね。前は=ピッシュ なので、数字の3のセ + 日のルーズ をつけると「セ ルーズ ピッシュ」となります。これで「3日前」という表現ができます。4日前、5日前なども数字を変えればいいだけです。

同様に明日、明後日の先はどうなるでしょうか。明後日の次は「3日後」ですから「3日」=「セ ルーズ」+「ディゲ」と言います。「ディゲ」というのは、正確には「ディギャル」ですが、話し言葉の場合「ディゲ」となります。「ディギャル」の代わりに「バッド」を使ってもいいです。4日後、5日後も数字を変えればいいだけです。例文を作ってみましょうか。

 私は3日前、東京に行きました。
   من سه روز پیش به توکیو رفتم
 man se ruz pish be Tokyo raftam
 彼は4日後に、大阪に行きます。
  او چهار روز بعد به اوزاکا می رود
  u chahar ruz bad be Osaka miravad

「彼は4日後に大阪に行きます」は未来のことなので、英語ならwill goとなるのかもしれません、ペルシャ語の場合も未来形がありますが、ここでは現在形を使っておきます。日本語でも「四日後に大阪に行きます」という風に現在形の表現をしているように、ペルシャ語の同じように考えて下さい。もちろん、推定的なニュアンスで、「多分行くでしょう」というような場合は動詞を未来形にしたらいいでしょう。未来形の作り方はそう難しくはありませんが、それは後日ということにしましょう。

今日は簡単なこれだけにしておきましょう。質問があればメールをお送りください(またはコメントでもいいです)。ところで皆様方、コロナが収束傾向にあるようでいながら、まだまだ東京や北九州では不透明な状況が続いています。くれぐれもご注意ください。

 

吉田正春:ペルシャを訪れた最初の日本人の一人

上はペルシャ湾と当時のペルシャの地図である。ペルシャ湾内に黒い実線が描かれており、チグリス川を遡りバグダードに続いている。さらにもう一本の線がブシェールからシラズ、イエズディ、イスパハン、テヘラン、レシトへと続いている。現在ではシーラーズ、ヤズド、イスファハン、テヘラン、ラシトと表記されている都市である。これは明治時代に、この地に足を踏み入れた日本人が辿ったルートである。

その男の名は吉田正春。彼は明治13年(1880年)にカージャール朝ペルシャとの国交樹立のための調査団を率いて現在のイランを訪れた。ブッシェール港に着いた彼らは先ず、現在のイラクの首都バグダードを往復してから、イランの首都テヘランに向かったのであった。

この調査の旅が実現するまでの経緯を少し説明しておこう。明治7年(1874年)1月、榎本武揚が駐露特命全権公使となり、サンクトペテルブルクに赴いて、樺太・千島交換条約を締結したのであるが、その後、1879年に訪欧の帰途にロシアに立ち寄ってペルシャ皇帝ナーセロッディーン・シャーに会う機会があった。そこで、皇帝から国交樹立の条約締結の提案があった。榎本武揚は帰国後に国交樹立の前段階の調査団を派遣することを決めた。その結果、団長として外務省御用掛である吉田正春が選ばれたのである。

吉田正春以外のメンバーは、参謀本部から工兵大尉古川宣譽、大蔵省商務局から大倉組商会副頭取の横山孫一郎、大倉組商会社員土田政次郎、七宝焼き磁器商の後藤猪太郎、小間物商の藤田多吉、金銀細工物商の三河鋳二郎であった。

一行は、明治13年4月に軍艦比叡で東京を出発し、途中、香港着4月23日、香港発5月1日、シンガポール着5月7日、ボンベイ着5月20日、ペルシャのブシェール港に到着。ブシェールに到着したのであるが、吉田と横山は先ずバグダードに行って、再びブシェールに戻っている。そして、改めてテヘランを目指したのである。外務省の資料は次のように記している。

1878年(明治11年)、榎本武揚(えのもと・たけあき)駐ロシア公使が、ロシアでペルシャ国王(ガージャール朝の第四代ナーセロッディーン・シャー)および総理大臣と会見したことが、明治の日本とペルシャとの交流のきっかけとなりました。特使派遣を知らせる井上馨(いのうえ・かおる)外務卿からペルシャ外務卿への通牒(1880年4月1日付)によれば、この榎本公使とペルシャ国王との会見をきっかけとして、両国間に通商協定を結ぶ機運が生まれ、交易の準備として、まずは商況調査のための使節団が派遣されることとなりました。
 特使に選ばれたのは、外務省御用掛の吉田正春(よしだ・まさはる)でした。吉田は幕末の動乱に際して土佐藩の改革にあたった吉田東洋(よしだ・とうよう)の息子で、東洋が土佐勤王党によって暗殺された後は後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)(明治政府で官僚・政治家として活躍)のもとで育てられた経歴をもっており、幕末から明治初期にかけての動乱を体感してきた人物でした。使節団には、吉田を団長として、参謀本部から派遣された古川宣譽(ふるかわ・のぶよし)陸軍工兵大尉、大倉組副社長の横山孫一郎(よこやま・まごいちろう)や同社員の土田政次郎(つちだ・まさじろう)、七宝焼陶器や小間物、金銀細工の商人が参加していました。
 一行は1880年4月に、インド洋での演習に向かう軍艦「比叡」で東京湾から出発し、5月にはペルシャ湾岸のブーシェフルに到着しました。その後吉田と横山はバグダッドへと旅行した後、再びブーシェフルに戻って古川らと合流し、7月の下旬から9月にかけてシーラーズ、イスファハンを経てテヘランへと北上の旅を続けました。
 吉田使節団の道中はまさに冒険というべき苦労の旅でした。途次、砂漠で遭難しそうになったり、現地人に医者と間違えられたり、険しい崖道を夜闇の中命からがら進んだり、といった稀有な体験をしながら、テヘランに到達したようです。
 一行は同年9月27日、ペルシャ国王ナーセロッディーン・シャーに謁見しました。この時に国王が吉田に与えた言上は、国書として日本側に渡されました。その国書には、両国はお互いに「亜細亜州」の国として、その心情は一致すると述べられていました。
 この時の会見の模様は、吉田が帰国後に提出した「謁見始末」に詳しく報告されています。吉田はまた、政府に提出した報告書に基づき『回疆探検 波斯之旅』(1894年発行)という書籍を著しました。国王はアジアでともに近代化をめざす国として日本に強い関心を示し、日本の政体・徴兵制度・鉄道建設など様々な問題についての詳細な質問を行ったことが「謁見始末」に記されています。この会見は、外国からの訪問者に対する会見としては異例の長時間に及んだということです。

9月17日に王に謁見したとあるから、ブシェールを出発した日がはっきりと分からないのであるが6月初めとすると、4ヵ月近くかかったことになる。そして、『回疆探検 波斯之旅』(1894年発行)という書籍を著したとある。その書の表紙の画像が次である。

なかなか古めかしい表紙である。国会図書館のサイトのデジタル資料として公開されているものである。これも是非見てみたいものであるが、私が入手しているものは、中央公論社の中公文庫1990年12月に発行された復刻本のようなものである。その表紙画像も次に示しておこう。

 

文語体で書かれているので読みにくいけど、興味があれば厭わずに読めるものである。これによると、テヘランに到着するまでの当時のペルシャの様子が描かれているので非常に興味深い。中から部分的に紹介してみよう。

第三章:ブシールよりシラズに到る道中(表記も原文通り):
ブシールよりテヘランに到らんとするには、その旅装の都合二様あり。荷物を多く持ちたる者は隊商(キャラバン)に入るべく、また軽装急行の者は駅伝(チャバル)に拠らざるべからず。駅伝の方法はおおむね普通旅客の成し得るところにあらずして、かの国の官吏または外国人に限りこれが便に藉(か)ることを得、すなわち費用を多くして日数を短くする方なり。隊商はその体ほぼアラビアに似たれども、途上はアラビアに比して見ればまず大抵安全なる方と言わざるべからず。・・・・・

まどろっこしいので、自分の言葉で書くことにする。
駅伝は費用が高いが時間的に早く行ける。ペルシャ側の役人の勧めなどもあり駅伝を利用することにするが、荷物が多いものもいるので、隊商利用と駅伝利用の二つの組に分けてシラズに向かって出発したそうである。

途中で現地の子供が口の中を大怪我をしたのに出会った。吉田たちを外国人と知って、助けを求められたことがあった。医者でもないし、どうしようもなかったが、泣き疲れたので仕方なく、砂糖水をなめさせることしかできなかった。それでも感謝されて、その場を立ち去ったというようなことも書かれていた。

ラバに乗った印象は次のように記している。「鞍上は馬よりも穏やかであるが、ゴー、ストップを御するのは難しい。口の引っ張る力が強いので、力いっぱい腕に力を入れても止まってくれない。普段騎乗に慣れていない自分たちはしばしば墜落した」とロバの背に乗り四苦八苦している様子が目に見える。今から見れば珍道中であったようだが、過酷な旅であったろう。いくつかの挿絵も紹介しておこう。

 

 

一行はテヘランで王に謁見したのであるが、すぐに会えたのではなく、結局テヘランには4ヵ月滞在したとある。テヘランでの仕事がメインであったが、カスピ海沿岸のギーラーン州のラシトに回った。そして、船でバクー(現在のアゼルバイジャン)に行きそこからトルコ経由のルートに変更している。ラシトは私が45年ほど前に妻と1歳の娘と共にしばらく住んでいた町である。正春はラシトについて、以下のように記している。
「ギーラーン州に入れば到るところ村落相連なり、田野広廓、石は皆苔衣を帯び、樹は皆老大陰をなせり。・・・・ここに至って余は初めて信ぜり。テヘラン以南の荒れ果てた地をもってペルシャの国は皆同じということは言えないと。・・・」。カスピ海沿岸は雨も多く、湿度も高いので風景は日本とそっくりなところなのだ。正春もそれをみて、ペルシャは砂漠の地ばかりではないということを自分の目で見て知ったのであった。気候・風土が似ているということは、生活様式も似通ったものがある。ラシトに住んでそのようなことも私は驚いたのであった。例えば、冬に家庭で暖をとるのに、コタツがあった。

さて、長くなってしまったので終わりにしようと思うが、先ほどの外務省の資料の記述に、吉田は幕末の動乱に際して土佐藩の改革にあたった吉田東洋(よしだ・とうよう)の息子で、東洋が土佐勤王党によって暗殺された後は後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)(明治政府で官僚・政治家として活躍)のもとで育てられた経歴をもっており、幕末から明治初期にかけての動乱を体感してきた人物でした。という部分があった。そうなのだ。吉田正春は吉田東洋の息子である。土佐から東京にでて英語を学び外務省に勤めるようになった。このペルシャの旅のあと、彼は政治運動にも参加する。板垣退助などとも親交があったはずである。

一つのことを調べて、あることを知ると、そこからまた芋づる式に新たなことを知るきっかけになる。正春が乗っていった軍艦比叡は前回紹介したエルトゥールル号の遭難生存者をトルコへ送還した軍艦であった。そして、その正春のことを知ると、彼が吉田東洋の息子で、時代的にもきっと坂本龍馬とも交流があったと思わざるを得ない。実は10年ほど前に正春のことを知りたくて高知に行ったことがあるのです。知を求め、広げることは何と快感なんだろう。

 

 

ビストゥーンの磨崖碑(3)動画とスライドショーを追加

このブログを始めた最初の頃、2019年1月11日に「ダレイオス1世とビストゥーンの磨崖碑」、12日に「ビストゥーンの磨崖碑」、翌13日に「ビストゥーンの磨崖碑(2)ローリンソンのサインがあった!」という記事を書いています。このブログを書き始めて約1年半が経ったことになります。ワードプレスを使うのも初めてのことで、戸惑いながら記事を書いたものでした。アクセスも殆どない状態が続いたが、最近になって閲覧数が少しずつ増えてきているのは嬉しいことです。そして、どの記事が閲覧されているかというと、意外と古いところ、つまり歴史の古い部分が見られているということも分かりました。つまり、このヒストゥーンの碑文辺りが見られているということです。ということで、ビストゥーンの碑文秘話を過去の記事に加えてちょっと詳しく書いてみました。そして、私が訪れた時に移した写真を動画にしたものを最後に添付することにしましたので、ご覧いただければ嬉しく思います。

ここを訪れたのはもう8年ほど前のことになります。その頃私は、名古屋の南山大学のエクステンション・カレッジで「中東世界を読み解く」という講義をしていました。そして、私がイランへ行くというと、80代の男性と、30代の女性が一緒についてきたのでした。この時の目的はビストゥーンの碑文を見るということだったのです。それで早速ケルマンシャーから現地へ行ったのでした。以前行ったときに買ったガイドブックには修復中であるので、見ることができないと書いていたのですが、今回の新版のガイドブックにはそう書いてはいなかったのです。ところが行ってみると、維持管理のために、修復時の時のまま、碑文の前に木造のプラットフォームのような広い場所が作られていました。つまり、崖の下からは全然見えない状態だったのでした。次の写真の通りでした。私は望遠レンズも持参したのですが、無理でした。

私は土産物屋のおじさんに管理事務所を教えてもらって行きました。職員が何人かいたので、その一人に「私は日本から碑文を見るために来たのです。上に登って見せていただきたい。これを見ないでは日本に帰れません」とお願いしたのです。あまり熱心に聞いてくれたようには感じなかったのですが「分かった。でも今は大勢の人たちが来ているので、貴方だけに見せるのは難しい。もう少ししたらお昼になるので皆ランチでちょっと人が少なくなるだろう。その時に案内しよう。」と言ってくれたのでした。私は先ほどの土産物店に戻り、お昼になるのを待ちました。でも、一向に事務所の人が来る気配はありませんでした。それで再度事務所に出かけることにしました。そして、中に入っていって、ちょっと偉そうな(管理者的な人)の近くにいって、話しかけようとすると、彼の方から「〇〇君、連れて行ってやれ!」と若い男性に向かって言ったのでした。現場に戻って鉄格子で閉鎖していた扉を開けて、仮設の階段を登り上に行ったのですが、なかなか険しいところでした。碑文の前に着くとそこは少し広いスペースができていました。私は感動で頭の中が真っ白になりました。眼前にあの歴史的なレリーフがあるのです。ローリンソンが解読しようと大変な苦労をして大偉業を成し遂げたレリーフがあるのです。しばらく感動に浸ったのでした。同行の二人も私の説明を聞いてそのすごさを知って感動していました。こんなことを体験させてもらえて「先生ってすごいなあ」ということでした。

管理事務所の案内してくれた男性が次の写真の左から二人目の背の高い青年です。左端の男性は、現地で雇ったタクシーの運転手です。一緒に連れて行ってあげました。

正確にいうと、事務所というのは世界遺産管理事務所です。そして、案内者が言うには「世界中から研究者などが見学許可を求めてきています。が、私たちは許可してはいないんです。危険ということもありますし、大体この碑文については研究もしつくされていますしね。でも、あなたのように突然きて、見るまで帰れないというわけですから、上司もOKしたんですね。特にあなたがペルシャ語でお願いしたのが好印象だったようです。」と言ってくれたのでした。

ここに写真を動画にしたものをアップしようとしたのですが、容量が大きすぎると出てしまいました。仕方がないのでユーチューブにアップしました。ご覧ください。イラン悠々で検索してご覧ください。

 

ペルシャ語講座15:時刻の表し方

日常生活において時間や時刻の表現は大変重要です。間違えると時には大きな失敗につながることもあります。時計をみて、何時何分という表現を覚えるのが簡単な方法だと思います。また、ペルシャ語の表現は英語の表現とほぼ同じと思っていいでしょう。時計の図は Oxford picture dictionary から拝借させていただきます。

時間は sa-at サーアットといいます。1時、2時、3時の「時」もサーアットです。

1時は サーアッテ イェク

1時5分:yek va panj daqiqe ですが、vaの部分が続いて発音されるので、yekou panjdaqiqeとなります。daqiqeは普通は省略されます。英語と同様に5past 1という言い方もあります。panj daqiqe bad az yekです。

最も一般的なのは
イェコウパンジかな。

 1時5分の5分が10分に代わっただけですね これは15分ですから、punzudahとなりますが、英語と同様に1/4という表現ロブを使うことも多いです。
イエコウロブ となります。
イエコウ ビスト ダキーケ
ビスト ダキーケ バッド アズ イェク
1時半です。英語のhalfに相当するのが nim ニームです。ですから、イエコウ ニームとなります。イエコウ スィー ダキーケといってもOKです。
① イェコウ チェヘル (ダキーケ)
② ビスト ダキーケ ベ ドウ という風に2時まで20分という言い方もあります。これも英語と同様ですね。
2時まで15分という言い方がイェクロブ ベ ドウ です。文字通り説明すると「2時まで一つの1/4」ということです。勿論、イエコウ チェロパンジ でも結構です。

カタカナで分のことをダキーケと書きましたが、ローマ字ではdaqiqeと書いたように、kではなくqの音ですから、喉の奥を転がすような感じです。

想い出の中東・イスラム世界:たまには考古学者の気分

2020年5月11日の夕方です。コロナの感染者増加が若干緩やかになってきたようです。ここ東海地方の愛知、三重、岐阜でも新たな感染者がゼロという日が複数回でるようになりました。また、今日の東京は先ほど午後4時ごろの発表では15人ということでしたので、少しホッとしました。そこで、想いで話をひとつアップしましょう。

上の画像が想い出の品です。1975年頃のことです。私は仕事でイランのラシトという町に駐在していました。妻とゼロ歳の娘も一緒でした。その時の子育ての思い出は、すでにこの思い出のカテゴリーにアップしています。娘を連れて散歩する家の周りには羊がいた画像をアップしています。そのラシトでのことです。

ラシトはイランの北部ギーラーン州の中心です。北部ということはカスピ海沿岸ということです。南の方のペルセポリスなどの古代遺跡とは遠く離れた地域ですが、紀元前に造られた土器などが沢山発見されているアムラッシュという村があるのもこの地域です。そういう知識を少しもっていました。

想い出の品は、古い土器です。休みの日にバザールを歩いたり、町を歩いたりしている時に、家具の店がありました。そのお店のショーウィンドーの片隅にこの土器が置かれていたのでした。アムラッシュのことを知っていたので、きっと古いものなんだろうなと思いました。そして、中に入って「この土器はいくら?」と尋ねたのですが、「それは売り物ではありません」との答えでした。飾りというか、家具との組み合わせでインテリア的に置いているようなことでした。売り物ではないとのことでしたが、「売ってくれませんか?」というと、両手を広げて困ったジェスチャー。そして「どうぞ、持って行ってください。」というので、「おいくらお支払えばいいですか」。「どうぞ、持って行ってください。日本人のあなたは我々のお客さんです。どうぞ(ベファルマイイ)」というのです。私は日本円で2千円相当程を手渡して持ち帰ったのでした。

あれから45年。私はこの土器を大切にしていました。紀元前の古い土器なんだから。日本へも持ち帰ったのでした。決して美しいものではないので、飾ることはしないで、段ボールの箱にいれて納戸の奥にしまっていました。

昨年のことです。この土器のことを思い出して、取り出しました。そして、正確にはこの土器はいつ頃のものなのだろうかと気になり始めたのでした。そこで、写真を撮って、ある美術館に問い合わせをして見たのです。オリエントが専門の美術館で、何度も訪れたことがある美術館ですが、近くではないのでメールで画像を添付したのでした。数日して返事をいただくことができたのでした。

結果の要点は以下の通りでした。
イラン鉄器時代III期~パルティア時代初期くらいの土器だと思われる。実年代では、紀元前7~紀元前3世紀、あるいは紀元前後といったところでしょうか。この時代のギーラーンの土器は在地性がきわめて高く、比較検討が難しく、年代幅も大きくなります。
ギーラーンは北と東に開け、西と南に閉じています。
唯一、セフィードルードだけがイラン高原からの人とモノの移動ルートなのです。この地では、青銅器時代以前の人類の痕跡はほとんどしられていません。
ところが、鉄器時代以降、急速に人口と富が集積し、多数の副葬品を伴う墓が営まれます。
写真の土器もそうした中の一つで、墓の副葬品です。

1950年代末からこの地域の盗掘が盛んとなり、大量の古物が市場に流出しました。
当館で管理する資料の4分の一くらいがこれらに当たります。

ということで、珍しいものではないのですが、少なくとも紀元前の土器であるということが判明したのです。考古学的、また、骨董品や美術品的な価値はないようですが2千年余前の物であることに、気分がワクワクするのです。どんな人が作ったのだろうか、使ったのだろうか? ロマンを感じるではありませんか!

イラン映画「友だちのうちはどこ?」

昨日(2020年4月27日)の中日新聞のホームシアターというコラムで表題の映画が紹介されていた。ブルーレイが4800円(税別)、DVDが3800円(税別)らしい。映画は1987年制作で、監督が有名なアッバス・キアロスタミである。8歳の小学生がクラスメートのノートを間違って持ち帰ったので、それを返しに行こうと友達の家を探して歩くというストーリーである。その過程で、学校の先生、家族、村人たちとの接触があるわけだが、結局友だちには会えず、ノートを返すこともできなかった。それだけの話である。このコラムの筆者は「イラン革命の後、検閲が厳しくなる一方だった87年に撮影された映画だけに、監督のアッバス・キアロスタミは、困難に直面して困ったり、知恵を絞ったりする少年の姿を借りて、検閲に対する批判や自由に映画が作れないことへの不満を語っているのかもしれないと思う」と記している。

確かに当時は検閲が厳しい時代であった。男女間の恋愛感情を直接的に表現することは難しかった。体制に対する批判的な内容もNGであった。それがゆえに、イラン映画は表現の自由が制約された中でいかに表現するかを競い合った。それゆえにイラン映画は「鋭く研ぎすまされてきた」のであると、私は思う。

ただ、この作品では、私は筆者が言うように「検閲に対する批判や、自由に映画が作れないことへの不満」を語っているようには感じなかった。私が、この作品を通して感じたのは、「誰も少年の思いに気づくことなく、気づこうともしない、また、理解しようとしない大人たちの身勝手さ」であった。それはもしかしたら、大人たちが体制であって、少年が国民であったのかも知れない。もしそうだとしたら、キアロスタミ監督の体制に対する批判になるのかもしれないが。とにかく、映画の週末になるにつれ「やるせない」思いが湧いてきたのであった。そして、最後の教室での場面。友だちに返そうとして、開いたノートから白い花が現れたとき、そのやるせない思いが、ぱっと吹っ飛んだのであった。素晴らしい演出であった。この花についてコラムの筆者は「ノートにはさんでおくんだよ」とくれた老人の優しさがうれしいと記している。やはりこの映画において、この花の存在は秀逸であった。

私がこの映画を見たのも1980年代末である。NHKで放映されたのを見た。ビデオに撮った。そして、機会があれば人にも紹介した。その後、キアロスタミの三部作なるものも見た。一つは1992年『そして人生はつづく』である。

そして『オリーブの林をぬけて』(1994年)の3つで三部作と言われている。その後、1997年には『桜桃の味』でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。1999年の『風が吹くまま』はヴェネツィア国際映画祭審査員賞特別大賞を受賞した。東日本震災後の映画を作るために来日し、2012年には、『ライク・サムワン・イン・ラブ』を日本で製作した。2016年7月4日、がん治療で訪れていたパリで逝去。76歳であった。・・・イラン映画についてもっと紹介したい気持ちが湧いてきた!

ペルシャ語講座(14の続き):数の表し方

昨日は曜日の名前を紹介したあとで数の表し方になりました。数についてもう少し追加しておきましょう。前回は100と1000まででしたね。

1000 hezar ヘザール
2000
3000
10000
50000
100000
900000
1000000

1000から、2000、3000、4000・・・・は千のhezarの前に2、3、4、・・・を付けていきます。1万では千が10個ですから、ダ・ヘザールでいいわけです。2万なら千が20ですから、ビスト・ヘザールとなります。10万だと千が100個ですからサド・ヘザールですね。そして、百万になると、そのままミリオンです。発音はミリオゥーンです。百万はイェク・ミリオゥーン、2百万ならド・ミリオゥーンです。

とりあえず、数の表し方をちょっと追加しておきました。上の表は空欄ばかりですが、今日はちょっと忙しいので後日埋めておきます。ご自分で書き込んでみて練習するのもいいかも知れませんね。

ペルシャ語講座14:曜日や時刻

ペルシャ語を母語とするイランでもコロナウィルスにより、大変な状況が続いています。現在は隣国のトルコの感染が急増したようです。皆さんもどうぞお気をつけて下さい。今回は時の表し方の一部として曜日や時刻の表現を取り上げましょう。

先ずは曜日です。

曜日 ペルシャ語 ローマ字 カタカナ
金曜日 جمعه jom’e ジョッメ
土曜日 شنبه shanbe シャンベ
日曜日 یکشنبه yek-shanbe イェク・シャンベ
月曜日 دوشنبه do-shanbe ド・シャンベ
火曜日 سهشنیه se-shanbe セ・シャンベ
水曜日 چهارشنبه chahar-shanbe チャハール・シャンベ
木曜日 پنجشنبه panji-shanbe パンジ・シャンベ

イスラム世界では金曜日が休日なので、金曜日を一番上にしました。我々の日曜日に当たるわけです。これが「ジョッメ」、土曜日が「シャンベ」です。日曜日以後はシャンベの前にイェク、ド、セ、チャハール、パンジを付けます。これは1、2、3、4、5という数字の呼び方です。つまりイェク・シャンベは1シャンベということです。ド・シャンベは2シャンベということです。簡単で覚えやすいでしょう。

数字がでてきたので、数字をやってしまいましょう。

0 صفر sefr セフル
1 یک yek イェク
2 دو do
3 سه se
4 چهار chahar チャハール
5 پنج panji パンジ
6 شش shesh シェシュ
7 هفت haft ハフト
8 هشت hasht ハシュト
9 نه noh
10 ده dah

1~10までは上の通りです。最初は覚えにくいかも知れませんが、何度も繰り返すうちにひとりでに身についてくるものです。ただ、数字はこれだけではありませんね。11から20までも覚えなければなりません。英語では13から19まではteenという語が付いてましたね。ペルシャ語も同じです。10のダという語が11から19まで付くのです。同じように表を作ってみます。この表を作るのが中々大変面倒なことを分かってもらえたらありがたいです。

11 یازده yazdah ヤーズダ
12 دوازده davazdah ダヴァーズダ
13 سیزده sizdah スィーズダ
14 چهارده chahardah チャハールダ
15 پانزده panzdah パーンズダ
16 شانزده shanzdah シャーンズダ
17 هفده hefdah ヘフダ
18 هیفده hejdah ヘージュダ
19 نوزده nuzdah ヌーズダ
20 بیست bist ビスト

一応上の通りなのですが、これが標準語とでも言いましょうか。口語では、15~18のところが、プーンズダ、シューンズダ、ヒーヴダ、ヒージュダの方が一般的だと思いますし、自然にそのような発音になっていく気がします。

21からは20のビストのあとに1、2,3,4・・・を付ければ良いわけです。英語の twentyのあとにワン、ツウ、をつけるのと同じです。ですから、30,40,50・・・・を覚えればいいわけです。下に示しましょう。

20 بیست bist ビスト
30 سی si スィー
40 چهل chehel チェヘル
50 پنجاه panjah パンジャー
60 شصت shast シャスト
70 خفتاد haftad ハフタード」
80 هشتاد hashtad ハシュタード
90 نود navad ナヴァド
100 صد sad サド
1000 هزار hezar ヘザール

例えば21の場合、20の後ろに1をつけると言いましたが、実際には 21 + and +1 です。ペルシャ語で and は و va ヴァとなります。21= بیست و یک  ビスト ヴァ イェク なのですが、実際には ビストウイェクというふうにヴァの音はo になります。22=ビストウド、33=スィオーセ、55=パンジョーパンジです。

ちょっと長くなり、時刻のことは扱えませんでした。今日はここまでにしておきましょう。

中東の石油(9):OPECの結成

イランを初めとした中東産油国が徐々に石油メジャーズとの交渉力を強めてきたのが、1950年代であった。イランの石油国有化は失敗したのであったが、それが産油国には教訓となった。一国だけではメジャーズには勝てない。産油国の団結が必要だということである。今回は結成60年を迎えたOPECの結成がテーマである。

前回述べたように、イランの石油開発にメジャーズ以外の新規参入者が増えた。メジャーズは新規参入者との販売競争には原油価格を切り下げることで対抗することができた。しかし、原油価格の切り下げは産油国の収入を減少させるので、産油国側は不満が増大した。そして、産油国は原油価格を磁力でコントロールしたいと考えるのは自然の成り行きであった。新規参入者による合弁会社の石油開発はイランだけでなく他の産油国でも増加しつつあった。そのような時に、ベネズエラやサウジアラビアは石油輸出国機構(OPEC)の結成を呼びかけた。その結果、1960年にイラクのバグダードにおいて、イラン、クウェート、サウジアラビア、イラク、ベネズエラの五か国によってOPECが結成された。結成の主目的は、石油収入の維持および増大、すなわち、原油価格を高水準に維持することにより石油収入の増大を図ろうとした。しかしながら、OPEC結成後の約10年間は結集した力を発揮することができなかった。それができるようになったのは、1970年代に入ってからのことであった。

テヘラン協定:
1971年2月14日、ペルシャ湾岸産油国6カ国と石油会社13社との間でテヘラン協定が締結された。これはペルシャ湾岸原油公示価格をバレルあたり一律に35セント引き上げたうえ、さらに今後5年間にわたって毎年2.5%+5セントずつ段階的に引き上げていく内容であった。石油会社の所得税も55%に引き上げられた。この協定はOPECが価格決定に係ることができるようになった点に大きな意義があった。また引き続き行われたリビアと国際石油会社との間でも公示価格を大幅に引き上げるトリポリ協定が調印された。OPECの結束が勝利し、以後、メジャーズと産油国が協議して価格を決定することになり、メジャーズがそれまでのように独自で価格を決定する力をもはや有することができなくなっていた。私が最初にイランに行ったのがテヘラン協定が結ばれた1971年の11月であった。国王時代であった。国王は石油会社との交渉に成果を得たこともあって自信に満ち溢れていた。その2年後の第一次石油危機を経て、イランは石油収入を増大させていくと同時に、次々と開発計画を打ち出して投資していった。私たちも含め、日本企業・日本人がイランに続々と入っていった時代であった。

 

 

中東の石油(8):石油国有化以後

イランの石油事業が石油メジャーズの殆どのメンバーが参加したコンソーシアムによって運営されるようになったことを前回述べた。その後、1957年にイランの石油開発法が制定された。この法律はコンソーシアムの利権地域以外でNIOC(国営イラン石油会社)が外国石油会社との合弁により、石油開発を進めることを認めたものであった。まず、1957年8月にイランの沖合大陸棚の油田開発のためにSIRIPが設立された。この合弁会社のパートナーはイタリアの国有炭化水素公社(AGIP)であった。ついで、1958年4月にはスタンダード石油インディアナ社の子会社パン・アメリカン石油会社との合弁会社IPACが設立された。これら2社の契約方式は「利権供与合弁事業方式」というべきものであった。NIOCは合弁会社の半分をシェアしているために、利益の50%を得ることができた。一方、外国側のパートナーも利益の50%を受け取るが、イラン政府はその取り分に50%の所得税をかけることができたのであった。つまり、イラン側は利益の75%を受け取ることができるという内容であった。これを契機に、同様の条件による合弁会社の設立が相次いだ。それらはDEPCO, IROPCO, IMINOCO, LAPCO, FPC, PEGOPCO,などであった。この75%対25%という利益配分は周辺産油国における利権協定の条件にも大きな影響を与えていった。

さらに、1966年には新方式の「請負作業契約」がNIOCとフランス国営石油会社ERAPとの間で締結された。この新しい契約は外国の石油会社に利権を与えるのではなく、単なる請負者として石油を開発させるものであった。請け負ったERAPはNIOCの計画、指示によって契約地域内の探鉱と開発に従事するが、ERAPは探鉱・開発の技術と必要な費用は自らが負担し、たとえ油田開発に失敗しても費用は返ってこない。もし、成功すれば探鉱費は無利息借款となり、商業量石油の生産開始後15年間で返済されるというものであった。また、開発費もイランに対する借款となり、こちらは5年以内に、フランスの銀行の現行利息に2.5%を加算した金額相当を返済するというものであった。このように、NIOCはコンソーシアムの協定地区以外で新方式により、より良い条件の下で石油開発を推進していった。これらの合弁会社による石油開発の実績は実は大きなものではなかった。しかし、石油会社との契約条件を改善していったことが、産油国側にとっては大きな成果であった。この方式はイラクやサウジアラビアに波及していったのである。