5月1日に「メソポタミア」の記事を書いた。そこでは、シュメール人やアムル人、カッシートなどという民族が登場している。メソポタミアから地中海東岸にかけての地域の古代歴史には多くの民族が現れては消えている。またアムル人、エラム人、アラム人などとよく似た名前の民族なので、頭が混乱することも多々である。今回は頭を整理する意味で、この当時の民族を整理しておこうと思ったのである。いつものように、「世界史の窓」を利用させて戴いた。謝謝。
シュメール人:
民族系統は不明だが、メソポタミア地方南部(ティグリス・ユーフラテス川下流)で都市を形成し、メソポタミア文明の基礎を築いた民族。紀元前4000年紀(前3000年代)の終わり頃、メソポタミア地方南部の平野部で、麦類やナツメヤシの栽培、牛や羊、山羊、豚などの飼育を行いながら村落を形成し、前2700年ごろまでにウル、ウルク、ラガシュ、キシュなどの最初の都市国家が生み出されていった。シュメール人の民族系統は不明であるが、前4000年紀前半にメソポタミア南部に移動してきたと考えられている。
アッカド人/アッカド王国/アッカド語:
アッカド人はセム語系に属する民族で、前2300年、メソポタミア全域の都市国家を最初に統一し、領域国家を建設した。アッカドはメソポタミア南部のユーフラテス下流でバビロニアといわれた地方の北よりの地域名で、現在のイラクの中部に当たる。
サルゴン1世;アッカド人は次第に南部のシュメール人と抗争するようになり、前2300年頃、サルゴン1世がメソポタミア南部を支配し、アッカド王国(前2334~2154年)(アッカド王朝とも言う)を成立させた。サルゴン1世は交易路を抑え、メソポタミア全域におよぶ中央集権的な領土国家の最初の支配者となった。彼は「戦いの王」とか、「四海の王」と称したと言われているが、伝説的な内容も多い。
ナラム=シン王;アッカド時代の遺品としては、スサで発見された「ナラム=シン王の石碑」(ルーブル博物館蔵)が有名。ナラム=シンはサルゴン1世の孫で、征服地を西はアルメニア、東はエラム(イラン西部)にまで広げ、アッカド王国の全盛期を出現させた。アラムの中心であったスサで発見されたナラム=シン王の石碑はその戦勝記念碑のひとつであった。
シュメール人の復興;アッカド王朝は11代約180年続いたが次第に衰退し、前2150年頃、バビロニアの東北から興ったグティ人の侵略を受けて滅亡した。グティ人は約125年間、アッカドの地を支配したが、やがてメソポタミアではシュメール人が独立を回復、ウルを拠点にウル第3王朝が出現する。
アムル人:
セム語族遊牧民でアモリ人ともいう。前2000年紀前半のメソポタミアに、シリア砂漠から侵入しその中・下流域であるバビロニアを支配して、イシン、バビロン、ラルサなどの都市を形成し、シュメール人のウル第3王朝にかわって次第に有力となり、紀元前1900年頃、バビロンを都にバビロン第1王朝を築いてメソポタミアを支配した。その全盛期の王がハンムラビ王である。
ヒッタイト人:
ヒッタイトはインド=ヨーロッパ語族に属する一民族で、前1900年頃、西アジアに起こった広範囲な民族移動の動きの一つとして東方から小アジア(アナトリア=現在のトルコ)に移住し、既にその地で始まっていた鉄器製造技術を身につけ、有力になったと考えられている。ヒッタイト人はハッティともいわれ、前1650~1200年頃にかけてその地を支配し、さらに西アジアのメソポタミア地方にも進出した。
前1680年には、ヒッタイト王ハットゥシリ1世はハットゥシャシュ(現在のボガズキョイ)を首都として王国を建設、さらに前1595年にはバビロンを攻撃、バビロン第1王朝を滅ぼした。
エジプト新王国などとの抗争
前16世紀から前15世紀にかけて、西アジアにはヒッタイトの他、カッシートやミタンニ、アッシリアなどが登場し、ヒッタイトもふくめてこれらの国々の間で国際関係が展開された。 前13世紀にはシリアに進出したエジプト新王国と争い、前1286年頃にはラメセス2世とシリアのカデシュの戦いで対決した後、講和条約を締結した(最初の国家間の講和条約と言われる)。
しかし、前1200年頃、「海の民」の侵入を受けて滅亡したと思われるが、その事情はわからない点が多い。ヒッタイトが滅亡したことによって、独占していた鉄器製造技術が、西アジアから東地中海一帯へ拡散され、文明段階の青銅器時代から鉄器時代へと移行したと考えられている。
カッシート人:
カッシート(カッシュートともいう)の民族系統はインド=ヨーロッパ語族であるとわれたこともあったが、現在は否定されており、非セム系である以外は正確には不明である。ヒッタイトが支配していた小アジアの東部から北部メソポタミアにかけての一帯に自立したカッシート人は、前1595年にバビロン第一王朝がヒッタイトによって滅ぼされた後のバビロニアに入り、前1550年頃、バビロンを都に国を建て、36代約350年間にわたりバビロニアを支配した。
エラム人:
エラム人 Elam は、前22世紀ごろ、イラン高原の南西部、後のアケメネス朝の都スサを中心とした一帯で起こった民族。その系統は不明であるが、インドヨーロッパ語族のアーリア人が侵入する以前のイラン高原に、最初に居住していた民族の一つである。前12世紀中頃の前1155年にバビロニアのカッシートを滅ぼし、最盛期となった。その後も長く存続し、オリエント諸国と交易し、東方のインダス文明圏とも交渉があった。やがて前7世紀に、メソポタミア北部に興ったアッシリア帝国によって滅ぼされた(前639年頃)。
なお、山川出版世界史用語集では、エラム人についての記述は新課程用2004年版に登場したが、現行の2014年版では姿を消した。
アラム人:
フェニキア人、ヘブライ人と並ぶ、セム語族の民族で、前1200年頃から西アジアのシリアのあたりに定住し、内陸部の陸上交易に活躍した。彼らの使用したアラム語と、彼らが造りだしたアラム文字は、ユーラシア大陸の内部まで交易活動とともに伝えられ、広がっていく。後にイスラーム帝国のウマイヤ朝の都となるダマスクスはアラム人が建設した都市とされる。
彼らは統一国家を作ることなく、都市での交易活動を行っていたが、前8世紀にアッシリアのサルゴン2世に征服され、アッシリア帝国に含まれることとなった。しかし、アッシリア帝国ではアラム人の用いていたアラム語と、それを表記するアルファベットの一種であるアラム文字が、楔形文字で書かれるアッカド語とともに用いられ、後世に大きな影響を及ぼした。楔形文字とアラム文字の併用という状態は、アケメネス朝ペルシア帝国でも続いた。