久しぶりに「イスラムの偉人③」としてイブン・ハルドゥーンを紹介しよう。『歴史序説』を著した有名な歴史学者であるが、ここで取り上げた理由はそれだけではない。というのは前々回のテーマ「タラス河畔の戦い」でアッバース朝と対峙したティームールからの連想なのである。まずは人物の紹介から始めよう。
先ずは、東京堂出版・黒田壽郎編『イスラーム辞典』335頁:
歴史家、社会学者、哲学者、政治家。1332年にチュニスで生まれ、哲学者アービリーに諸学を学んだ。若くして政界に入り、グラナダのナスル朝、北アフリカの諸王朝、エジプトのマムルーク朝などに宰相や大法官として仕え、1401年のティムールのダマスカス攻略のときにはティムールの幕舎に迎えられるなど時代の変動をまなあたりにし、カイロでマーリキー派法官とし1406年、74歳の生涯を閉じた。
彼の大著『訓戒(イバル)の書』は、主としてアラブとペルシャの歴史、ベルベル史を扱った三部から成るが、特にその序論と第一部が単独に扱われて『歴史序説』と呼ばれ、人類最初の文明批判の書、歴史哲学の書として高い評価を得ている。ここでイブン・ハルドゥーンが展開する理論は、それぞれの社会は風土や自然条件等の諸環境によって規定されること。各個人、階級、諸民族間の力関係によって歴史が影響され、同時に政権争いや戦争ばかりでなく、人間の営み、精神的生産等んついても歴史的考察には不可欠であるとしている。またアラブ世界では定住民と遊牧民の交替によって王朝や文明の盛衰が行われるといった歴史観を述べている。
イブン・ハルドゥーンは、歴史的現象に関する包括的な視座、方法論的なアプローチにより、社会学をはじめとする人文諸学の先駆者とみなされている。
次に、平凡社『新イスラム事典』での説明は以下の通り:
1332~1406。イスラム世界を代表するアラブの歴史家。チュニス生まれ、祖先は南アラブ系でセビリャの支配貴族であったが、13世紀半ばにチュニスに亡命した。幼くして諸学を修めた後、北アフリカ、イベリア半島の諸スルタンに仕え、波乱万丈の政治生活を送ったが、その悲哀を感じて隠退するとともに、膨大な《歴史序説》と世界史に当たる《イバルの書》を著した。1382年、マムルーク朝下のカイロに移住し、学院の教授になったり、マーリク派の大カーディーとして裁判行政に尽くしたりしたが、その間、ティムールの西アジア遠征に対する防衛軍に加わり、ダマスカス郊外でティムールと会見したことがある。彼を有名にしたのは『歴史序説』に書かれた社会理論のためで、彼は人間社会を文明の進んだ都会とそうでない田舎としての砂漠に分け、そこに住む人間は生活環境の違いから、後者のほうが前者よりもより強力な結束力をもつ社会集団を形成しやすく、そこに内在する連帯意識が歴史を動かす動因となる。遊牧生活を送っている連帯集団は支配権への志向をもっていて、やがて発展し都市に根拠を置く支配国家を征服、新しい国家を建設する。しかし都会に生活の場を置いたこの集団は、文明の発展とともに連帯意識を喪失、やがて新たな連帯集団に征服される。彼は以上のような理論を展開するとともに、政治・社会・経済の諸要因の鋭い分析を行っている。彼のこのような思想は、後世の学者たちに少なからず影響を与えたようで、彼の講義を直接聴聞シタマムルーク朝時代の学者たちの中でも、歴史家マクリージーに最も強く認めることができる。しかし、マムルーク朝の滅亡とともに、イブン・ハルドゥーンの存在もアラブ世界では忘れられた。彼の思想や歴史観が再評価され出すのは16世紀末以降のオスマン帝国下で、19世紀にいたるまで、学者や政治家たちがなんらかの影響を受けた。もっとも彼の社会理論を凌駕するような思想をもつ真の意味の後継者は現れなかった。(森本公誠)
14世紀に生きたアラブの歴史学者である。同時に政治家でもあった。今に残る彼の功績の代表は、その著『歴史序説』である。高校の世界史の教科書にも出ている名前と書名である。岩波文庫から4冊になって出版されているが、今は絶版になっている。これの訳者は森本公誠氏である(上の平凡社のほうの執筆者)。古本で手に入れることはできるが、高価な値がついている。私の住んでいる町の図書館の蔵書にはないが、愛知県図書館では蔵書されていることが分かった。この『歴史序説』が『訓戒の書』の一部であるということも上の記述で初めて知ったことである。実際に読んでみたひとのクチコミでは、一般人には少々骨の折れる内容とのことなので、同じ訳者が執筆している講談社学術文庫の『イブン=ハルドゥーン』を読むことを勧めている。というものの探してみると、これまた絶版のようである。しかしながら、電子出版されているので本として手に取ることはできないが電子版なら入手できることが分かった。定価は688円。アマゾンからでもすぐに入手できる。中身の一部を見ることもできる。
さて、私が興味を抱いたのはティムールとの会見である。ティムールが西進してきたダマスクスを征した時に彼が交渉役としてティムールに会ったわけである。私の手元にある中央公論社発行世界の歴史8、佐藤次高著『イスラーム世界の興隆』には次のように書かれている。
ティムールは1400年10月にはマムルーク総督が守備するシリア北部の古都アレッポを陥れた。二万人を超える死者の頭蓋骨で小山が築かれ、この時破壊されたモスクや学院は二度と修復されることはなかった。次いでハマー、バールベックを落としたティムールは、1401年1月、スルタン・ファラジュ(在位1399~1404)が率いるマムルーク群を一蹴して州都ダマスクスを占領した。このときエジプト側を代表してティムールとの和平交渉に当たったのがイブン=バットゥータであった。すでに『世界史序説』の著者として高名であったイブン=ハルドゥーンは1382年以来、北アフリカからマムルーク朝治下のカイロに移り住み、そこで歴史学やイスラーム法学を講じていた。今回は若いスルタンから直々に請われてのダマスクス行きであった。
64才のティムールと68才のイブン=ハルドゥーンとの会見はダマスクス近郊のグータの森でおこなわれた。・・・会談の途中で、英雄ティムールはこの希代の碩学にサマルカンドへの同行をしきりに求めた。しかしイブン=ハルドゥーンは征服者の厚意に感謝しつつも、結局、最後には家族や友人にるカイロへの帰還を希望したと伝えられる。両者の会談は35日にも及んだが、この間にダマスクス市内では征服軍による略奪や放火や殺人が容赦なくおこなわれた。・・
イブン・ハルドゥーンはサマルカンド行きを断ったが、学者や熟練の職人たちが大勢連れていかれたのだった。これにより、サマルカンドの文化は興隆することになったが、征服された地域は悲惨な状態であった。