オマル・ハイヤームのルバーヤート(小川亮作訳)の朗読を作成し、YuTubeにアップしました。
文章の電子テキスト化は青空文庫さんのものを利用させていただきました。ここに感謝の意を表します。 #ルバイヤート #オマル・ハイヤーム #ペルシャの詩人 #イラン悠々
中東・イスラム世界への招待
オマル・ハイヤームのルバーヤート(小川亮作訳)の朗読を作成し、YuTubeにアップしました。
文章の電子テキスト化は青空文庫さんのものを利用させていただきました。ここに感謝の意を表します。 #ルバイヤート #オマル・ハイヤーム #ペルシャの詩人 #イラン悠々
このブログを始めてから2年と4か月ほどが経過した。時々、最初の頃の記事を見返すのであるが、最初の頃の記事は短くて、要点のみを記しているようである。だらだらと長く書くよりもいい点があるかもしれないが、今読んでみると、少々舌足らずというか、充実していないと反省をする部分も多い。そういうことを感じながら、過去の記事とは重複する部分もあるだろうが、自分の興味関心の強い部分を改めて書いていくことにしよう。幸いにも新しい読者も増えつつあるので、なおさらのことである。そんな言い訳を前置きしておいて、今回は上の図のバビロン第一王朝について書いてみる。
いつものように世界史の窓では次のように書かれている。
バビロン第一王朝:
セム系遊牧民アムル人が西方からティグリス・ユーフラテス川中下流域のバビロニアに侵入し、紀元前1900年頃、バビロンを都に建設し、メソポタミア文明を発展させ、前18世紀のハンムラビ王の時に全盛期となった王朝。バビロニアはメソポタミア中部地域をさす。王朝名としては、後の新バビロニアと区別して「古バビロニア王国」ともいう。アムル人はシュメール人(ウル第3王朝)を征服したが、楔形文字などその文化を取り入れ、メソポタミア文明の最盛期を生み出した。
その全盛期の前18世紀ごろの王がハンムラビ王で、彼は周辺の諸国を征服してメソポタミアの統一を回復し、交通網を整備、さらにハンムラビ法典をつくったことで有名である。
バビロン第1王朝はハンムラビ王の死後急速に衰え、カッシートなどに圧迫され、最終的にはヒッタイトによって前1595年に滅ぼされた。ここまでを「古バビロニア時代」ともいい、メソポタミア地域だけの時代が終わり、オリエントの統一という世界国家の段階にはいる。
非常に分かり易く説明されている。メソポタミア文明を生み出したのはシュメール人であった。ウルやウルクの都市国家を発展させた。このシュメール人の都市国家を征服したのがアムル人であり、バビロンを都として建国したのがバビロン第一王朝(バビロニア王国)というわけである。彼らはシュメール人が築いた文化をさらに発展させた。そして、その最盛期が紀元前18世紀のことで、その当時の王が6代目のハンムラビであったわけだ。ハンムラビ法典で有名な王である。
ウルやウルクの位置、バビロンの位置を上図で確かめられたい。メソポタミアとは、古代のギリシャ語で二つの大河に挟まれた土地を意味する。二つの大河とは、チグリス川とユーフラテス川である。イラクの首都バグダードの位置も示されている。バグダードはバビロンのすぐ近くであり、メソポタミア文明が栄えた地域に建設された都市である。バグダードが建設されたのはアッバース朝であるから、時代はもっと新しいわけではあるが。
私たちが子供の頃は、ハンムラビ法典は世界最古の法典と習ったような気がするが、現在ではそうではなく、ウィキペディアでは「ハンムラビ法典は、完全な形で残る、世界で2番目に古い法典である」と記されている。つまり、ハンムラビ法典はシュメール人たちが作った法典を基にして作成されたということのようだ。「紀元前1792年から1750年にバビロニアを統治したハンムラビ(ハムラビ)王が発布した法典。アッカド語が使用され、楔形文字で記されている。」とも記されている。社会の教科書などで、ハンムラビ法典が刻まれた石を見たことがある人も多いのではないだろうか。岡山オリエント美術館のツィッターのサイトには次のような図がアップされていた。高さはどれほどでしょうか?というクイズである。
【こたえ🍬】
左側に立っているのがハンムラビ王。右側に座っているのが太陽の神シャマシュ。王権の象徴を受け取っている様子を表しているよ。そして、ハンムラビ法典の高さは225センチメートルあるんだ!
ということである。2m25cm.
ハンムラビ法典といえば「目には目を、歯には歯を」という復讐法で有名であるが、その内容はともかくとして、そのような法律が、紀元前1800年というような大昔の時代に作られていたことは驚きである。前出の世界史の窓には次のように書かれている。
社会正義の確立と維持が作成意図
ハンムラビ王はこの法典の作成意図を、その前文で「そのとき、アヌムとエンリルは、ハンムラビ、……わたしを、国土に正義を顕すために、悪しきもの邪なるもの滅ぼすために、強き者が弱き者を虐げることがないために、太陽のごとく人々の上に輝き出て国土を照らすために、人々の膚(の色つや)を良くするために、召し出された」と明確に述べている。また、後書きでは「強者が弱者を損なうことがないために、身寄りのない女児や寡婦に正義を回復するために、……、虐げられた者に正義を回復するために、わたしはわたしの貴重な言葉を私の碑に書き記し……」と述べている。
このような、王権の責務の一つが社会正義の確立と維持であり、その実現のために裁判を行い、法を定めるという思想は、メソポタミア文明のなかでウル第3王朝のシュメール法典であるウルナンム法典にさかのぼることが出来る。ハンムラビ王がこの法典を作成したのは、周辺諸国を征服し、メソポタミアの統一を再建した治世37年(前1755年)以降のことと考えられ、領域国家を統治する王権の正当性をこの碑文で示したのであろう。
このハンムラビ法典が刻まれた石の現物は1901年にイランのスーサで発見されたのである。足跡をたどれば、紀元前12世紀にエラムの王により奪われたものである。そして、エラムは紀元前540年、アケメネス朝ペルシャの王キュロス2世に占領されて滅んだという。従って、アケメネス朝の王都で発見されたことは道理に適っている。そして、現在はパリのルーヴル美術館が所蔵している。レプリカは岡山のオリエント美術館で見ることができるそうである。
今回はここまでとしておこう。
2021年のゴールデンウイークが始まったが、コロナのせいで昨年に続いて、外出自粛の日々を送らねばならない。こんな時は、ゆっくり読書したり、机に向かってみるのもいいことかもしれない。
もっともらしく「ペルシャ語講座」と題して、思いのままに書いていましたが、ちょっと動詞の時制を改めて整理してみましょう。خریدن kharidan (英語の to buy)(日本語の「買う」)を使って表にしてみましょう。
現在形 | |||
1人称単数 | میخرم | mikharam | I buy |
2人称単数 | میخری | mikhari | You buy |
3人称単数 | میخرد | mikharad | He (she) buys |
1人称複数 | میخریم | mikharim | We buy |
2人称複数 | میخرید | mikharid | You buy |
3人称複数 | میخرند | mikharand | They buy |
現在形は、語幹の語尾を人称単複にして、頭にmiを付けます。
過去形 | |||
1人称単数 | خریدم | kharidam | I bought |
2人称単数 | خریدی | kharidi | You bought |
3人称単数 | خرید | kharid | He (she) bought |
1人称複数 | خریدیم | kharidim | We bought |
2人称複数 | خریدید | kharidid | You bought |
3人称複数 | خریدند | kharidand | They bought |
過去形は語幹の語尾人称単複にするだけです。
過去進行形 | |||
1人称単数 | میخریدم | mikharidam | I was buying |
2人称単数 | میخریدی | mikharidi | 以下省略 |
3人称単数 | میخرید | mikharid | |
1人称複数 | میخریدیم | mikharidim | |
2人称複数 | میخریدید | mikharidid | |
3人称複数 | میخریدند | mikharidand |
過去進行形は過去形の前に mi を付けます。
現在完了形 | |||
1人称単数 | خریده ام | kharide am | I have bought |
2人称単数 | خریده ای | kharide i | You have bought |
3人称単数 | خریده است | kharide ast | 以下省略 |
1人称複数 | خریده ایم | kharide im | |
2人称複数 | خریده اید | kharide id | |
3人称複数 | خریده اند | kharide and |
現在完了形は語幹に ه を付けて、その後ろに人称語尾を付けます。
過去完了形 | |||
1人称単数 | خریده بودم | kharide budam | I had bought |
2人称単数 | خریده بودی | kharide budi | You had bought |
3人称単数 | خریده بود | kharide bud | 以下省略 |
1人称複数 | خریده بودیم | kharide budim | |
2人称複数 | خریده بودید | kharide budid | |
3人称複数 | خریده بودند | kharide budand |
過去完了形は現在完了形と同様ですが人称語尾を過去形にします。
仮定法過去形 | |||
1人称単数 | خریده باشم | kharide basham | I may have bought |
2人称単数 | خریده باشی | kharide bashi | You may have bought |
3人称単数 | خریده باشد | kharide bashad | 以下省略 |
1人称複数 | خریده باشیم | kharide bashim | |
2人称複数 | خریده باشید | kharide bashid | |
3人称複数 | خریده باشند | kharide bashand |
仮定法過去形は完了形と同様ですが、上のように bash を使います。
未来形 | |||
1人称単数 | خواهم خرید | khaham kharid | I shall buy |
2人称単数 | خواهی خرید | khahai kharid | You shall buy |
3人称単数 | خواهد خرید | khahad kharid | 以下省略 |
1人称複数 | خواهیم خرید | khahim kharid | |
2人称複数 | خواهید خرید | khahid kharid | |
3人称複数 | خواهند خرید | khahand kharid |
未来系は動詞の語幹の前に khastan を付けて語尾を人称単複に合わせます。
一気に書き上げたので、ミスタイプがあるかもしれません。その時はお知らせください。一つ一つを真面目に文法的に理解しようとするなら、参考書を読んでみてください。読んでもややこしいだけですけどね。使っているうちになんとなく使えるようになってくるものです。たとえ間違っていても、ネイティブは何も非難するようなことはありません。外国人がしゃべる言葉ですから、間違いも寛大に見てくれるものです。
わたしなんかひどいものでした。「お金を払う」miparzadam というところを、長い間、 mipazam (料理をする)と間違って言っていました。後から気付いて恥ずかしいと思ったものでした。
日本人の多くは一応仏教徒という人が多いでしょう。普段の生活が仏教徒として行動していなくとも、葬儀などは仏式で執り行う人が多いと思います。神式やキリスト教、そのほかでもあるのは勿論です。仏教の場合、数珠というものがあります。我が家にもいくつか有りまして、先日の法事の時も使用いたしました。この数珠がイスラムでも使われているということをご存じでしょうか。そうなんです。イスラム教徒も数珠を使っているのです。
私が初めてイランに行ったのが20代でしたが、その時のオフィスにいた50代のアジュダニさんというスタッフがいつも数珠を手にしていたものです。それでイスラムの数珠を知ったのでした。イランではタスビーと呼んでいました。アルファベットでは tasbih ペルシャ語では تسبیح となります。アラビア語ではどうでしょうか。
平凡社の『新イスラム事典』では次のように説明しています。
アラビア語でスブハあるいはタスビーフという。イスラム世界では遅くとも9世紀半ばころまでにインド方面の仏教徒から借用し、一般化したといわれる。礼拝時、ジクルの際、葬儀の際、神を賛美する定句を繰り返し唱えるために用いられる。玉は木材、骨、角、貴石等のいずれかでつくられ、数は100(アッラーフという名とともにその99の美名の合計数)または33が普通で、33または11個目ごとに異形の玉を、結び目にドーム形大玉を配置し、勘定の便に供している。また占いや魔除けにもなり、敬虔な者は平常、手から離すことがない。(堀内勝)
(注)ジクルとはイスラムにおいて,神の名を唱え,思念を神に集中する宗教的行為。
ということで、数珠の本家はやはり仏教ということらしい。でも、仏教の数珠自体が遡れば、諸説あるものの、古代インドのバラモン教で用いられていた道具が元となっているそうです。
99の美名という部分がひかかりますね。実はアッラーというのは神という意味の言葉です。神を表す言葉は99いやそれ以上沢山あるわけです。その気高き神の名を沢山唱えることを意味するわけです。「アッラーよ、わたしはあなたの美しい名前すべてをもってあなたに祈ります」と。
確かに前述のアジュダニさんはいつも数珠を手から離さずにもっていました。イランのことを何も知らない私に非常に親切にしてくれました。敬虔な信者であったのでしょうね。懐かしいです。今回、数珠は私が所有していないので画像はありません。インターネットで「イスラムの数珠」と検索すれば出てくるので、そちらでご覧ください。アマゾンや楽天市場では販売もされているので、画像も豊富に見ることができますよ。
皆さんはハディースを知っていますか。上の画像は中央公論社発行、中公文庫の表紙です。第1巻から6巻まで6冊に上る大著です。今は絶版になっていて、古書で一冊5千円位しています。私は昔、定価で買うことができました。イスラムに馴染みのない人にはあまり縁のない物かもしれませんが、イスラム教徒にとっては聖典コーランに次ぐ非常に重要な文書なのです。インターネットでハディースを説明しているものの中から、手短に分かりやすいのをここに紹介しましょう。
世界大百科事典 第2版の解説
ハディース【ḥadīth】
広くは伝承一般,狭くは預言者ムハンマドの言行に関する伝承を意味するアラビア語。狭義のハディースは,預言者の教えを守り,その人間像を後世に伝えようとするサハーバ(教友)の自然の情に発し,彼の死の直後から数多く語り継がれ,8世紀にズフリーによって最初に収集・記録された。それは一方で,ムハンマド伝に始まるイスラムの歴史叙述の発達を促したが,他方,預言者によって確立された宗教的・倫理的・法的慣行=スンナをハディース研究によって知ろうとした学者たち,ハディースの徒を誕生させた。
わかりやすいと言いましたが、決してそうではないですね。要はムハンマドが生存中に言った事や彼がとった行動をまとめたものです。例えば、「Aという人がムハンマドに~~について尋ねたら、ムハンマドはこのように答えた」のようなものです。実際に読んでみると、大変疲れるものでした。
Aさんがムハンマドに~~について尋ねるとムハンマドはこう答えた、とBさんが言ったということを、Cさんが、Dさんより聞きつけた。などと回りくどい部分がいっぱいあって6冊全部を読むには相当の覚悟が必要です。正直なところ私は全部を読んでいません。でも、結婚式での酒についての記述などは興味深い物でした。初期のイスラムでは酒は全面的に禁止されていたわけではなかったことが分かりました。
イスラム社会はコーランの記述が全てです。でも、コーランの記述をどのように解釈すればいいか難しい場合があります。そのようなときの対処方法がいくつかあるわけですが、その一つとしてハディースに示されているムハンマドの言行録が役に立つわけです。
でもムスリムの人々の中に生きているハディースは、ハディースの中に示されている言葉です。いま私の手元にあるのは「40のハディース」というものです(次の写真)。これは私が東京にあるモスク、東京ジャーミーで頂いたものです。
この中に書かれている事柄をムスリムは日常生活の糧としているわけです。すべてをお示しはできませんが、いくつかを画像で以下にアップしておきます。良いことが書かれていると思います。
イスラムとは徳の教えである。
豊かさとは富の多さではない。豊かさとは心の満足(知足)によるものである。
もっとも善き人とは、妻を大切にする人である。
イスラムの教えはこのようなものなのです。このような教えに逆らっている人は、イスラム社会に居てもムスリムではないのです。一部の過激なテロを引き起こすような人々はムスリムではないのです。ムスリムも我々と同じ人間なのです。
前回のパサルガダエの記事の最後の方で「zendan-e-Soleiman ソロモンの牢獄」を紹介して、次のように書いた。
この先に行くと、zendan-e-Soleiman ソロモンの牢獄と呼ばれる四角い石の塔のような構造物がある。次の写真であるが、これはゾロアスター教の拝火殿に近いものであるらしい。ナクシェ・ロスタムにあるゾロアスター教のカーバはより良好に保存された同様のものであるとか。
しかしながら、そのあとで読んだ青木健著『ペルシア帝国』講談社現代新書を読むと、40頁に以下の記述があった。
長らく用途不明だったパサルガダエのゼンダーネ・ソレイマーン遺跡の不思議な塔は、現在ではクールシュ二世の衣装の倉庫と解釈されており、その塔の屋上で、クールシュ二世の衣装を着用した新大王のお披露目式が行われたと推定されている。
クールシュ二世というのはキュロス二世のことであり、新大王というのは、息子のカンビセスのことである。今ではそのように推定されているというのであるから、それを紹介しておくことにした。でも、推定と記述しているので、あくまでも推定の範囲内のことである。
中東地域にも世界遺産は数多くあります。これまでこのブログでは、特に世界遺産として取り上げてはいませんが、記事にした事柄の中には世界遺産になっているものもあります。今後、中東の世界遺産にも世界遺産として目を向けようと思うのです。一回目はイランのパサルガダエです。
パサルガダエ
パサルガダエは紀元前6世紀にキュロス大王(キュロス2世)によって建てられたアケメネス朝の最初の都である。その領土は地中海東岸とエジプトからインダス川に至る広大な帝国であった。パサルガダエの遺跡の大まかな図を次に示そう。
数字の1のところがキュロス大王の墓である。そこから北東へ歩いていくと③王の謁見の間跡があり、その先に⑤住居にしていた宮殿跡がある。6の地点にはソロモンの牢獄という建造物がある。その先の7の地点は高台になっており、そこから全体を見渡すことができる。そこから見る風景は2500年前の廃墟でしかないが、それぞれの箇所で見る遺跡群は当時の栄華の様を忍ぶことができる。はじめから写真で辿ることにしてみよう。
東からパサルガダエに近づいていくと両側に立派な並木が現れる。その道の奥の方にキュロス大王の墓が少しずつ見えてくる。到着して先ずはまっすぐにキュロス大王の墓に行く。
キュロスの墓を後にして東北に歩いていくと建物の基礎部分だけが残ったエリアに着く。このあたりが王の謁見の間のようだ。
更に歩をすすめるとResidential Palace of Cyrus になる。日本語ではキュロスが居住した宮殿ということだろう。建物はないが太い大きな柱が沢山建っている。キュロス大王の栄華の跡であろう。
この先に行くと、zendan-e-Soleiman ソロモンの牢獄と呼ばれる四角い石の塔のような構造物がある。次の写真であるが、これはゾロアスター教の拝火殿に近いものであるらしい。ナクシェ・ロスタムにあるゾロアスター教のカーバはより良好に保存された同様のものであるとか。
久しぶりに「イスラムの偉人③」としてイブン・ハルドゥーンを紹介しよう。『歴史序説』を著した有名な歴史学者であるが、ここで取り上げた理由はそれだけではない。というのは前々回のテーマ「タラス河畔の戦い」でアッバース朝と対峙したティームールからの連想なのである。まずは人物の紹介から始めよう。
先ずは、東京堂出版・黒田壽郎編『イスラーム辞典』335頁:
歴史家、社会学者、哲学者、政治家。1332年にチュニスで生まれ、哲学者アービリーに諸学を学んだ。若くして政界に入り、グラナダのナスル朝、北アフリカの諸王朝、エジプトのマムルーク朝などに宰相や大法官として仕え、1401年のティムールのダマスカス攻略のときにはティムールの幕舎に迎えられるなど時代の変動をまなあたりにし、カイロでマーリキー派法官とし1406年、74歳の生涯を閉じた。
彼の大著『訓戒(イバル)の書』は、主としてアラブとペルシャの歴史、ベルベル史を扱った三部から成るが、特にその序論と第一部が単独に扱われて『歴史序説』と呼ばれ、人類最初の文明批判の書、歴史哲学の書として高い評価を得ている。ここでイブン・ハルドゥーンが展開する理論は、それぞれの社会は風土や自然条件等の諸環境によって規定されること。各個人、階級、諸民族間の力関係によって歴史が影響され、同時に政権争いや戦争ばかりでなく、人間の営み、精神的生産等んついても歴史的考察には不可欠であるとしている。またアラブ世界では定住民と遊牧民の交替によって王朝や文明の盛衰が行われるといった歴史観を述べている。
イブン・ハルドゥーンは、歴史的現象に関する包括的な視座、方法論的なアプローチにより、社会学をはじめとする人文諸学の先駆者とみなされている。
次に、平凡社『新イスラム事典』での説明は以下の通り:
1332~1406。イスラム世界を代表するアラブの歴史家。チュニス生まれ、祖先は南アラブ系でセビリャの支配貴族であったが、13世紀半ばにチュニスに亡命した。幼くして諸学を修めた後、北アフリカ、イベリア半島の諸スルタンに仕え、波乱万丈の政治生活を送ったが、その悲哀を感じて隠退するとともに、膨大な《歴史序説》と世界史に当たる《イバルの書》を著した。1382年、マムルーク朝下のカイロに移住し、学院の教授になったり、マーリク派の大カーディーとして裁判行政に尽くしたりしたが、その間、ティムールの西アジア遠征に対する防衛軍に加わり、ダマスカス郊外でティムールと会見したことがある。彼を有名にしたのは『歴史序説』に書かれた社会理論のためで、彼は人間社会を文明の進んだ都会とそうでない田舎としての砂漠に分け、そこに住む人間は生活環境の違いから、後者のほうが前者よりもより強力な結束力をもつ社会集団を形成しやすく、そこに内在する連帯意識が歴史を動かす動因となる。遊牧生活を送っている連帯集団は支配権への志向をもっていて、やがて発展し都市に根拠を置く支配国家を征服、新しい国家を建設する。しかし都会に生活の場を置いたこの集団は、文明の発展とともに連帯意識を喪失、やがて新たな連帯集団に征服される。彼は以上のような理論を展開するとともに、政治・社会・経済の諸要因の鋭い分析を行っている。彼のこのような思想は、後世の学者たちに少なからず影響を与えたようで、彼の講義を直接聴聞シタマムルーク朝時代の学者たちの中でも、歴史家マクリージーに最も強く認めることができる。しかし、マムルーク朝の滅亡とともに、イブン・ハルドゥーンの存在もアラブ世界では忘れられた。彼の思想や歴史観が再評価され出すのは16世紀末以降のオスマン帝国下で、19世紀にいたるまで、学者や政治家たちがなんらかの影響を受けた。もっとも彼の社会理論を凌駕するような思想をもつ真の意味の後継者は現れなかった。(森本公誠)
14世紀に生きたアラブの歴史学者である。同時に政治家でもあった。今に残る彼の功績の代表は、その著『歴史序説』である。高校の世界史の教科書にも出ている名前と書名である。岩波文庫から4冊になって出版されているが、今は絶版になっている。これの訳者は森本公誠氏である(上の平凡社のほうの執筆者)。古本で手に入れることはできるが、高価な値がついている。私の住んでいる町の図書館の蔵書にはないが、愛知県図書館では蔵書されていることが分かった。この『歴史序説』が『訓戒の書』の一部であるということも上の記述で初めて知ったことである。実際に読んでみたひとのクチコミでは、一般人には少々骨の折れる内容とのことなので、同じ訳者が執筆している講談社学術文庫の『イブン=ハルドゥーン』を読むことを勧めている。というものの探してみると、これまた絶版のようである。しかしながら、電子出版されているので本として手に取ることはできないが電子版なら入手できることが分かった。定価は688円。アマゾンからでもすぐに入手できる。中身の一部を見ることもできる。
さて、私が興味を抱いたのはティムールとの会見である。ティムールが西進してきたダマスクスを征した時に彼が交渉役としてティムールに会ったわけである。私の手元にある中央公論社発行世界の歴史8、佐藤次高著『イスラーム世界の興隆』には次のように書かれている。
ティムールは1400年10月にはマムルーク総督が守備するシリア北部の古都アレッポを陥れた。二万人を超える死者の頭蓋骨で小山が築かれ、この時破壊されたモスクや学院は二度と修復されることはなかった。次いでハマー、バールベックを落としたティムールは、1401年1月、スルタン・ファラジュ(在位1399~1404)が率いるマムルーク群を一蹴して州都ダマスクスを占領した。このときエジプト側を代表してティムールとの和平交渉に当たったのがイブン=バットゥータであった。すでに『世界史序説』の著者として高名であったイブン=ハルドゥーンは1382年以来、北アフリカからマムルーク朝治下のカイロに移り住み、そこで歴史学やイスラーム法学を講じていた。今回は若いスルタンから直々に請われてのダマスクス行きであった。
64才のティムールと68才のイブン=ハルドゥーンとの会見はダマスクス近郊のグータの森でおこなわれた。・・・会談の途中で、英雄ティムールはこの希代の碩学にサマルカンドへの同行をしきりに求めた。しかしイブン=ハルドゥーンは征服者の厚意に感謝しつつも、結局、最後には家族や友人にるカイロへの帰還を希望したと伝えられる。両者の会談は35日にも及んだが、この間にダマスクス市内では征服軍による略奪や放火や殺人が容赦なくおこなわれた。・・
イブン・ハルドゥーンはサマルカンド行きを断ったが、学者や熟練の職人たちが大勢連れていかれたのだった。これにより、サマルカンドの文化は興隆することになったが、征服された地域は悲惨な状態であった。
昨日のテーマが「アンカラの戦い」だったので、今回も「戦い」を扱おうと思って考えた。そこで、時代は遡るが751年の「タラス河畔の戦い」にした。世界史を学んだ時、この戦いは唐とアッバース朝の戦いであり、この戦いが契機となって蔡倫の製紙法が西域に伝わった、と教わったように思う。ただ、紙の製法は蔡倫が発明したものではないというのが現在の説だそうだ。それにしても、製紙法が伝わったことは間違いないのである。
出所:帝国書院『最新世界史図説・タペストリー』
アッバース朝が成立したのが750年であるから、この戦いは成立直後のことである。イスラムの発展は、ムハンマドの時代(~632) ⇒ (632~)正統カリフ時代 ⇒ (661~)ウマイヤ朝 ⇒ (750~)アッバース朝と辿ったのだったね。アッバース朝はその後バグダードに都を建設し9世紀には人口が150万人を超える大都市になった。一方の唐は最盛期であった玄宗 のころ(8世紀前半)で,人口は100万に達し,渤海 ・新羅 ・日本・ペルシア・アラビア・インド・トルキスタンから人が集まる国際的な文化都市であったという。いずれにせよ、東西の大国同士の戦いであったわけだ。その戦いの経緯、原因は何であったろうか。いつものように「世界史の窓」を見ると、次のように説明している。
この戦争の直接の原因は、唐の河西節度使高仙芝(こうせんし、高句麗出身)がタシュケントの王を捕虜として虐待し、脱走した王子がアッバース朝の応援を要請し、それに応えたイスラーム教徒軍が唐軍を攻撃したもの。高仙芝は3万の兵でタラス城を守り、5日間持ちこたえたが、一部の現地のトルコ系部隊がアッバース軍に内通したため総崩れとなり、生還者わずか数千という敗北を喫した。なおこの戦いの時、唐軍の捕虜によって製紙法がアラビア人に伝えられたことは、文化の東西交流の一つとして興味深い。タラスは現在のキルギス共和国ジャンプイル付近。唐が敗れ西域進出が停止され、中央アジアのイスラーム化が始まった。中国から製紙法がイスラーム世界に伝えられる契機となった。
東西の大国が戦ったこの戦いは8世紀のことである。日本は奈良時代になる。752年が東大寺大仏開眼供養、754年鑑真来日などの時代であった。遠い外国での出来事の時代を日本の時代に照らし合わせることも興味深いものである。
私の場合、世界史で暗記した年号の一つに「アンカラの戦い:1402年」があった。今回は私自身にとって受験時代を思い起こすようなこの「アンカラの戦い」をテーマとして、学びなおしてみようとおもう。
インターネットの「世界史の窓」には次のように書かれている。
1402年、ティムールがオスマン帝国軍を破った戦い。オスマン帝国の進めていたバルカン侵攻が一時停滞した。ティムール朝のティムールは1400年からオスマン帝国領の小アジア、シリアに侵略の手を伸ばしていた。1402年、小アジアのアンカラ(現在のトルコの首都)の近郊で両軍の決戦が行われ、ティムールとオスマン帝国のスルタン、バヤジット1世が相対した。戦いはティムールの圧勝に終わり、バヤジット1世を捕虜とし多くの街を略奪した。ティムールはバヤジット1世を格子付きのかごに乗せ、多くの捕虜とともにサマルカンドに連行するつもりであったが、これを知ったバヤジット1世は服毒して自殺した。この敗戦の結果、オスマン帝国のコンスタンティノープル占領は半世紀遅れたと言われる。
出所:帝国書院『最新世界史図説・タペストリー』
アンカラの戦いは、ティムールが行った数多い外征の一つであった。その勝利によってオスマン帝国を事実上崩壊に追いこんだが、すでに本拠をバルカン半島に移していたオスマン帝国(都はエディルネ)軍を追撃することはなく、また小アジアを帝国領とすることもなかった。すでに中央アジアから西アジアにかけて成立していたティムール帝国ともいわれる領土はそれ以上は拡張しなかった。ティムールの関心は次ぎに東方に移り、明の永楽帝との決戦をめざして、1404年に中国遠征に出発、その途上で、翌年死去する。
出所:山川出版社『世界史図録・ヒストリカ』
一方敗れたオスマン帝国(便宜上後の「帝国」の称号をそのまま使用。実態はこの段階では帝国とは言えない)は壊滅的打撃を受けた。滅亡はしなかったものの、それ以前の1389年のコソヴォの戦い、1396年のニコポリスの戦いで得ていたセルビアやハンガリーなどの領土を一時放棄しなければならなかった。
アンカラの戦いにおけるオスマン帝国の敗北は、ビザンツ帝国にとってもその脅威となっていたオスマン帝国が弱体化したことによって幸運だったと言え、その支配領域はコンスタンティノープル周辺だけになっていたとはいえ、なおも約半世紀存続することができた。この約50年間、オスマン帝国は次のメフメト1世とムラト2世の再建のための準備期間となり、イェニチェリ、シパーヒーなどの軍事力を回復させて、メフメト2世のときに目標をコンスタンティノープル攻略再開に向けていくこととなる。
非常にわかりやすく説明されている。オスマン帝国がまだビザンツ帝国を滅ぼす以前の時代のことで、オスマンが勢力を拡大しつつあった時代のことである。サマルカンドを拠点として版図を拡大すべく西進してきたティムールの軍勢との戦いがアンカラにおいて繰り広げられたのである。ただ、ティムールはこれ以上西進することはなく、彼の眼は東方に注がれたのであった。それが、オスマンの滅亡を防ぐことになったわけである。
ティムールが軍をひいたあとのアナトリアにはバヤジットの4人の王子がいた。長男スレイマンはオスマン朝に忠誠なヨーロッパ領に渡った。次男イサはブルサを拠点とし、三男メフメトは自分が知事をしていたアマスィアを奪回していた。四男ムサは父バヤジットとともに捕虜となったが、解放された後にキュタヒヤ地方を領有した。このような状態の中でオスマン朝の再建を志すも、バヤジットの後継者争いが始まってしまたのである。争いの結果、メフメトはイサからブルサ、ニカイアを奪った。イサに加担したスレイマンも後継争いには敗れ殺された(1410年)。残ったのはヨーロッパ側のムサとアジア側のメフメトの二人であった。二人の戦いも1413年にブルガリアのソフィアの近郊での戦いでムサが敗れ、絞殺された。アンカラの戦いから11年後に再びオスマン帝国の統一がなったのであった。
第5代のスルタン・メフメト一世(在位1413~1421年)の誕生である。