新シリーズ「オスマン帝国」:⑧メフメト2世

1444年:メフメト2世(在位1444年~46、1451~81年)が1453年のコンスタンティノープルを攻略したことは既に⑥のところで述べた。ビザンツ帝国を打ち破った英雄であるから、彼のことをもう少し見てみよう。生存したのは1432~81である。冒頭の在位の部分が二つに分かれているのが気になった。実は父ムラト2世は1444年にメフメト2世をスルタンに就かせたのであるが、2年後に復位したのであった。そして、ムラト2世の死によって1451年からがメフメト2世の実質的な在位というわけである。

講談社『オスマン帝国500年の平和』によれば、メフメト2世は町の破壊を望まず、それを最小限に抑えようとしたということが歴史の諸資料で一致しているそうである。イスラムでは三日間の略奪が認められているが、それも一日で切り上げられたようである。また、ビザンツ側の貴族たちについては、その身代金を自ら払って彼らの解放を保障したといわれている。メフメト2世は早々にハギヤ・ソフィア大聖堂に入り、ここをモスクとした。これがあの有名なアヤ・ソフィアである。その他の教会や修道院などもイスラムの施設に転用されたことはいうまでもない。

『オスマン帝国500年の平和』では当時の様子を詳述しているので、すこし拝借することにしよう。
メフメト2世は先ず、捕虜になることを免れたり身代金を払って解放されたギリシャ人らの住民にたいして安全を保障し、旧来の「慣習と宗教」の維持を約束した。また町のガラダ地区に在留するジェノヴァ人にも、その身の安全と商売や通行の自由を保障した。・・・・・
メフメト2世は人口の激減した町の復興のため、征服戦に参加・協力した人々(軍人、ウラマー、神秘主義教団員など)に市内の建造物を住居として与えている。・・・・・・征服戦で大きな貢献をした巨大大砲の製作者ハンガリー人のウルバンも対象者であった。

こうしてみてみると、メフメト2世は打ち破ったビザンツ側に対しても極悪非道な扱いをしたわけではなく、理性的に対処していたことが伺える。一応慣習となっている略奪には目を瞑ったようではあるが、それも日数を短くするなど、最低限の略奪に抑えようとしたことがわかった。というものの、彼の約30年間の統治時代は東西への遠征に明け暮れた。自らが率いた遠征は18回にも及んだとある。

参考資料
林佳世子著『オスマン帝国500年の平和』講談社
『新イスラム事典』平凡社

新シリーズ「オスマン帝国」:⑦オスマン帝国の重要事項(重要語句)

1月12日には「1444年:メフメト2世(征服者)在位1444年~46が即位して、1453年にコンスタンティノープルを攻略した」ところで終わった。今回はオスマン帝国に関する重要事項を整理してみようと思う。

デヴシルメ:
オスマン帝国拡大の原動力となった一つがデヴシルメである。支配下にあったキリスト教徒(アルバニア、ギリシア、ブルガリア、セルビア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナ、ハンガリーなど、つまりバルカン半島の非ムスリムの諸宗教団体の教徒の少年を対象とした制度であった。7~17歳、時には18歳までの身体強健、眉目秀麗、頭脳明晰な者を徴収し、強制的にイスラムに改宗させた。少年たちは」赤い衣装(クズル・アパ)をまとい、先端の尖った円錐型の帽子を被り、イスタンブールに送られた。そこでそれぞれの適正に応じて訓練を受けて各種の任務に使用された。例えば、眉目秀麗、容易淡麗、知的な少年は選ばれて宮廷役務に服する道へと進み、将来は宮廷官僚の役職が約束された。残りの身体強健な者はトルコ語習得のためにトルコ人の下に預けられ、その後、軍人としての道を歩んだ。この制度で行われた徴用の最後は1703年であった。

イェニチェリ:
1354年以後オスマン帝国の領土が拡大すると、新たな戦力が必要となり、それを補給するために設けられた新しい兵士軍のことである。スルタン直属の歩兵軍団である。戦争捕虜の一部をトルコ人農家に預けてトルコ語を習得させ、ムスリムに改宗させたうえで軍人とした。これによって徴収された者の殆どがイニチェリとなった。イニチェリ軍団は16世紀頃まで精鋭部隊として規律正しく帝国の発展に寄与した。17世紀頃からはしばしば暴動を起こすこともあった。

スルタン:
前項でスルタンという語がでたので、説明すると、「スルタンとはイスラム法の施行・維持・正統派信仰の擁護する世俗の君主」である(帝国書院『世界史図説「タペストリー」』による)。平凡社『新イスラム事典』では「11世紀以後、主としてスンナ派イスラム王朝の君主が用いた称号・・・」とある。更に「オスマン朝におけるスルタン位は、1396年のニコポリスの戦の後、バヤジット1世がカイロにいたアッバース朝カリフの末裔からスルタン位を授けれたことに始まり、オスマン王家によって世襲された。」と記されている。要は君主、王様である。

ディーワーン:
イスラム国家の行政機関のことであるので、イスラム世界で広く存在するものであるが、帝国書院の世界史図説ではオスマン帝国では御前会議と括弧書きしており、「ディーワーンと呼ばれる御前会議では、軍事や行政、財政などの問題が扱われた。」とあり、その場の絵が載っており、そこには大宰相、宰相、国璽尚書(こくじしょうしょ)、財務長官などが描かれている。スルタンはその場には居なくて、窓から様子を伺っている。

ティマール制
建国から16世紀末にいたるオスマン帝国の国家と社会とを規定した軍事封土制。オスマン帝国の軍事力の中心をなしたシパーヒーと呼ばれる騎兵は封土から生じる租税の徴収・取得権を認められる代償として、平時には治安の維持、農業生産の管理、戦時には封土の多寡に応じた数の従士を従えて出征した。(平凡社『新イスラム事典』)要は騎兵に土地を割り当てる代わりに軍役を義務づけたわけである。

ペルシャ語講座24の答え

ペルシャ語講座24で示した平易な文の日本語訳です:
این منزل ماست これは私たちの家です。
منزل ما است がمنزل ماستと短縮されています。
آن باغ مال کیست あの庭は誰のものですか。
آن باغ مال من است あの庭は私のものです。
پدر این بچه کجاست この子供の父親はどこにいますか。
این اطاق پنجره دارد この部屋には窓があります。
کتاب شما روی میز اسب あなたの本は机の上にあります。
مردی بمنزل ما آمد 男の人が我々の家に来ました。
پسر او بیرون اسب 彼(彼女)の息子は外にいます。
دختر من گربه دارد 私の娘は猫を持っています(抱いています)
آنهارا در باغ دید 彼ら(彼女ら)を私は見ました。
این زن کتابی بمن داد この女性は私に一冊の本を与えました。
کجا رفت 彼はどこに行きましたか。
بشهر رفت 町に行きました。
کتاب و مداد روی میز است 本と鉛筆が机の上にあります。
مادر شما بمنزل ما آمد あなたのお母さんが私たちの家に来ました。
اسب او توی باغ است 彼の馬が庭の中にいます。
این منزل مال ماست この家は私たちのものです。

いかがでしたか。 مال は「誰々のもの」というときの「もの」に相当します。マーレ・マンで私のもの。マーレショマーであなたのもの。あの家は私のものですのように使います。

小川亮作とサーデク・ヘダーヤト

前(2020/12/25)に投稿した小川亮作訳のルバイヤートの冒頭で小川訳とサーデク・ヘダーヤト編集のものが同じように八つのパートに分けられていることに気づいたと記した。そのあと、関連資料を読んでいると、それは当然のことであった。つまり、小川亮作氏はサーデク・ヘダーヤトが編集したルバイヤートを訳したということであった。小川氏が訳した元の版を調べておけばこのような初歩的なミスはなかったはずで、お恥ずかしい。

私の勝手な思い込みで、小川良作さんはかなり昔の人であり、ヘダーヤトは私たちと同世代の作家と思っていたのだ。というのは、私が1970年代にテヘランに住んでいたころ、会社の寮のようなフラットに居たり、ペンションに移ったり、はたまたフランス人夫人の家に下宿したことがあったのだが、そのフランス人がヘダーヤトと知り合いだったと話したことがあったのである。私が25-26歳ころである。ヘダーヤトの名前は知っていたが、フランスで自殺したことぐらいしか知らなかった。彼の作品も読んだことがなかった。だからそんなに前の時代の人だとは思ってもいなかったのである。この際、きちんと調べとこうと思う。

サーデク・ヘダーヤト (Sadeq Hedayat) صادق هدایت :
彼は1903年生まれとあるから、明治36年生まれということになる。私の父親が明治37年生まれであったから、父親とほぼ同じ齢ということだから、それほど昔の人ではない(笑)。では、小川亮作氏はどうであろうか。

小川亮作:
1910年生まれ。つまり明治43年生まれである。私の母が明治44年生まれであったから、私の母とほぼ同じ齢である。ロシア語を勉強して外交官になり、ペルシャに赴任した。テヘランに3年間滞在したあと1935年(昭和10年)に帰国した。滞在中にルバイヤートに魅せられて翻訳することとなったのである。岩波文庫の出版が1949年(昭和24年)である。1910年生まれであるから39歳での出版となる。私が生まれたのが昭和22年であるから、既に翻訳はされていたことになる。また、ヘダーヤト版のルバイヤートをペルシャにおいて愛読していたことも、納得がいくのである。

二人の関連が分かったところで、ついでと言ってはなんであるが、ヘダーヤトの作品を少し紹介してみたい。

まず日本語で読める作品を挙げるなら、やはり彼の代表作の一つである『盲目の梟』であろう。調べてみると1983/1/1発行で、白水社から「白水社世界の文学」として出版されていることがわかった。訳者は 中村公則である。絶版になっておりアマゾンの古書では1万円とか21,558円とかで出品されている。愛知県図書館には所蔵されていることがわかった。ということで簡単にはお目にかかることのできないのが実情である。私は英語版とペルシャ語版を持っている。次の画像はその表紙である。
アマゾンでは新刊は手に入らないが購入者のレビューが載っているので参考になるだろう。また、アマゾンで入手できる翻訳本は『が生埋め―ある狂人の手記より 』があるが、よく見るとこれも一時的に品切れとなっている。入手できるのは『サーデグ・ヘダーヤト短編集』2007年慧文社 発行がある。定価3000円(税別)。内容は「20世紀イランを代表する大作家サーデグ・ヘダーヤトが、第二次大戦前後の激動のイランにあって、時代の波に翻弄されつつ、ときにリアルに、ときには表現主義的に、ときには風刺的に、またときには内省的、哲学的に時代の諸相を描いた珠玉の選訳十篇。」と書かれており、作家の紹介は「1903年テヘラン生まれ。国費留学生としてベルギー、フランスへ留学。1930年に短篇集『生埋め』を上梓し、本格的に作家としてデビュー。1936年からの滞印中に執筆した前衛的小説『盲目の梟』は、のちにアンドレ・ブルトンらも賞賛するところとなる。ペルシア語による斬新な小説執筆に旺盛な創作力を示す一方で、イラン固有のフォークロアなどにも強い興味を示し民俗誌的傑作を多く残したほか、欧州の文学作品のペルシア語への翻訳にも優れた業績を残した。1951年4月逗留先のパリで自らの手で命を絶ち逝去」と書かれている。この短編集は私も読んだが、読んだ後「良かった」というような感情は湧かないのが殆どだ。人それぞれに受け止め方が異なるものだろうから、それ以上私情を述べるのは止めておこう。

もっと彼のことを知ろうとするなら、ウィキペディアでも詳しく知ることができる。また彼の作品について知りたければアマゾンUSA やBook Depository で彼の名前で検索すれば数多くの書籍がでてくるので参考にされたい。Book Depository での購入は世界中どこでも送料無料なので大変ありがたいのだ。

ペルシャ語講座24:基本単語と平易な文

またまた久しぶりのペルシャ語講座です。今日は基本的な単語と平易な文章です。
先ずは基本単語です。

مرد mard man 男、男性
زن zan woman 女、女性
پسر pesar boy, son 息子、少年
دختر doghtar daughter 娘、少女
پدر pedar father
مادر ma-dar mother
برادر bara-dar brother 兄弟
خواهر kha-har sister 姉妹
بچه bacche child 子供
کار ka-r work 仕事
اطاق otaq room 部屋
منزل manzel house
باغ ba-gh garden
گدا geda- beggar 乞食
شهر shahr city, town 市、町
بازو ba-zu forearm
راستگو ra-stgu truthful person 正直者
ایرانی i-ra-ni- Iranian イラン人
اسب asb horse
سگ sag dog
گربه gorbe cat
گاو ga-v ox, cow

基本的な前置詞を挙げておきましょう。

بیرون biiru-n out, outside 外に
در dar in 中に
تو tu in, inside
رو ru on 上に

続いて簡単な文章です。上の基本単語を利用して次の文章を日本語にしてください。先ずは自力でやってみて下さい。数日したら解答をアップいたします。
این منزل ماست
آن باغ مال کیست
آن باغ مال من است
پدر این بچه کجاست
این اطاق پنجره دارد
کتاب شما روی میز اسب
مردی بمنزل ما آمد
پسر او بیرون اسب
دختر من گربه دارد
آنهارا در باغ دید
این زن کتابی بمن داد
کجا رفت
بشهر رفت
کتاب و مداد روی میز است
مادر شما بمنزل ما آمد
اسب او توی باغ است
این منزل مال ماست

新シリーズ「オスマン帝国」:⑥ オスマン一世からメフメト2世まで

14世紀、アナトリアで勢力を拡大してきていたオスマン侯国の軍勢はビザンツ帝国の目の前に姿を現した。そして、サカリヤ川流域からビザンツ領に侵入し、略奪を始め、ブルサの町を包囲した。軍勢を率いていたオスマンはここで没したという。後を継いだ息子のオルハンが1326年にブルサを陥落させた。そして、その後、1329年のペレカノンの戦いでオスマン軍が勝利すると、1331年にニカイヤを、1337年にニコメディアを征服した。

オスマン帝国500年の平和から引用

こうして、オスマン侯国はバルカン半島に進出を始めた。そして、14世紀末までにバルカン半島の大半を征服した。1453年にはコンスタンティノープルを攻略してビザンツ帝国を滅ぼしたのであった。ここまでの経緯を時系列で改めて列記すると以下の通りである。

1299年:オスマン一世、オスマン帝国建設
1326年:オルハンがビザンツ帝国領ブルサを征服し、都とする
1329年:ペレカノンの戦いで勝利
1331年:ニカイヤを征服
1337年:ニコメディア(イズミト)を征服
1361年:アドリアノープルを攻略
1362年:オルハン没
1366年:マケドニア、ブルガリア征服
1389年:コソヴォの戦でバルカン同盟軍を撃破(コソヴォの戦とは、ムラト1世のオスマン帝国軍が、セルビアのコソヴォで、セルビア・ボスニア・ブルガリア・ハンガリーなどのキリスト教連合軍を破った戦い。バルカン半島は長いオスマン帝国による支配下におかれることとなった)

ムラト1世の次にバヤジット1世(雷電王)在位1389~1402の時代となり、
1396年:ニコポリスの戦でハンガリー王ジギスムントを破る
1402年:アンカラ(アンゴラ)の戦でティムールに敗れ、オスマン帝国混乱続く(~1413)
1413年:メフメト1世(在位1413~21)が即位し、国の混乱を収め再統一。その後、ムラト2世の治世を経て、
1444年:メフメト2世(征服者)(在位1444年~46、1451~81年)が即位して、1453年のコンスタンティノープル攻略に至るのである。丁度区切りの良いところになったので、」今回はここまでとしよう。

 

新シリーズ「オスマン帝国」:⑤ オスマン侯国からオスマン一世へ

前々回までで、ルーム・セルジューク朝まで辿ってきた。この王朝も滅びたのであるが、その当時の周辺の勢力図というか王朝図を一瞥で分かる図を探していたのだが、中々見つからなかった。やっと見つけたのが次の図である。「世界史の歴史マップ」のサイトである。
( https://sekainorekisi.com/glossary/ ) 。ちょっと拝借させていただくことにする。

イスラーム世界の形成と発展

一目瞭然である。エジプト地域にはファーティマ朝 ⇒ アイユーブ朝 ⇒ マムルーク朝と推移している。一方、イラン・イラク方面ではモンゴル系の王朝が立ち並んでいる。そして、アナトリアではルーム・セルジューク朝の後にオスマン帝国が登場するのである。いきなりオスマン帝国が登場したのではない。先ずはオスマン侯国の登場である。

私なりに纏めるならば、トルコ系民族が中央アジアから西に移動してきた。今のイラン、イラク辺りで起こしたのがセルジューク朝である。セルジューク朝ではペルシャ人が登用されており、イラン文化が興隆していた。ここでの言語はペルシャ語が主流であった。トルコ系民族と言ったが、セルジューク朝を興したグループとは別にトゥルクマーンというのもよく耳にするのであるが、セルジューク朝では彼らの扱いが少々厄介(?)だったようでもある。彼らは東ローマ(ビザンツ)帝国との前線であるアナトリアに派遣されていき、ルーム・セルジューク朝のように、そこで地方政権を作っていった。ルーム・セルジューク朝の後の時代のアナトリアの地図が次の図である。

これは前に紹介した講談社「興亡の世界史」シリーズの『オスマン帝国500年の平和』の中の図である。太い点線がイブン・バットゥータが旅したルートである。アナトリアを旅したのは1332年ごろであるらしいが、アナトリア西部にオスマン侯国が描かれている。そして、イブン・バットゥータはオスマン侯国を、この地の最有力者と称しているとのことである。ようやくオスマン帝国への道筋が明らかになってきた。色々調べてみたが、やはりオスマン帝国が起きるあたりのことは詳しくは分からないというのが定説であるようだ。ウィキペディアには次のように記されている。
「オスマン家の起源に関する確実な史料は存在しないが、後世オスマン帝国で信じられた始祖伝説によると、その遠祖はテュルク系遊牧民のオグズ24部族のひとつのカユ部族の長の家系の出自である。イスラム教を受け入れたカユ部族は中央アジアからイランのホラーサーンに移住し、スレイマン・シャーが部族長のとき、おそらくモンゴル帝国の征西を避けてアナトリアに入った。スレイマン・シャーはそこで死に、部族の一部はホラーサーンに帰ったが、スレイマン・シャーの子の一人エルトゥールルは遊牧民400幕を連れてアナトリアに残り、ルーム・セルジューク朝に仕えてアナトリア東北部のソユトの町を中心とする一帯を遊牧地として与えられ、東ローマ帝国に仕えるキリスト教徒と戦った。1280年から1290年の間頃にエルトゥールルは病死し、息子のオスマン(オスマン1世)が後を継ぐ。」

このオスマン一世がオスマン帝国の祖である。
オスマン一世が登場したところで、今日は終わりにしよう。

 

小川亮作訳『ルバイヤート』108~143「一瞬をいかせ」

岩波文庫、小川亮作訳、オマル・ハイヤーム著『ルバイヤート』の第8章「一瞬(ひととき)をいかせ」をお届けします。テキストの電子化は「青空文庫」さんによるものです。ここに感謝して利用させて頂きます。

いよいよ最後の章になりました。これまで1章、2章・・・8章と書いてきましたが、この岩波文庫版でそう章立てされているわけではありません。八つのパートに分けられているので、便宜上私が章としただけのことです。

イランで発行されているルバイヤートは数多くあります。イランの有名な作家サーデク・ヘダーヤトが編集したものが手元にあります。改めてそれを見てみるとルバイヤートの解説のあとに、143編の詩があるのですが、それは小川亮作さんが訳されたものと同じ内容でありました。こちらも8つの部分に分けられていて、それぞれに名前が付いています。ヘダーヤト版は岡田恵美子さんの訳で日本でも平凡社ライブラリーから発行されています(冒頭の画像はその表紙です)。それによると、8つのパートは章になっていて、それぞれの名前が以下の通りです。

1.創造、この不可解なもの
2.生きる苦しみ
3.太初からの運命
4、廻(めぐ)る天輪
5.土から土へ
6.なるようになるさ
7、無
8.一瞬を知ろう
それでは最後の章をお楽しみください。

一瞬《ひととき》をいかせ

108
迷いの門から正信までは、ただの一瞬《ひととき》、
懐疑の中から悟りに入るまでもただの一瞬。
かくも尊い一瞬をたのしくしよう、
命の実効《しるし》はわずかにこの一瞬。

109
たのしくすごせ、ただひとときの命を。
一片《ひとかけ》の土塊《つちくれ》もケイコバードやジャムだよ。
世の現象も、人の命も、けっきょく
つかのまの夢よ、錯覚よ、幻よ!

110
大空に月と日が姿を現わしてこのかた
紅《くれない》の美酒《うまざけ》にまさるものはなかった。
腑に落ちないのは酒を売る人々のこと、
このよきものを売って何に替えようとか?

111
月の光に夜は衣の裾《すそ》をからげた。
酒をのむにまさるたのしい瞬間《とき》があろうか?
たのしもう! 何をくよくよ? いつの日か月の光は
墓場の石を一つずつ照らすだろうさ。

112
あすの日が誰にいったい保証出来よう?
哀れな胸を今この時こそたのしくしよう。
月の君*よ、さあ、月の下で酒をのもう、
われらは行くし、月はかぎりなくめぐって来よう!

113
あわれ、人の世の旅隊《キャラヴァン》は過ぎて行くよ。
この一瞬《ひととき》をわがものとしてたのしもうよ。
あしたのことなんか何を心配するのか? 酒姫《サーキイ》よ!
さあ、早く酒盃を持て、今宵《こよい》も過ぎて行くよ!

114
東の空の白むとき何故《なぜ》鶏《にわとり》が
声を上げて騒ぐかを知っているか?
朝の鏡に夜の命のうしろ姿が
映っても知らない君に告げようとさ。

115
夜は明けた、起きようよ、ねえ酒姫《サーキイ》
酒をのみ、琴を弾け、静かに、しずかに!
相宿の客は一人も目がさめぬよう、
立ち去った客もかえって来ぬように!

116
わが心の偶像よ、さあ、朝だ、
酒を持て、琴をつまびき、うたえ歌。
千万のジャムシードやケイホスロウら
夏が来て冬が行くまに土の中!

117
朝の一瞬《ひととき》を紅《くれない》の酒にすごそう、
恥や外聞の醜い殻を石に打とう。
甲斐《かい》のないそらだのみからさっさと手を引き、
丈なす髪と琴の上にその手を置こう。

118
こころよい日和《ひより》、寒くなく、暑くない。
空に雲 花の面の埃《ほこり》を流し、
薔薇《ばら》に浮かれた鶯《うぐいす》はパハラヴイ語で、
酒のめと声ふりしぼることしきり。

119
花のころ、水のほとりの草の上で、
おれの手をとるこの世の天女二、三人。
世の煩《わずら》いも天国ののぞみもよそに、
盃《さかずき》にさても満たそう、朝の酒!

120
はなびらに新春《ノールーズ》の風はたのしく、
草原の花の乙女の顔もたのしく、
過ぎ去ったことを思うのはたのしくない。
過去をすて、今日この日だけすごせ、たのしく。

121
草は生え、花も開いた、酒姫《サーキイ》よ
七、八日地にしくまでにたのしめよ。
酒をのみ、花を手折《たお》れよ、遠慮せば
花も散り、草も枯れよう、早くせよ。

122
新春《ノールーズ》にはチューリップの盃《はい》上げて、
チューリップの乙女《おとめ》の酒に酔え。
どうせいつかは天の車が
土に踏み敷く身と思え。

123
菫《すみれ》は衣を色にそめ、薔薇の袂《たもと》に
そよかぜが妙なる楽を奏でるとき、
もし心ある人ならば、玉の乙女と酒をくみ、
その盃を破るだろうよ、石の面《も》に。

124
さあ、起きて、嘆くなよ、君、行く世の悲しみを。
たのしみのうちにすごそう、一瞬《ひととき》を。
世にたとえ信義というものがあろうとも、
君の番が来るのはいつか判《わか》らぬぞ。

 

125
大空の極《きわみ》はどこにあるのか見えない。
酒をのめ、天《そら》のめぐりは心につらい。
嘆くなよ、お前の番がめぐって来ても、
星の下《もと》誰にも一度はめぐるその盃《はい》。

126
学問のことはすっかりあきらめ、
ひたすらに愛する者の捲毛《まきげ》にすがれ。
日のめぐりがお前の血汐を流さぬまに
お前は盃《はい》に葡萄《ぶどう》の血汐を流せ。

127
人生はその日その夜を嘆きのうちに
すごすような人にはもったいない。
君の器が砕けて土に散らぬまえに、
君は器の酒のめよ、琴のしらべに!

(128)
春が来て、冬がすぎては、いつのまにか
人生の絵巻はむなしくとじてしまった。
酒をのみ、悲しむな。悲しみは心の毒、
それを解く薬は酒と、古人も説いた。

129
お前の名がこの世から消えないうちに
酒をのめ、酒が胸に入れば悲しみは去る。
女神の鬢《びん》の束また束を解きほぐせ、
お前の身が節々《ふしぶし》解けて散らないうちに。

(130)
さあ、一緒にあすの日の悲しみを忘れよう、
ただ一瞬《ひととき》のこの人生をとらえよう。
あしたこの古びた修道院を出て行ったら、
七千年前の旅人と道伴《みちづ》れになろう。

(131)
胸をたたけ、ああ、よるべない大空の下、
酒をのめ、ああ、はかない世の中。
土から生れて土に入るのか、いっそのこと、
土の上でなくて中にあるものと思おう。

132
心はたぎる、早くこの手に酒をくれ!
命、いのち、銀露のようにたばしる!
とらえないと青春の火も水となる。
さあ、早く物にくらんだ目をさませ!

133
酒をのめ、それこそ永遠の生命だ、
また青春の唯一《ゆいつ》の効果《しるし》だ。
花と酒、君も浮かれる春の季節に、
たのしめ一瞬《ひととき》を、それこそ真の人生だ!

134
酒をのめ、マハムード*の栄華はこれ。
琴をきけ、ダヴィデ*の歌のしらべはこれ。
さきのこと、過ぎたことは、みな忘れよう
今さえたのしければよい――人生の目的はそれ。

135
あしたのことは誰にだってわからない、
あしたのことを考えるのは憂鬱《ゆううつ》なだけ。
気がたしかならこの一瞬《ひととき》を無駄《むだ》にするな、
二度とかえらぬ命、だがもうのこりは少い。

(136)
時のめぐりも酒や酒姫《サーキイ》がなくては無だ、
イラク*の笛も節《ふし》がなくては無だ。
つくずく世のありさまをながめると、
生れた得《とく》はたのしみだけ、そのほかは無だ!

137
いつまで有る無しのわずらいになやんでおれよう?
短い命をたのしむに何をためらう?
酒盃に酒をつげ、この胸に吸い込む息が
出て来るものかどうか、誰に判ろう?

138
仰向《あおむ》けにねて胸に両手を合わさぬうち*、
はこぶなよ、たのしみの足を悲しみへ。
夜のあけぬまに起きてこの世の息を吸え、
夜はくりかえしあけても、息はつづくまい。

139
永遠の命ほしさにむさぼるごとく
冷い土器《かわらけ》に唇《くち》触れてみる。
土器《かわらけ》は唇《くち》かえし、謎《なぞ》の言葉で――
酒をのめ、二度とかえらぬ世の中だと。

140
さあ、ハイヤームよ、酒に酔って、
チューリップのような美女によろこべ。
世の終局は虚無に帰する。
よろこべ、ない筈《はず》のものがあると思って。

141
もうわずらわしい学問はすてよう、
白髪の身のなぐさめに酒をのもう。
つみ重ねて来た七十の齢《よわい》の盃《つき》を
今この瞬間《とき》でなくいつの日にたのしみ得よう?

142
めぐる宇宙は廃物となったわれらの体躯《からだ》、
ジェイホンの流れ*は人々の涙の跡、
地獄というのは甲斐《かい》もない悩みの火で、
極楽はこころよく過ごした一瞬《ひととき》。

143
いつまで一生をうぬぼれておれよう、
有る無しの論議になどふけっておれよう?
酒をのめ、こう悲しみの多い人生は
眠るか酔うかしてすごしたがよかろう!

 

小川亮作訳『ルバイヤート』101~107「むなしさよ」

岩波文庫、小川亮作訳、オマル・ハイヤーム著『ルバイヤート』の第7章「むなしさよ」をお届けします。テキストの電子化は「青空文庫」さんによるものです。ここに感謝して利用させて頂きます。

むなしさよ

101
九重の空のひろがりは虚無だ!
地の上の形もすべて虚無だ!
たのしもうよ、生滅の宿にいる身だ、
ああ、一瞬のこの命とて虚無だ!

102
時の中で何を見ようと、何を聞こうと、
また何を言おうと、みんな無駄《むだ》なこと。
野に出でて地平のきわみを駈《か》けめぐろうと、
家にいて想いにふけろうと無駄なこと。

103
世の中が思いのままに動いたとてなんになろう?
命の書を読みつくしたとてなんになろう?
心のままに百年を生きていたとて、
更《さら》に百年を生きていたとてなんになろう?

(104)
地の青馬にうち跨《またが》っている酔漢《よいどれ》を見たか?
邪宗も、イスラム*も、まして信仰や戒律どころか、
神も、真理も、世の中も眼中にないありさま、
二つの世にかけてこれ以上の勇者があったか?

105
戸惑《とまど》うわれらをのせてめぐる宇宙は、
たとえてみれば幻の走馬燈だ。
日の燈火《ともしび》を中にしてめぐるは空の輪台、
われらはその上を走りすぎる影絵だ。

106
ないものにも掌《て》の中の風があり、
あるものには崩壊と不足しかない。
ないかと思えば、すべてのものがあり、
あるかと見れば、すべてのものがない。

107
世に生れて来た効果《しるし》に何があるか?
生きた生命の結果として何が残るか?
饗宴の燭《ともしび》となってもやがて消えはて、
ジャムの酒盃*となってもやがては砕ける。