コーランについて(3):第2章・・・雌牛①

コーランの最初の頁「第1章・・・開扉」に続くのが「第2章・・・牝牛」です。かなり長い章で286節で構成されています。手元にある亜日対訳コーランでは約50頁の量になっています。ここには興味ある事柄が盛りだくさん含まれています。

第1節はアリフ・ラーム・ミームです。これだけです。アラビア文字の3文字があるだけです。つまり、الم というわけです。何を意味するのでしょうか?諸説あるようですが、それを聞いても私には良く分かりません。逆に言うと、こう言う意味であるとはっきりしたものがないということなのでしょう。全114章のうちの29章が冒頭にこのようにアルファベットで始まっています。そして、このアリフ・ラーム・ミームで始まっているのは6つの章です。残りの23章がどのような文字で始まるかはその都度紹介していきましょう。(以下の訳文は井筒俊彦著『コーラン』からの引用です。)

礼拝をする方角をキブラということは以前紹介したことがあります。このキブラについて142節以後で触れています。144節には「何処から出てきた場合でも、必ず顔を(メッカの)聖なる礼拝堂の方に向けるようにせよ。この(規定)は、まさしく主の下し給うた真理。アッラーは汝らの所業をぼんやり見過ごしたりはなさらぬぞ。」とあります。世界中のどこにいても、イスラム教徒たちが礼拝の時にはメッカの方向を見て行うということがここに記載されているのです。

では、食べ物について見てみましょう。173節には次のように書かれています。「アッラーが汝らに禁じ給うた食物といえば、死肉、血、豚の肉、それから(屠る時に)アッラー以外の名が唱えられたもの(異神に捧げられたもの)のみ。それとて、自分から食い気を起こしたり、わざと(神命に)そむこうとの心からではなくて、やむなく(食べた)場合には、別に罪にはなりはせぬ。まことにアッラーはよく罪をゆるし給うお方。まことに慈悲の心深きお方。」豚肉・血・死肉以外のものなら何を食べてもいいようです。

第177節「本当の宗教心とは汝らが顔を東に向けたり西に向けたりすることではない。いや、いや、本当の宗教心とは、アッラーと最後の(審判の)日と諸天使と聖典と予言者たちとを信仰し、己が惜しみの財産を親類縁者や孤児や貧民、または旅路にある人や物乞いに分け与え、とらわれの(奴隷)を購って(解放し)、また礼拝のつとめをよく守り、こころよく喜捨を出し、一旦約束したらば約束を果し、困窮や不幸に陥っても危急の時にのぞんでも毅然としてそれに堪えてゆく人、(これこそ本当の宗教心というものじゃ)そういうのが誠実な人、そういうのこそ真に神を畏れる心をもった人。」とある。とある。この部分は喜捨の勧めに相当するでしょうか。

第183節「これ信徒の者よ、断食も汝らの守らねばならぬ規律であるぞ、汝らより前の時代の人々の場合と同じようね。(この規律を良く守れば)きっとお前たちにも本当に神を畏れかしこむ気持ちが出来てこよう。」第184節「(この断食のつとめは)限られた日数の間守らなければならぬ。但し、汝らのうち病気の者、または旅行中の者は、いつか他の時に同じ数だけの日(断食すればよい)。また断食をすることができるのに(しなかった)場合は、貧者に食物を施すことで償いをすること。しかし、(何事によらず)自分から進んで善事を成す者は善い報いを受けるもの。この場合でも(出来れば規律通りに)断食する方が、汝らのためになる。もし(ものごとの道理が)汝らにはっきりわかっているならば。」このあともう少し断食についての記載が続いている。断食の規律に従えなかった場合には後日穴埋めをすればよいというようなことであるが、このような点で私はイスラムは非常に現実的かつ具体的なを有する集団であると思う。それにもう一つ人間臭いものでもあると感じている。それは次のような節である。第187節「断食の夜、汝らが妻と交わることは許してやろうぞ。彼女らは汝らの着物、汝らは彼女らの着物。アッラーは汝らが無理していることをご承知になって、思い返して、許し給うたのじゃ。だから、さあ今度は。(遠慮なく)彼女らと交わるがよい。そしてアッラーがお定め下さったままに、欲情を充たすがよい。食うもよし、飲むもよし、やがて黎明の光りさしそめて、白糸と黒糸の区別がはっきりつくようになる時まで。しかしその時が来たら、また(次の)夜になるまでしっかりと断食を守るのだぞ。礼拝堂におこもりしている間は、絶対に妻と交わってはならぬ。これはアッラーの定め給うた規定だから、それに近づいて(踏越え)てはならぬ。このようにアッラーは人間にそのお徴を説き証かし給う。こうすればきっとみんなも敬神の念を抱くようになるかも知れぬとお思いになって。」

長くなるので一度ここで終わることにし、後日つづきを追加することにします。

書籍紹介:イスラム2.0(SNSが変えた1400年の宗教観)

コロナの影響で外出を控えていましたが、不要不急でない用があり、名古屋に出かけました。少し時間があったので大型書店の店頭でこの本を見つけました。

題名は『イスラム2.0(SNSが変えた1400年の宗教観)』というちょっと風変わりなタイトルに魅かれました。著者は飯山陽さん。初めて知った著者でしたが、新潮新書『イスラム教の論理』という書籍も出している方でして、私の勉強不足でした。表紙カバーに記載されている著者の紹介は以下の通りです。ツイッターでも発信しているようです。

さて、内容ですが、私が店頭で見て魅かれたのは、そのタイトルです。イスラム2.0とは何だろうかということでした。そこで中身をみると42頁に次のようにかかれていました。
2000年以降、ジハード主義が世界中で急速に拡大した背景にあるのは「イスラム2.0」であると私は考えています。イスラム2.0とは、ここ10年ほどの間に世界で発生したイスラム教に関わるような様々な事象を解釈するために、私が創出した分析概念です。
この概念においてイスラム教は、「イスラム教についての知識」というOSを搭載し、それに従って考えたり行動したりする存在だととらえられます。イスラム教が勃興した七世紀からインターネットが普及するまでの約1400年間にわたり、イスラム教徒たちが搭載してきた「イスラム教についての知識」が、OS1.0です。インターネットが一般に普及し検索エンジンやSNS、動画サイトなどが登場した2000年代初頭から、そのイスラム1.0が2.0へとアップデートしています。現在は、世界中のイスラム教徒の脳内OSが2.0に更新されつつある移行期、というのが私の認識です。

つまり「イスラム2.0」というのは著者が創出した分析手法ということです。中々面白い発想だと思いました。1400年もの間伝えられてきたイスラム教徒たちの伝統的な社会の今をITの世界でのOSという概念に例えて考察しようとしているのです。

分析手法は分かりました。その方法でどのような分析がなされたのでしょうか。詳しい内容をここで書いてしまうと販売を妨害してしまいます(笑)。詳しいことを知りたければ、この本を買って読んでみてください。新書版ですので税別で880円という手軽に買える価格です。

要は、1.0のOS時代には、一人一人のイスラム教徒に本当のイスラムの教えが正確にが伝えられていなかった。イスラムの知識は一部の法学者たちの独占販売的なものであって、それを皆鵜呑みにしてきたのだった。しかし、現在のイスラム教徒の脳内にはOS2.0を搭載するようになったので、イスラム法学者のいうことだけを信じるような世界ではなくなったというのである。

これまでコーランの内容を事細かく知って理解するのは難しかったが、いまではインターネットを使えばコーランの内容を誰もが知ることができて、自分で内容を理解することができるようになっているという。その結果、イスラムに対する考え方が覚醒された結果が現在のイスラムの背景であるという。世界中で多発しているテロ事件、ジハードを実行するイスラム教徒の背景にはOS2.0による、彼らの周りの環境変化があるという。

まだ最後まで読み終えていないのであるが、十分面白い本です。また、私の知らない面での情報が沢山あって新鮮でもあります。中東・イスラム世界に関心がある人は是非とも読んで頂きたいものです。そして、ご自分で考えてみてください。

狂った世界

 

これは7月25日の中日新聞の記事である。米軍機2機がイランの旅客機に接近したために、旅客機が急降下した。それにより乗客に負傷者がでたという記事である。記事が伝えているように、負傷者の様子が動画でも流れたのを私もネットで見たのである。旅客機がテロリストに武器を運んでいるので、同航空に制裁を課しているとも記している。一般乗客を巻き込む大惨事になるおそれのあることを米国は行っている。イランの新聞は接近した米軍機の画像をトップにアップしている。抗議の応酬だけで大事には至らなかったがキナ臭い話である。

いま、中国と米国との関係も悪化している。在米中国領事館、在中アメリカ領事館が相互に閉鎖の応酬をおこなったようにここでも緊張が高まっている。そして、イランでは軍事や核施設、工場などで大規模な火災や爆発が止まらないと、29日の中日新聞は報じている。6月下旬以降に少なくとも12件発生しており、当局は「事故」と説明しているようである。しかしながら、それは表向きの発表であり、裏では外国勢力の関与が取りざたされているのである。

コロナが一向に収束の方向に向かわない世界の中で、団結してコロナに立ち向かう何の姿勢も見せないのが今の世界だ。協力どころか今後開発される期待のワクチンを自国で確保しようと競争する姿は醜悪である。世界の指導者はこんな時こそ、穏やかな社会を築こうと手をつなぐべきではないのだろうか。我が国も同類である。コロナの最中に旅行に行けという政府。温泉に入って仕事するのもいいよと「ワーケイション?」などという政府。どこか狂っていないだろうか。

「アヤソフィアのモスク化」のその後

このブログで、7月13日にトルコ政府がアヤソフィアをモスクにする決定をしたことを書きました。今回は、そのアヤソフィアにて初の金曜礼拝が行われたという新聞記事(7月25日・中日新聞)を紹介します。モスクに変更されたアヤソフィアで24日に初の金曜礼拝が行われ、エルドアン大統領も出席したと報じている。トルコ国内でも賛否両論があり、複雑な問題ではある。アヤソフィアで礼拝できることを素直に嬉しく思うムスリムがいる。これは極めて自然なことであろう。一方で、イスタンブール市内にはすでに三千近いモスクがあり、市民の間には「礼拝時にほとんど人がいないモスクもあるのに、なぜこれ以上必要なのか」という声もあるそうだ。モスクとしての機能だけを求めるなら、モスク化は必然性がないとも言えよう。また、アヤソフィアに訪れる観光客から得る収入は大きいので、外貨獲得という面ではマイナスであろうとも。今後もこれまでのように観光ツアーも入れるようであるが、礼拝時だとかイスラムの行事のときを避けるようなツアースケジュールを強いられるようである。

時代の流れとアヤソフィア:
537年・・・・ ギリシャ正教の重要な聖堂として建設
1453年・・・   オスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼす
1453年・・・・アヤソフィアがモスクに転用された
1934年・・・・トルコ政府が博物館とする閣議決定
2020年・・・・行政裁判所がその決定を無効と判断しモスクとなった

オスマン帝国が第一次大戦で敗れ、新生トルコが誕生した。一時はセーブル条約でトルコの領土分割が行われたが、立ち上がったケマルが連合国側と再交渉してローザンヌ条約にこぎつけて、今のトルコを築き上げた。ケマルの頭にはトルコの将来のためには民族や宗教ということにとらわれない国家を描いていた。従って政教分離をすすめた。イスラム世界でいう世俗化である。もっと言えば、極端であるが、トルコにいるのは皆トルコ人である。クルド人はいない。クルド人はトルコ語を忘れた山岳トルコ人であるといった。民族や宗教に関係なく国民国家というようなものを作ろうとしたのだった。当然イスラム色は排除である。
ところが時代の流れと共に、世界中が変化してきた。イスラム世界ではイスラム復興の掛け声が高まった。イランでは革命によってイスラム共和国が生まれた。・・・・エルドアン大統領が率いるトルコではイスラム色の強い政策が進められてきた。今回のアヤソフィアのモスク化はモスクとしての必然性などとは関係なく政治的なパフォーマンスなのである。求心力が弱くなった指導者は極端な政策をとって注意を我に引き寄せようとする。アメリカのトランプもそうである。彼が大統領になって以後、やりたい放題である(特に米大使館のエルサレム移転)。それでもそれを指示する層がいるのである。

今回のアヤソフィア問題では前回心配だと書いた「モザイクの壁画」が布で隠されることになるようである。破壊されなくてホッとしているのである。

 

 

中東の美:ラスター彩の輝き

前回、白瑠璃碗、つまりガラス器を取り上げたので、今回も焼き物を取り上げよう。今回はガラスではなくと陶器やタイルである。冒頭の画像はINAXライブミュージアム「世界のタイル博物館」コレクションを紹介している小冊子『ラスター彩タイル』の表紙である。副題として「天地水土の輝き」とある。発行は2013年9月である。ラスター彩とはなんであろうか。この小冊子では「ラスター彩は器の表面に描かれた図柄が金属的な輝きを呈する陶器の彩画技法で、イスラーム地域で特に発展した。」と説明されている。そしてINAX社が集めた12世紀~13世紀に焼かれた美しいタイルが紹介されている。無断転載は禁止なのでここに紹介はできなくて残念であるが、INAXのホームページから見ることができるのではないだろうか。ところで、ラスター彩は金属的な輝きをいかにして発光させているのだろうか。インターネットでは以下のように説明されていた。

ラスター彩とは:
① ウィキペディア
ラスター彩(ラスターさい、Lusterware)とは、焼成した白い錫の鉛釉の上に、銅や銀などの酸化物で文様を描いて、低火度還元焔焼成で、金彩に似た輝きを持つ、9世紀-14世紀のイスラム陶器の一種。ラスター(luster)とは、落ち着いた輝きという意味。
② 大辞林 第三版
イスラム陶器の一。スズ白釉はくゆうをかけて焼いた素地きじに銀・銅などの酸化物で文様を描き低火度で焼成したもの。金属的輝きをもつ。
③ 百科事典マイペディア
陶器の表面に金属や金属酸化物のフィルム状の被膜を600〜800℃の低火度で焼きつけ,真珠風の光沢や虹彩(こうさい)を出した焼物。この技法は9世紀にメソポタミアで始まったといわれ,次いでエジプトで発達し,のち12,13世紀のペルシア陶器に多く用いられた。
④ 世界大百科事典 第2版
陶器の釉薬において金属酸化物に起因する輝き,あるいはこの輝きをもつタイプのイスラム陶器をいう。日本では〈虹彩手〉〈きらめき手〉と呼ばれている。技法的には,スズ釉による白色陶器(素地を青緑,藍彩にする例もある)に銀,銅酸化物(硝酸銀,硫化銅)を含む顔料で絵付をし,低火度還元炎で再度焼成する。呈色は黄金色が多いが,釉薬の成分,焼成温度などによって微妙に変化するので,黄褐色,赤銅色を呈することもある。 ラスター彩の技法は9世紀にメソポタミアで創始され,次いでエジプトに伝えられてファーティマ朝下で発達し,王朝滅亡後はイランに伝播した。

釉薬に金属、特に錫を混ぜるような技法であるらしい。かといって、そのように釉薬を調整すればできるというものではない。焼成の温度や陶土の質だとか、ラスター彩のあの本当の輝きを出すことは非常に難しいということだ。

これは私の手元にある1986年発行・保育社カラーブックス『ペルシャ陶器』500円の表紙である。著者は人間国宝の加藤卓男さんである。私の手元には2冊あり、もう一冊は表紙を広げると次のように著者のサインがある。陶器の作品に描かれる見慣れた銘のそばにペルシャ文字でتاکو کاتو と付記している。最初の تا の部分はちょっと変形させているようだが。著者の加藤卓男さんは、ペルシャ陶器のラスター彩に魅せられて、イランに通い、ついにラスター彩を復元することができた陶芸家なのである。岐阜県多治見市に1804年に開いた幸兵衛窯の第六代目である。現在は七代目の代になっている。幸兵衛窯では彼の作品やコレクションが見学できるので、私は時々訪れることがある。

この『ペルシャ陶器』によると釉薬のことや、イスラム模様のこと、各地域のラスター彩のことなどを知ることができる。

また、上の画像の『やきもののシルクロード』という書籍では加藤卓男さんが追い求めたペルシャ陶器のことを味のある文章と絵で著している。素晴らしい書籍である。彼はペルシャ風の絵をうまく描いており。陶板も数多く製作しており、幸兵衛窯では買い求めることができる。

最後は圧巻の『ラスター彩陶・加藤卓男作品集』を紹介して終わろう。

著作権に触れるといけないので遠慮して作品集の写真の中の一枚だけアップさせてもらおうとするのだが、一枚を選ぶのが非常に難しい。読者はどうかネットの中で、検索して彼の作品をご覧いただきたい。いや実際に幸兵衛窯に行って、本物をみていただきたいものである。

 

 

 

 

書籍紹介:正倉院ガラスは何を語るか

今回紹介する本は冒頭の中公新書・由水常雄著『正倉院ガラスは何を語るか』である(2009年発行ですが、今でも新鮮な内容です)。副題として「白瑠璃椀に古代世界が見える」がついている。私を含め多くの日本人はシルクロードが好きである。遠い昔、西域のほうからラクダやロバを率いた隊商が異国情緒豊かな洗練された物品を運んできた。その頃は唐であったろうか、中国からはシルクが運ばれていった。シルクロードの貿易産物は奈良の都にも届いたのであった。毎年秋に開催される正倉院展には多くのシルクロードファンが押し寄せる。

正倉院所蔵物の中でも有名な物の一つがガラスの瑠璃碗であろう。子供の時に美術の教科書で見たような気がする。あるいは歴史の教科書であったかもしれない。シルクロードの長い道のりを経て、日本までやってきた浪漫を感じさせる碗であった。

本書の冒頭には次のように書かれている。
奈良の東大寺正倉院に奈良時代から今日まで伝えられてきた多くの宝物は、世界最高の文化遺産として、わが国はもちろんのこと世界中の人々によって、驚異の遺宝として、称賛されている。そして、これらの宝物のなかでもとりわけ美しく、華やかなロマンをたたえているのが、異国情緒満載のガラス器類である。東大寺正倉院には、現在六点のガラス器が宝蔵されている。いずれも外国からもたらされた外来文化を象徴するガラス器である。1965年に発行された正倉院ガラスの正式な学術調査報告書、正倉院に事務所編『正倉院のガラス』(日本経済新聞社)によるとそれら六点のガラス器については、「瑠璃唾壺(るりだこ)こそ平安中期の奉献である確証はあるが、他のガラス容器はその性格が天平勝宝(てんぴょうしょうほう)4年のものと見ても別段さしつかえあるとは考えられない。」と解説している。この天平勝宝4年(752年)には、東大寺の大仏がほと完成して、盛大な大仏開眼供養会が開催された。国内外から多数の参拝者が訪れ、外国の要人たちからも多くの宝物類が奉献された。この報告書『正倉院のガラス』に基づいて、中学、高校の歴史教科書をはじめ、百科事典等の辞典類にも、この記述が一般化されていて、今日に至るまで、これが正倉院ガラス器の一般通念となってきたのであった。

私が子供の頃に見たと先述したのは間違いではなかったようだ。本書の内容を知ってもらうために目次の画像を以下にアップしてみよう。



正倉院に宝蔵されている白瑠璃碗についての説明、それがササン朝時代の経済活動によって日本にたどり着いた経緯などが第1章、第2章で知ることができる。そして、本書の魅力は白瑠璃碗が正倉院に辿り着くまでの数奇な運命のような道のりを解き明かしたことである。まるで、サスペンスドラマや推理小説を読むような感じであった。ガラス器であるから構造的なちょっと難しい部分もあったり、中央アジアのガラス製作の工房などをたずねるのも、サスペンスドラマで犯人の足取りを辿るような感覚であった。あの白瑠璃碗はずっと正倉院に存在していたのではなかったのである。保存されている物のリストがいくつかの時代に作成されており、著者はそれを綿密に調べた結果が述べられている。詳しいことを書くとドラマの結末になるので、そこまでにしよう。

白瑠璃碗が何処で制作されたのか?についても著者はきめ細かな調査・考察を重ねている。東京大学東洋文化研究所教授、深井博士の説によると製作地はシリアやエジプトなどのローマ帝国の東方領ではなくて、イラン高原の古代オリエントの伝統が濃厚に残っていた地方(ギラーン州)と推定、製作年代は三世紀以降七世紀以前とされている(34頁)。しかしながら、著者はギラーン州は製作地として考えることもできようが、古代貿易ルートの集荷地と考えることのほうがより妥当性があろうとして、実際の製作地は現在のイラクのキッシュであると推定しているのである。


ギラーン州が白瑠璃碗の製作地あるいは交易で栄えた集積地であったとする両者の見解について、私は「えっ」と思ったのではある。このブログでも私は何度かギラーン州(私はギーラーン州と書きます。ペルシャ語の記載は گیلان  ですから)のことを書いています。そこでゲットした壺のことも書きましたね。しばらく住んでいたところなので、古代オリエントの伝統が濃厚に残っているような土地だとは思ったこともなかったのです。またカスピ海があるので船による交易はある程度盛んではありますが、南をエルブルズの山脈で阻まれたこの地域はそれほど交易で栄えた地域とは思っていないのです。でも実際に白瑠璃碗がここでも見つかっているとのことなので、改めてこの地域に対する興味が湧いてきました。今度行ったときにバザールの奥の方で探してみたりしてみたいものです。この白瑠璃碗は世界で2000個程発見されているとのこと。そこで著者はキッシュでは組織だった工房のもとで厳格に管理された状態で大量に生産できるシステム、技術があったとしています。

 

そして、実際に白瑠璃碗を複製したというのである。ここで、私はこの著者の本気度に感心したのであった。はじめ、ササン朝ペルシャから伝来したガラス器を愛でて、その背景となったペルシャの世界に夢を膨らませる内容だと思っていたのが、違った。面白かった。そして、復元ができているなら買うこともできるのだろうか?と思うのは当然である。インターネットで検索すると、ありました。ヤフーオークションにもでていました。楽天ショッピングにもあったかな。いずれにせよ、この著者が監修して作られた作品があるのです。そういうことなのです。

トルコ政府が「アヤソフィアのモスク化」を決定

昨日のニュースでトルコのアヤ・ソフィアがモスク化されることになったと報じられました。世界各国から批判的なコメントが出ていることも。トルコに旅行されたなら、イスタンブールで必ず訪れる名所です。近くのスルタン・ハフメドモスクと共に多くの人が訪れるところです。このアヤ・ソフィアについて岩波書店発行の『新イスラム事典』は次のように記しています。

537年ビザンティン皇帝ユスティニアヌス1世によって首都コンスタンティノープルに造営されたギリシャ正教会の最も重要な聖堂。直径32m、高さ54mの大ドームを中心にすえ、内部はモザイクで覆われた。1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国に征服されると、ただちにモスクに改造された。16世紀の建築家シナンは、このビザンティン建築の最高傑作をしのぐために苦心した末、スレイマニエ・モスクなどトルコ・イスラム建築の傑作を残した。19世紀末にアヤ・ソフィアをギリシア正教会に復帰させようとの国際世論もあったが、1935年にトルコ共和国政府によって博物館とされた。近年、イスラム復興運動の高まりにより、博物館の一角がモスクとしても使われている。

建築家シナンのことは、このブログでも書いたことがある。気になる方は、目次から検索して遡って読んで頂きたい。もともとキリスト教徒であったシナンではあったが、イスラムに改宗し、そして、イスラム建築の傑作を生みだしたのである。

キリスト教会から転用したために、モスクとなったアヤ・ソフィアでは内部のモザイクの人物の部分を塗りつぶしたのであった。博物館となったアヤ・ソフィアではその部分をはがして元のモザイク画を見ることができる。それが次の写真である。もう、20年ほど前に私が学生をつれて旅行した時に写したものである。

今回のニュースを聞いて私が思うのは、アヤ・ソフィアをモスクにすることの是非ではない。オスマン帝国の人々が奪い取った領土にあった宗教施設を自分たちの宗教に合わせて利用したのなら非難はできまい。まして、その後の時代の流れに応じて、博物館としての扱いをしたことも讃えられることではないだろうか。しかし、今回の決定によって、アヤ・ソフィアの先ほどお示ししたような露わになっていたモザイク画がどう扱われるのかということが心配である。

私自身はイスラムの精神は寛容である(寛容な宗教であるとは言わない)と思っている。しかし、偶像崇拝を嫌うためにバーミアンなど各地で貴重な文化財を破壊したイスラム教徒と称する連中と同じようなことをして欲しくないのである。イスラムの寛容さを見てみたいのである。

サウジアラビア映画:少女は自転車にのって

冒頭の画像でお分かりのように、今回は映画の紹介です。サウジアラビア映画なのでちょっと珍しいのではないでしょうか。でも、日本語の字幕が入って、日本で上映された映画でして、私は3年ほど前にDVDを入手しています。

あらすじは、DVDのカバー(上の画像)にこのように書かれています。「サウジアラビアの首都リヤドに住む10歳のおてんば少女、ワジダ。彼女は男友達のアブドゥラと自転車競走がしたくて、母親に懇願するが、サウジアラビアでは女性が自転車に乗ることさえも良しとしない戒律がある為に、全く相手にされない。そんなある日、素敵な自転車を見つけ、いつか手に入れることを誓う。そして、必死にアルバイト代を稼ぐが、自転車代には程遠い。諦めかけていたそんな時、学校でコーラン暗唱コンテストが行われることになったのだ。コーランは大の苦手のワジダだったが、その優勝賞金で自転車を買うために迷わず立候補するが・・・」

カバーのあらすじはここまでである。また、インターネットの映画紹介のサイトでも書かれているあらすじはこの程度である。これが映画や販売されているDVDに対する礼儀なのであろう。従って私もそれ以上のあらすじを書くのは控えることにする。映画紹介のサイトを見ていると、偶然に7月5日から10日まで東京の岩波ホールで、この映画が上映されることになっている。まさにタイムリーな投稿になった。

さて、この作品はサウジアラビア初の女性監督によるものである。女性だから珍しいということではなく、サウジアラビアという社会環境に置かれた女性の視点で作られたのであろうと期待するのである。そして、この監督自身はドイツで活躍しているとのこと。でも、この作品はサウジアラビアで撮影されているということなので、見ることのできないサウジの風景を知ることができるのである。

反体制運動などの芽が出ないようにということなのか、集会などが禁止されているサウジアラビアでは、1970年代には認められていた映画館営業が禁止になっていた。2018年にはそれが解禁になったというが、どの程度普及したのかなどの現状は私には分からない。

いずれにせよ、サウジアラビアの映画がみえることは数少ないチャンスであろう。

ペルシャ語講座17:動詞の未来形

今回はちょっと前に進めて、動詞の未来形を取り上げましょう。例えば「私は明日大阪に行きます」を英語では「I will go to Osaka tomorrow/」と未来形のwill goを使います。英語ではwillを使うわけです。ペルシャ語では未来形を表す助動詞として خواستنを使います。語幹は  خواه です。また、go に相当するのは raftan です。語幹はravです。ちょっと整理してみましょう。

その前に、動詞の形について以前にも書いていますが、もう一度きちんと説明しておきましょう。動詞は先ずは基本となる形があります。私は動詞の基本形または原形といっていますが、参考書では不定法や不定詞や不定形という場合が多いです。その動詞の基本形の末尾は ن -an となっています。更に تن  tan、 دن  -dan、 یدن -idan の3つに分けられます。つまり動詞の基本形は〇〇タン、〇〇ダン、〇〇ディダンの3通りしかないということです。

そして、動詞の基本形から  ن -an を取り除いたものが過去形の基本形となります。この基本形に人称別の語尾をつけると過去形ができます。過去語幹とでも名付けましょう。

基本形 過去語幹
 go رفتن raftan رفت raft
 give دادن dadan داد dad
 ask پرسیدن porsidan پرسید porsid

未来形から話がずれていきますが、ついでに現在形です。

基本形 現在語幹
 go رفتن raftan رو rav
 give دادن dadan ده dah
 ask پرسیدن porsidan پرس pors

ちょっとややこしいのですが、動詞の基本形とともに、語幹というのがあります。これは覚えなければなりません。掛け算の九九を覚えるように口ずさんんで覚えるようなものです。例えば go なら、raftan–rav,  give ならdadan–dah, askならporsidan–porという風にです。そして、現在形を作る場合には必ず mi میを前につけます。 私は行く= miravamとなるわけです。あなたは行く=miraviですね。話し言葉では必ずしもこの通りの発音ではありませんが(miravam➡miram,  miravi➡miri)、先ずは基本を身に着けるのが先でしょう。先ほどの過去語幹に対して現在語幹と名付けておきましょう。

さて未来形です。先ほどخواستن を使うと言いました。خواستن の語幹は خواه です。下の表に go の現在形と未来形を記入しました。現在形は動詞の語幹に人称語尾をつけました。未来形はخواهの末尾に人称語尾をつけて、あとはすべてraftで良いわけです。覚えやすいのではないでしょうか。

 I go miravam میروم I will go خواهم رفت
 You go miravi میری you will go خواهی رفت
 He goes miravad میرود He will go خواهد رفت
 We go miravim میرویم We will go خواهیم رفت
 You go miravid میروید You will go خواهید رفت
 They go miravand میروند They will go خواهند رفت

簡単に説明しましたが、それほど難しいものではありませんね。また、否定形の場合は خواه の前にن naをつけて下さい。 نخوا となりますから、I will not goなら نخواهم رفت となります。na khaham raf です。

最後になりますが、私自身は殆ど未来形を使って話したことはありません。ほとんど現在形で用は足せたと思うのです。最初に書いて例文の「明日、大阪に行きますなら」「Fardo be Ozaka miravam」で良いと思います。

 

コーランについて(2):第96章・・・凝血

コーランはイスラムの創始者ムハンマドが神からうけた啓示を編纂したものである。ムハンマドが最初に啓示を受けた部分がこの章に綴られている。それゆえ、コーランの中でも重要な章である。

慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名(みな)において・・   (ここの部分は全部の章の初めについている。今後、この部分は省略する。)

  1. 誦め、おまえの主の御名において、(森羅万象)を創造し給うた(主の御名において)、
  2. (つまり)彼は人間を凝血から創造し給うた。
  3. 誦め、そしておまえの主は最も気前よき御方であり、
  4. 筆によって(書くことを)教え給うた御方であり、
  5. (つまり)人間に彼の知らなかったことを教え給うた(御方)である。
  6. ・・・・19節まで続く

訳文は前回も引用させていただいた作品社の『日亜対訳クルアーン』からである。森羅万象ありとあらゆるものを創造したのは神であり、人間に人間の知らなかったことを教えたのも神であるという。啓示の始めに相応しい章句であると思う。

冒頭の句=誦め の読み方は「よめ」である。神の啓示を伝えた大天使ジブリールが「よめ」と言うと、ムハンマドは「私は読むことができません」と言ったとか?この天使のジブリールはキリスト教ではガブリエルと呼ばれる天使のことである。そして、ムハンマドの「誦めません」という答えに対して、ジブリールはさらに「誦め」と言ったのが第3節である。

つまり、ムハンマドは読み書きができない人であったらしい。それゆえに神から与えられた啓示を記録することもできないので、記憶を頼りに啓示を伝えることは至難の業であったろうと思う。そして、コーランが編纂されたのは、彼の死後の正統カリフ三代目ウスマーンの頃である。生前にムハンマドが伝えた啓示を取りまとめるという作業はさぞかし大変だったことだろう。