狂った世界

 

これは7月25日の中日新聞の記事である。米軍機2機がイランの旅客機に接近したために、旅客機が急降下した。それにより乗客に負傷者がでたという記事である。記事が伝えているように、負傷者の様子が動画でも流れたのを私もネットで見たのである。旅客機がテロリストに武器を運んでいるので、同航空に制裁を課しているとも記している。一般乗客を巻き込む大惨事になるおそれのあることを米国は行っている。イランの新聞は接近した米軍機の画像をトップにアップしている。抗議の応酬だけで大事には至らなかったがキナ臭い話である。

いま、中国と米国との関係も悪化している。在米中国領事館、在中アメリカ領事館が相互に閉鎖の応酬をおこなったようにここでも緊張が高まっている。そして、イランでは軍事や核施設、工場などで大規模な火災や爆発が止まらないと、29日の中日新聞は報じている。6月下旬以降に少なくとも12件発生しており、当局は「事故」と説明しているようである。しかしながら、それは表向きの発表であり、裏では外国勢力の関与が取りざたされているのである。

コロナが一向に収束の方向に向かわない世界の中で、団結してコロナに立ち向かう何の姿勢も見せないのが今の世界だ。協力どころか今後開発される期待のワクチンを自国で確保しようと競争する姿は醜悪である。世界の指導者はこんな時こそ、穏やかな社会を築こうと手をつなぐべきではないのだろうか。我が国も同類である。コロナの最中に旅行に行けという政府。温泉に入って仕事するのもいいよと「ワーケイション?」などという政府。どこか狂っていないだろうか。

「アヤソフィアのモスク化」のその後

このブログで、7月13日にトルコ政府がアヤソフィアをモスクにする決定をしたことを書きました。今回は、そのアヤソフィアにて初の金曜礼拝が行われたという新聞記事(7月25日・中日新聞)を紹介します。モスクに変更されたアヤソフィアで24日に初の金曜礼拝が行われ、エルドアン大統領も出席したと報じている。トルコ国内でも賛否両論があり、複雑な問題ではある。アヤソフィアで礼拝できることを素直に嬉しく思うムスリムがいる。これは極めて自然なことであろう。一方で、イスタンブール市内にはすでに三千近いモスクがあり、市民の間には「礼拝時にほとんど人がいないモスクもあるのに、なぜこれ以上必要なのか」という声もあるそうだ。モスクとしての機能だけを求めるなら、モスク化は必然性がないとも言えよう。また、アヤソフィアに訪れる観光客から得る収入は大きいので、外貨獲得という面ではマイナスであろうとも。今後もこれまでのように観光ツアーも入れるようであるが、礼拝時だとかイスラムの行事のときを避けるようなツアースケジュールを強いられるようである。

時代の流れとアヤソフィア:
537年・・・・ ギリシャ正教の重要な聖堂として建設
1453年・・・   オスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼす
1453年・・・・アヤソフィアがモスクに転用された
1934年・・・・トルコ政府が博物館とする閣議決定
2020年・・・・行政裁判所がその決定を無効と判断しモスクとなった

オスマン帝国が第一次大戦で敗れ、新生トルコが誕生した。一時はセーブル条約でトルコの領土分割が行われたが、立ち上がったケマルが連合国側と再交渉してローザンヌ条約にこぎつけて、今のトルコを築き上げた。ケマルの頭にはトルコの将来のためには民族や宗教ということにとらわれない国家を描いていた。従って政教分離をすすめた。イスラム世界でいう世俗化である。もっと言えば、極端であるが、トルコにいるのは皆トルコ人である。クルド人はいない。クルド人はトルコ語を忘れた山岳トルコ人であるといった。民族や宗教に関係なく国民国家というようなものを作ろうとしたのだった。当然イスラム色は排除である。
ところが時代の流れと共に、世界中が変化してきた。イスラム世界ではイスラム復興の掛け声が高まった。イランでは革命によってイスラム共和国が生まれた。・・・・エルドアン大統領が率いるトルコではイスラム色の強い政策が進められてきた。今回のアヤソフィアのモスク化はモスクとしての必然性などとは関係なく政治的なパフォーマンスなのである。求心力が弱くなった指導者は極端な政策をとって注意を我に引き寄せようとする。アメリカのトランプもそうである。彼が大統領になって以後、やりたい放題である(特に米大使館のエルサレム移転)。それでもそれを指示する層がいるのである。

今回のアヤソフィア問題では前回心配だと書いた「モザイクの壁画」が布で隠されることになるようである。破壊されなくてホッとしているのである。

 

 

中東の美:ラスター彩の輝き

前回、白瑠璃碗、つまりガラス器を取り上げたので、今回も焼き物を取り上げよう。今回はガラスではなくと陶器やタイルである。冒頭の画像はINAXライブミュージアム「世界のタイル博物館」コレクションを紹介している小冊子『ラスター彩タイル』の表紙である。副題として「天地水土の輝き」とある。発行は2013年9月である。ラスター彩とはなんであろうか。この小冊子では「ラスター彩は器の表面に描かれた図柄が金属的な輝きを呈する陶器の彩画技法で、イスラーム地域で特に発展した。」と説明されている。そしてINAX社が集めた12世紀~13世紀に焼かれた美しいタイルが紹介されている。無断転載は禁止なのでここに紹介はできなくて残念であるが、INAXのホームページから見ることができるのではないだろうか。ところで、ラスター彩は金属的な輝きをいかにして発光させているのだろうか。インターネットでは以下のように説明されていた。

ラスター彩とは:
① ウィキペディア
ラスター彩(ラスターさい、Lusterware)とは、焼成した白い錫の鉛釉の上に、銅や銀などの酸化物で文様を描いて、低火度還元焔焼成で、金彩に似た輝きを持つ、9世紀-14世紀のイスラム陶器の一種。ラスター(luster)とは、落ち着いた輝きという意味。
② 大辞林 第三版
イスラム陶器の一。スズ白釉はくゆうをかけて焼いた素地きじに銀・銅などの酸化物で文様を描き低火度で焼成したもの。金属的輝きをもつ。
③ 百科事典マイペディア
陶器の表面に金属や金属酸化物のフィルム状の被膜を600〜800℃の低火度で焼きつけ,真珠風の光沢や虹彩(こうさい)を出した焼物。この技法は9世紀にメソポタミアで始まったといわれ,次いでエジプトで発達し,のち12,13世紀のペルシア陶器に多く用いられた。
④ 世界大百科事典 第2版
陶器の釉薬において金属酸化物に起因する輝き,あるいはこの輝きをもつタイプのイスラム陶器をいう。日本では〈虹彩手〉〈きらめき手〉と呼ばれている。技法的には,スズ釉による白色陶器(素地を青緑,藍彩にする例もある)に銀,銅酸化物(硝酸銀,硫化銅)を含む顔料で絵付をし,低火度還元炎で再度焼成する。呈色は黄金色が多いが,釉薬の成分,焼成温度などによって微妙に変化するので,黄褐色,赤銅色を呈することもある。 ラスター彩の技法は9世紀にメソポタミアで創始され,次いでエジプトに伝えられてファーティマ朝下で発達し,王朝滅亡後はイランに伝播した。

釉薬に金属、特に錫を混ぜるような技法であるらしい。かといって、そのように釉薬を調整すればできるというものではない。焼成の温度や陶土の質だとか、ラスター彩のあの本当の輝きを出すことは非常に難しいということだ。

これは私の手元にある1986年発行・保育社カラーブックス『ペルシャ陶器』500円の表紙である。著者は人間国宝の加藤卓男さんである。私の手元には2冊あり、もう一冊は表紙を広げると次のように著者のサインがある。陶器の作品に描かれる見慣れた銘のそばにペルシャ文字でتاکو کاتو と付記している。最初の تا の部分はちょっと変形させているようだが。著者の加藤卓男さんは、ペルシャ陶器のラスター彩に魅せられて、イランに通い、ついにラスター彩を復元することができた陶芸家なのである。岐阜県多治見市に1804年に開いた幸兵衛窯の第六代目である。現在は七代目の代になっている。幸兵衛窯では彼の作品やコレクションが見学できるので、私は時々訪れることがある。

この『ペルシャ陶器』によると釉薬のことや、イスラム模様のこと、各地域のラスター彩のことなどを知ることができる。

また、上の画像の『やきもののシルクロード』という書籍では加藤卓男さんが追い求めたペルシャ陶器のことを味のある文章と絵で著している。素晴らしい書籍である。彼はペルシャ風の絵をうまく描いており。陶板も数多く製作しており、幸兵衛窯では買い求めることができる。

最後は圧巻の『ラスター彩陶・加藤卓男作品集』を紹介して終わろう。

著作権に触れるといけないので遠慮して作品集の写真の中の一枚だけアップさせてもらおうとするのだが、一枚を選ぶのが非常に難しい。読者はどうかネットの中で、検索して彼の作品をご覧いただきたい。いや実際に幸兵衛窯に行って、本物をみていただきたいものである。

 

 

 

 

書籍紹介:正倉院ガラスは何を語るか

今回紹介する本は冒頭の中公新書・由水常雄著『正倉院ガラスは何を語るか』である(2009年発行ですが、今でも新鮮な内容です)。副題として「白瑠璃椀に古代世界が見える」がついている。私を含め多くの日本人はシルクロードが好きである。遠い昔、西域のほうからラクダやロバを率いた隊商が異国情緒豊かな洗練された物品を運んできた。その頃は唐であったろうか、中国からはシルクが運ばれていった。シルクロードの貿易産物は奈良の都にも届いたのであった。毎年秋に開催される正倉院展には多くのシルクロードファンが押し寄せる。

正倉院所蔵物の中でも有名な物の一つがガラスの瑠璃碗であろう。子供の時に美術の教科書で見たような気がする。あるいは歴史の教科書であったかもしれない。シルクロードの長い道のりを経て、日本までやってきた浪漫を感じさせる碗であった。

本書の冒頭には次のように書かれている。
奈良の東大寺正倉院に奈良時代から今日まで伝えられてきた多くの宝物は、世界最高の文化遺産として、わが国はもちろんのこと世界中の人々によって、驚異の遺宝として、称賛されている。そして、これらの宝物のなかでもとりわけ美しく、華やかなロマンをたたえているのが、異国情緒満載のガラス器類である。東大寺正倉院には、現在六点のガラス器が宝蔵されている。いずれも外国からもたらされた外来文化を象徴するガラス器である。1965年に発行された正倉院ガラスの正式な学術調査報告書、正倉院に事務所編『正倉院のガラス』(日本経済新聞社)によるとそれら六点のガラス器については、「瑠璃唾壺(るりだこ)こそ平安中期の奉献である確証はあるが、他のガラス容器はその性格が天平勝宝(てんぴょうしょうほう)4年のものと見ても別段さしつかえあるとは考えられない。」と解説している。この天平勝宝4年(752年)には、東大寺の大仏がほと完成して、盛大な大仏開眼供養会が開催された。国内外から多数の参拝者が訪れ、外国の要人たちからも多くの宝物類が奉献された。この報告書『正倉院のガラス』に基づいて、中学、高校の歴史教科書をはじめ、百科事典等の辞典類にも、この記述が一般化されていて、今日に至るまで、これが正倉院ガラス器の一般通念となってきたのであった。

私が子供の頃に見たと先述したのは間違いではなかったようだ。本書の内容を知ってもらうために目次の画像を以下にアップしてみよう。



正倉院に宝蔵されている白瑠璃碗についての説明、それがササン朝時代の経済活動によって日本にたどり着いた経緯などが第1章、第2章で知ることができる。そして、本書の魅力は白瑠璃碗が正倉院に辿り着くまでの数奇な運命のような道のりを解き明かしたことである。まるで、サスペンスドラマや推理小説を読むような感じであった。ガラス器であるから構造的なちょっと難しい部分もあったり、中央アジアのガラス製作の工房などをたずねるのも、サスペンスドラマで犯人の足取りを辿るような感覚であった。あの白瑠璃碗はずっと正倉院に存在していたのではなかったのである。保存されている物のリストがいくつかの時代に作成されており、著者はそれを綿密に調べた結果が述べられている。詳しいことを書くとドラマの結末になるので、そこまでにしよう。

白瑠璃碗が何処で制作されたのか?についても著者はきめ細かな調査・考察を重ねている。東京大学東洋文化研究所教授、深井博士の説によると製作地はシリアやエジプトなどのローマ帝国の東方領ではなくて、イラン高原の古代オリエントの伝統が濃厚に残っていた地方(ギラーン州)と推定、製作年代は三世紀以降七世紀以前とされている(34頁)。しかしながら、著者はギラーン州は製作地として考えることもできようが、古代貿易ルートの集荷地と考えることのほうがより妥当性があろうとして、実際の製作地は現在のイラクのキッシュであると推定しているのである。


ギラーン州が白瑠璃碗の製作地あるいは交易で栄えた集積地であったとする両者の見解について、私は「えっ」と思ったのではある。このブログでも私は何度かギラーン州(私はギーラーン州と書きます。ペルシャ語の記載は گیلان  ですから)のことを書いています。そこでゲットした壺のことも書きましたね。しばらく住んでいたところなので、古代オリエントの伝統が濃厚に残っているような土地だとは思ったこともなかったのです。またカスピ海があるので船による交易はある程度盛んではありますが、南をエルブルズの山脈で阻まれたこの地域はそれほど交易で栄えた地域とは思っていないのです。でも実際に白瑠璃碗がここでも見つかっているとのことなので、改めてこの地域に対する興味が湧いてきました。今度行ったときにバザールの奥の方で探してみたりしてみたいものです。この白瑠璃碗は世界で2000個程発見されているとのこと。そこで著者はキッシュでは組織だった工房のもとで厳格に管理された状態で大量に生産できるシステム、技術があったとしています。

 

そして、実際に白瑠璃碗を複製したというのである。ここで、私はこの著者の本気度に感心したのであった。はじめ、ササン朝ペルシャから伝来したガラス器を愛でて、その背景となったペルシャの世界に夢を膨らませる内容だと思っていたのが、違った。面白かった。そして、復元ができているなら買うこともできるのだろうか?と思うのは当然である。インターネットで検索すると、ありました。ヤフーオークションにもでていました。楽天ショッピングにもあったかな。いずれにせよ、この著者が監修して作られた作品があるのです。そういうことなのです。

トルコ政府が「アヤソフィアのモスク化」を決定

昨日のニュースでトルコのアヤ・ソフィアがモスク化されることになったと報じられました。世界各国から批判的なコメントが出ていることも。トルコに旅行されたなら、イスタンブールで必ず訪れる名所です。近くのスルタン・ハフメドモスクと共に多くの人が訪れるところです。このアヤ・ソフィアについて岩波書店発行の『新イスラム事典』は次のように記しています。

537年ビザンティン皇帝ユスティニアヌス1世によって首都コンスタンティノープルに造営されたギリシャ正教会の最も重要な聖堂。直径32m、高さ54mの大ドームを中心にすえ、内部はモザイクで覆われた。1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国に征服されると、ただちにモスクに改造された。16世紀の建築家シナンは、このビザンティン建築の最高傑作をしのぐために苦心した末、スレイマニエ・モスクなどトルコ・イスラム建築の傑作を残した。19世紀末にアヤ・ソフィアをギリシア正教会に復帰させようとの国際世論もあったが、1935年にトルコ共和国政府によって博物館とされた。近年、イスラム復興運動の高まりにより、博物館の一角がモスクとしても使われている。

建築家シナンのことは、このブログでも書いたことがある。気になる方は、目次から検索して遡って読んで頂きたい。もともとキリスト教徒であったシナンではあったが、イスラムに改宗し、そして、イスラム建築の傑作を生みだしたのである。

キリスト教会から転用したために、モスクとなったアヤ・ソフィアでは内部のモザイクの人物の部分を塗りつぶしたのであった。博物館となったアヤ・ソフィアではその部分をはがして元のモザイク画を見ることができる。それが次の写真である。もう、20年ほど前に私が学生をつれて旅行した時に写したものである。

今回のニュースを聞いて私が思うのは、アヤ・ソフィアをモスクにすることの是非ではない。オスマン帝国の人々が奪い取った領土にあった宗教施設を自分たちの宗教に合わせて利用したのなら非難はできまい。まして、その後の時代の流れに応じて、博物館としての扱いをしたことも讃えられることではないだろうか。しかし、今回の決定によって、アヤ・ソフィアの先ほどお示ししたような露わになっていたモザイク画がどう扱われるのかということが心配である。

私自身はイスラムの精神は寛容である(寛容な宗教であるとは言わない)と思っている。しかし、偶像崇拝を嫌うためにバーミアンなど各地で貴重な文化財を破壊したイスラム教徒と称する連中と同じようなことをして欲しくないのである。イスラムの寛容さを見てみたいのである。

サウジアラビア映画:少女は自転車にのって

冒頭の画像でお分かりのように、今回は映画の紹介です。サウジアラビア映画なのでちょっと珍しいのではないでしょうか。でも、日本語の字幕が入って、日本で上映された映画でして、私は3年ほど前にDVDを入手しています。

あらすじは、DVDのカバー(上の画像)にこのように書かれています。「サウジアラビアの首都リヤドに住む10歳のおてんば少女、ワジダ。彼女は男友達のアブドゥラと自転車競走がしたくて、母親に懇願するが、サウジアラビアでは女性が自転車に乗ることさえも良しとしない戒律がある為に、全く相手にされない。そんなある日、素敵な自転車を見つけ、いつか手に入れることを誓う。そして、必死にアルバイト代を稼ぐが、自転車代には程遠い。諦めかけていたそんな時、学校でコーラン暗唱コンテストが行われることになったのだ。コーランは大の苦手のワジダだったが、その優勝賞金で自転車を買うために迷わず立候補するが・・・」

カバーのあらすじはここまでである。また、インターネットの映画紹介のサイトでも書かれているあらすじはこの程度である。これが映画や販売されているDVDに対する礼儀なのであろう。従って私もそれ以上のあらすじを書くのは控えることにする。映画紹介のサイトを見ていると、偶然に7月5日から10日まで東京の岩波ホールで、この映画が上映されることになっている。まさにタイムリーな投稿になった。

さて、この作品はサウジアラビア初の女性監督によるものである。女性だから珍しいということではなく、サウジアラビアという社会環境に置かれた女性の視点で作られたのであろうと期待するのである。そして、この監督自身はドイツで活躍しているとのこと。でも、この作品はサウジアラビアで撮影されているということなので、見ることのできないサウジの風景を知ることができるのである。

反体制運動などの芽が出ないようにということなのか、集会などが禁止されているサウジアラビアでは、1970年代には認められていた映画館営業が禁止になっていた。2018年にはそれが解禁になったというが、どの程度普及したのかなどの現状は私には分からない。

いずれにせよ、サウジアラビアの映画がみえることは数少ないチャンスであろう。

ペルシャ語講座17:動詞の未来形

今回はちょっと前に進めて、動詞の未来形を取り上げましょう。例えば「私は明日大阪に行きます」を英語では「I will go to Osaka tomorrow/」と未来形のwill goを使います。英語ではwillを使うわけです。ペルシャ語では未来形を表す助動詞として خواستنを使います。語幹は  خواه です。また、go に相当するのは raftan です。語幹はravです。ちょっと整理してみましょう。

その前に、動詞の形について以前にも書いていますが、もう一度きちんと説明しておきましょう。動詞は先ずは基本となる形があります。私は動詞の基本形または原形といっていますが、参考書では不定法や不定詞や不定形という場合が多いです。その動詞の基本形の末尾は ن -an となっています。更に تن  tan、 دن  -dan、 یدن -idan の3つに分けられます。つまり動詞の基本形は〇〇タン、〇〇ダン、〇〇ディダンの3通りしかないということです。

そして、動詞の基本形から  ن -an を取り除いたものが過去形の基本形となります。この基本形に人称別の語尾をつけると過去形ができます。過去語幹とでも名付けましょう。

基本形 過去語幹
 go رفتن raftan رفت raft
 give دادن dadan داد dad
 ask پرسیدن porsidan پرسید porsid

未来形から話がずれていきますが、ついでに現在形です。

基本形 現在語幹
 go رفتن raftan رو rav
 give دادن dadan ده dah
 ask پرسیدن porsidan پرس pors

ちょっとややこしいのですが、動詞の基本形とともに、語幹というのがあります。これは覚えなければなりません。掛け算の九九を覚えるように口ずさんんで覚えるようなものです。例えば go なら、raftan–rav,  give ならdadan–dah, askならporsidan–porという風にです。そして、現在形を作る場合には必ず mi میを前につけます。 私は行く= miravamとなるわけです。あなたは行く=miraviですね。話し言葉では必ずしもこの通りの発音ではありませんが(miravam➡miram,  miravi➡miri)、先ずは基本を身に着けるのが先でしょう。先ほどの過去語幹に対して現在語幹と名付けておきましょう。

さて未来形です。先ほどخواستن を使うと言いました。خواستن の語幹は خواه です。下の表に go の現在形と未来形を記入しました。現在形は動詞の語幹に人称語尾をつけました。未来形はخواهの末尾に人称語尾をつけて、あとはすべてraftで良いわけです。覚えやすいのではないでしょうか。

 I go miravam میروم I will go خواهم رفت
 You go miravi میری you will go خواهی رفت
 He goes miravad میرود He will go خواهد رفت
 We go miravim میرویم We will go خواهیم رفت
 You go miravid میروید You will go خواهید رفت
 They go miravand میروند They will go خواهند رفت

簡単に説明しましたが、それほど難しいものではありませんね。また、否定形の場合は خواه の前にن naをつけて下さい。 نخوا となりますから、I will not goなら نخواهم رفت となります。na khaham raf です。

最後になりますが、私自身は殆ど未来形を使って話したことはありません。ほとんど現在形で用は足せたと思うのです。最初に書いて例文の「明日、大阪に行きますなら」「Fardo be Ozaka miravam」で良いと思います。

 

コーランについて(2):第96章・・・凝血

コーランはイスラムの創始者ムハンマドが神からうけた啓示を編纂したものである。ムハンマドが最初に啓示を受けた部分がこの章に綴られている。それゆえ、コーランの中でも重要な章である。

慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名(みな)において・・   (ここの部分は全部の章の初めについている。今後、この部分は省略する。)

  1. 誦め、おまえの主の御名において、(森羅万象)を創造し給うた(主の御名において)、
  2. (つまり)彼は人間を凝血から創造し給うた。
  3. 誦め、そしておまえの主は最も気前よき御方であり、
  4. 筆によって(書くことを)教え給うた御方であり、
  5. (つまり)人間に彼の知らなかったことを教え給うた(御方)である。
  6. ・・・・19節まで続く

訳文は前回も引用させていただいた作品社の『日亜対訳クルアーン』からである。森羅万象ありとあらゆるものを創造したのは神であり、人間に人間の知らなかったことを教えたのも神であるという。啓示の始めに相応しい章句であると思う。

冒頭の句=誦め の読み方は「よめ」である。神の啓示を伝えた大天使ジブリールが「よめ」と言うと、ムハンマドは「私は読むことができません」と言ったとか?この天使のジブリールはキリスト教ではガブリエルと呼ばれる天使のことである。そして、ムハンマドの「誦めません」という答えに対して、ジブリールはさらに「誦め」と言ったのが第3節である。

つまり、ムハンマドは読み書きができない人であったらしい。それゆえに神から与えられた啓示を記録することもできないので、記憶を頼りに啓示を伝えることは至難の業であったろうと思う。そして、コーランが編纂されたのは、彼の死後の正統カリフ三代目ウスマーンの頃である。生前にムハンマドが伝えた啓示を取りまとめるという作業はさぞかし大変だったことだろう。

コーランについて(1):第1章・・・開端

2019年1月31日と2月1日に「イスラムの啓典:コーランについて(1)と(2)を書いています。あれからもう1年以上が経過したのですね。今後、時々になるでしょうが、コーランの中身について、少し詳しく取り上げてみようと思います。今回は第1章を取り上げましょう。

コーランの初めの章ですから、「開端」とか、「開扉」と訳されています。イスラム教徒の人たちは、この章を毎日の礼拝の時に唱えます。そうです、礼拝は毎日5回ですから、この章句も5回唱えることになります。コーランは全部で114の章で成っていますが、それぞれの章はいくつかの節で構成されています。この開端の章は7つの節でできています。最も短い章は108章でして、わずか3つの節しかありません。第1章が「開端」と名付けられているように、全ての章には名前が付けられています。追々紹介していきましょう。さて、開端の章ですが、日本語訳を紹介しておきましょう。訳は岩波文庫(井筒俊彦著)「コーラン」より。

慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名(みな)において・

  1. 讃えあれ、アッラー、万世(よろず)の主、
  2. 慈悲ふかく慈愛あまねき御神、
  3. 審き(さばき)の日の主宰者。
  4. 汝こそ我らはあがめまつる、汝にこそ救いを求めまつる。
  5. 願わくば我らを導いて正しき道を辿らし給え、
  6. 汝の御怒りを蒙る人びとや、踏みまよう人々の道ではなく、
  7. 汝の嘉し(よみし)給う人々の道を歩ましめ給え。

井筒先生の訳は文語調であるので現代人には少し難しいい気もします。そこで作品社(中田考監修)『日亜対訳クルアーン』の訳を以下に紹介してみましょう。

  1. 慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において
  2. 称賛はアッラーに帰す、諸世界の主に、
  3. 慈悲あまねく慈悲深き御方、
  4. 裁きの日の主宰者に、
  5. あなたにこそわれわは仕え、あなたにこそ助けを求める。
  6. われらを真っすぐな道に導き給え、
  7. あなたが恩寵を垂れ給うた者たち、(つまり)御怒りを被らず、迷ってもいない者たちの道に

こちらの訳にしても同じように難しく感じるかもしれないが、意味はお分かりいただけることでしょう。アッラー(神)がいて、我らは神に仕え、そして神は我らを導いてくださるようにという祈りの文言であろう。日本語訳を紹介したのであるが、日本語のこの訳文を唱えてもコーランを唱えたことにはならない。キリスト教の聖書は、日本語訳の物はそれはそれで日本語訳された聖書である。が、イスラムの場合はコーランが書かれたアラビア語で詠むことが必須なのである。おそらく、多くの言語に訳されていくうちに神の言葉の真意が伝わらなくなってしまうという危惧からそうなったのであろう(私見)。従って、貴方がイスラム教徒になったなら、コーランをアラビア語で唱えなければならないのです。せめて、この第1章だけは唱えられるようにしておきましょう。私はイスラム教徒ではありません。でも勉強はしています。この開端の章をアラビア書道で書いたものが次の画像です。これ一枚をまあまあ良しとして書けるまで3か月かかっています。それでもその前のナスヒー書体の時は6カ月もかかったのでした。

さて、今回はこれまでにしておきます。今後、どういう風に各章を取り上げていくか、大きな課題ができました。旧約聖書との関係なども面白いかなと思っています。お楽しみに!

 

中東の美:ペルシャ絨毯

これまで色々な記事を書いてきたので、ペルシャ絨毯についても既に書いた気がしていた。でも、そうではなかったようである。今回はそのペルシャ絨毯について書いてみよう。冒頭の画像は昔テヘランの書店で買った本の表紙である。タイトルが「Oriental Rugs and Carpets」であるから、ペルシャ絨毯だけでなく、中央アジア、例えばサマルカンドや中国の緞通などについても書かれているので、それぞれの特徴も分かるので興味深い書籍である。この本からいくつかの画像を拝借させて戴くことにする。

ペルシャ絨毯の場合は「織る」というよりも「結ぶ」という方が合っているかもしれない。縦糸に結び付けていく感じである。上の図の左側の列が「トルコ結び(Turkish knot)」と呼ばれる結び方である。上段は正面から見たもので、中断は上からセクション(断面)で見たもの、そして下段は縦糸2本に結び付ける方法である。右列は「ペルシャ結び(Persian knot)」と呼ばれる方式である。縦糸にこのように糸を結び付けて、それを道具をつかって上から下に押さえつけるように締め込むような感じと言えばいいだろうか。

絨毯織りに使う道具である。上の二つは縦糸の間に入れて、結んだ糸を下に抑え込むものであろう。あとは糸を切ったりするためのナイフや鋏類であろう。普通は次の画像のように絨毯を立てて織っていくわけである。大きなサイズのものを織る場合は、横に数人が並んで織ることもある。珍しい方式では、立てるのではなく水平において織っていく方法もある。

ペルシャ絨毯の美しさの要素の一つは色である。古い伝統をもつペルシャ絨毯は現代のような化学染料が存在しない時代からの産物である。従って、天然の染料で糸は染められた。もちろん今ではすべての絨毯が天然染料で染めた糸を使っているわけではないのは仕方ないことであろう。また糸の種類も絨毯の良し悪しに関係する。もともと古い時代から絨毯は生活の必需品であった。建物の中、テントの中・・・絨毯は日本でいえば畳に相当するわけである。だから、絨毯は華美や豪華さを求めるものではなかったはずである。私が最初に絨毯を買った場所はイランのシスタン州・ザヘダン市から、また車ではるか東のパキスタン国境に近い町ザボールで、1972年のことであった。その土地周辺のローカル色豊かな絨毯2枚ものであった。それの糸はウール(羊毛)であった。ウールの絨毯は実用的でそれで充分であった。あれから既に50年近く経ったことになる。

これがその50年前の絨毯である。古くなり色も褪せてきたが、絨毯としての役目は健在である。いわゆる高級なペルシャ絨毯の洗練された趣はないが、地方色豊かな人間味溢れる図柄であると思っている。愛着のある絨毯である。

ウールであると言った。他にはコットン糸(綿糸)の物もある。イランの北東部辺りのトルクマン達が織る絨毯は綿糸のものが多かったように思う。もちろん、ウールもある。さらに絹(シルク)もあるであろう。今、日本のお店でも、またイランに行って絨毯屋を除いても、目を引く美しい絨毯は「オール・シルク」ですと言われるだろう。本当に美しいのはそういう絨毯であることに間違いはない。多分、我々日本人が買うとなると、それは装飾品として求めるのであろうから、このような絨毯が望まれるのであろう。でも、絨毯は飾り物ではなく、やはり部屋に敷いて使ってもらいたいものだ。例えば次の画像のこの絨毯はオール・シルクの少々大きめのものである。オール・シルクの製品は見る角度によって光の反射の影響で色が濃くなったり薄くなって見えるのである。そして、絨毯の厚みが非常に薄い。模様も糸が細い分だけ細やかな模様が出来上がる。素晴らしい出来栄えになる。私はこの絨毯も普段から敷いて使い古しているので汚れもでてきたし、傷もできてきたが、厭わずに使っている。

次の絨毯もオール・シルクである。これは小さいサイズなので玄関のマットに使用している。これは20年ほど前にゼミ生の学生一人を連れてイランとトルコ旅行に行ったときに、学生の勉強のために絨毯の買い物の仕方を実戦で形式で教えたときのものである。テヘランのバザールの絨毯屋をうろうろして気に入ったのがこれであったが、その日の値段交渉はまとまらず、翌日もう一度行って交渉したが、まとまらず。何度も行って交渉するのがお互いの楽しいゲームなのである。そして、イスファハンとシーラーズの観光に3日ほど行って帰ってから、またこの店に行って、最終的に買い求めたものである。産地はコムである。今頃コムの絨毯は人気が高いという。

次の絨毯はイスファハンであるが、中級品である。というのはウールが主で、一部にシルクを使っているのである。シルクは花柄の輪郭部分などに使われており、その部分は光って見えるので美しい。オール・シルクに較べると厚みがある。そうそう、ペルシャ絨毯は薄ければ薄いほど評価が高いのである。中国の緞通は何と言っても厚みがあってフカフカの肌触りが良いらしいが、ペルシャ絨毯は反対である。だから、新しい絨毯を買うと、それを家の前の道路に置くことがある。その上を車が走っていくのである。そうして、表面の毛羽が擦られていい具合になるというのである。

この絨毯はそう薄くはないが、それでも旅行用のスーツケースに折りたたんで入るくらいのものである。

話は自分の絨毯になってしまったが、これなどは中級の下程度のものであって、決して自慢できるものではない。でも繰り返すが絨毯は消耗品であるというのが私の考えである。でも、ペルシャ絨毯は長持ちするのも事実である。そして、模様の細かさであるが、これはパソコンが普及して画像を画素数で表すように、ペルシャ絨毯も一定枠の中にknot(結び目)がいくつあるかが尺度になる。いい絨毯なら表は勿論美しいが、裏も美しい。だから、あえて裏返して置いておく場合もある。オール・シルクなら、どんなものでも裏返してもいいだろう。

トルコに行けばトルコの絨毯。パキスタンにも独特の絨毯がある。国によって柄が特徴あるように、ペルシャ絨毯も産地によって絵柄が異なっており、ほぼ特定できるのである。そして、いいものには絨毯の隅に産地と工房のの前が織り込まれているのである。先述の玄関に敷いているものの工房が次のように示されている。

ちょっと書き疲れたので今日はここまでにしておきましょう。