前回、日本のメディアは報道しないと書いたが、7日の中日新聞朝刊には次の記事がでていたので、紹介しておきます。空爆で炎が上がっている画像は前回のものと同じのようだ。
イスラエル軍、ガザ空爆:2022年8月6日共同通信発
昨日、ガザ地区に関する記事を書きましたが、今現在のガザのニュースが入ってきています。日本のテレビでは何も報道していません。BSのNHKではカタールのアルジャジーラの局がこのことを報じていました。インターネットで共同通信社のサイトから紹介しましょう。2022/8/6 09:45 (JST)の発信です。
【カイロ共同】イスラエル軍は5日、パレスチナ自治区ガザで、過激派「イスラム聖戦」を標的に攻撃を実施したと発表した。ガザ保健当局によると、空爆により5歳の女児を含む10人が死亡、75人が負傷した。イスラム聖戦は司令官が死亡したと明らかにし、反撃すると表明。ガザからイスラエルに多数のロケット弾が発射された。イスラエル軍は対空防衛システム「アイアンドーム」で撃墜するなどし、イスラエル側の人的被害は伝えられていない。大規模な戦闘に発展することが懸念される。イスラエル軍が1日、占領するヨルダン川西岸北部ジェニンでイスラム聖戦幹部を拘束し、緊張が高まっていた。
日本の新聞では記事になっていないが、世界中で緊張が高まっている毎日です。
パレスチナ問題の復習❸:ユダヤ人のガザからの撤退(2005年8月)
ウィキペディアから拝借
ユダヤ人のガザからの撤退(2005年8月)
前回の記述のとおり、1967年の第三次中東戦争で勝利したイスラエルはヨルダン川西岸とガザ地区を占領した。イスラエルは占領した地区をイスラエル領とするための既成事実化を進めようとして、1970年にガザに最初の入植地を積極的に建設し国民を入植させた。2005年時点で、ガザの25%を占める地区にある21の入植地に約8千人が居住するようになっていた。ガザの残り75%には130万から140万人のパレスチナ人が劣悪な環境で住んでいた。両者間ではつねに戦いが止むことなく、イスラエル政府はこの8千人の国民を保護するために多額の費用を支払っていたのである。2005年8月15日、イスラエルはガザ地区の入植者に撤退を命じ、入植地の撤去作業を始めた。入植地ではユダヤ教の教会であるシナゴーグに篭っている入植者をイスラエル軍兵士らが引きずり出して連行する様子がテレビニュースで報道された。焼身自殺をはかった女性がいたことも新聞は報道した。入植者たちはこぞって、かつては入植政策を推し進めながら、ガザ撤退を命じたシャロン首相を批判した。撤退後の入植跡地は更地に整備してパレスチナ側に引き渡されることになっていた。
このガザ撤退に至る推移を当時の日本経済新聞の記事で箇条書きにすると次の通りである。
2003年
12月 シャロン・イスラエル首相が一部入植地の撤収方針を表明
2004年
2月 首相、ガザ全入植地の撤収を表明
5月 与党リクードの投票で計画否決
イスラエル軍がガザ南部侵攻、60人以上死亡
9~10月 イスラエル軍がガザ北部侵攻、80人以上死亡
10月 イスラエル国会で計画を承認
11月 アラファト・パレスチナ自治政府議長死去
2005年
1月 自治政府議長にアッバス就任
2月 イスラエル・パレスチナ首脳会談、相互停戦を宣言
5月 計画実行を7月から8月に延期
8月15日 ガザ入植者に撤収命令
8月17日 強制撤去開始へ
12月 シャロン首相倒れるが大事に至らず退院する
この撤去がイスラエル側でもすんなりと決まったものでないことがわかるであろう。占領地の入植者はヨルダン川西岸にも20余万人おり、そちらの入植者の数が圧倒的に多い。パレスチナ側はガザの次はヨルダン川西岸の撤去も当然と要求する。イスラエル側は和平へのひとつの道筋としながらも、ガザの撤去で譲歩してヨルダン川西岸の入植地を維持したいという思惑も抱いていたのであろう。ユダヤ人居住区の周りには防護壁が次々と建設されていた。パレスチナ人にとってもガザにはさしたる産業があるわけでなく、商業都市として機能するには治安の回復と安定が不可欠である。イスラム原理主義組織ハマスは武装解除に応じずに和平への道は見えていなかった。
パレスチナ問題の復習❷:イスラエル建国と中東戦争
イスラエル建国と中東戦争
イギリス軍の撤退を前にユダヤ側とアラブ側との間で土地の奪い合いが拡大していった。1948年5月14日にイギリス軍の撤退が完了したが、その日に、ユダヤ側はベングリオン(初代首相に就任)がイスラエルの建国を宣言した。アラブ側(レバノン、シリア、ヨルダン、エジプト、イラク)は、即戦闘態勢にはいり第一次中東戦争が始まった。この戦争はイスラエルが勝利しパレスチナ全土の75%を支配下に置いた。アラブ側が大幅に国土を失った(前回の図1-B参照)が、エルサレムは東西に分割され東の旧市街はかろうじてヨルダン軍が確保した。イスラエルの支配下に陥った土地のアラブ人たち約75万人がヨルダン川西岸、ガザあるいは周辺のレバノン、シリア、ヨルダンなどに流出し難民となっていった。
中東戦争はその後も第二次、第三次、第四次と繰り返すことになる。第二次中東戦争はスエズ運河の国有化に端を発した。アメリカからアスワン・ハイダムの建設資金援助の中止を宣言されたエジプト大統領ナセルはダムの建設資金を調達するために1956年にスエズ運河の国有化を宣言した。イギリスとフランスは先ずイスラエル軍をシナイ半島に侵入させておき、エジプトとイスラエル間の戦争からスエズ運河を守るという口実でポートサイドに上陸し、運河地帯を占領した。しかしながら、アメリカとソ連がイスラエル、イギリス、フランスに撤退を迫り、撤退を余儀なくさせられた。これ以後、中東地域の国々に影響力を行使できるように米ソが互いに競い合うことになり、両国は中東政策を強化していった。一方、エジプトのナセル大統領は1958年にエジプトとシリアでアラブ連合共和国を結成したのである。
第三次中東戦争は別名を「六日間戦争」という。1967年、エジプト軍がアカバ湾を封鎖した。アカバ湾を封鎖するということはイスラエルの紅海への出口を塞ぐということである。イスラエルは戦線布告とみなし、エジプト、ヨルダン、シリアを攻撃し、この戦争は六日間で終止符を打った。イスラエルの圧勝であった。この戦争に至る期間にはシリアがイスラエルの水源であるガリラヤ湖の水を断つというような戦術も展開された。アラブ側にもエジプトとヨルダン関係の亀裂など複雑な様相が多く噴出していた期間である。第三次中東戦争により、イスラエルはスエズ運河までのシナイ半島、ヨルダン川西岸のパレスチナ、それにシリアのゴラン高原をも支配下に置いたのである。イスラエルは占領地にユダヤ人を入植させていった。この入植政策を積極的に推進したのが、その後首相にもなったシャロンであった。ユダヤ人にとってパレスチナの地は神から与えられた「約束の地」であり、そこに帰ることは入植者にとって当然のことだとの想いであった。
第四次中東戦争は1973年10月6日に始まった。ユダヤ教徒にとっての最大の祝日であるヨムキプルの日にエジプト軍がスエズ運河を越えて奇襲をかけた。奇襲にあわてたイスラエル軍ではあったが、イスラエル軍の逆襲が成功し、イスラエル軍が有利な状況で小康状態に入った。その後は、エジプト大統領サダトがアメリカに仲介を委ね、キッシンジャー長官が東奔西走し停戦に至った。停戦交渉によりエジプトはシナイ半島を取り戻した。しかし、シリアはゴラン高原の奪回に成功することなく終わったため、アサド大統領はこれ以後サダトを裏切り者として恨んだ。さらに、1977年11月にはサダトがエルサレムを訪問した。1978年9月、サダト大統領とイスラエルのベギン首相が米国カーター大統領のキャンプデービッドの山荘で会談した結果、合意文書が調印された。この第四次中東戦争ではアラブ側がイスラエル寄りの国々に対して石油禁輸措置を発動したため、第一次石油危機が生じた。原油価格が約4倍に高騰し、先進国では省エネルギー対策に真剣に取組み始めることとなる。
パレスチナ問題の歴史的な経緯を簡単に述べてきたが、最も重要なことは、そこに生きている人々のこと、いわゆるパレスチナ難民問題である。パレスチナ難民とは1948年にイスラエルが建国したことにより住んでいた土地を追われ、周辺地域に逃れた人と、その子孫のことである。当初、75万人程度であった難民に子孫が増えた。ヨルダン、シリア、レバノン、ヨルダン川西岸、ガザ地区に流出した難民の悲惨な生活が始まったのである。国連パレスチナ難民救済機関(UNPWA)が発表した2005年3月31日の難民数は425万人であった。今は2022年であるから、2005年からは既に17年も経過している。果たして難民の数はどのくらいになっていると思いますか?答えは冒頭の画像が示す通りです。2021年時点の難民数は約640万人であります。当初の75万人時代に適切な措置をしていたならここまで膨れ上がることはなかったことでしょう。そして、この数は今後も増え続けることになるのでしょう。戦争は一過性のものではないのです。その余波は未来永劫に続くということです。ウクライナからの難民が同じような道をたどらないことを祈るばかりです。
パレスチナ問題の復習❶:シオニズム運動
前回、バイデン米大統領が中東を訪問したがパレスチナ和平問題については何も進展がなかったことを紹介した。トランプ大統領になって以後、彼のイスラエル寄りの姿勢が鮮明になっていらい、和平への動きはストップしていた。バイデンになれば何らかの進展があるかとする期待も若干あったわけだが、それも期待外れであった。今回(およびこれ以後)でパレスチナ問題の経緯を時代を遡って振り返ってみよう。内容は私がかなり昔に書いていたものを引っ張り出してきたものを修正しつつアップしていく。それゆえ今回のタイトルには復習とつけた。
パレスチナ問題は現代中東における最大の問題といっていいだろう。古い話になるが、1990年イラク軍がクウェートに侵攻した湾岸危機の解決にあたり、フセイン元大統領は単にイラクとクウェート間の問題ではなくパレスチナ問題とリンクさせなければならないと主張した。彼は中東における全ての問題はパレスチナ問題につながり、それ抜きにしての解決はありえないと言いたかったのであろう。中東諸国の成立過程を顧みるならば、中東諸国の諸問題を解決するには中東諸国間の国境、いやその国々の成立にまで遡って議論し、西側諸国の行動を総括することが本当は必要なのかも知れない。しかしながら、戦後70年以上が既に経過した今では現状国家の枠組みの中で和平・安定に向けて努力しなければならないだろう。パレスチナ問題は第二次世界大戦前後に発生した極めて新しい紛争であることを認識しなければならない。二〇世紀以前のパレスチナは現在のような紛争状況にあったわけではなく、少数のユダヤ人たちとアラブ人は平和に共存していたのである。
シオニズム運動
ユダヤ人たちは世界各地に居住し自分たちの国をもっていなかった。十八世紀までのヨーロッパ・キリスト教中心の世界においてユダヤ人たちはさまざまな形で迫害をうけてきた。例えば、帽子やユダヤの星のバッジの着用を強いられた。ゲットーとよばれる地区に居住させられた。このような状況のあと、1789年のフランス革命は身分制社会に終止符をうち国民という新しい集団を誕生させた。個々の国民は身分や民族・宗教などに関係なく国民として平等な義務と権利を有することができるようになった。1871年にはユダヤ人にもヨーロッパで初めて市民権が与えられた。ユダヤ人にとって、市民権が与えられたことは喜ばしいことであったが、一面ではユダヤ人としてのアイデンティをどのように維持するのか複雑な思いも同時に抱いたようである。
一九世紀に入りヨーロッパ各地で民族主義が台頭した。民族主義は時には他民族を差別し排斥する人種差別的な運動にもつながる危険性があった。1894年のドレフェス事件はそのような時代に起きた出来事であった。フランス軍のドレフェス大尉がドイツに軍事秘密を漏洩したというスパイ疑惑事件であった。彼がユダヤ人であったために反ユダヤムードが拡大したのだった。ユダヤ人ジャーナリストであったヘルツルは1886年に『ユダヤ人国家』を著し、ユダヤ人国家建設こそがユダヤ人を解放するものであると主張した。1897年に最初のシオニスト会議がスイスのバーゼルで開催された。ユダヤ教の聖地であるエルサレムのシオンの丘に帰ろうという運動がシオニズム運動であり、その運動家たちがシオニストと呼ばれるようになった。「土地なき民に、民なき土地を」がシオニストたちのスローガンであった。シオンの丘には民がいないわけではなく、パレスチナ人(アラブ人)が住んでいたのだが。イギリスはシオニズム運動を支持し、オスマントルコの領土に第一大戦後にユダヤ人たちがホームランドを作ることを支援するというバルフォア宣言を発した(1915年)。ユダヤ人たちのパレスチナへの移民が次第に増加していった。ユダヤ人たちが増えるにつれてパレスチナ人との対立が激しくなった。それでも初期の移民に対してパレスチナ人たちはさほど拒絶反応を示したわけではなかった。あるものはユダヤ人に土地を売却しているのである。1947年当時のユダヤ人の比率は三分の一程度に達した。ユダヤ人とパレスチナ人の対立が激化するなか、イギリスは委任統治を放棄しパレスチナの地の扱いを国連に委ね、1947年11月29日に国連総会はパレスチナ地域をユダヤ人の国とアラブ人の国に分割するという「パレスチナ分割決議」を採択した。その内容はパレスチナ全土の五五%を少数派のユダヤ人国家、残りの四五%の土地をアラブ人国家とし、エルサレムとその周辺は国際管理とするものであった(図1-A参照)。ユダヤ側はこの決議を受け入れたが、アラブ側は拒絶した。その翌日、ユダヤ人のバスがアラブ人に攻撃を受けることになり、ユダヤ人はこの日から「イスラエル独立戦争」が始まったとしている。
バイデン大統領の中東訪問・成果なし
バイデン米大統領が中東を訪問しました。一番の目的はサウジアラビアを始めとしてアラブ産油国に原油の増産を要請することでした。結局、軽くいなされた感じでしたね。産油国側は後日開かれるオペック+で話し合うとして、色よい返事はもらえなかった。エネルギー問題が深刻なことは周知の通りであるが、産油国側も「はい、わかりました。増産いたします。」というわけはない。現状の原油高で彼らは潤っているのだから。一方で、原油を売りたくても制裁が科せられているために西側諸国には売ることができずにいるイランのような国もある。日本はイランとは敵対していないにも拘らず、米国の同盟国であるがゆえに輸入を控えている。そのような無益な制裁を科していると今回噂になっているようにイランがロシアにドローンを輸出するように、接近していくことになってしまう。元々、ロシアはイランにとって潜在的な脅威国である。何度も苦い汁を飲まされてきた国である。
冒頭の新聞の画像は「パレスチナ和平に進展なく」とタイトルをうっているが、今回のバイデンの訪問はそれが目的ではない。ロシア、中国、イランの包囲網を敷くことに協力を要請することでもあった。イスラエルとは「イランの核兵器保有阻止のため、あらゆる力を行使する」という宣言をすることができたが、GCC(アラブ湾岸諸国)との間ではそのような宣言には至らなかった。バイデンは成果を得られず帰国の途についたのであった。米国のような大国が世界のリーダーとなりたいのなら、ウクライナに武器を供与して戦争を拡大させるのではなく、戦争終結に向けての行動をとるべきではないのか。とにもかくにも世界の食料不足、エネルギー不足、物価高を押さえるには戦争終結が第一と思うのだが。
安倍元首相が銃撃に死す
昨日、安倍元首相が銃弾に倒れ、死去されました。世界中でそのことが報じられ、彼の生前の業績を伝えていました。サウジアラビア、トルコ、イランの紙面の画像を紹介しておきます。
元首相のご冥福をお祈りいたします。
書籍紹介:古代メソポタミア全史
最近購入した中公新書を紹介する。小林登志子著『古代メソポタミア全史』である。副題として「シュメル、バビロニアからサーサーン朝ペルシアまで」が付いている。定価1000円(税込み1100円)である。まだ数ページしか読んでいないので中身の感想を書くことはできない。このブログの読者にはこの本の中身がわかるように目次を次にアップしておこう。
メソポタミア文明に興味のある私にとってこの辺りの歴史は興味深い。ハンムラビ法典などは子供の時の社会(歴史)で習ったことはあるが、世界最初の法典であり「目には目を」の精神が背景にあるという程度のことしか習わなかった。詳しい歴史は高校の世界史でも扱われてはいなかったと思う、アッシリアについてもそうである。アッシリアのオリエント統一という語句は重要語句として習うが、アッシリアそのものの歴史はあまり扱われていなかったと思う。これから読むのが楽しみである。
まだ少ししか読んでいないが、これを最後まで読むことができる一般読者は果たしてどれ位いるだろうかという思いもした。例えば12頁の部分を例に挙げてみよう。
シュメル人自身は自らが住んでいる地方を「シュメル」とは呼ばなかった。「シュメル」は後代のアッカド語で、シュメル人自身は「キエンギ(ル)」と呼んでいた。一方、「アッカド」はシュメル語で「キウリ」という。まとめるとアッカド語の「シュメルとアッカドはシュメル語では「キエンギとキウリ」といい、シュメル人も、アッカド人も「バビロニア」とは呼ばなかった。・・・・・
一般読者にとってアッカド語でどういうか、シュメル語でどういうかはどうでもいいように思うのである。地名などでも当時の地名で書いておいて括弧の中に(現題名〇〇〇)となっている。最初から現題名で書いてくれた方がスムーズに読めそうであるが、著者にとってはそれが正しい表記であり、親切心一杯なのであろう。分かる気もするのである。私は読んでみようと思う。特に最後の方のサーサーン朝の部分を先に読んでみるだろう。誤解しないでもらいたい。本書を紹介したのは、お勧めだからである。
中東世界の女性たち:ハディージャ
ハディージャとはいうまでもなく、イスラムの創設者「ムハンマド」の最初の妻である。25歳頃のムハンマドと結婚したハディージャは40歳位であり、夫とは死別していた寡婦であった。裕福な商人であった。東京堂出版の黒田壽郎編『イスラーム辞典』では次のように説明している。色々な書籍で彼女についての記述を読んだが、これが一番詳しくて正しいように思えたので、拝借することにした。
彼女はクライシュ族のフワイリドの娘で二度の結婚歴を持ち、財産と独立を備えた裕福な商人であった。ムハンマドを雇い入れたハディージャは、彼をシリアに向う隊商の長として派遣したが、彼はその使命を見事に果たしている。誠実で責任感のある人がらに心を動かされたハディージャは、ムハンマドに結婚を申込んだ。時にハディージャは40歳、ムハンマドは25歳であったといわれる。この結婚はムハンマドにとって大きな意義をもつものであった。その一つは、メッカでの主たる活動である商業において、彼にその才能を磨く機会を与えたことである。さらに彼の精神的発展にも大きな役割を果たしている。
ハディージャにはワラカと呼ばれるキリスト教徒の従兄弟がいた。啓示を受けたムハンマドが、自分はユダヤ教徒およびキリスト教徒のそれと同じ啓示を受けているというい確信を持つに至ったのは、ワラカとハディージャの助けによると伝えられている。また預言者としての使命に確信を失った時、ムハンマドを励まし、確信を再びとり戻させたのはハディージャそのひとであった。彼女はイスラームに帰依した最初の人物であった。
ハディージャはムハンマドとの間に、女四人、男二人の子供をもうけたが、息子二人は夭逝している。ムハンマドにとって、ハディージャの信頼はきわめて重要であった。彼は生涯、妻を思い起こすたびに愛と感動と感謝の念にあふれたと伝えられる。
「この世にあるいかなる女性もハディージャには値しない。私を信じる者がいない時に、彼女だけが私を信じてくれた。皆が私の言葉を嘘とみなしたのに、彼女は真実であると受け入れてくれた。」
ハディージャはヒジュラの三年前、おそらく619年にこの世を去った。彼女が生きている間、ムハンマドは他に妻を娶らなかった。
他の資料を見るとハディージャは二人の夫と結婚の経験があり一人は生別、一人は死別とある。またムハンマドとの間の子供は三男四女であったとも。いずれも男子は夭逝しているのは同じである。また、ハディージャは生前ムハンマドに他の妻を持つことを許さなかったともある。(以上岩波の新イスラム事典)。大きな差異はないが、こちらのほうはムハンマドが自発的に他の妻を持たなかったのではなく、ハディージャが許さなかったと少々ニュアンスが違っているのが面白い。またハディーシャの従兄弟のワラカがキリスト教徒というのは、ネストリウス派キリスト教修道僧であるという資料もある。私はコーランを読んでいるとムハンマドは旧約聖書のことをよく知っていたんだなと思う。元々読み書きのできない彼がどうして知識を吸収したのだろうかと思ったものであるが、彼の周りにワラカのような人物がいたということで納得がいくのである。イスラム誕生以前のアラビア半島にはユダヤ教徒もキリスト教徒も沢山いたのである。
またムハンマドが隊商の長としてシリア辺りまででかけたのであるが、そのような長距離を駱駝でトボトボと灼熱の砂漠も通過したであろうに、大変な苦労をしたことであろう。冒頭の画像を参考にされたい。
キャビアの想い出
世界三大珍味といえば、フォアグラ、トリュフ、キャビアである。長くイランに居たことがある小生にとってキャビアには懐かしい想い出がある。今日はキャビアについて書いてみよう。
キャビアはチョウザメの卵の塩漬けである。カスピ海以外ではアムール川でも採れることが知られているが、カスピ海産のキャビアが世界で一番評価が高いだろう。カスピ海産といってもロシア側のものよりイランで採れるものの方が高級?高品質と言われていた。今は日本でもチョウザメを養殖してキャビアを生産しようとしているところがある(例えば愛知県の山村)。チョウザメは成長してキャビアができるまでには10年はかかるとかである。話をイランのキャビアに戻そう。
キャビアの品質はチョウザメの種類によっても異なる。最も大きなチョウザメのベルーガ (Beluga) は体調 3m から4m、体重300kgを超えるものがある。キャビアの粒も大粒で黒より灰色に近い。産卵まで20年以上かかり、体重の15%程度のキャビアを採ることができる。体調2m程度のがオシュトラ(Astra) である。キャビアは中粒で茶色気味の黒褐色、時には金色に変化するものもあり、ゴールデンキャビアといって珍重される。私はカスピ海沿岸のラシュトの町に2年ほど滞在したことがあるが、その時に何度かお目にかかることができた。最も小さいチョウザメがセヴルーガ(Sevruga)である。体長1~1.5mで体重も25㎏以下であるため、キャビアも小粒である。色は暗灰色で黒に近い。日本でキャビアというと殆どこのキャビアであるが、他の大きなチョウザメのキャビアの味の方が数倍上である。
上の表は私が随分前にキャビアの生産量を調べた時のものである。イラン暦の年で書いているので1365年元旦=1986年3月であるから、以下、1991年、1996年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年である。ご覧の通りキャビアの生産量は年々減少している。試験場では1970年頃から養殖を行っていたが簡単ではないようだ。チョウザメの肉の量も示されているが、1379年からはキャビもその数値に含まれている。ちなみにチョウザメの肉の味は淡白で嫌みのない美味しいものであった。塩味で炙る(キャバーブ)エスタージョンキャバーブをホテルのレストランで何度も食べた。いつも醤油を持って行ってちょっと付けるととても美味しかった。チョウザメのことをペルシア語ではماهیان خاویاریという。キャビアの魚という意味である。英語はSturgeonである。ホテルのボーイは「エスタージョンキャバーブ」と大きな声で私たちに勧めてくれたものだった。
私の勤めていた会社の社長は日本からイランに来るときにはいつも高級なマグロの塊?山?を沢山買い占めて持参してきた。それを大使館やら商社の支店長など、現地の有力者たちへのお土産にしたのだ。そして日本に帰るときにはキャビアを買い占めて日本へのお土産にしたのだった。私がテヘランにいるときはキャビアを買いに行くのが私の役目になっていた。キャビアは専売品なので専売公社のオフィスへ買いにいった。一度に沢山は売ってくれないから苦労したものである。ある程度通って顔なじみにもなってきたので苦労はなくなったが、その都度、手土産を持参したものである。彼らが一番喜んだのは日本や外国の少しセクシーな写真の多い雑誌類であった。
キャビアの産地であるラシュトに住んでいるときに、キャビアを買いに行く役目はなかったが、自分のために買う機会が増えた。売りに来るのである。専売品なので横流しの物なのかもしれないが、日本人なら買ってくれると思って家に来るのである。しかもそれがゴールデンキャビアなのである。ゴールデンキャビアは市場には出ていないので最高の珍味であるが、味は特にうまいわけではない。キャビアだって好きでないという人は沢山いる。私は酒の肴にして食べたが美味かった。何しろ日本に比べて格安なのだからガバッと食べることができた。若かったから飲んだ後、ちょっとご飯を食べるが、ご飯の上にキャビアをドンとのせて掻き込むのである。最高の贅沢であった。ケチ臭くチビリチビリ日にちをかけて食べているうちに、傷んでいることに気づかず酷い目に遭った日本人を医者に連れて行ったこともある。キャビアで当たると怖いのである。
冒頭の画像はアマゾンで販売しているキャビアの一部である。もう長い間、キャビアを食べたことがない。