新シリーズ「オスマン帝国」:⑤ オスマン侯国からオスマン一世へ

前々回までで、ルーム・セルジューク朝まで辿ってきた。この王朝も滅びたのであるが、その当時の周辺の勢力図というか王朝図を一瞥で分かる図を探していたのだが、中々見つからなかった。やっと見つけたのが次の図である。「世界史の歴史マップ」のサイトである。
( https://sekainorekisi.com/glossary/ ) 。ちょっと拝借させていただくことにする。

イスラーム世界の形成と発展

一目瞭然である。エジプト地域にはファーティマ朝 ⇒ アイユーブ朝 ⇒ マムルーク朝と推移している。一方、イラン・イラク方面ではモンゴル系の王朝が立ち並んでいる。そして、アナトリアではルーム・セルジューク朝の後にオスマン帝国が登場するのである。いきなりオスマン帝国が登場したのではない。先ずはオスマン侯国の登場である。

私なりに纏めるならば、トルコ系民族が中央アジアから西に移動してきた。今のイラン、イラク辺りで起こしたのがセルジューク朝である。セルジューク朝ではペルシャ人が登用されており、イラン文化が興隆していた。ここでの言語はペルシャ語が主流であった。トルコ系民族と言ったが、セルジューク朝を興したグループとは別にトゥルクマーンというのもよく耳にするのであるが、セルジューク朝では彼らの扱いが少々厄介(?)だったようでもある。彼らは東ローマ(ビザンツ)帝国との前線であるアナトリアに派遣されていき、ルーム・セルジューク朝のように、そこで地方政権を作っていった。ルーム・セルジューク朝の後の時代のアナトリアの地図が次の図である。

これは前に紹介した講談社「興亡の世界史」シリーズの『オスマン帝国500年の平和』の中の図である。太い点線がイブン・バットゥータが旅したルートである。アナトリアを旅したのは1332年ごろであるらしいが、アナトリア西部にオスマン侯国が描かれている。そして、イブン・バットゥータはオスマン侯国を、この地の最有力者と称しているとのことである。ようやくオスマン帝国への道筋が明らかになってきた。色々調べてみたが、やはりオスマン帝国が起きるあたりのことは詳しくは分からないというのが定説であるようだ。ウィキペディアには次のように記されている。
「オスマン家の起源に関する確実な史料は存在しないが、後世オスマン帝国で信じられた始祖伝説によると、その遠祖はテュルク系遊牧民のオグズ24部族のひとつのカユ部族の長の家系の出自である。イスラム教を受け入れたカユ部族は中央アジアからイランのホラーサーンに移住し、スレイマン・シャーが部族長のとき、おそらくモンゴル帝国の征西を避けてアナトリアに入った。スレイマン・シャーはそこで死に、部族の一部はホラーサーンに帰ったが、スレイマン・シャーの子の一人エルトゥールルは遊牧民400幕を連れてアナトリアに残り、ルーム・セルジューク朝に仕えてアナトリア東北部のソユトの町を中心とする一帯を遊牧地として与えられ、東ローマ帝国に仕えるキリスト教徒と戦った。1280年から1290年の間頃にエルトゥールルは病死し、息子のオスマン(オスマン1世)が後を継ぐ。」

このオスマン一世がオスマン帝国の祖である。
オスマン一世が登場したところで、今日は終わりにしよう。

 

新シリーズ「オスマン帝国」:③ セルジューク朝

前回はトルコ系民族がモンゴル平原の方から西へ移動し、カラハン朝やガズナ朝、さらにセルジューク朝を築いたというところまで辿り着いたのであった。なるほど、オスマン帝国を築いたトルコ系民族が、そのような国を築きながらオスマン帝国の建国に辿り着いたのだなと歴史の大きな流れを理解したのである。でも、まだしっくり納得できない部分があるので、セルジューク朝についてもう少し触れることにしたい。

インターネットの「世界史の窓」で「セルジューク朝」を検索すると以下のように説明されている。

中央アジア起源のトルコ人イスラーム政権。11世紀に大移動を行い、西アジアに入り、1055年にバグダードを占領、ブワイフ朝を倒しカリフからスルタンの称号を与えられる。1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ軍を破り、小アジアに進出。小アジアのトルコ化の第一歩となった。その西アジアへの進出は、ヨーロッパのキリスト教世界に大きな脅威を与え、十字軍の発端となった。その後、いくつかの地域政権に分裂、十字軍とモンゴルの侵攻があって、13世紀には消滅した。
セルジューク族はもとはオグズ族といわれるトルコ系民族で、アラル海に注ぐシル川の下流(現在のカザフスタン)にいた。スンナ派イスラームを信奉し、はじめガズナ朝に服していたが、トゥグリル=ベクがニーシャープールで自立し、1038年に建国。セルジュークは一族の伝説的な始祖の名前からきた。

記述の順番が逆ではあるが、1038年にセルジューク朝が建国された経緯は前回の内容と同じである。そして、モンゴルの襲来によって13世紀には崩壊したということである。ではセルジューク朝の領土を図で確かめてみよう。いつものように山川出版社の世界史図録から引用させていただく。
膨大な領土である。最初、ニシャプールで立ち上がったトゥグリル・ベクは1055年にバグダードを占拠して、アッバース朝のカリフからスルタンの称号をえたのである。しかしながら、当時のアッバース朝は衰退期であって、西北イランに成立したシーア派のブワイフ朝がバグダードを占領し、アッバース朝カリフの権威を利用し、「大アミール」と称し、イラク、イランを支配していたのである。つまり、バグダードを支配していたブワイフ朝を打ってバグダードを占拠した功績でスルタンの称号を得たということである。アッバース朝は既に衰退期であったものの、崩壊はしておらず、権威付けのために地方政権が利用するような状態であったようだ。ブワイフ朝はバグダードの支配権を失った後、最後の拠点ファールスも1062年に失って滅亡した。

バグダードは再びスンナ派のセルジューク朝の支配下になった。セルジューク軍の中心はトルコ系の遊牧部隊であった。また、政治や文化を支える官僚として多くのイラン人が登用された。いわゆるイラン=イスラーム文化が開花した。私がこのブログの中で何度も紹介している『ルバイヤート』の作者であるオマル・ハイヤームもこのセルジューク朝時代のイラン(ペルシャ)の詩人である。前回、ガズナ朝のところでも多くのペルシャ詩人が宮廷に出入りしていたとあったように、トルコ系民族の王朝であったが、ペルシャ人、ペルシャ文化との融合が顕著であった。

広大な版図を有したセルジューク朝はセルジューク朝の権威を認める、複数のセルジューク族の地方政権で成り立ち、彼らは自治権を有していたようである。地方政権=小さな王朝を統括したのがセルジューク朝で、それゆえに大セルジュークという呼称があるのであろう。代表的な地方政権がルーム・セルジューク朝であろうし、ほかにはダマスカスのシリア・セルジューク朝、ケルマン・セルジューク朝などがある。

 

セルジューク朝時代の歴史としてビザンツ帝国との戦いを取り上げておこう。

1071年マンジケルトの戦:
セルジューク朝がビザンツ帝国軍を破った戦い。小アジア(アナトリア)のトルコ化の端緒となり、ビザンツ皇帝の十字軍派遣要請の要因となった。マンジケルトはマラズギルドとも言い、アナトリア(小アジア)東部の現在のトルコとシリア、イラク国境のヴァン湖に近いところ。1055年にバグダードに入ったセルジューク朝は、さらに西へと勢力を広げ、第2代スルタンのアルプ=アルスラーンは、ビザンツ帝国領のアナトリア(小アジア)に侵入した。ビザンツ皇帝ロマノス4世は大軍を率いて出兵したが、この戦いでマムルーク兵を主力とするセルジューク軍に惨敗し、皇帝は捕虜となって奴隷の印の耳輪を付けられてスルタンの前に連れて行かれたという。

歴史の常であるが、特にこの時代の王朝というか国の寿命は短かった。セルジューク朝も同様であり、先述の地方政権であったルーム・セルジューク朝が次の主役になってくるのである。

 

 

 

新シリーズ「オスマン帝国」:①「オスマン・トルコ」という呼び方

このブログの最初は歴史から始まった。その過程の中でオスマン帝国も登場したのであるが、このブログの表示履歴を見ると、オスマン帝国の表示が意外に多い。日本人のトルコに対するイメージは「アジアの中の一員でありながら、西洋との接点の国であり、どこかエキゾチックな国」というようなものではないだろうか。トルコへの観光客も多いと聞いている。私も随分前に行ったことがあるが、やはりイスラム建築の美しいモスクなどが魅力的であった。ということで、トルコ、オスマン帝国について、今度は少し細かく辿ってみようと思うのである。勿論いつものように、ペルシャの詩、ペルシャ語講座など、あちらこちらに寄り道をしながらのことではあるが。

「オスマン帝国」と「オスマン・トルコ」

今では「オスマン帝国」という呼び方が定着しているように思うが、私が高校生だった当時は「オスマン・トルコ」や「オスマン・トルコ帝国」という呼び方が一般的であった。私は世界史の教科を選択したので、『世界史辞典』を手元に置いていた。受験参考書の出版社「数研出版」の発行である。それは今現在も手の届くところに置いてある。その時点の項目は「オスマン・トルコ帝国」となっている。その説明文は以下の通りである。

13世紀末、オスマン=ベイ(オスマン1世、1258~1326)が小アジアを中心に建てたオスマン=トルコ族のイスラム国家。オットマン帝国ともいう。その後バルカンに進出し、1453年コンスタンティンープルを陥れて東ローマ帝国を滅ぼし、アジア・ヨーロッパ・アフリカ3大陸にまたがる大国となった。1517年セリム1世のとき、アッバース朝の子孫からカリフの尊号を譲られ、ついで16世紀、スレイマン1世時代に国力の極盛期を現出、その後17世紀後半に至って衰微オーストリア・露の侵略を受けた。19世紀に入ると領内に多くの民族国家が独立し、さらに第一次大戦に独側に参加して失敗したので1922年、ケマル=アタチュルクはスルタン制を廃して帝国を滅ぼし、翌年トルコ共和国を建てた。

文中にある「オットマン帝国」は英語の「Ottoman Empire」のことであり、「オスマン帝国」のことを英語ではこう呼ぶのである。オスマンとはOttoman(オットマン)であることが分かる。

やはり、高校から大学生の頃であるが、私は大阪外国語大学の学生であり、言葉に対する興味・関心は強い方だった。自分の話す日本語は紀州の田舎弁であったため、言葉遣いやイントネーションには少々劣等感を持っていたが、クラスメートが「お前の言葉には古い日本の言葉が残っているようだ」と言ってくれたことから、むしろ誇りに思うようになった。横道に逸れたが、その頃の私はトルコ語も日本語もウラルアルタイ語族に分類されるので語学的には近い関係にあると認識していた覚えがある。でも、今はそんなことは言われていないようである。こう書いたのであるが、あまり信ぴょう性のないことを書いてもいけないので、ちょっとウィキペディアを開いてみると、今ではウラル語とアルタイ語とに分かれているようである。また、トルコ語がウラル・アルタイ語族であったというのは仮設であったようで、その後、その仮説は否定されているようである。そしてなによりも、トルコ語はチュルク諸語、トルコ諸語というようなグループ分けに入り、そこにはアゼルバイジャン語、トルクメン語、キルギス語、カザフ語、ウズベク語、ウイグル語、タタール語、サハ語(ヤクート語)などが挙げられていた。つまり、私は学生時代の仮説を今までずーと思い続けていたようである。常に勉強しておかないといけないということが分かった。

他にもトルコ人には我々と同じように赤ちゃんのお尻に蒙古斑ができるとも聞いていた。これなども正しくはないのかも知れないなと不安がよぎるのである。でも人種的にはアジアの方から移動していったという説があるようだから、トルコ人の人種について、次は調べて書いてみよう。今日は取り留めのない話になってしまったが、今入力しているパソコンの傍には宮田律先生の『中東イスラーム民族史』が置いてある。きっと、トルコ民族の答を見ることができるであろう。

アルメニアとアゼルバイジャンの紛争

アルメニアとアゼルバイジャンとの間で衝突が起きている。この地域は中東ではなく、コーカサス地方になるのであろうが、中東と密接に関係ある地域なので、取り上げてみることにする。

この両国間の紛争は今に始まったことではない。歴史的な流れからみると、ロシア帝国とオスマン帝国が崩壊し、その後、アルメニアとアゼルバイジャンが独立した時から、ナゴルノカラバフの帰属問題が発生したのである。アゼルバイジャン国内の領域であるナゴルノカラバフ地域に住む大半の人々がアルメニア人であった。第一次世界大戦後両国はソビエト社会主義共和国連邦下に置かれることとなった。そして、ナゴルノカラバフはソビエト社会主義共和国憲法において、アゼルバイジャン内の自治州としての地位を与えられたが、事態が収束することはなかった。Global News View (大阪大学を拠点とするメディア研究機関のHP参照)。

このように、アゼルバイジャン領内において、多くのアルメニア人が居住するナゴルノカラバフ地域がアゼルバイジャンからの離脱志向があり、そこにアルメニアが肩入れしたというのが紛争の始まりということである。私が若いころには「アゼルバイジャンの中にアルメニアの飛び地がある」という風に理解していたものだった。

この図でわかるように、アゼルバイジャンは産油国であるので、ジョージアからトルコ経由で各国に輸出している。両国はパイプラインの通過料を得ることができる。アルメニアはロシアやイランと発電・電力供給で親密な関係にある。イランは電力の代わりに天然ガスをパイプラインで供給している。イラン北部にはアゼルバイジャン系住民がいるので、イランは常に彼らの独立運動に目を光らせている。宗教的にイランとアゼルバイジャンはシーア派とスンニ派の違いはあるがイスラム同士ではある。アルメニア人はキリスト教徒(アルメニア正教)であるが、イランとの関係は良好である。一方、武器調達においては、アゼルバイジャンはイスラエルから大量の武器を購入している。最近続いているイスラエルとアラブのアラブ首長国連邦やバーレーンとの国交樹立などが、イラン封じ込め戦略と言われるように、イランにとってはイスラエルとアゼルバイジャンの関係強化も気になるところである。また、産油国のアゼルバイジャンには米国の石油関係会社も進出しているから、米国もこの地域での衝突には重大な関心を寄せざるをえない。

日本からは遠いコーカサスのあまり馴染みのない国同士の紛争であり、関心も薄く注目の度合いも薄いかもしれない。しかしながら、上述したように、両国間だけではなく、両国に繋がりのある周辺国(トルコ、イラン、イスラエル、シリヤ、レバノン等)ならびに米国やロシアも干渉することになると中東を巻き込んだ国際紛争になるわけである。そうなると石油を中東に依存する我が国としても傍観はできないであろう。

(地図は中日新聞10月1日、10月9日より拝借)

中東世界とは (2)

前回、数多くの少数民族がいると書いた。例えば、イランにはルール、バルチ、トルクメン、クルド、バクチヤーリなどがいる。アラブ人やトルコ人もアルメニア人もいる。でも中心をなすのはイラン人=ペルシア人=アーリア人であって、イランと言えばペルシア文化が基調の国である。

同様にトルコもそうである。中東問題のひとつでもあるクルド問題のクルド人達は少数民族ではない。しかしながら、東ローマ帝国を滅ぼして築いたオスマン帝国の主役はトルコ人であり、そこに築いたのはトルコ文化である。このような意味合いで、私は上の図を描いたのである。中東にはアラブとペルシアとトルコの3つの文化があることを認識してもらいたい。

強調したいのは「中東には数多くの民族、そして彼らの文化があるので一つではない。しかし、中東の文化には3つの中心的な文化がある」ということである。多くの人々はイラク人とイラン人は同じ中東の隣の国で同じような民族・文化であると思っているのではないだろうか。イラクはアラブであり、イランはそうではない。特にイラン人は同一視されることを嫌悪する。それは西洋人が我々をみて「チャイニーズ?」「コーリアン?」と言われたときの感情以上のものがある。シルクロードを通じて中国や日本に洗練された文化を伝えたササン朝ペルシアは初期のイスラム帝国=アラブに滅ぼされたのだった。

 

中東世界とは

本ブログのサブ・タイトルは「中東・イスラム世界への招待」である。中東とはどの地域を指すのだろうか。上の地図はヨーロッパの人々が見慣れている世界地図である。我々日本人が見慣れている地図は日本が中心に描かれているが、この地図で日本は東の端に描かれている。つまり「極東」という言葉はこのような地図を利用している人々の世界観から生まれた概念である。ヨーロッパに近い東方が「近東」と呼ばれ、それは東北アフリカの辺りを指すことになり、「中東」とはその東となる。このブログではトルコ、シリア、レバノン、パレスチナ、ヨルダン、イラク、イラン、クウェート、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーン、カタール、オマーン、イェメン、そしてイスラエルの15ヵ国を中東諸国としておこう。

これらの国々を宗教で分類するとイスラム教が主流でない国家はイスラエルだけである。レバノンは元来キリスト教マロン派が中心勢力を占めていた地域であり、複雑な民族と宗教構造からなるイスラムとキリスト勢力の混合国家としておこう。残りの13ヵ国はすべてイスラムの国である(宗派に違いはあるものの)。

民族で分類するならば、イスラエルはユダヤ民族が建設した国家である。この国家建設がパレスチナ問題を引き起こしたのである。トルコ民族の国家がトルコであり、イラン民族(ペルシア人)の国家がイランである。残りの国々の主要構成民族はアラブ民族である。アラブ民族とはアラビア語を母語とする人々を指し、その人々は中東から北アフリカ一帯の広い世界に居住している。アラブはひとつというアラブ民族主義の質は時代とともに変遷してきた。トルコの公用語はトルコ語であり、イランの公用語はペルシア語である。というもののトルコやイランにはクルド語を話すクルド民族やキリスト教徒のアルメニア人も居住しているし、もっと数多くの少数民族も存在しているので、この国はこれこれであるとステレオスコープ的に決めつけることはできない。

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