最近書棚に埋もれていた、千曲学芸文庫・片倉もとこ著『アラビア・ノート』を発見したので、開いてみました。2002年発行のものですから、私が読んだのも15年くらい前のことなのでしょうか。改めて読んでみたのですが、内容をほとんど覚えていなくて初めて読むような感覚でした。アラビアという題名に魅かれて買ったけど、積読だったのかも知れません。片倉さんは1937年生まれの私より10歳上の方です。実際に中東諸国だけでなく南北アメリカ、地中海・・・などを回り民俗学的な調査を行った方です。この文庫本も最初は日本放送出版協会から1979年11月に刊行されたものだそうです。ですから、実際に現地を訪れたのは今から50年いやそれ以上前になるかもしれません。1970年代をイランで過ごした私には、そのころの中東での調査には大変な苦労があったとお察しするのです。
そういうことで、今じっくりと読み直しているところです。いつものように最初のページから順に読んでいくのではなく、目次を見て興味のある所から読んでいます。そして、今日のブログに書こうとするのは149頁からの「詩と踊りの世界」です。生活の中に詩が溶け込んでいるというのです。私は詩に関心があります。特にイランの詩に魅せられていることをこのブログの読者はお分かりだと思います。また、以前、このブログの中で岩波文庫のアブー・ ヌワース 『アラブ飲酒詩選』の詩を紹介したことがあります(2019年6月と2020年8月)が、正直な話、アラブ人全体の彼らの生活に詩が溶け込んでいるとは思っていませんでした。
私が関心を持った部分を紹介いたしましょう。青、赤色文字部分が引用。
生活の中の詩(うた)
アラブの伝統的な遊びは、まず何をおいても詩である。詩のかけ合いをする。二人で一組になり、かけ合い漫才のように楽しげに、詩の問答をしたり、歌をうたうように交替に即興詩を作り合う。大勢が二手に分かれ、二列に向かい合って並び、詩句をなげかけ合って勝負を決める遊びは、その昔、さかんだった詩の戦争の名残りだという。「そういう戦いのための練習試合なんだ」という者もいた。彼らは詩の言葉に、より強い武器性を見出す。武器は、物を破壊するだけだが、言葉は、人間の心を征服してしまう。イスラーム以前の古い時代からアラビアでは、詩人は、超能力をもつと信じられ恐れられた。偉大な詩人を出した部族は、いっぺんに部族の格が上がった。
遊び感覚で詩のかけ合いをやる光景が目に浮かぶ。大勢が一堂に集まり、グループ同士がかけ合って勝負を競う風景が目に浮かぶ。日本でもリングの上で二人が即興の詩を吟じて勝負するのを見たことがあるが、アラブでは日常生活においてこのような風景が見られるというのだ。また、引用部分の中の赤色のところ「言葉は人間の心を征服してしまう、ということにハッとさせられた。ヘイトスピーチや子供のいじめなど、言葉の恐ろしさが現実化している今日である。
彼らの一日は、日が沈んで砂漠の夜風に吹かれながら、インシャード(詩の朗読)をすることからたいてい始まる。詩のしりとりをすることもよくある。母親と息子が、詩のしりとりをするのをはじめて見た時は驚いた。彼らはなにげなくやっているだけなのだが。眼もとの涼しいアラビア美人のファイザが、やわらかい、しかしよく透る声で、詩の一節を朗々とうたいあげる。一瞬、美しくきまった間をおいて、母親に似て利発な顔立ちの息子、ガージーが、一段と声をあげて詩の一節をさけぶ。母親のファイザが続ける。ちょっとつまって、ガージーの番、ファイザの美しい声・・・・・
親子で詩のやり取りをする。しかも即興であるそうだ。つまってしまった息子に、ちょうど通りかかった父親がアドバイスしたりする様子が書かれている。
中々、絵になる風景である。ほかにも人を訪ねたときの手土産代わりに詩を贈る例も紹介している。本当に詩が生活に溶け込んでいることがわかった。きっとアブー・ ヌワース以外にも詩人と称する人々は多いはずである。後日、調べてみることにしよう。
とりあえず、「アラブの詩」という語で、インターネット検索すると、「中東地域の文学-アラブ篇」というサイトがあった。また、{アル・ジスル-日本とパレスチナを結ぶ(略称JSR)テーマ:「アラブの詩―ジャーヒリーヤからダルウィーシュまで」(仮題)}というのがあり、そこには「アラブの文化の核心はアラビア語。そのアラビア語を磨き上げたのが、詩です。「アラブの詩」抜きに「アラブ文化」を語ることはできません。日常生活から社会・政治にかかわるあらゆることが、「詩」という形で表現されました。」と書かれていました。
アラブにおける詩の文化を知ることができました。