ペルシャ語講座21:基本的な動詞

今回は基本的な動詞をまとめて紹介しておきましょう。文法の基本を覚えればあとは単語を覚えて行けばいいわけですが、というものの「単語は自分で辞書を引けばすぐに分かりますよ」というのも不親切なので、使用頻度の高いと思うような動詞を一覧にしておきましょう。ここで重要なことは動詞の原形(基本形)に対する語幹(語根、不定詞などという参考書もあります)です。語幹を知らなければ動詞の現在形を作れないからです。(講座6の現在形の作り方を参照してください。)

日語 英語 原形 発音 語幹 発音
行く go رفتن raftan رو rav, rou
来る come آمدن ア(o)ーマダン آ アー(o)
与える give دادن dadan ده dah
書く write نوشتن neveshtan نویس nevis
払う pay پرداختن pardakhtan پرداز pardaz
料理する cock پختن pokhtan پز paz
見る see دیدن didan بین bin
食べる eat خوردن khordan خور khor
飲む drink نوشیدن nushidan نوش nush
読む read خواندن khandan خوان khan
眠る sleep خوابیدن khabidan خواب khab
売る sell فروختن frukhtan فروش furush
持ってくる bring آوردن avardan آور avar
持っていく بردن bordan بر bar
get گرفتن gereftan گیر gir
聞く hear شنیدن shenidan شنو shenav
理解する understand فهمیدن fafmidan فهم fahm
洗う wash شستن shostan شو shu-
する do کردن kyardan کن kyar

思いついた基本的な単語をリストアップしてみました。動詞の数は勿論まだほかにもありますが、この程度でもかなり使えるのではないでしょうか。それと次にもしかしたら最も重要で使用頻度が高いかも知れない動詞を紹介します。それは「する」という動詞です。英語の「do」に相当する動詞です。上の表の一番最後の行で太字にしている動詞です。

「する」という意味で使うのは勿論です。が、名詞につなげると、その名詞を動詞化することになります。例えば「仕事」は「カール کار 」です。カールとキャルダンで「働く」です。「考え・思い」は「فکر 」です。キャルダンを付けて、fekr kyardan で「考える・思う」となります。他にも「開く」は「バーズ・キャルダン」となります。「忘れる」は「ファラームウシュ・キャルダン」、「お願いする」は「khahesh kyardan」・・・・となります。このようにキャルダンを付けて複合動詞を作ることができるのです。キャルダンの他にも、上の表の中では「ダーダン」でも同じようなことができます。ダーダンは与えるといういみですから、「勉強という意味のダルス」とつながって「ダルス ダーダン」は「教える」になります。勿論「教える」というそのままの動詞もありますが、このような使いかたも知っておけば、役に立つものです。他にもありますが、「ヤヴァーシュ、ヤヴァーシュ(ゆっくり、ゆっくり)」やっていきましょう。

閑話休題:日本・猛暑の夏

例年より遅く梅雨明けした日本は猛暑の夏を迎えています。最高気温が35度以上の日が続いており、今日8月10日は37度位が予想されています。私自身も連日クーラーの中で過ごす時間が多くなっています。コロナで外出は控えいるので、クーラーのきいた涼しい部屋にこもりっきりというのは身体にあまり良いとは思えません。

今回は、「この程度の暑さは大したことではない」と私の頭を洗脳するために、中東地域の都市の気温をチェックしてみました。データの出典は日本気象協会 https://tenki.jp/world/ を利用させて頂きました。8月10日の日本時間で午前5時発表となっています。

都市 最高 最低 平均
湿度%
サウジアラビア リヤド 42 27 12
トルコ イスタンブール 33 22 58
UAE ドバイ 44 31 62
レバノン ベイルート 28 23 71
バーレーン バーレーン 37 34 48
イラン テヘラン 38 21 18
シーラーズ 44 20 47
イスファハン 41 17 34

やはり、暑いですね。暑いどころか熱いような気がします。最高が40℃を超えるのが殆どです。日本でも40℃を超えることはありますが、それほど多くはありません。そして、最低気温が結構涼しいくらいの温度だということです。20℃台の下の方、イスファハンではなんと17℃となっています。一番暑くて不快そうなのはバーレーンでしょうか最高は37℃ですが、最低が34℃なのです。34度以下にならないのは私ならちょっと・・・ですが、そこで住んでいる人は適応するのでしょうね。

日本でよく言われるのは、気温がそう高くなくても、「湿度が高いからいやだね」ということです。それに比べると中東地域は相対的に湿度は低いです。でも、ペルシャ湾岸などは湿度も高いところがありますが、この統計ではドバイが62%、バーレーンが48%という程度です。

私が住んでいたことのあるテヘランをみると、最高37℃、最低21℃です。湿度は18%。この統計は発表のあった日の記録ですから、年間の最高気温ではありません。明日は40℃を超すかもしれません。実際私もテヘランで40℃超は何度も経験しました。朝は少し涼しいけど午後にはすごく暑い。でも木陰や影に行くと涼しさを感じました。それは湿度が低いからです。この統計では18%ですから、カラカラ状態ですね。あの頃は若かったので、午前の仕事を終えて、午後というか夕方4時半からの仕事再開の間にホテルのプールにいって軽食をとり泳いだりしたものでした。プールから外にでると、空気が乾燥しているので一気に乾きます。そして気化熱の影響で身体が冷えるのです。注射を打つ時に腕をアルコールで消毒すると冷っとするようなものです。湿度が低く乾燥しているということです。他には、日本人ですからよく集まっては麻雀をすることがありました。その麻雀牌なのですが、使っているうちにヒビが出てくるのです。さすがに割れることはありませんが、牌にヒビ傷が入るようになると、それが目印になって相手の牌が読めるようになったりしたものです。また、尺八が趣味な人が、尺八が乾燥して割れたということも聞きました。気温の話から、ついつい昔のことを思い出してしまいました。

結論です。中東に較べると日本の夏はまだ生易しいということです。これでこの夏も乗り切れそう!乗り切りましょう!

コーランについて(5):第2章・・・雌牛③

第2章にはもうひとつ興味深い「利息」のことがあります。今ではイスラム社会では利子・利息は禁止されていることが広く知られるようになっています。それをクリアしたイスラム銀行が存在することや、イスラム法に抵触しない金融取引が存在するようになっています。さて、コーランではどう書かれているのでしょうか。

第275節「利息を喰らう人々は、(復活の日)すっと立ち上がることもできず、せいぜいシャイターン(サタン)の一撃をくらって倒された者のような(情けない)立ち上がり方しかしないであろう。それというのも、この人々は「なあに商売も結局は利息を取るようなもの」という考えで(やっている)。アッラーは商売はお許しになった。だが利息取りは禁じ給うた。神様からお小言を頂戴しておとなしくそんなこと(利子を取ること)をやめるなら、まあ、それまでに儲けた分だけは見のがしてもやろうし、ともかくアッラーが悪くはなさるまい。だがまた逆戻りなどするようなら、それこそ地獄の劫火の住人となって、永遠に出してはいただけまいぞ。」
第276節「アッラーは(最後の審判の日には)利息の儲けをあとかたもなく消して、施し物には沢山利子をつけて返してくださる。アッラーは誰であろうと罪業深い無信仰者はお好みにならぬ。」
第277節「(だが)立派な信仰をもち、善行をなし、礼拝をきちんと守り、喜捨を出す人たち、そういう人たちの御褒美は神様が引き受けてくださり、もう何も怖ろしい目にも悲しい目にも逢うことはない。」
第278節「これ、信者の者、アッラーを畏れかしこめよ。まだとどこおっている利息は帳消しにせよ。汝らが本当の信者であるならば。」
第279節「だがもし汝らがそれがいやだと言うのなら、よいか、アッラーとその使徒(ムハンマド)から宣戦を受けるものと心得よ。しかし(そのあとでも)もし悔い改めるなら、元金だけは残してやる。つまり自分でも不当なことをしなければ、ひとからも不当なことはされないのじゃ。」
ながながと引用したが、利息を取ることを相当強く禁じている雰囲気が伝わってくるようではありませんか。そして、ここでも、悔い改めれば元金だけは戻してやろうぞとあるように、非常に現実的な対応策を提示しているのである。商取引の規則のような感じさえしてきます。

このあと「貸借」についても記述もでてきます。簡潔にいうと、貸借関係はアッラーの教えの通り、きちんと契約書を作っておくようにとか、債務を負うべき者が白痴や精神衰弱者である場合は後見役をつけたり、男二人が証人として立ち会うこと、もし男二人がいなければ男一人に女二人を証人にすることなど、事細かく現実的な内容が記されているのです。直接関係があるかどうかはわかりませんが、私が1971年にイランに赴任した時のことですが、会議をしたときは直後に会議で決まったことが書類に作成されて参加者が署名していました。そうした書類をとじたファイルが会社の書棚にズラッと並んでいたことを思い出しました。会議録だけでなく、何事も文書化して後日トラブルのないようにしていました。これはイスラムだけではなく、契約社会の外国では当たり前のことなのかもしれません。これにて第2章は終わりにいたしましょう。

冒頭の画像の出典は前回と同じです。羊皮紙に書かれたコーランの一頁です。9-10世紀のもので、書体はクーヒー体です。

コーランについて(4):第2章・・・雌牛②

前回の「第2章雌牛」の続きです。正直な話、私自身はコーランを丁寧に読んだことはありません。必要に応じて、所々を拾い読みしたというのが現実です。でも、最初に手にしたのが以前にも紹介しましたが、岩波文庫の井筒俊彦先生訳でして、大学生の時でした。だから、もう50年も前のことですから、その間、ずっと私の傍には置いてあったことになります。でも、丁寧に端から端まで読んだわけではありません。ブログを書くようになり、いまコーランについて書くのを機会に、勉強しながら読んでいるのが真実であります。コーランの専門家などではありません。その辺はご了承ください。一緒に勉強していきましょう。

さて、本題に入りますが、この章には色々なことが書かれています。特に一般の人でも知っているようなイスラムのこと、例えば前回述べた「メッカの方向に向かってお祈りすること」「豚肉を食べないこと」「断食のこと」などです。今回もそのようなこと(と言っても私が興味ある事柄になるでしょうが)、をいくつか紹介いたしましょう。今回も井筒訳を拝借します。

第195節「アッラーの道に(宗教のために)惜しみなく財を使え。だがわれとわが身を破滅に投げ込んではならぬ。善いことをせい。アッラーは善行をなす人々を愛し給う。」
第196節「メッカ巡礼と聖所詣での務めをアッラーの御ために立派に果せ。しかし妨害されてそれができない場合には、何か手ごろな捧げものを(出せばよい)。その捧げ物が生贄を捧げる場所に到達するまでは頭を剃ってはいかんぞ。しかし病気とか、または何か頭に傷をうけて(どうしても頭を剃らねばならぬ)人は、その償いとして断食するか、自由喜捨をするか、さもなければ生贄(少なくとも羊一頭)を出すがよい。・・・・・」
宗教のためには金を使うことを奨励していることが面白い。また、巡礼についてであるが、できない場合は捧げものを、しかし、それについても頭を剃ることはあわてるなとか、でも、それも都合によっては無理なら、こうしたらいいというようなことが述べられているわけです。イスラムではこのように「~ができないときは、~しろ」ということが随所にあるように思うのです。断食の場合もそうです。「病気の時は仕方がない。旅行の時も断食は辛くてしんどいからやらなくていい。でも、後日改めて断食しろ。それが出来なければ施しを与えなさい」という風にです。つまり、非常に現実的な規則を定めているのです。精神論だけでなく、現実的な規則なのです。私はそれが「人間臭い」と感じるのです。

次のくだりは神へのお願いのことらしい。
第198節~202節「汝らが神様にお恵みをおねだりするのは罪ではない。・・・中略・・・人によっては、「神様私どもに現世で(沢山よいものを)お与え下さい」などとお願いする者があるが、そのような者は来世で何の分け前にも与れまいぞ。また人によると「神様、私どもに現世でもよいものを、来世でもよいものをお与え下さい。私どもを(地獄)の劫火の罰から護り給え」という者もある。このような者どもには自分で稼いだだけのものが与えられよう。まことにアッラーは勘定早くおわします。」
ここの部分もユーモラスではないでしょうか。「お前たちのなかにはいろんなことをお願いしてくるやつがいるんだよ」と苦笑いしているアッラーが目に浮かびます。そこでお気づきでしょうか。イスラムは今生きている現世の利益を求めるのではないということです。ムスリム(イスラム教徒がもとめるのは来世利益なのです。死後の世界で地獄に落ちて劫火の苦しみを受けることから逃れるために生前に善行を積むことを奨励しているのです。

第214節「一体汝ら、過ぎた昔の人々が経験したような(苦しい試み)に遭わずに(楽々と)天国に入れるとでも思っておるのか。。(昔の人たちは)みんな不幸や災禍に見舞われ、地揺れに襲われ、しまいには使徒も信者たちも一緒になって「ああ、いつアッラーのお助けがいただけるのか」と嘆いたほどではなかったか。いや、なに、アッラーのお助けは実はすぐそこまできておるのだが。」
第215節「どんなことに金を使ったらよかろうかとみんながお前(ムハンマド)に訊いてくることであろう。答えてやるがよい、善行につかう金なら、両親と親類縁者、孤児と貧民と路の子(旅行者)のため。お前たちがする善行については、アッラーは何から何までご存知だぞと。」
第219節「酒と賭矢(賭け事の一つ)についてみんながお前に質問してくることであろう。答えよ、これら二つは大変な罪悪ではあるが、また人間に利益になる点もある。だが、罪の方が得になるところより大きい、と。・・・・・」
楽々と天国に行けるものではないのだと、言っている。イスラムは現世よりも来世のほうが長いので来世で天国で幸せに暮らすことを夢見ているのです。そのためにも地獄の劫火に遭わないことを求めるのです。地獄の劫火にあったらそれはそれは苦しいこと限りない世界のようです。すでにもう死んでいるのだから、劫火にあってどんな苦しい目にあっても死ぬことはない。極限の苦しみが永遠に続くことにある恐ろしい地獄の世界らしいのです。
ここでもお金の使い方がでてきました。使い道の一つとして両親、親類縁者、孤児、旅行者への支出が挙げられています。血縁よりもイスラム同胞を重んじるイメージがあるので両親、親類縁者はちょっと意外ですが、孤児を大事にするというのはあちこちで述べられていることです。酒と賭け事については 益<害 ということで説明されています。

第256節~257節「宗教には無理強いということが禁物。既にして正しい道と迷妄とははっきりと区別された。さればターグート(イスラム以前のアラビアで信仰されていた邪神のたぐい)に背いてアッラーの信仰に入る人は、絶対にもげることのない把手を掴んだようなもの。アッラーは全てを聞き、あらゆることを知り給う。アッラーこそは信仰ある人の保護者。彼らを暗闇から連れだして光明へと導き給う。だが、信仰なき者どもは、ターグートたちがその保護者、その手引きで光明から連れ出され、暗闇の中に落ちて行く。やがて地獄の劫火の住人となり、永遠にそこに住みつくことだろうぞ。」
無理強いして入信させるのは禁物であると言っている。だから入信しなくてもいいではなく、イスラムを信仰しなければ地獄へ落ちて大変なことになるぞと言っているのである。そして、光明という言葉がでてきたが、イスラムではイスラム以前の時代をジャーヒリヤといって日本では無明時代、つまり光のない時代と訳されています。イスラムではイスラムが誕生して人々は光ある世界の下で暮らせるようになったと言っているのです。私からみるとイスラム以前にも例えばササン朝ペルシャなどでは洗練された文化のもとで豊かな世界が発展していたと言いたいのですが。

この章はもう少しありますが、とりあえず今日はここまでにしておきます。続きを書くか、また別の章へ移るのか、それは神のみぞ知ると言っておきましょう(笑)。ところで冒頭の画像はオスマン朝時代の17世紀にムスタファ・イブン・ムハンマドという書家のコーランの写本です。『Palace and Mosque, Islamic art from the Victoria and Albert museum』から拝借させていただいたものです。それから、ここに書いた事柄がすべてではありません。例えば酒なら酒についての記述は他にも沢山あります。同様に賭け事についても、断食や巡礼についても複数の章で書かれているので、ここのものがすべてではないことには御留意ください。

コーランについて(3):第2章・・・雌牛①

コーランの最初の頁「第1章・・・開扉」に続くのが「第2章・・・牝牛」です。かなり長い章で286節で構成されています。手元にある亜日対訳コーランでは約50頁の量になっています。ここには興味ある事柄が盛りだくさん含まれています。

第1節はアリフ・ラーム・ミームです。これだけです。アラビア文字の3文字があるだけです。つまり、الم というわけです。何を意味するのでしょうか?諸説あるようですが、それを聞いても私には良く分かりません。逆に言うと、こう言う意味であるとはっきりしたものがないということなのでしょう。全114章のうちの29章が冒頭にこのようにアルファベットで始まっています。そして、このアリフ・ラーム・ミームで始まっているのは6つの章です。残りの23章がどのような文字で始まるかはその都度紹介していきましょう。(以下の訳文は井筒俊彦著『コーラン』からの引用です。)

礼拝をする方角をキブラということは以前紹介したことがあります。このキブラについて142節以後で触れています。144節には「何処から出てきた場合でも、必ず顔を(メッカの)聖なる礼拝堂の方に向けるようにせよ。この(規定)は、まさしく主の下し給うた真理。アッラーは汝らの所業をぼんやり見過ごしたりはなさらぬぞ。」とあります。世界中のどこにいても、イスラム教徒たちが礼拝の時にはメッカの方向を見て行うということがここに記載されているのです。

では、食べ物について見てみましょう。173節には次のように書かれています。「アッラーが汝らに禁じ給うた食物といえば、死肉、血、豚の肉、それから(屠る時に)アッラー以外の名が唱えられたもの(異神に捧げられたもの)のみ。それとて、自分から食い気を起こしたり、わざと(神命に)そむこうとの心からではなくて、やむなく(食べた)場合には、別に罪にはなりはせぬ。まことにアッラーはよく罪をゆるし給うお方。まことに慈悲の心深きお方。」豚肉・血・死肉以外のものなら何を食べてもいいようです。

第177節「本当の宗教心とは汝らが顔を東に向けたり西に向けたりすることではない。いや、いや、本当の宗教心とは、アッラーと最後の(審判の)日と諸天使と聖典と予言者たちとを信仰し、己が惜しみの財産を親類縁者や孤児や貧民、または旅路にある人や物乞いに分け与え、とらわれの(奴隷)を購って(解放し)、また礼拝のつとめをよく守り、こころよく喜捨を出し、一旦約束したらば約束を果し、困窮や不幸に陥っても危急の時にのぞんでも毅然としてそれに堪えてゆく人、(これこそ本当の宗教心というものじゃ)そういうのが誠実な人、そういうのこそ真に神を畏れる心をもった人。」とある。とある。この部分は喜捨の勧めに相当するでしょうか。

第183節「これ信徒の者よ、断食も汝らの守らねばならぬ規律であるぞ、汝らより前の時代の人々の場合と同じようね。(この規律を良く守れば)きっとお前たちにも本当に神を畏れかしこむ気持ちが出来てこよう。」第184節「(この断食のつとめは)限られた日数の間守らなければならぬ。但し、汝らのうち病気の者、または旅行中の者は、いつか他の時に同じ数だけの日(断食すればよい)。また断食をすることができるのに(しなかった)場合は、貧者に食物を施すことで償いをすること。しかし、(何事によらず)自分から進んで善事を成す者は善い報いを受けるもの。この場合でも(出来れば規律通りに)断食する方が、汝らのためになる。もし(ものごとの道理が)汝らにはっきりわかっているならば。」このあともう少し断食についての記載が続いている。断食の規律に従えなかった場合には後日穴埋めをすればよいというようなことであるが、このような点で私はイスラムは非常に現実的かつ具体的なを有する集団であると思う。それにもう一つ人間臭いものでもあると感じている。それは次のような節である。第187節「断食の夜、汝らが妻と交わることは許してやろうぞ。彼女らは汝らの着物、汝らは彼女らの着物。アッラーは汝らが無理していることをご承知になって、思い返して、許し給うたのじゃ。だから、さあ今度は。(遠慮なく)彼女らと交わるがよい。そしてアッラーがお定め下さったままに、欲情を充たすがよい。食うもよし、飲むもよし、やがて黎明の光りさしそめて、白糸と黒糸の区別がはっきりつくようになる時まで。しかしその時が来たら、また(次の)夜になるまでしっかりと断食を守るのだぞ。礼拝堂におこもりしている間は、絶対に妻と交わってはならぬ。これはアッラーの定め給うた規定だから、それに近づいて(踏越え)てはならぬ。このようにアッラーは人間にそのお徴を説き証かし給う。こうすればきっとみんなも敬神の念を抱くようになるかも知れぬとお思いになって。」

長くなるので一度ここで終わることにし、後日つづきを追加することにします。

書籍紹介:イスラム2.0(SNSが変えた1400年の宗教観)

コロナの影響で外出を控えていましたが、不要不急でない用があり、名古屋に出かけました。少し時間があったので大型書店の店頭でこの本を見つけました。

題名は『イスラム2.0(SNSが変えた1400年の宗教観)』というちょっと風変わりなタイトルに魅かれました。著者は飯山陽さん。初めて知った著者でしたが、新潮新書『イスラム教の論理』という書籍も出している方でして、私の勉強不足でした。表紙カバーに記載されている著者の紹介は以下の通りです。ツイッターでも発信しているようです。

さて、内容ですが、私が店頭で見て魅かれたのは、そのタイトルです。イスラム2.0とは何だろうかということでした。そこで中身をみると42頁に次のようにかかれていました。
2000年以降、ジハード主義が世界中で急速に拡大した背景にあるのは「イスラム2.0」であると私は考えています。イスラム2.0とは、ここ10年ほどの間に世界で発生したイスラム教に関わるような様々な事象を解釈するために、私が創出した分析概念です。
この概念においてイスラム教は、「イスラム教についての知識」というOSを搭載し、それに従って考えたり行動したりする存在だととらえられます。イスラム教が勃興した七世紀からインターネットが普及するまでの約1400年間にわたり、イスラム教徒たちが搭載してきた「イスラム教についての知識」が、OS1.0です。インターネットが一般に普及し検索エンジンやSNS、動画サイトなどが登場した2000年代初頭から、そのイスラム1.0が2.0へとアップデートしています。現在は、世界中のイスラム教徒の脳内OSが2.0に更新されつつある移行期、というのが私の認識です。

つまり「イスラム2.0」というのは著者が創出した分析手法ということです。中々面白い発想だと思いました。1400年もの間伝えられてきたイスラム教徒たちの伝統的な社会の今をITの世界でのOSという概念に例えて考察しようとしているのです。

分析手法は分かりました。その方法でどのような分析がなされたのでしょうか。詳しい内容をここで書いてしまうと販売を妨害してしまいます(笑)。詳しいことを知りたければ、この本を買って読んでみてください。新書版ですので税別で880円という手軽に買える価格です。

要は、1.0のOS時代には、一人一人のイスラム教徒に本当のイスラムの教えが正確にが伝えられていなかった。イスラムの知識は一部の法学者たちの独占販売的なものであって、それを皆鵜呑みにしてきたのだった。しかし、現在のイスラム教徒の脳内にはOS2.0を搭載するようになったので、イスラム法学者のいうことだけを信じるような世界ではなくなったというのである。

これまでコーランの内容を事細かく知って理解するのは難しかったが、いまではインターネットを使えばコーランの内容を誰もが知ることができて、自分で内容を理解することができるようになっているという。その結果、イスラムに対する考え方が覚醒された結果が現在のイスラムの背景であるという。世界中で多発しているテロ事件、ジハードを実行するイスラム教徒の背景にはOS2.0による、彼らの周りの環境変化があるという。

まだ最後まで読み終えていないのであるが、十分面白い本です。また、私の知らない面での情報が沢山あって新鮮でもあります。中東・イスラム世界に関心がある人は是非とも読んで頂きたいものです。そして、ご自分で考えてみてください。

狂った世界

 

これは7月25日の中日新聞の記事である。米軍機2機がイランの旅客機に接近したために、旅客機が急降下した。それにより乗客に負傷者がでたという記事である。記事が伝えているように、負傷者の様子が動画でも流れたのを私もネットで見たのである。旅客機がテロリストに武器を運んでいるので、同航空に制裁を課しているとも記している。一般乗客を巻き込む大惨事になるおそれのあることを米国は行っている。イランの新聞は接近した米軍機の画像をトップにアップしている。抗議の応酬だけで大事には至らなかったがキナ臭い話である。

いま、中国と米国との関係も悪化している。在米中国領事館、在中アメリカ領事館が相互に閉鎖の応酬をおこなったようにここでも緊張が高まっている。そして、イランでは軍事や核施設、工場などで大規模な火災や爆発が止まらないと、29日の中日新聞は報じている。6月下旬以降に少なくとも12件発生しており、当局は「事故」と説明しているようである。しかしながら、それは表向きの発表であり、裏では外国勢力の関与が取りざたされているのである。

コロナが一向に収束の方向に向かわない世界の中で、団結してコロナに立ち向かう何の姿勢も見せないのが今の世界だ。協力どころか今後開発される期待のワクチンを自国で確保しようと競争する姿は醜悪である。世界の指導者はこんな時こそ、穏やかな社会を築こうと手をつなぐべきではないのだろうか。我が国も同類である。コロナの最中に旅行に行けという政府。温泉に入って仕事するのもいいよと「ワーケイション?」などという政府。どこか狂っていないだろうか。

「アヤソフィアのモスク化」のその後

このブログで、7月13日にトルコ政府がアヤソフィアをモスクにする決定をしたことを書きました。今回は、そのアヤソフィアにて初の金曜礼拝が行われたという新聞記事(7月25日・中日新聞)を紹介します。モスクに変更されたアヤソフィアで24日に初の金曜礼拝が行われ、エルドアン大統領も出席したと報じている。トルコ国内でも賛否両論があり、複雑な問題ではある。アヤソフィアで礼拝できることを素直に嬉しく思うムスリムがいる。これは極めて自然なことであろう。一方で、イスタンブール市内にはすでに三千近いモスクがあり、市民の間には「礼拝時にほとんど人がいないモスクもあるのに、なぜこれ以上必要なのか」という声もあるそうだ。モスクとしての機能だけを求めるなら、モスク化は必然性がないとも言えよう。また、アヤソフィアに訪れる観光客から得る収入は大きいので、外貨獲得という面ではマイナスであろうとも。今後もこれまでのように観光ツアーも入れるようであるが、礼拝時だとかイスラムの行事のときを避けるようなツアースケジュールを強いられるようである。

時代の流れとアヤソフィア:
537年・・・・ ギリシャ正教の重要な聖堂として建設
1453年・・・   オスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼす
1453年・・・・アヤソフィアがモスクに転用された
1934年・・・・トルコ政府が博物館とする閣議決定
2020年・・・・行政裁判所がその決定を無効と判断しモスクとなった

オスマン帝国が第一次大戦で敗れ、新生トルコが誕生した。一時はセーブル条約でトルコの領土分割が行われたが、立ち上がったケマルが連合国側と再交渉してローザンヌ条約にこぎつけて、今のトルコを築き上げた。ケマルの頭にはトルコの将来のためには民族や宗教ということにとらわれない国家を描いていた。従って政教分離をすすめた。イスラム世界でいう世俗化である。もっと言えば、極端であるが、トルコにいるのは皆トルコ人である。クルド人はいない。クルド人はトルコ語を忘れた山岳トルコ人であるといった。民族や宗教に関係なく国民国家というようなものを作ろうとしたのだった。当然イスラム色は排除である。
ところが時代の流れと共に、世界中が変化してきた。イスラム世界ではイスラム復興の掛け声が高まった。イランでは革命によってイスラム共和国が生まれた。・・・・エルドアン大統領が率いるトルコではイスラム色の強い政策が進められてきた。今回のアヤソフィアのモスク化はモスクとしての必然性などとは関係なく政治的なパフォーマンスなのである。求心力が弱くなった指導者は極端な政策をとって注意を我に引き寄せようとする。アメリカのトランプもそうである。彼が大統領になって以後、やりたい放題である(特に米大使館のエルサレム移転)。それでもそれを指示する層がいるのである。

今回のアヤソフィア問題では前回心配だと書いた「モザイクの壁画」が布で隠されることになるようである。破壊されなくてホッとしているのである。

 

 

中東の美:ラスター彩の輝き

前回、白瑠璃碗、つまりガラス器を取り上げたので、今回も焼き物を取り上げよう。今回はガラスではなくと陶器やタイルである。冒頭の画像はINAXライブミュージアム「世界のタイル博物館」コレクションを紹介している小冊子『ラスター彩タイル』の表紙である。副題として「天地水土の輝き」とある。発行は2013年9月である。ラスター彩とはなんであろうか。この小冊子では「ラスター彩は器の表面に描かれた図柄が金属的な輝きを呈する陶器の彩画技法で、イスラーム地域で特に発展した。」と説明されている。そしてINAX社が集めた12世紀~13世紀に焼かれた美しいタイルが紹介されている。無断転載は禁止なのでここに紹介はできなくて残念であるが、INAXのホームページから見ることができるのではないだろうか。ところで、ラスター彩は金属的な輝きをいかにして発光させているのだろうか。インターネットでは以下のように説明されていた。

ラスター彩とは:
① ウィキペディア
ラスター彩(ラスターさい、Lusterware)とは、焼成した白い錫の鉛釉の上に、銅や銀などの酸化物で文様を描いて、低火度還元焔焼成で、金彩に似た輝きを持つ、9世紀-14世紀のイスラム陶器の一種。ラスター(luster)とは、落ち着いた輝きという意味。
② 大辞林 第三版
イスラム陶器の一。スズ白釉はくゆうをかけて焼いた素地きじに銀・銅などの酸化物で文様を描き低火度で焼成したもの。金属的輝きをもつ。
③ 百科事典マイペディア
陶器の表面に金属や金属酸化物のフィルム状の被膜を600〜800℃の低火度で焼きつけ,真珠風の光沢や虹彩(こうさい)を出した焼物。この技法は9世紀にメソポタミアで始まったといわれ,次いでエジプトで発達し,のち12,13世紀のペルシア陶器に多く用いられた。
④ 世界大百科事典 第2版
陶器の釉薬において金属酸化物に起因する輝き,あるいはこの輝きをもつタイプのイスラム陶器をいう。日本では〈虹彩手〉〈きらめき手〉と呼ばれている。技法的には,スズ釉による白色陶器(素地を青緑,藍彩にする例もある)に銀,銅酸化物(硝酸銀,硫化銅)を含む顔料で絵付をし,低火度還元炎で再度焼成する。呈色は黄金色が多いが,釉薬の成分,焼成温度などによって微妙に変化するので,黄褐色,赤銅色を呈することもある。 ラスター彩の技法は9世紀にメソポタミアで創始され,次いでエジプトに伝えられてファーティマ朝下で発達し,王朝滅亡後はイランに伝播した。

釉薬に金属、特に錫を混ぜるような技法であるらしい。かといって、そのように釉薬を調整すればできるというものではない。焼成の温度や陶土の質だとか、ラスター彩のあの本当の輝きを出すことは非常に難しいということだ。

これは私の手元にある1986年発行・保育社カラーブックス『ペルシャ陶器』500円の表紙である。著者は人間国宝の加藤卓男さんである。私の手元には2冊あり、もう一冊は表紙を広げると次のように著者のサインがある。陶器の作品に描かれる見慣れた銘のそばにペルシャ文字でتاکو کاتو と付記している。最初の تا の部分はちょっと変形させているようだが。著者の加藤卓男さんは、ペルシャ陶器のラスター彩に魅せられて、イランに通い、ついにラスター彩を復元することができた陶芸家なのである。岐阜県多治見市に1804年に開いた幸兵衛窯の第六代目である。現在は七代目の代になっている。幸兵衛窯では彼の作品やコレクションが見学できるので、私は時々訪れることがある。

この『ペルシャ陶器』によると釉薬のことや、イスラム模様のこと、各地域のラスター彩のことなどを知ることができる。

また、上の画像の『やきもののシルクロード』という書籍では加藤卓男さんが追い求めたペルシャ陶器のことを味のある文章と絵で著している。素晴らしい書籍である。彼はペルシャ風の絵をうまく描いており。陶板も数多く製作しており、幸兵衛窯では買い求めることができる。

最後は圧巻の『ラスター彩陶・加藤卓男作品集』を紹介して終わろう。

著作権に触れるといけないので遠慮して作品集の写真の中の一枚だけアップさせてもらおうとするのだが、一枚を選ぶのが非常に難しい。読者はどうかネットの中で、検索して彼の作品をご覧いただきたい。いや実際に幸兵衛窯に行って、本物をみていただきたいものである。

 

 

 

 

書籍紹介:正倉院ガラスは何を語るか

今回紹介する本は冒頭の中公新書・由水常雄著『正倉院ガラスは何を語るか』である(2009年発行ですが、今でも新鮮な内容です)。副題として「白瑠璃椀に古代世界が見える」がついている。私を含め多くの日本人はシルクロードが好きである。遠い昔、西域のほうからラクダやロバを率いた隊商が異国情緒豊かな洗練された物品を運んできた。その頃は唐であったろうか、中国からはシルクが運ばれていった。シルクロードの貿易産物は奈良の都にも届いたのであった。毎年秋に開催される正倉院展には多くのシルクロードファンが押し寄せる。

正倉院所蔵物の中でも有名な物の一つがガラスの瑠璃碗であろう。子供の時に美術の教科書で見たような気がする。あるいは歴史の教科書であったかもしれない。シルクロードの長い道のりを経て、日本までやってきた浪漫を感じさせる碗であった。

本書の冒頭には次のように書かれている。
奈良の東大寺正倉院に奈良時代から今日まで伝えられてきた多くの宝物は、世界最高の文化遺産として、わが国はもちろんのこと世界中の人々によって、驚異の遺宝として、称賛されている。そして、これらの宝物のなかでもとりわけ美しく、華やかなロマンをたたえているのが、異国情緒満載のガラス器類である。東大寺正倉院には、現在六点のガラス器が宝蔵されている。いずれも外国からもたらされた外来文化を象徴するガラス器である。1965年に発行された正倉院ガラスの正式な学術調査報告書、正倉院に事務所編『正倉院のガラス』(日本経済新聞社)によるとそれら六点のガラス器については、「瑠璃唾壺(るりだこ)こそ平安中期の奉献である確証はあるが、他のガラス容器はその性格が天平勝宝(てんぴょうしょうほう)4年のものと見ても別段さしつかえあるとは考えられない。」と解説している。この天平勝宝4年(752年)には、東大寺の大仏がほと完成して、盛大な大仏開眼供養会が開催された。国内外から多数の参拝者が訪れ、外国の要人たちからも多くの宝物類が奉献された。この報告書『正倉院のガラス』に基づいて、中学、高校の歴史教科書をはじめ、百科事典等の辞典類にも、この記述が一般化されていて、今日に至るまで、これが正倉院ガラス器の一般通念となってきたのであった。

私が子供の頃に見たと先述したのは間違いではなかったようだ。本書の内容を知ってもらうために目次の画像を以下にアップしてみよう。



正倉院に宝蔵されている白瑠璃碗についての説明、それがササン朝時代の経済活動によって日本にたどり着いた経緯などが第1章、第2章で知ることができる。そして、本書の魅力は白瑠璃碗が正倉院に辿り着くまでの数奇な運命のような道のりを解き明かしたことである。まるで、サスペンスドラマや推理小説を読むような感じであった。ガラス器であるから構造的なちょっと難しい部分もあったり、中央アジアのガラス製作の工房などをたずねるのも、サスペンスドラマで犯人の足取りを辿るような感覚であった。あの白瑠璃碗はずっと正倉院に存在していたのではなかったのである。保存されている物のリストがいくつかの時代に作成されており、著者はそれを綿密に調べた結果が述べられている。詳しいことを書くとドラマの結末になるので、そこまでにしよう。

白瑠璃碗が何処で制作されたのか?についても著者はきめ細かな調査・考察を重ねている。東京大学東洋文化研究所教授、深井博士の説によると製作地はシリアやエジプトなどのローマ帝国の東方領ではなくて、イラン高原の古代オリエントの伝統が濃厚に残っていた地方(ギラーン州)と推定、製作年代は三世紀以降七世紀以前とされている(34頁)。しかしながら、著者はギラーン州は製作地として考えることもできようが、古代貿易ルートの集荷地と考えることのほうがより妥当性があろうとして、実際の製作地は現在のイラクのキッシュであると推定しているのである。


ギラーン州が白瑠璃碗の製作地あるいは交易で栄えた集積地であったとする両者の見解について、私は「えっ」と思ったのではある。このブログでも私は何度かギラーン州(私はギーラーン州と書きます。ペルシャ語の記載は گیلان  ですから)のことを書いています。そこでゲットした壺のことも書きましたね。しばらく住んでいたところなので、古代オリエントの伝統が濃厚に残っているような土地だとは思ったこともなかったのです。またカスピ海があるので船による交易はある程度盛んではありますが、南をエルブルズの山脈で阻まれたこの地域はそれほど交易で栄えた地域とは思っていないのです。でも実際に白瑠璃碗がここでも見つかっているとのことなので、改めてこの地域に対する興味が湧いてきました。今度行ったときにバザールの奥の方で探してみたりしてみたいものです。この白瑠璃碗は世界で2000個程発見されているとのこと。そこで著者はキッシュでは組織だった工房のもとで厳格に管理された状態で大量に生産できるシステム、技術があったとしています。

 

そして、実際に白瑠璃碗を複製したというのである。ここで、私はこの著者の本気度に感心したのであった。はじめ、ササン朝ペルシャから伝来したガラス器を愛でて、その背景となったペルシャの世界に夢を膨らませる内容だと思っていたのが、違った。面白かった。そして、復元ができているなら買うこともできるのだろうか?と思うのは当然である。インターネットで検索すると、ありました。ヤフーオークションにもでていました。楽天ショッピングにもあったかな。いずれにせよ、この著者が監修して作られた作品があるのです。そういうことなのです。