ペルシャ語講座11:疑問代名詞

今回は疑問代名詞としました。語学の専門家ではありませんので、疑問代名詞という意味が本当は何なのかなど細かいところは分かりませんが、英語の what や who などのつもりで、書こうとしています。完成した原稿を見て書いているのではありません。毎回の記事がそうなのですが、パソコンのキーを打ちながら書いているので、どの方向に行くのかは気持ち次第なのです。

まず、昔読んだことがあるのですが、全然言葉の分からない、言葉の知らない国に行って、言葉を覚えようとするときに、その人はスケッチブックかノートのような白い紙に、ゴチャゴチャと何か分からないような絵のようなものを描くそうです。そうすると、側にいた子供たちが「何?」と言ってくるそうです。そこで彼はまず最初にその国の「何?」という言葉を覚えるのだそうです。その言葉がわかれば、あとは、見たものを指さして何?」と質問すると、次々に新しい単語を覚えることができると書いてありました。なるほどと思ったものでした。

そこでペルシャ語の「何?」英語の「what」から始めましょう。what は「チェ」です。スペルは چه です。ローマ字で綴ると cheとなります。「これは何ですか?」「イン チェ アスト」「in che ast 」「این چه است ؟ 」となります。これが正しいペルシャ語です(笑)。が、実際には「イン チースト?」となります。「این چیست ؟ 」とでも書けばいいでしょうか。そして、もっと言うならば「イン チエ?」と書けばいいかな? インはこれですね。あれは「アーン」ですから、「あれは何?」は「アーン チエ?」で結構です。「あれ」や「これ」のところにたずねたいものの単語を入れてみてください。「あなたの名前」なら「エスメ ショマー」「あなたの国は」なら「ケシュヴァレ ショマー」です。名前はエスム、国はケシュヴァルですが、あなたのという時は単語の語尾の子音にeを付けます。このeをエザフェと呼んでいます。ローマ字で書いた方が分かりやすいですね。esm-e-shoma とkeshvar-e-shomaです。名詞に形容詞をつけて就職するときも名詞の語尾にeを付けたのでしたね。~~の何々というときの「の」に相当するのがエザフェの e と覚えましょう。

  • 今日のランチは何? ナハーレーエムルーズ チエ?
  • 明日の天気は何? ハヴァーエーファルドー チエ?

ちょっと横道に逸れてしまいそうですが、チェが何?という意味ですから、「どのくらい」「どの程度」という意味合いをたずねるときに「ちぇ カドル cheh qadr ?」という単語があります。また。「どうでしょうか?」のよう場場合には「チェ トウリー cheh touri ?」という単語もあります。「挨拶の会話」で「how are you?」を「Hal-e-shoma khob?」と教えましたが「Hal-e-shoma chetouri ?」も使います。そうなると「調子はどうでしょうか=ご機嫌いかがですか」となりますね。いま「挨拶の会話」を見直してみると「ちぇ トウリー」のことも書いていましたね。 ついでに言うと、会話していてちょっと意味が分からないことがあった場合には「ヤニチェ?」と言ってください。「ちょっと、どういう意味?」という感じです。یعنی ヤニ・Yaniは副詞としては「すなわち」、自動詞としては「意味する」という単語です。ヤニチェ? 覚えておくと便利な言葉です。

チェだけで随分書いてしまいました。今回はチェだけで終わりましょう。中々、いいレッスンだったような気がします(笑)。

革命防衛隊について

今年初めにイランのソレイマニ司令官がアメリカによって殺害されたことで、世界中に緊張感が拡がった。直後にウクライナ機がイランのミサイル攻撃で墜落した事件も起きた。ミサイル攻撃は誤射であったことをイラン政府が認めたことにより、状況はちょっと違った方向に転換していった。イラン国内で政府を批判する動きが現れたのであった。それに対して、トランプが応援姿勢を示したが、イラン政府はソレイマニ殺害直後の米軍基地攻撃以後には攻撃的な態度にはでず、沈静化に努めたようにみえる。今回は、殺害されたソレイマニ司令官が所属したコッズ部隊とは、その上部組織である革命防衛隊を取りあげる。

ご存知のように、イランの現政権は1979年に革命によって成立した政権である。それまではパーラヴィー国王による立憲君主制の国家であった。新政権は「イラン・イスラム共和国」という名の共和国となった。イスラムと銘打っているように、イスラム法のもとで統治される(ベラヤテ・ファギーフ)国家となった。新政権の最高指導者はホメイニであった。上の図は国軍の位置づけを表したのである。国王の下に国軍があり、軍は国王に忠誠を誓っていたわけである。国王が国外に逃れ、革命が成立したあとに軍の幹部は粛清の対象となったが、軍が消滅したわけではない。軍は当然新政権の管理下に置かれた。しかしながら、為政者の心理として軍が謀反を起こすことを考えないわけではない、常に注視するのは自然である。

ホメイニは国軍とは別に「革命防衛隊」という新組織を創設したのであった。簡単な位置づけは、イラン国軍(アーテッシュ)はイランの独立と領土保全に責任をもち、革命防衛隊は革命とその成果を守る責任があるという(つまり、早い話が自分たちのイスラム政権を死守するための軍隊ということだ)。

イラン・イラク戦争(1980年9月~88年8月)は革命防衛隊の重要な任務となり、規模が拡大していった。 1981年5万人、1983年15万人、1985年25万人・・・35万人とも言われた。最近の情報では概ね次のように言われている。

革命防衛隊 国軍
陸軍 100,000 350,000
海軍 5,000 18,000
空軍 20,000 52,000
小計 125,000 420,000

数の上からみると国軍に較べて革命防衛隊は1/3程度でしかない。しかしながら、例えばミサイルのような最先端とはいえずとも、先端の兵器を装備しているのは革命防衛隊である。戦争時に戦える軍隊は革命防衛隊のほうなのである。そして、何よりも大きな特徴は、革命防衛隊には特殊作戦部隊(通称コッズ部隊)と民兵組織であるバスィージ(バシジ)があるということである。

先般、殺害されたソレイマニーはコッズ部隊の司令官であった。コッズ部隊はハメネイ最高指導者に直属する部隊で、革命防衛隊の中で最も精鋭の部隊である。周辺国(レバノンやイラクなど)でも活躍していると見られている。かつての大統領、アハマドネジャドもコッズ部隊に属していた。彼が大統領のときの「イスラエルを地図から抹消する」という発言はコッズ部隊の過激さを表しているといえよう。はっきりとは分からないが15,000人程度のようである。

次いでバスィージは1979年11月に創設された民兵組織であったが、次第に革命防衛隊の補助組織となっていった。バスィージはイラクとの戦争時に地雷原への人海戦術に使われた。バスィージを構成していたのは地方出身で革命に影響を受けた宗教心豊かな少年たちだった。イラク戦争の間に、バスィージの数は300万人超になったとも言われている。反政府運動などのデモが発生したりすることもたまにはある。このようなときに政府が頼りにするのは革命防衛隊であった。また。バスィージはイスラム社会の価値観からはみだすような言動を取り締まった。正規のバスィージは90,000人程度。予備軍が300,000人とも。また有事になると、もっと増やせるという。

次に注目すべきは「革命防衛隊は単なる軍隊ではない」ということである。北朝鮮や中国、パキスタンなどと軍事的な協力関係の下で武器や兵器の軍事産業を手掛けているのである。革命防衛隊の傘下には様々な企業体が置かれている。Khatam al-Anbiaはそのなかでも、もっとも大きな企業体であろう。イラク戦争後の復興のために造られた土木・建設会社である。革命防衛隊はアメリカからはテロ組織と名指しされているが、Khatam al-Anbiaも制裁の対象である。イランの重要な石油産業においても革命防衛隊参加の企業が活躍しているのはいうまでもない。軍産複合体的な発展をしているのが、イラン・イスラム革命防衛隊である。

 

ペルシャ語講座(番外篇):ユーチューブを利用しよう

このブログに「ペルシャ語講座」を時々入れていますが、これまでに10回になります。お遊び程度に始めたものですが、少しは見てもらえているようです。中でも、4回目の「挨拶の会話」の閲覧回数が多いようです。でも、正直言うと、私が書くこのブログでペルシャ語が学べるとは思えません。ペルシャ語の一端を知っていただける程度でしかないだろうなというのが本音です。やはり語学は音が重要です。それもネイティブの発音が望ましいでしょう。そんなことを思いながら、ユーチューブでペルシャ語のレッスンをしているものを探してみました。色々出てきました。中でも「挨拶の会話」などを扱ったものがありました。それが冒頭のユーチューブ動画です。再生スピードが少し早いので、今から始めようという方にはちょっと聞き取りにくいかもしれませんが、簡単な内容ですので予め予習しておけばいい動画だと思いました。このような動画が昔あったなら、勉強も楽だっただろうなと思います。当時はインターネットそのものがなかった。いや、パソコン自体がまだ知られていない時代でしたからねえ。せいぜい、リール式のテープレコーダーが最新の語学学習機器でした。あるいはリンガフォンというレコードも有名な教材でした。私は英語のリンガフォンを買いました。話がそれましたが、今日はユーチューブの動画を紹介するだけが目的です。

同じ動画の2も次にアップしておきます。参考にして学習してみてください。

イラン革命から40年

上の画像は2月9日のイランの新聞 (Iran daily)です。1979年2月8日の革命から41年となります。新聞はハメネイ最高指導者が「イランは敵の脅威を終わらせるために、強くならなければならない」と演説したとあります。参考までに英文を紹介すると次の通りです。We must become strong so that there will not be a war, become strong so that the enemy’s threats will end. アメリカと名指しはしていませんが、敵の脅威を終わらせるために強くならなくてはならない。戦争にならないように強くならなければならないということです。先だって、アメリカがコッズ部隊のソレイマニ司令官を殺害した際には、トランプ大統領が、戦争にならないように彼を殺害したと述べていました。お互いに戦争は欲していないというものの、戦争を回避するために何をしてもいいのではなく、話し合いをして平和裏に解決してもらいたいものです。第二次大戦の際の日本への原爆投下についても米国は「戦争を終わらせるためだった」と正当化しようとしたことが思い出されます。そして、今日12日の新聞は次の画像のように全国で記念集会が開かれたことを紹介しています。

イランには昔から沢山の新聞があります。1979年の革命以前に私が見ていたのは保守的な Keyhanというペルシャ語紙とその英文版 Keyhan internationalでした。また英文紙の Tehran Journalも時々読みました。最近ネットから覗くのは、もっぱら上に紹介している Iran daily 紙です。英語だから読みやすいので、日々のできごとを知ることができます。今日はTehran Times も見てみました。こちらの写真は次のものです。国民の団結を叫んで旗を広げている風景のようです。いずれいせよ、日本にいても世界中の新聞が読める時代なのですね。

先月のソレイマニ司令官殺害の直後にウクライナ機がイランのミサイルによって撃墜された事件がありました。これは間違って撃墜してしまったのですが、この時に民衆から反政府的な行動が起きました。「アメリカに死を!」という決まり文句の「アメリカ」の部分を「最高指導者」として叫んでいたと報じられました。沈静化されたようですが、長い間続くアメリカとの関係による経済制裁に苦しむ人々からは、今回の撃墜時間だけでなく、複雑な思いが膨らんでいるようです。

革命から41年となりまして、40歳以下の人々は革命後のイランしか知らない状態になっています。50歳の人でも当時10歳位なら、あまり覚えていないでしょう。先週インスタグラムの友達とライブ電話で話しましたが、お父さんは62歳だと言っていました。革命時は二十歳ぐらいだったのでしょう。この人たちは、今のイランをどのように思っているのか気になるところです。でも、政治的な話は日本のように自由にはできないのが世界の多くのところです。相手に迷惑のかかることの無いように話さないように心がけています。

ペルシャ語講座10:形容詞最上級

前回のペルシャ語講座は形容詞比較級でした。比較級をやるなら、最上級も早くやってよという声にせかされました。比較級は使う機会もあるし、知っておくと便利ですが、最上級はどうでしょうか。英語の場合を思い出すと、比較級を使えば最上級的な意味を表すことができましたよね。例えば、Mt.Fuji is taller than any other Japanese mountains. 富士山は日本のどの山よりも高い。このように比較級の使い方はペルシャ語でもできるわけです。どの言語でもできるということですよね、きっと。

比較級は形容詞の語尾に tar タル تر を付けました。最上級は tarin タリン をつけます。形容詞の「大きい」と「小さい」を表にしてみましょうか。

大きい bozorg bozorgtar bozorgtarin
بزرگ بزرگتر بزرگترین
小さい kuchek kuchektar kuchektarin
کوچک کوچکتر کوچکترین

二つだけを示しましたが、形容詞の語尾に付け加えるだけですから、簡単です。形容詞をいくつか紹介しておきましょうかね。

 美しい qashang 寒い sard 暖かい garm
若い jaba-n 老いた pir 高い(値段が) gera-n
高い(山が) boland 安い(値段が) arza-n 美味しい khoshmaze

それでは文章にしましょう。先ほどの「富士山は日本で一番高い山です」kuh-e-Fujisan bolandtarin kuh dar japon astとなります。「琵琶湖は日本で一番大きい湖です」 daryache-ye Biwako bozorgtarin daryache dar japon. です。  Biwako bozorgtarin daryache dar japon.  湖はダルヤーチェ。ダルヤーは海でして、チェをつけて小さな海=湖です。ちなみにカスピ海は darya-e-Mazandaran つまりマーザンデラーンの海といいます。マーザンデラーンというのはカスピ海のある北部地方を指す言葉です。ハザル族の海という意味でダルヤーエーハザルと呼ばれることもあります。

冒頭の画像は大学書林発行の黒柳恒男先生の『ペルシア語四週間』です。定価7千円という高価な本ですね。私も社会人になって余裕ができた時に買っておいてはありますが、殆ど未使用状態です。もし昔これがあったら勉強できただろうなと思います。私たちの時代は日本語参考書は皆無でした。前にも書いたかもしれませんが、Lambton著の英語があるだけでした。生のペルシャ語を聞く機会も殆どない時代でしたね。今ではNHKの国際放送も聞けます。インターネットを開けばいくらでも耳にすることができる良き時代です。一昨日もインスタグラムで知り合ったイランのラシト市(RASHT)の方とインスタグラム電話で顔を見ながら話をしました。私が昔いたことのあるラシト市の方なので懐かしく話すのですが、今は全然変わっているよということです。逆に昔のその町のことを聞かせてほしいという有様です。昔に比べると、イランも近いものです。ここ名古屋から孫たちのいる東京とライン電話ビデオで交わすやり取りと何ら変わりません。・・・それでは今日はここまでで。

クルド人の国家ができようとしていた(イラクの歴史3)

第一次大戦後のオスマン帝国の領土を英仏が中心となり分割した結果、今のトルコの領土が確定され、イラクという国ができたのであった。そのついでとは言ってはなんであるが、今回はクルド人の国が第一次大戦後に造られかけたことを取りあげてみよう。

1918年にドイツ側について戦ったオスマン帝国が降伏した。大戦中にクルド人はトルコ軍の兵士として勇敢に戦った。約40万人のクルド人が死亡したといわれている。終戦処理をめぐるパリ講和会議にはシャリーフ・パシャを代表とするクルド代表団も参加した。そして、1920年8月10日にフランスのセーブルにおいて連合軍とオスマン帝国の間で講和条約が結ばれた。この条約でオスマン帝国の領土分割が決定された。その中の一つとしてオスマン領内のクルド人には一年後の独立を前提に自治を与えることが盛り込まれていた。つまりクルド人国家の誕生が約束されたのであった。

ところが、このセーブル条約によって連合国側の言いなりになるオスマン政府にたいして立ち上がり、反乱を起こしたのが後にトルコの父と呼ばれたケマル・アタテュルクである。彼はスルタン制やカリフ制を廃して、新政府を樹立したのである。そして、先述のセーブル条約に代わって、ローザンヌ条約を締結した。その内容にはクルドの独立はなかった。セーブル条約で実現しかけたクルド人の国家建設は幻となったのであった。

クルドについてもう少し述べよう。上の図がクルディスタンとよばれるクルド人の居住区である。スタンは土地・場所といういみであるから、クルディスタンとはクルドの土地という意味である。アフガン人の土地ならアフガニスタン、美しいという意味のパークにスタンを付けると美しい土地・美しい国で、パキスタンの国名になっている。カザフ人の国がカザフスタン、ウズベク人の国がウズベキスタンという風である。図で見てお分かりのようにクルディスタンの中にトルコ、イラン、イラク、シリヤなどの国境線が引かれているのである。この国境線によってクルド人の居住区であるクルディスタンは分断されてしまったということである。数多くある書籍の中で時には「クルド人とはトルコ、イラン、イラク、シリヤにまたがって居住している民族・・・」と書かれているものもあるが、決して彼らが国境をまたいで居住しているのではなく、国境が彼らの居住区を分断したのである。これは大きな違いである。

時代をすこし進めて、第二次大戦後のイランに目を向けてみよう。イランはカージャール朝からパーラヴィー朝に移っていた。イランは中立を宣言していたが初代国王レザー・シャーがドイツに傾倒したために、1941年8月にイギリスとソ連がイランに進駐し、彼に退位を迫った。翌月の9月に彼は退位して、モーリシャス島に流された。レザー・シャーの息子モハンマド・レザー・シャーが二代目の国王に据えられた。そしてイランの南部をイギリスが。北部をソ連が占領した。残りの地域が国王の支配下であったが、そこの地域にクルド地域があった。クルドは内部での主導権争いが激しくて一致団結という状況ではなかったが、イスラムの聖職者であったモハンマド・カズィーはイランに英ソ両雄が割って入った状態を好機ととらえた。彼は「クルディスタン民主党」を結成し、ソ連に接近し支持を得るようになる。その後、1946年1月には帝国主義からのイラン解放とイラン国内のクルド人の自治を掲げて、ソ連軍進駐下で「クルド人民共和国(マハーバード共和国)」の樹立が宣言された。イラン北部には同様にソ連軍の駐留下で「イラン・アゼルバイジャン自治共和国」が樹立されていた(1945年12月~)。両国は相互防衛条約を結びテヘラン政府の圧力に抵抗した。

3国に分断された国の一つイランにおいて史上初のクルド人国家が誕生したのであった。カーズィーは大統領に就任し、クルド語による新聞や雑誌の発行を開始した。しかし、この共和国の内部は一致団結とはいかず内部抗争が絶えなかった。アメリカはこの自治政権をソ連の傀儡とみなし、ソ連のイランへの干渉として非難し、イラン政府はソ連の干渉として国連に提訴した。イランは北部地方の石油利権をソ連に与えると約束して、ソ連軍の撤退を促した。石油利権に食指を動かしたソ連が撤退すると、手薄になったアゼルバイジャンとクルドの両国をイラン軍が攻撃して両国は崩壊したのであった。カーズィーは公開で絞首刑にさらされた。クルド語の印刷機は破壊され、クルド語の教育も禁止された。人々はクルド語で書かれた書物を焼き捨てた。クルド人の初めての国は1946年11月までの短命であった。

イラクのクルド人はどうだったのだろうか。1958年7月、イラクではアブドゥル・カリーム・カセムが反王政クーデターを起こした(7月革命)。クルド・ゲリラの指導者バルザーニはカセムから恩赦をうけ、彼とその部族がバグダードに戻ってきた。10月、バルザーニが空港に到着すると、クルド人は民族衣装をまとい、民族の歌と踊りで彼を迎えた。カセムはバルザーニをクルド民主党(KDP)の書記長につけることにより、クルド人を管理しようと試みた。カセムとバルザーニはお互いに腹の探り合いをしながら攻略的に動いた。この時期には共産主義者が勢力をのばして共産党員2名が内閣改造に伴い入閣した。そして、共産党では多くのクルド人が幹部職をしめていた。1961年バルザーニたちはクルド地域の自治を要求した。

また、7月革命後に改正されたイラク憲法にはクルド人はイラク領内におけるパートナーであると規定されており、クルド人にはイラク国内において民族的権利を認めることを明示していた。というものの、クルドの要求はカセムに受け入れられたわけではなかった。両者の溝は深まり1961年、バルザーニとKDPがイラク政府に対して蜂起した。以後、北部でKDPの解放闘争が続けられていったのである。1963年2月8日、バース党がクーデターを起こして、カセムから政権を奪った。カセムは処刑された。クーデター以前にバース党はKDPと協定を結んでおり、その中でバース党はクルド人の自治に理解を示すと表明していた。しかしながら、クーデター後に正式な交渉が始まると、両者間には大きな隔たりがあった。バース党政権の関心事はナセル主義、アラブ民族主義であった。・・・・イラクの政治はバース党主導で変化していき、その先でサダム・フセインが登場してくるのである。今回はこれまでとして、これ以後はまた「イラクの歴史4」として後日述べることにしよう。

トランプ大統領がとんでもない「中東和平案」を発表

28日、イスラエルのネタニヤフ首相とトランプ米大統領がホワイトハウスで共同会見し、イスラエルとパレスチナの中東和平案を発表した。両首脳が発表した和平案はと当然のことながら、イスラエル寄りの内容であることは、内容を見るまでもなく想像の付くところである。我が中日新聞が和平案を分かりやすくまとめてくれているので、それを利用して紹介させていただこう。

ポイント 今回の内容 これまでの米政権方針
2国家共存 「現実的な2国家共存案」としてイスラエル占領政策追認 イスラエルと共存可能なパレスチナ独立主権国家の実現
ユダヤ人入植地 既存入植地はイスラエル主権

和平交渉の4年間は新規入植凍結

2001年3月以降の入植地は解体、入植活動は凍結

2000年以降の占領地からイスラエル軍の順次撤退

エルサレムの帰属 エルサレムは不可分のイスラエルの首都

パレスチナ国家の首都は東エルサレム

まずパレスチナ国家を樹立、エルサレム帰属は当事者間で協議
パレスチナ難民(500万人以上)の帰還 イスラエルへの帰還権認めず

帰還の選択肢は ①パレスチナ国家 ②現在の居住国 ③第三国移住

帰還権は認めるが、期間は将来のパレスチナ独立国家へ

要旨は以上の通りである。エルサレムをイスラエルの首都とするなど、これまで国際的に未解決であったものを独断で自由自在にかき回しているとしか言えない。イスラエルの入植地についても国際法違反とされて、撤退すべきものが、合法的なことになるという理不尽そのものである。中日新聞社説は「中東和平に値しない」と一刀両断である。

もしかすると、中東に関心が薄い人々はトランプの発表した案を「和平のためにいいんじゃない?」こ「これをたたき台にして話し合えばいいんじゃない?」とか思うかもしれない。しかし、この内容は、これまでのプロセスを無視した、理不尽な内容であることを理解してもらいたい。そのために中日新聞は上の表に「これまでの米政権方針」を入れているのである。エルサレムに米国大使館を移した件でも、アメリカ議会はずーと以前にそのことを決議していたが、歴代の大統領がそれを実行することに署名してこなかったのである。それは世界一の大国であるアメリカの大統領としての良識であった。

パレスチナのアッバス議長が猛反発したのは当然である。ただ、嘆かわしいのはアラブの一部の国である。イスラエル建国じのあのアラブの憎悪や反感はどこへ行ったのであろうか。すでに親米的なアラブ諸国はイスラエルと対峙しようとする姿勢は失せている。お互いが争わなくなることは良いことではある。しかしながら、筋を通すべきところは、筋を通してもらいたい。

それでは、アメリカ、イスラエルに対立しているイランの反応はどうだろうか。今朝のIran daily紙の一面が冒頭の画像である。記事は以下の通り。

Iranian Foreign Minister Mohammad Javad Zarif has lashed out at the US’s so-called peace plan for the Israeli-Palestinian conflict, saying the initiative is a “nightmare” both for the region and the world.
Zarif said in a tweet on Tuesday that the US President Donald Trump’s “so-called ‘Vision for Peace’ is simply the dream project of a bankruptcy-ridden real estate developer.”

The Iranian foreign minister added that the plan was a “nightmare for the region and the world and, hopefully, a wake-up call for all the Muslims who have been barking up the wrong tree”, Presstv Reported.

イランのモハマド・ジャバド・ザリフ外相は、イスラエルとパレスチナの紛争に対する米国のいわゆる平和計画を非難し、イニシアチブは地域と世界の両方にとって「悪夢」であると述べた。
ザリフは火曜日のツイートで、米国大統領ドナルド・トランプの「いわゆる「平和のためのビジョン」は、単に破産した不動産開発者の夢のプロジェクトである」と述べた。

イランの外務大臣は、この計画は「地域と世界にとって悪夢であり、できれば間違った木を植えているすべてのイスラム教徒の目覚めの呼びかけ」であると付け加えた。(自動翻訳)

キーワード:中東和平、トランプ大統領、ネタニヤフ首相、エルサレム、イスラエル、パレスチナ、

イラクの歴史(2)砂漠の女王ガートルード・ベル

前回の「イラクの歴史」の最後にイラク建国を語るに欠かせない女性がいると書いた。それは今回のタイトルとしたガートルード・ベルであり、「砂漠の女王」と呼ばれた女性である。ウィキペディアを見ると、冒頭に以下のように記述されている。

ガートルード・マーガレット・ロージアン・ベル(英: Gertrude Margaret Lowthian Bell, CBE、1868年7月14日 – 1926年7月12日)は、イラク王国建国の立役者的役割を果たし、「砂漠の女王」(Queen of the Desert) の異名をとったイギリスの考古学者・登山家・紀行作家・情報員。

今回はこの女性がテーマである。といっても、正直言うと、私自身が彼女のことを詳しく知っているわけではない。そこで手元にある阿部重夫著『イラク建国「不可能な国家」の原点』中公新書2004年を参考にさせていただき、そこからの引用もさせていただくことにする(青の太字)。

オックスフォード大学で学んだ才媛である。1982年の春にテヘラン駐在公使に赴任していた伯父を頼って初めて東方へ旅をした。その時のエッセー風の紀行文が『サファル・ナーメ』(邦題は『ペルシアの情景』)である。恋をしたが、不慮の事故で相手が死んだ。その面影を追ってペルシャの詩人ハーフェズ(1326~90)の詩を翻訳し、砂漠にのめり込んでいった。(前掲書18~19頁)・・・この部分を読んで私は彼女がアラビア語だけではなく、ペルシャ語にも堪能であったことを初めて知った。ハーフェズと言えば、ペルシャを代表する詩人であり、彼の詩集はイラン人のどの家庭にもあるというほどの国民的詩人である。もっと知識をさらけ出すなら(笑)、ハーフェズ占いというものもある。つまり彼の詩の章句が占いに利用されているのである。彼のお墓(ハーフェズ廟)がシーラーズに在る。ちょっとした公園になっており、そこではハーフェズ占いの売り子がいる。小銭を払うと、小鳥が小箱の中から一枚を取り出してくれる。おみくじを鳥が引き出してくれるようなものである。それが占いのすべてではない。私が持っているハーフェズ詩集のDVDには、占いにつかう部分も入っている。・・・話を戻そう。

第一次大戦とオスマン帝国の解体が、流ちょうなアラビア語を操るこの稀代の頭脳を放っておかなかった。中東戦線の司令塔カイロに設けられた諜報部門に「アラビアのロレンス」とともに招集され、「アラブの反乱」のために情報収集工作に専念する。・・・ロレンスに関する記事は既に9月に書いているので、アラブの反乱の部分は飛ばしていこう。・・・バグダードが陥落した後は占領行政に身を投じ、陳情のアラブ人が門前市をなして「ハトゥン」(女長官)とあだ名された。彼女はロレンスとともに戦後のパリ講和会議にも出席、アラブ人への約束を果たすために尽力するが、列強代表の横車の前で蹉跌を余儀なくされる。ほどなくメソポタミア全土を巻き込んだアラブ人暴動が発生した。苦慮の末に、英国の直接統治から王政への移管を設計し、現在の国境線を画定したのである。・・・イギリスの三枚舌外交に騙されたアラブが戦後処理で自分たちの国が得られないことに憤ったのは当然であり、それは暴動というものではないと私は思う。そして、イギリスの政策には腹立たしい思いがするが、アラブ人のために尽力しようとしていたベルに対しては同情する。これはロレンスに対する感情と同様のものである。

イラクの国境画定にあたっての議論も明らかになっている。北部のクルド人(スンニー派)地域、中部のアラブ人(スンニー派)地域、南部のアラブ人(シーア派)地域の3地域を踏まえてどのような構図の国にするかという議論である。ロレンスはクルド地区を外して英国の管理下に置くことを主張したが、ベルは3地域まとめてイラクとすることを主張して、そうなったのである。ベルはロレンスより二十歳ほど年上である。

ベルはその後もバグダードに残り、再び考古学に夢中になって過ごしたそうである。そして、1926年の夏にベルはバグダードで睡眠薬を飲んで命を絶った。多分自殺であろう。

これを機会に、私は複数の中東・イラク関係の書籍のなかでベルについて書かれている部分を拾い読みして、彼女に関する知識を少し増やした。そうするうちに、彼女が書いた旅の記録があることを知った。それは,平凡社の東洋文庫『シリア縦断紀行(1) (2)』である。アマゾンの本の内容をみると、次のように書かれている。「アラビアのロレンスの女性版」といわれる著者が、オスマン帝国末期の1905年、複雑な政治状況にあったシリア地域を訪れた際の旅の記録。本巻では、エルサレムからドルース山地をへてダマスクスに至る旅程で出会った人々の生活習慣や、各地の遺跡の様子が綴られる。・・・是非とも読んでみたい衝動にかられた。各巻2,860円であった。高い! と思ったのであるが「待てよ!」どこかで見覚えのあるタイトルだなと、本棚の奥の方をチェックすると、なんとあるではないか。この本が2巻とも。

もう15年も前のことである。市の公共の場で中部大学の図書館で破棄処分になった本を無料で頂ける機会があった。そこでは東洋文庫などが出ていた。この本以外にも中東に関するものを沢山頂いてきたのだった。このタイトルはシリアだったので、全然開くこともなくしまわれていたのだった。折角の機会なので、第1巻の中ほどまで読み終えたところである。冒頭の写真はその中の写真をアップしたものである。目次は以下の通りである。

 

 

一つの関心事が新たな関心事に広がっていくという面白さがある。15年間もの間眠っていたこの本もどうやら陽の目を見たようである。

キーワード:ガートルード・ベル、砂漠の女王、アラビアのロレンス、イラク、シリヤ、

沖縄でイラン映画の上映(2月8日)

今朝、イランの新聞 Iran daily on lineを見ていたら、イラン映画を沖縄でやるという記事がありました。
Okinawa to screen Iranian film ‘Douch’ with Japanese dub
Iranian feature, ‘Douch,’ directed by Amir-Mashhadi Abbas, will go on the silver screen at a special program for children on Okinawa Island in Japan on February 8. そして、その76分の映画のストーリーは10歳の少年が古い自転車を買い替えるためにお金を求めるために、文字の読み書きを教えるコンテストにでるような話だそうな。the 76-minute film narrates the story of a 10-year-old boy, Gholamreza, who is looking for money to replace his old bicycle. During his pursuit, he comes upon a contest that promises enough money for a new bicycle if he can manage to teach an illiterate person in the village how to read and write. Gholamreza decides to take part in the contest, and his pupil is a grouchy 90-year-old woman with really poor eyesight and hearing, who does not want to learn anything. 彼の生徒になったのは視力も聴力も衰え、学ぶ意欲もない90歳のお婆さん。という面白そうな話だ。

The film had previously taken part in the 59th Zlin International Festival for Children and Youth in the Czech Republic and the 10th DYTIATKO International Children’s Media Festival in Ukraine. この映画はウクライナとチェコの映画祭にも参加したとのことだ。

沖縄で上映されるというので、ネットを調べたら出てきました。沖縄までは行けないが、興味ある人はどうぞ行ってみてきてください。

イラン映画は結構評判がいいことをご存知でしょうか。日本でも有名なのはアッバス・キアロスタミ監督でしょうね。『友だちのうちはどこ?』『オリーブの林をぬけて』『桜桃の味』『風が吹くまま』などが有名です。マジッド・マジディ監督の『運動靴と赤い金魚』『少女の髪どめ』なども日本で上映されました。アスガー・ファルハディ監督の『別離』も見ました。特に恋愛ものや体制批判的なものはあまりおおっぴらには表現できない環境の中で、以下に表現するかというのが見どころのようだとか。ウイキペディアで「イランの映画」のページを見ると日本で上映された映画が沢山あることを知ります。気が付くと見るようにしていますが、気が付かないことの方が多く残念です。

キーワード:イラン映画、アバッス・キアロスタミ、マジッド・マジディ、『友だちのうちはどこ?』、『オリーブの林をぬけて』、『桜桃の味』、、『風が吹くまま』、『運動靴と赤い金魚』、『少女の髪どめ』、アスガー・ファルハディ監督、『別離』

ペルシャ語講座9:形容詞比較級

今回は形容詞の比較級です。比較級は形容詞の単語の語尾に tar タル を付けます。「これはあれより大きいです」の場合、in bozorgtar az a-n ast (イン ボゾルグタル アズ アーン アスト)این بزرگتر از آن است となります。英語の場合の than はアズを使います。アズの意味は普通はfrom 「から」という意味です。

簡単にいうとそれだけです。「この花はあの花より美しい」の場合は「この花は あの花より より美しい です」となり、「イン ゴル アズ アーン ゴル カシャングタル アスト」となります。日本語の語順と一緒ですから、難しくはありませんね。

語順は時には入れ替わっても大丈夫です。冒頭の図に示した形は次のように書きました。「イン ゴル カシャングタル アズ アーン ゴル アスト」といえば「この花の方がより美しいよ あの花よりは ね」という感じでしょうか。もう少し普通に会話的な場合は「イン ゴル カシャングガタレ アズ ウーン」程度でも十分伝わるでしょう。

タルを付けて比較級を付けるのが標準ですが、そうでないものが少しあります。ですからそれは覚えなければなりません。

good は khub ですが、 比較級のbetter は behtar ベヘタルです。前にも言いましたがペルシャ語は英語の親戚ですから、英語のbetterがそのままペルシャ語になっているわけです。かといってbestもそうかと言われたらこれは違うのです。

many はziya-d  ジヤードですが、比較級は bishtarです。一応タルは付いてはいます。

本当に簡単でしたが、比較級はこの程度にしておきましょう。参考のためにペルシャ語の参考書を見てみましたが、そちらの本も比較級と最上級で1ページほどしか費やしていませんでした。それではまた次回に!

キーワード:形容詞、比較級、ペルシャ語、goog, better, behtar, best, カシャング、many, bishtar,