イスラム世界の偉人④:イブン・ルシュド(ラテン語名=アヴェロエス)

 

無知は恐れにつながり、
 恐れは憎しみにつながり、
 憎しみは暴力につながります。
 これが方程式です。

イブン・ルシュドの言葉 

冒頭の画像の言葉の主であるイブン・ルシュドをご存知でしょうか。これまで①イブン・シーナ、②イブン・バットゥータ、③イブン・ハルドゥーンを紹介しましたが、今回もイブンのついたイブン・ルシュドです。一言でいうと12世紀、コルドバ(スペイン)でアリストテレスを研究した哲学者である。インターネット上の「世界史の窓」では次のように説明している。
12世紀のコルドバで活躍したイスラーム教徒の哲学者。 ラテン名アヴェロエスとしてもヨーロッパに広く知られ、アリストテレス哲学を紹介し、スコラ哲学に影響を与えた。1126年、コルドバの代々のカーディー(法官)の家に生まれ、医学、天文学、神学、哲学を研究した。1147年にコルドバに成立したムワッヒド朝の王アブー=ヤクブの侍医となって仕え(1169年頃)、国家的な事業としてアリストテレスの著作をアラビア語に翻訳する事業に従事した。アリストテレスの著作のアラビア語訳は10世紀末のイブン=シーナーの事業を受け継ぐものであったが、12世紀のイブン=ルシュドは「新プラトン主義」の影響を受け、プラトン的な神学理論による解釈を行ったものであった。また当時有力になっていた、ガザーリーによって始められた、理論を排し直感的に神を感じ取るというスーフィズムの思想に反対して、イスラーム神学の理論付けを行おうとしたものであった。しかし、北方のキリスト教徒のレコンキスタと戦っていたムワッヒド朝は次第に宗教的に不寛容となり、イブン=ルシュドの学説も受け入れられなくなった。1197年突然その著作は発禁とされ、地位も追われてコルドバを去り、1198年にモロッコのマラケシュで生涯を閉じた。イブン=ルシュドと同じ頃、コルドバでアリストテレス哲学を研究していたユダヤ人のマイモニデスもモロッコのフェスを経てエジプトに逃れた。
イブン=ルシュドのアリストテレス翻訳事業は上述のような事情でイスラーム世界では断絶したが、コルドバがレコンキスタの結果、キリスト教徒の手に落ちた1230年代以降に、彼の著作がラテン語訳されることによって、キリスト教世界に継承されることになった。特にパリ大学の神学者が熱心にその著作の研究を行った。こうしてイブン=ルシュドはラテン名でアヴェロエスとしてヨーロッパで知られるようになり、中世のスコラ哲学に大きな影響を与えた。しかし、イブン=ルシュドつまりアヴェロエスのもたらしたアリストテレス哲学は、その合理的解釈を推し進めれば宗教的真理と理性的真理の二元論に向かっていく。パリ大学の急進的なアヴェロエス派に特にそのような傾向が強まり、ローマ教皇庁はそれを危険視し、トマス=アクィナスをパリ大学に派遣しその学説の修正を求めた。ついに1270年に教皇庁はアヴェロエス主義を教授することを禁止した。<以上、樺山紘一『地中海』2006 岩波新書 第4章 p.114-145 による>

彼は幅広い分野に関して研究し、多数の業績を残しているが、最も力を注いだのがアリストテレスの研究であり、著作の多くがアリストテレス哲学の解説書、注釈書であり、そこに彼自身の考えを注いでいる。西欧では彼を「アラブ哲学の最大の星、アラブ哲学の頂点、終点」などという言葉で賞賛されている。

イスラム世界の偉人②:イブン・バットゥータ

今回紹介するのはイブン・バットゥータである。平凡社発行の『新イスラム事典』を要約すると以下の通りである。

1304年にモロッコで生まれたベルベル系のアラブ人旅行家である。1325年、21歳のときにメッカ巡礼の旅にでた。以後30年間世界を旅した男である。陸路エジプトを経てシリアからメッカに入ったのが1326年。その後、イラク、イラン西部、アラビア半島、イエメン、東アフリカ、アナトリア、アフガニスタン、そしてインドへ行き、1333年~42年までデリーに滞在した。その後、モルディブ諸島、セイロン、ベンガル、スマトラへ、再びペルシャ湾からシリア、エジプトへと旅し、1349年にフェスに帰った。3か月の闘病生活のあと再び旅に出て、グラナダを訪問。52~53年にはサハラ砂漠を越えてニジェール川上流地域を調査した。1353年の帰国後に旅の記録をまとめた旅行記を完成したのち、1377年に没した。

彼の旅行記は平凡社の東洋文庫から8冊で発行されているので、現代でも読むことができる。自分で買うとなると高価なので、図書館に行って、東洋文庫を探せば殆どの図書館では置いているのではなかろうか。

中公文庫BIBLIOから発行されているのが『三大陸周遊紀抄』である。抄と記載されているように、これは先述の旅行記の要約版らしい。でも、平凡社新書の『イブン・バットゥータの世界大旅行―14世紀イスラームの時空を生きる』 なら、もっと手っ取り早く、彼の足跡を知ることができるだろう。

14世紀の時代に大旅行を成し遂げることを可能にしたのは、イスラムと深い関りがあるという。新イスラム事典ではそれを可能にしたのは「諸都市を結んで張りめぐらされていたムスリム知識人のネットワークによるところが大きい」と記している。また東京堂出版『イスラーム辞典』では「イスラムにおける旅行者への優遇措置と一時的ではあるが壮大なモンゴル支配下の東西交易路の保全、拡大であった。この時代にはスペイン人イブヌ・ル・ハティーブやチュニジア人のアッ・ティジャーニー等の有名な旅行家がいる」と記している。両書ともイスラム世界・イスラム社会という背景がこのような大旅行を可能にした重要なポイントであるとしている。最後にインターネットの「世界史の窓」から彼の辿った足跡を示した地図を拝借しておこう。このサイトのURLを記載しておくので、そのサイトの説明も一読していただくと良いと思う。
世界史の窓・イブン・バットゥータの旅行記

 

イスラム世界の偉人①:イブン・シーナ

「イスラムを知る」のシリーズの一部として「イスラム世界の偉人」を何人か取り上げてみようと思う。最初はイブン・シーナである。このブログでしばしば引用させていただいている平凡社発行『新イスラム事典』から、イブン・シーナについて主要な部分を引用させていただく。

イブン・シーナ(980~1037):ラテン名はアヴィケンナ。イスラム哲学者、医学者。ブハラ近郊に生まれ、ハマダーンで没した。幼少のころから天才を発揮し、18歳の時には形而上学以外の全学問分野に精通し、医師としても名声が高まった。やがてアリストレレスの形而上学研究に手を染め、ついに独自の存在の形而上学を完成した。・・・・中略・・・・著作は多岐にわたるが、とりわけ哲学者として存在論の発展に寄与した。彼は外界も自己の肉体もなんら知覚しえない状態で空中に漂う「空中人間」の比喩により、自我の存在がアプリオリに把握されるとする。他方、存在を・・・・中略・・・・こうして、現存するものはすべて必然的であるという結論が導入されたのである。・・・中略・・・また、形而上学、医学の著書は、中世、西欧にラテン語訳され、トマス・アクイナスの存在論・超越論に大きな影響を与えた。その医学書『医学典範』は17世紀ころまで西欧の医科大学の教科書に使用されていた。哲学上の主著は『治癒の書』。

事典の説明の半分以上を割愛したが、彼が学問全般に幅広く、しかも深く究めていた学者であることがわかる。私自身は高校の世界史の教科書のイスラム文化のところでイブン・シーナの名前と『医学典範』を試験のために覚えたことを忘れない。イブン・シーナというイスラム世界での名前が、西側世界に伝わる過程でアヴィケンナ、あるいはアヴィセンナとなったということも世界史の先生は話してくれた。


画像はアマゾンで出品されているものです。14,994円である。1千年前の貴重な著書が日本語に訳されているのである。カスタマーレヴューを読むとちょっと残念なことが書かれているが、それはイブン・シーナの業績を汚すものではない。

ところで、イブン・シーナはどこの国の人なのでしょうか。ブハラに生まれたとある。数回前のハーフェズの詩を紹介したときに、「シーラーズの乙女に与えようサマルカンドをブハーラを」と出てきたあのブハーラのことである。サーマン朝の都ブハラでサーマン朝高官の息子としてうまれたそうである。サーマン朝(873年 – 999年)はイラン系のイスラム王朝である。サーマン朝が滅びたとき彼は19歳。21歳で父を亡くすと、カスピ海の東岸一体のホラムズ地方に移り、その地の統治者マームーン2世に仕えて『医学典範』の執筆を開始したという。その後、テヘラン、レイ、ブアイフ朝支配下のハマダンへと居を移し、『医学典範』を完成させたのは1020年ハマダンにいた時である。その後、イスファハンに移動する。

病で母を失った青年がロンドンからイスファハンに向かい、医師イブン・シーナの弟子になって医学を学ぶ物語の映画がある。上の画像はその時の広告のポスターである。このことはこのブログの「アッバース朝(つづき)」で書いたとおりである。