アリーの言葉

先般『アラブのことばと絶景』を書籍紹介としてアップしました。その後、ボチボチ中を読んでいました。その中に正統カリフ第四代アリーの言葉がありました。上の画像の言葉です。「賢い人は最初に考えてから話し、愚か者は最初に話してから考える。」です。同じような言葉や似たような言葉は他にもあるような気がしますが、アリーがそう言っていたということが伝わっているのでしょう。

私は沖縄三線を趣味で弾くのですが、デンサー節には「むにいさざ慎め 口(フチ)ぬ外出(フカン)だすなよ。出(ウ)だしたら 又ん飲みぬならる デンサ」という部分があります。つまり「言葉は慎重にしなさい。 軽率な発言はしてはならない。 一度口走っててしまえば取り消しはできない。」という意味です。アリーの言葉とは少しニュアンスが違いますが、言葉を発するときはよくよく考えなさいという点では共通していると思います。

アリーについて皆さんはご存知ですか。正統カリフ第四代と先述した通り、イスラムの創始者ムハンマド亡き後の後継者がカリフです。4代目のアリーまでを正統カリフ時代といいます。ムハンマドは両親の死後、叔父に育てられました。その叔父の息子がアリーであり従兄弟になります。二人は兄弟のように成長してきたのでした。ムハンマドの娘ファーティマの婿でもありました。このようにムハンマドに最も近い関係にあったアリーなので、ムハンマドの死後の後継者となるべきだと主張する者達も大勢いたわけですが、初代カリフは長老のアブー・バクルが選ばれました。結局、アリーは四代目に就任したのではありますが、ムアーウィヤという人物との争いの結果、イスラムは分裂したのでした。この辺りのことはこのブログのずっと以前の「イスラムの歴史」の中に書かれている筈です。分裂した一方がウマイヤ朝になり勢力を拡大しました。一方、アリーを担ぎ出そうとしたグループは「アリーの派」と呼ばれます。派という言葉がシーアです。つまり、イスラムのスンナ派(スンニー派)とシーア派になるわけですね。シーア派はスンナ派と何が違うのかと気になる方が大勢いますが、基本的な部分はムハンマドの教え、コーランを信奉することに変わりはありません。コーランの解釈などで異なる部分がでてきます。また、シーア派ではアリーの肖像画を飾ることが多々見られます。偶像崇拝禁止に厳しいスンナ派では肖像画を飾ることはありません。私も軽々に物を言ったり、書いたりすることを慎重にしなければならないと思いつつ、今日はこれにてお終いにしましょう。

 

書籍紹介『イスラーム書物の歴史』

2021年も年末です。今年最後の買い物はこの本です。以前から欲しかったのですが、少々高いので躊躇していました。定価5,500円、税込み6,050円です。年末年始をアカデミックに過ごそうと入手しました。

まだ読み始めたばかりですが、イスラムの聖典コーランが今のような書物の形になった過程が詳しく書かれています。神から啓示を受けたムハンマドが読み書きができなかったことはよく知られています。だから、ムハンマド自身が啓示を文字で書きとめることはできなかったわけです。従って彼は神からの啓示を口伝えで周りに伝えていったわけです。伝達の過程で元の形から変化していくことは自明です。ムハンマドの死後、4人の後継者の時代(正統カリフ時代)に様々に誤解釈されつつある啓示内容を正しい形で統一しなければならないという思いに至ったわけです。そして、今あるコーランが完成してきたのです。

私が凄いと思ったのは、完成後にこれまで伝えられていたコーランの形になっていないもの、あるいはコーランのようにまとめられていたものら全てを破棄させたことです。そして、今後はこの完成した版の書物をもって正式なコーランとし、それを基に写本をしてきたのです。最初に完成したのは7部であったと言います。5部という説もあります。それらはメッカ、シリアのシャーム、イエメン、今のバーレーンではなくアラビア半島東部のバーレーン、メディナに送られたとあります。7部ならあと2カ所がどこか不明なので、5部と言う説が生まれたようです。コーランを送るにあたり、朗誦に秀でたものが随行して、行った先で朗誦の仕方まで教授したそうです。

もう1点、コーランが書物化されて、写本が流布していった背景の大きな要因は紙です。エジプトでのパピルスの時代から羊皮紙、鹿の皮などを含めて獣皮紙の時代を経てきました。製紙法がタラス河畔の戦いで唐から伝わったという有名な話があります。それはアッバース朝の時代になります。最初はぼろ布を材料にしたようなこともあったそうで、次第に今のような紙に近づいてきたわけです。

このようなことが詳しく書かれていて読者を引き込んでいくのです。どちらかというと学術的な内容ですが、そちらの専門でなくても興味深く読み応えのある書物です。目次をみるとまだまだ教務深い内容がありそうです。楽しみです。

コーランについて(12):第21章ーーー預言者たち(続き)

前回に続いて第21章です。今回登場する預言者は誰でしょうか。読み進めて行きましょう。

(70)~(75 ) 彼らは彼に悪だくみをしたが、逆に我らが彼らに大損させてやった。そして彼とルート(ロト)を救い出して、万民のために祝福の地ときめたところへ(連れて行って)やったのであった。我らは彼にイスハーク(イサク)を授け、なお、特別のおくりものとしてヤアクーブ(ヤコブ)をも授けた。そして三人とも義しい人間に仕立ててやった。さらに彼らをして、我らの命を奉じて(人々を)導く首領となした上、善行にはげみ、礼拝の務めを果たし、こころよく喜捨を出すことをお告げによって彼らに命じた。彼らもまたよく我らに仕えた。ルートには我ら叡智(預言者としての素質)と知識(預言者に必要な超越的知識)とを授けた。破廉恥な行いにふけっていたあの邑(ソドムを指す)から救い出してやりもした。まことに、あれは罪深い、邪悪な民であった。だが、彼(ロト)だけは、我らが慈悲の中に入れてやった。何しろ本当に義しい人間であったから。

ロトやイサクもヤコブも皆アッラーが創ったのだと。ロトは破廉恥な行為にふけっていたのを救ってやったと言っている。そして、ノアについては「ノアの方舟」と時のことを以下のように述べている。

(76) またヌーフ(ノア)も(同じこと)。これはさらに前のはなしになるが、あれが大声あげて(我ら)を喚んだ時のこと。我らは早速これに応じて、あれと、その一家を大災害から救ってやった。我らの神兆を嘘呼ばわりする者どもにたいして、彼の見方をしてやった。いや、それにしても、あれはまことに邪悪な民であった。だから、一思いに全部溺らせてしまった。

次にはソロモンとダビデにも叡智と知識を与えてやったと述べている。

(78)~ (79) それからダーウード(ダビデ)とスライマーン(ソロモン)も。ある畑に他人の羊が入りこんで来て、夜中に草を喰ってしまった事件を二人が裁いたことがあった(古註によると、その時ダビデはその羊群は畑の持主のものになると判決した。ソロモンは当時11歳だったが、この判決は少し酷に過ぎるとして、羊はその持主に返し、そのかわり、畑の損害の償として、畑がもと通りの状態になるまで乳と毛と仔羊とを畑の持主がもらうこと、という判決を下したと伝えられる。この説話は『聖書』にはない)。彼らの判決には、いつも我ら(アッラー)が立ち会っていた。
だいいち、スライマーンにああいうこと(賢明な判決のしかた)をわからせてやったのも我らであった。だが、どちらにも(ダビデにもソロモンにも)叡智と知識を授けておいた。また、特にダビデにあっては、我ら山々をも頤使してこれに(神の)賛美の歌をうたわせた。それから鳥たちも。これみな我らのしわざであった。・・・・

続いては、アイユーブ(ヨブ)、それからイスマーイールとイドリース、ズー・ル・キフルやザカリーヤ他の者のことに言及している。そして最後の締めくくりは次である。

(108)~(112) 言うがよい、「わしは、ただ、汝らの神は唯一なる神とだけお告げを戴いておる。さ、これでお前たちは帰依したてまつるか」と。それで、もし彼らがうしろ向いて知らぬ顔するなら、こう言ってやるがよい、「わしは、ともかくお前たちみんなに、わけへだてなく神託を伝えたぞ。お前たちに約束されていること(天地の終末と最後の審判)がすぐそこに迫っているか、それともまだずっと先か、そんなことわしは知らぬ。いずれにしてもアッラーは、大声で言われる言葉でも、お前たちがそっと胸にかくしていることでもよく御存知。(本当のことは)わしは知らないが、もしかしたらこれ(無信仰なのに、こうしてなかなか罰を喰わされないでいること)も何かお前たちへの試練で、要するにごく当座だけの楽しみなのかもしれないぞ。」彼(ムハンマドを指す)はこう言った「主よ、真実をもって裁き給え。我らの主はお情け深い御神。お前たち(邪宗教)の言う(悪口)にたいして、ひたすらそのお助けをお願いすべき(唯一の)御神」と。

コーランの文言を読んで、ここに打ち込んでいるわけであるが、そうすると次のように思うことがある。アッラーつまり神がムハンマドに言わしめている部分などは、逆に言えばムハンマドが信仰深くない人々(あるいは異教徒)に対して説得力を強めるために利用しているようにも思えるのである。・・・・・いずれにしても、昔若いときには全然読み続けられなかったコーランを少しは根気よく読むことができるようになったようだ。やはり歳のせいということかもしれない。

コーランについて(11):第21章ーーー預言者たち

久しぶりにコーランです。この章を取り上げた理由は特にありません。コーランを取り出して、パッと開いたところが、この章だったのです。いつものように訳文は岩波文庫・井筒先生のものです。

上の画像はコーランのこの章の冒頭の部分です。昔イランで買ったものです。コーランはご存知のようにアラビア語で書かれています。画像を見ると、コーランの文章の下に小さな文字が書かれているのが見えますね。これはアラビア語のコーランの意味をペルシャ語で書いているのです。イランの言葉はペルシャ語ですので、アラビア語のコーランは読めても意味が分からない人も大勢います。従って、こうしてペルシャ語で意味を併記しているのです。イスラム教徒にとってコーランはアラビア語で唱えるのが鉄則です。イラン人もみんなアラビア語で唱えているのは言うまでもありません。

さて、今回の第21章が預言者たちと題されるのは何故でしょう。この章では、ムーサー(モーセ)、ハールーン、イブラーヒーム、ルート、イスハーク、ヤアクーブ、ヌーフ(ノア)、ダーウード、スライマーン、アイユーブ・・・・・そのほかの預言者たちについて言及されていることから、この名が付いたようです。先ずはイブラーヒームについて言及している辺りを紹介しましょう。

(1) ~(3) 人々がうかうかよそ見しているうちに、総決算の時は刻々と近づいてきた。いくら次々に新しいお諭が下されても、みんなは遊び半分に聞き流すばかり。一向に気がはいらぬ。しかも、不義の徒輩、こちらに聞かせぬつもりのひそひそ話で、「なんだ、これは君たちとおなじただの人間ではないか。立派に目が見えておりながら、君たち、妖術にやられる法はあるまい」などと言っている。

冒頭でいきなり信心深くない人間のことを取り上げて、次のように嘆いている。

(4)~(6) 「神様は天と地のどこで言われていることでもすっかり御存知。まことに早耳で、何から何まで御存知におわします。」と彼(ムハンマド)が言えば、さらに彼らは言い返す。「なあに、愚にもつかない夢ごたまぜ。」「どうせあの男のでっち上げ。」「あの男は詩人だ(当時は、詩人は妖霊に憑りつかれた人と考えられていた)。」「昔の使徒のように、一つお徴(おしるし=奇蹟)でもやって見せたらいいに。」今までも、我ら(アッラー)が滅ぼした邑(まち)はどれもこれも信仰しなかったもの。それでもあくまで信仰しないつもりか。

しばらく後になると、次のように壮大な神の力を力説する。

(31)~(34)  信仰なき者どもには分からないのか、天と地はもと一枚つづきの縫い合わせであったのを、我らがほどいて二つに分けた上、水であらゆる生きものを作りだしてやったということが。これでも信仰しないのか。また我らは大地の揺れをとめるために山塊をどっかと据え、そこに峡谷を縦横にはしらせ道となした。これもみな、なんとかして人々を正道に導こうとてしたこと(天地自然の不思議をみて信仰にはいるようにとしたこと)。さらにまた、我らは大空をもって、がっしりとまった(落ちてこないようにしっかりとめられた)屋根となした。それでも、彼らは、こういう神兆に平気で顔をそむけるのか。彼(アッラー)こそは、夜と昼と太陽と月とを創造し給うたお方。みな大空の中を泳いでいる。

(52)~(59 ) その昔、我らはイブラーヒーム(アブラハム)に正しい行きかたを授けた。あの男のことは我らもはじめからよく知っていた。あれが父親とその一族に向って「そうやって貴方がたが崇めたてまつっているその彫像は、一体なんです」と言った時のこと。「わしらの御先祖様がたの崇めておられたものじゃ」と一同が答える。「それでは、みなさん確かに道を踏み違えておられたのですよ、御先祖様たちも、貴方がた御自身も」と言う。「これ、お前、本気でそんなこと言っているのか。それとも悪ふざけしているのか。」「とんでもない。みなさんの本当の主は、天と地を統べ給うお方、それを初めてお創りになったお方なのです。私はそれの証人の一人です。誓って申します。みなさんが私に背を向けてあちらへ行ってしまったあとで、必ず私があの偶像(でく)どもに一泡ふかせて見せましょう。」とそう言って、彼は(邪神の彫像をことごとく)ばらばらに叩きこわしてしまった。但し、たった一つ、大物だけ残しておいた。これは(あとで)みながこのもののところへやって来るように(わざと)そうしておいたのであった。

アブラハムが人々に偶像崇拝を咎めて、それらを壊したのであった。だけど、一つだけ残したのには理由がある。後日、みんながそこに集まってけしからんと騒ぐだろう。その折に再び説諭するというシナリオのようである。

(63) ~(69 ) 「これ、イブラーヒーム、お前か、我々の神様がたにこんなまねをしたのは」と一同が尋ねた。「いえいえ、ほら、この大物のしわざです。あの連中(こわされた神々を指す)にきいてごらんなさい、もし彼らに口がきけるものなら」と彼が言う。そこせ一同、額を集めて協議となり、「悪いのはこちら側だった(物も言えない偶像を神とあがめたりした我々の方が間違っていた)と言う。(しかし反省したのもつかの間)、たちまちひっくりかえって。「この方々(神々を指す)に口がきけないことはお前(アブラハム)初めから知っていたくせに。」「さ、そこです」と彼が言う。「それでは、みなさん、アッラーをよそにして、毒にも薬にもならないようなものを神と崇めていらっしゃるんですね。いやはy、なんとなさけないことか、アッラーをよそにして、あのようなものを崇めるとは。みなさん、わからないのですか。」「あれ(アブラハム)を火炙りにしてしまえ。どうせやるなら、君たち(俺たち)の神々がたにお味方申せ」とみなが叫んだ。そこで我ら(アッラー)は「これ、火よ、冷たくなれ。イブラーヒームに危害を加えるな」と命じたのであった。

信仰深きない人々を相手にアッラーの凄さをPRするかのように我とイブラーヒームの働きかけがまるでコントを見ているように映像が浮かびます。イスラムで偶像崇拝を禁じ、それを破壊した初期の状態が動画をみているように目に浮かんでくるようです。中々興味深い内容でした。この後、ほかの預言者にも言及するわけですが、今日のところはここまでにしておきましょう。

 

 

コーランについて(10):第104章・・・中傷者

最近のネット社会では誹謗中傷が酷い状態であるらしい。まもなく閉会となる東京オリンピックに出場したアスリートたちに対するものも非常に多いようである。コーランを見ると第104章に「中傷者」という章があるので、それを見ることにしよう。

ええ呪われよ、よるとさわると他人の陰口
宝を山と貯めこんで、暇さえあれば銭勘定

これだけあればもう不老不死と思ってか。
いやいや、つぶし釜(なんでも粉々につぶしてしまうもの。地獄を指す)に叩き込まれる身のさだめ。
が、さて、つぶし釜とはそもなんぞやとなんで知る。
ぼうぼうと焚きつけられた神の火で、
忽ち心(投げこまれる罪人の心臓)を舐めつくし、
頭の上から蓋をして、
蜿々長蛇の柱とはなる(はてしなく続く柱の列のように火焔が燃え立つのである)。

後半は少し分かりにくいかもしれないが、要は人を中傷するような輩は地獄に落ちるんだということ。金をため込んで銭勘定ばかりするような輩は、貯め込んだ財産が不老不死を与えてくれると思っているのかもしれないが、そんな輩も地獄へ落ちるということだ。そして、地獄というのは、前回にも出て来たが、劫火の責めを受ける処である。最後の審判で地獄行となった者は火で焼かれるが、彼らは既に死を経験しており、地下のあの世から、喇叭の音によって復活した者どもである。一度死んでいるので、再び死ぬことはない者どもである。つまり、酷い劫火に焼かれても、死ぬことはなく、永遠に火の攻めを受けるのである。もう殺してくれと泣き叫んでも、死なずに、一生苦しみ続けるのである。一生というのは可笑しいな!

とにかく、イスラムの地獄での苦しみはコーランのあちこちで述べられている。その部分だけを抜き書きして整理するだけで学位論文が書けるかもしれない。世界中の人々が、他人を誹謗中傷したりすると地獄に落ちることを心に留めておいてもらいたいものである。

コーランについて(9):第99章・・・地震

コーランの章は全部で114章である。そして、その順番は長い章が前にあり、短い章が後ろにあるそうだ。だから、最後の方の章は非常に短い記述となっている。短いと我々にとっても読みやすいし、分かりやすい気がする。そこで今回紹介するのは第99章の「地震」である。全8節の構成である。この程度なら全文を紹介できる。いつものように井筒俊彦訳である。

① 大地がぐらぐら大揺れに揺れ、
② 大地がその荷を全部吐き出し(地下の死者が一人のこらず発き出される)。
③ 「やれ、どうしたことか」と人が言う、
④ その日こそ、(大地)が一部始終を語り出でよう(天地終末の意味を大地が語るであろう)、
⑤ 神様のお告げそのままに。
⑥ その日こそ、人間は続々と群れなして現われ(地中から復活して出て来る)、己が所業(現世で自分がどんなことをしていたか)を目のあたり見せられる。
⑦ ただ一粒の重みでも善をした者はそれを見る(それを見る、とは自分のしたその善事を改めて見せられ、それに応じた褒美を戴くこと)。
⑧ ただ一粒の重みでも悪をした者はそれを見る。

この章は最後の審判のことを述べているのである。つまり、最後の審判の時に大地がぐらぐら揺れる地震が起きて、大地から死者が復活して、最後の審判を受けるのだぞということだ。
最後の審判では生前に善をなしたものは褒美を受けて、楽園に行けるのであるが、悪をなしたものには地獄に落とされる罰が下るということである。その罰についてはコーランの色々な章で陳べられている。過酷な火攻めに苦し悶える地獄で永遠に住むために蘇るのである。

復活から最後の審判に至る筋道は「第39章群れなす人々」の中で次のように述べられている。
嚠喨と喇叭が鳴り渡れば(復活の瞬間の描写)、天にあるものも地にあるものも、愕然として気を失う。アッラーの特別の思召しによる者以外は誰も彼も。次いでもう一度吹き鳴らされると、みな起き上がってあたりを見廻す。
大地は主の御光に皎々と照り輝き、帳簿(一切の人間の運命を記入した天の帳簿)が持ち出され、すべての預言者、あらゆる証人が入場して来て、公正な裁きが始まる。誰も不当な扱いを受けることはない。誰もが自分のしただけの報いをきちんと頂戴する。誰が何をして来たか。(アッラー)が一番よく御存知。

ここまで具体的に述べられていると、映像が浮かぶ感じである。この喇叭をふくのは天使の一人イスラーフィールである。復活した人間は生前の所業が記録された帳簿と証人によって裁かれる。誰も言い逃れはできない。それゆえ、生前の行為は重要になるわけである。

コーランについて(8):第5章・・・食卓③

Pixabayからの画像

7月も月末になり猛暑が続いています。オリンピックが始まって連日日本のメダルが増えているのは明るいニュースです。この明るいニュースがコロナを吹っ飛ばしてくれることを期待したのですが、そうはいかないようですね。昨日27日の感染者が急増しました。東京は2800人ほど、そのほか埼玉や大阪も増えました。一昨日は青森で震度4,今朝は東北地方に台風8号が上陸と色々なことが起きている日本列島です。

こんな時には神に祈り、救いを求めたい気がしないわけではありません。それはそれとして、私は静かに過ごすことにしています。さて、前置きが長くなりましたが、本題に入りましょう。前回、前々回は「第5章食卓」でした。この2回で終わりにしようと思ったのですが、この章には食べ物以外のことも沢山述べられていましたね。でも、タイトルが食卓となっている理由を最後に紹介しておきたいと思います。

112節:さて、その弟子たちが言うことには、「マルヤムの子イーサー様、貴方の主は私たちに天から食卓を下すことがおできになるでしょうか」と。彼は「アッラーを懼れまつれ、もし、お前たち本当の信者であるならば」と答える。
113節:彼らが言うに、「私たち実際に(そういう有難い食卓から)食べて見たら、気持ちもすっかり落ちついて、貴方の仰しゃったことが本当だったということもわかって、立派な証人になることができようと思いまして」と。

人々の「神は我らに食を恵み与えてくれるのでしょうか」という問いに、イーサーは「お前たちが本当の信者なら、神は与えてくれよう」と答えたわけですね。それに対して人々は「実際に与えて見てくれたら、それが本当だという証人になりまっせ!」というやり取りの部分があるわけです。この部分から「食卓」という章の名前になったということです。イーサーとはイエスキリストのこと、マリヤムは聖母マリアであることはお分かりですね。イエスもイスラムでは預言者の一人なのです。

コーランについて(7):第5章・・・食卓②

第5章:食卓の章の続きです。
食卓という章の名前ですが、色々なことが書かれています。次のように礼拝の時の所作についてもここで述べられています。

これ汝ら、信徒の者、礼拝のために立ち上がる場合は、まず顔を洗い、次に両手を肘まで洗え。それから頭を擦り、両足の踝のところまで擦れ(これは斎めの象徴的動作で心身の清浄を来す)。
けがれの状態にあるときは、それを特に浄めなくてはならぬ。だが、病気の時、または旅路にある時、あるいはまた汝らのうち誰でも隠れ場(便所のこと)から出て来たとか妻に触れて来たとかした場合、もし水が見つからなかったら、きれいな砂を取って、それで顔と手を擦ればよろしい。アッラーは汝らをことさらいじめようとし給うわけではない。ただ汝らを浄め、そして汝らに充分の恵みを授けて、なろうことなら汝らが(神に)感謝の気持ちを抱くようにしてやりたいと思っておられるだけのこと。

礼拝の作法はイスラム関連本を見ると図で示されていることが多い。日本の神社でのお参りの作法は、「二礼二拍手一礼」
1.一度姿勢を正し、深いお辞儀を2回行う
2.胸の高さで、右手を少し引いて(ずらして)手を合わせる。 肩幅程度に両手を開き、2回打つ
3.手をきちんと合わせ、心を込めて祈る
4.深いお辞儀をする
などと説明書きがあるが、イスラムに比べると全然簡単である。
ただ、イスラムで感心するのは、できないときの対応を示していることである。前回の食物の取り方の場合も、どうしてもできない場合は許されるとあった。ここでも身を浄める水がなければ砂で擦ればいいのだと示している。他の場合でも断食ができなかった場合の穴埋めの方法なども事細かく示されている。次はユダヤ教徒やキリスト教徒に関する部分を取り上げよう。

かつてアッラーはイスラエルの子らと契約を結ばれたことがある。その時我ら(ここで人称が急にかわる。アッラーの自称)彼らの間から十二人の首長(十二支族の首長)を興し、アッラーが仰せられるには、「わしは汝らとともにあるぞよ。汝らもし礼拝を怠らず、定めの喜捨をこころよく出し、わしの遣わす使徒たちを信じてこれを助け、アッラーに立派な貸しつけをする(善行をすること。善行はアッラーに対する一種の貸しである)ならば、わしの方でも必ず汝らの悪行を赦し、必ず潺々と河川流れる楽園に入れてつかわそうぞ。だが、万一汝らのうち誰か、これほどまでにして戴いておきながらなお信仰にそむくなら、まことにそれこそ正しい道から遠く迷うというもの。
さればこそ彼らが契約に違反した時、我らはこれに呪詛をあびせ、その心を頑なにした。それで彼らは(聖典)の言葉を曲げて解釈し(ユダヤ人は聖書の文句を自分に都合がいいような意味に曲解しているという)たりしているうちに、ついには教えて戴いたものの一部をすっかり忘れてしまった。お前(ムハンマド)にしても、今後いつまでも彼らの裏切りに遭うことであろう。勿論ごく少数の例外はあるが。だが、赦してやれ、勘弁しておいてやれ。よいことをすれば必ずアッラーに愛していただけよう。

前回述べたように、ここに紹介している日本語訳は岩波文庫の井筒俊彦氏による訳文である。日本語訳で出版されているものも複数あり、それぞれが立派なものである。またネット上でも日本語訳を見ることができる。「イスラムのホームページ」http://islamjp.com/ と題するサイトでは上の部分を以下のように訳している。

5-12.アッラーは、以前にイスラエルの子孫と約束を結ばれ、われはかれらの中から12人の首長を立てた。そしてアッラーは仰せられた。「本当にわれはあなたがたと一緒にいるのである。もしあなたがたが礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、われの使徒たちを信じて援助し、アッラーによい貸付をするならば、われは、必ずあなたがたの凡ての罪業を消滅し、川が下を流れる楽園にきっと入らせよう。今後あなたがたの中、これ(約束)を信じない者は、正しい道から迷い去る。
5-13.しかしかれらはこの約束を破ったので、われは見限って、かれらの心を頑なにした。かれらは(啓典の中の)字句の位置を変え、与えられた訓戒の一部分を忘れてしまった。それでかれらの中の少数の者以外は、いつも契約を破棄し、裏切りに出るであろう。だがかれらを許して見逃しなさい。」本当にアッラーは善い行いをする者を御好みになられる。

こうして並べて比べてみると、後者の方が頭にスーと入ってくるように思う。口語調のせいであろうか。そうなるとついでに作品社発行・中田孝監修の『日亜対訳クルアーン』の訳も気になってくる。以下に紹介しておこう。

アッラーはかつてイスラーイールの子孫からの確約を取り給い、われらは彼らのうちから十二人の首長(*語源的には広大さや傑出を意味する語で、保証人、信頼ある長、責任ある庇護者等の意味があるといわれる)を遣わした。そしてアッラーは仰せられた。「まこといわれはおまえたちと共にある。もしも、おまえたちが礼拝を遵守し浄財を払い、わが使徒たちを信じて彼らに助力し、アッラーに良い債券を貸付たならば、われはおまえたちからおまえたちの悪事を帳消しにし、おまえたちを下に河川が流れる楽園に必ずや入れよう。そしておまえたちのうち、その後に信仰を拒んだものは中庸の道から迷ったのである。」
だが、彼らの確約の破棄ゆえにわれらは彼らを呪い、彼らの心を頑なにした。彼らは言葉をその場所から捻じ曲げ、彼らに訓戒されたものの一部を忘れた(*「律法の書」を改竄し、その一部を破棄し、あるいは解釈を捻じ曲げた)。それでおまえは彼らのうちわずかな者を除き、彼らの裏切り(*あるいは「彼らのなかの裏切り者たち)を目にし続けるのである。それゆえ彼らを免じ、見逃せ(*これは9章29節、あるいは8章58節によって破棄された。破棄されなかったとの説もある)。まことに、アッラーは善をなす者を愛し給う。

こちらは注釈が頁の下に記されているが、ここでは( )内に記しておいた。十二人の首長という部分の意味がこの訳本ではきちんと説明があり、理解できた。また最後の注釈の部分で、破棄されたとかそうではないという風な記述がある。他の二つの訳ではどちらも免ずるあるいは赦すなどとなっているので、破棄されていないのが一般的なのであろうと理解できたりする。やはり、複数の訳を読むとより良く理解できるようである。

 

 

 

 

 

コーランについて(6):第5章・・・食卓

ちょっとアカデミックでない記事が続いたので、少し硬いお話しにして軌道を修正しよう。こんな時にはやはりイスラムに戻ろう。そこで今回はコーラン第5章食卓である。食卓という名前ではあるが、食に関する事項だけが纏められている訳ではない。先ずは冒頭の記述から。岩波文庫・井筒俊彦訳「コーラン」の訳文を利用させて頂く。

これ、汝ら、信仰の物よ、一度取りきめた契約はすべて必ず果たすよう。
家畜の獣類は食べてもよろしい。但しこれから読み上げるものは除く。また聖地巡礼の禁忌状態にあって(メッカ巡礼に赴く信者は一種のタブー状態にある)狩猟をしてならぬことは言うまでもない。アッラーは御心のままに掟を作り給う。(中略)狩猟は、禁忌状態が解けてからにせよ。また、神聖な礼拝堂(メッカのカーバを指す)に行くところを邪魔されたからとて、(禁忌状態があけた後でも)相手憎さのあまり不当な暴力をふるってはならぬ。互いに仲良く助け合って義しいことを行い、信仰を深めて行くようにせよ。互いに助け合って罪を犯したり悪事をはたらいたりしてはならぬ。アッラーを懼れかしこみまつれ。まことにアッラーの罰ひとたび下れば恐ろしい。

汝らが食べてはならぬものは、死骸の肉、血、豚肉、それからアッラーならぬ(邪神)に捧げられたもの、絞殺された動物、打ち殺された動物、墜落死した動物、角で突き殺された動物、また他の猛獣の啖ったものーーー(この種のものでも)汝らが自ら手を下して最後の止めをさしたもの(まだ、生命があるうちに間に合って、自分で正式に殺したもの)はよろしいーーーそれに偶像神石壇で屠られたもの。それからまた賭矢を使って(肉を)分配することも許されぬ(人々が集まってする賭。矢をくじの代わりに使って運をきめ、賭けた駱駝の肉を取る)。これはまことに罪深い行いである。・・・中略・・・

許されている(食物)な何と何かと訊ねてきたら、答えるがよい、「お前たちに許されているのは、全てまともな食物。次に、お前たちアッラーが教え給うた通りに自分で訓練して馴らした動物(犬や鷹などを指す)がお前たちのために捉えて来る獲物は食べてよろしい。必ずアッラーの御名を唱えてから食べるように。アッラーを懼れまつれ。まことにアッラーは勘定がお早くましますぞ」と。今日、まともな食物は全部汝らに許された。また聖典を戴いた人たち(ユダヤ教徒とキリスト教徒)の食物は汝らにも許されており、汝らの食物も彼らに許されておる。

食べていいものダメなものについて述べられている。豚肉を食べてはいけないというのは、ここに述べられているのである。また食べてはいけない食物だけではなく、殺され方にも条件があるのだ。但し、中略した部分の中には、飢饉のときや、他人から無理強いされた場合にはこの限りではないとある。肉の分配方法にも賭けをすることは許されないとあるように、イスラムでは賭け事に当たるものは全てダメなのである。競馬のようなギャンブル、宝くじのようなものもそうである。けれども、国によってはそういう者が認められている国もあるのだろう。

また(嫁取りについても同様で)、回教信者の操正しい女も、汝らが(『コーラン』の啓示を受ける)以前に聖典を戴いた人たち(ユダヤ人とキリスト教徒)の中の操正しい女も(全く同資格で汝らの妻にしてよろしい)。(その場合も)払うべきものは相手に支払うことは勿論、正規の手続きを踏んで結婚すべきであって、放埓な関係を結んだり、情人でもつくるつもりではいけない。とにかく信仰をないがしろにするような人間は、(現世で)何を為ようとその甲斐はなく、あの世でも敗者の数に入るのみ。

イスラム教徒の食物はキリスト教徒もユダヤ教徒も同じように許されており、その逆もまた許されているとのこと。相手にしてみれば、勝手にしろと言いたいかもしれない。さらに、食物について述べた後で嫁取りについても食物と同じように許されるとあるのも少々滑稽ではないか?この章は長くてまだまだ続く。が、今日はここまでにしておこう。

ノアの箱舟

画像の出所:ナツメ社発行、山形孝夫著『聖書入門』89頁

今日は「ノアの箱舟」伝説である。先ずは旧約聖書では、どのように書かれているのだろうか。
創世期第6章には次のように書かれている(青色が引用の部分):
主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
神は自らが造った人間の傲慢さに嫌気がさして、人々をこの世から抹殺しようとしたのであった。そして、神に従う無垢な人であったノアに言った。「あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。」そして、もっと細かく造り方を指示した。そして言った。「わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべての肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。また、すべて命あるもの、すべての肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは雄と雌でなければならない。それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」ノアは神の言うとおりに行動した。

創世期第7章:
「ノアが六百歳のとき、洪水が地上に起り、水が地の上にみなぎった。ノアは妻子や嫁たちと共に洪水を免れようと箱舟に入った。・・・・・雨が四十日四十夜降り続いたが、・・・・・洪水は四十日間地上を覆った。水は次第に増して箱船を押し上げ、箱舟は大地を離れて浮かんだ。水は勢力を増し、地の上に大いにみなぎり、箱舟は水の面を漂った。・・・・」そして、地上のものはすべて息絶えた。ノアたちだけが生き残った。水は百五十日の間、勢いを失わなかった。

創世期第8章:
やがて水が引いていった。7月の17日に箱舟はアララト山の上に止まった。そして10月には山々の頂が見えるようになった。「ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、鳥を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面から水がひいたかどうかを確かめようとした。しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰ってきた。・・・・さらに七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。鳩は夕方になって箱舟に帰ってきた。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。・・・彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰ってこなかった。」洪水をもたらした雨が止み、水がひいて、地上が現れてきた様子が生き生きと描写されている。そこで神は言った。「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。・・・・あなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。」ノアは神のために祭壇を築いて捧げものを祭壇の上に捧げたそうである。

このあと第9章以後もノアに関わる物語が続いているが、聖書に書かれているノアの箱船のあらすじは以上の通りである。

さて、ノアの方舟のことは実はイスラムのコーランにも出てくるのである。そこで、コーランではどのように書かれているのであろうか。その部分を抜粋して紹介することにしよう。

コーラン第11章フード:
コーランではノアの名はヌーフと読まれる。「さあ、我ら(アッラー)の目の前で、我らの啓示どおりに箱船を作るがよい。悪行にふけっている者どものことで(彼らをなんとかして救ってくれといって)わし(我らとおなじくアッラー)にうるさくせがんではならぬ。いずれにしてもあの者どもは溺れて死んでいくさだめじゃ。
そこで彼は箱船を作りだす。だが民の長老たちは、そのそばを通りかかるごとに彼を嘲弄した。彼が言うに「今のうちにたんとそうしてわしらを嘲りなさるがいい、いずれ(審判の日に)今度はわしらの方でお前がたを嘲ってやろうから、丁度いまお前がたが嘲っておるのと同じように。そうなったら、お前がたにもわかるであろう。(その時)天罰を受ける者は、散々な恥をかかされた上に、しかも永久にかわらぬ責苦を負わされるのですぞ。」
そうこうしているうちに、遂に我ら(アッラー)の最後の断は下され、(天の)大釜が煮こぼれた(大雨になった)ので、我らは(ヌーフに)こう命じた、「(船の)中に、あらゆる(生き)ものを一番ずつ入れるがよい。それから汝の家族をも。但し、前もって運命がきまっている者(無信仰者として死ぬことに決まっている者、の意で具体的にはノアの息子を指す)は(のせては)ならぬぞ。それから信仰ある人々も(乗せて)やるよう。」・・・・かくて舟は一同を乗せ、山なす波浪のなかを走り行く。・・・・ヌーフはいつまでも離れて(船に乗らずに)立っている息子に呼び掛けた。 ヌーフは舟に乗れと呼びかけるが息子は乗らずに山に逃げるという。そこでヌーフは主に呼びかけた。「主よ、私の息子は家族の1人でございます。・・・・」「これ、ヌーフ、あれは汝の家族ではない。彼の所業は正しくない。何も知りもしないことでわしにとやかく口出ししてはならぬ。・・・」ヌーフとアッラーとの間にこのような会話がある。要は旧約聖書の内容と同じようにヌーフの家族が箱船に乗り洪水を免れるのである。信仰深いもの以外は洪水にのまれて死んでしまう。ヌーフの息子でさえ家族の一人として認めないという厳格な裁きをして懲らしめる物語となっている。コーランでは聖書のノアの箱舟の話を少しアレンジしている内容となっている。

少々長くなったので私自身も入力に疲れてきた。もう少し話をしたいのであるが、今日はここまでにしておこう。