コーランについて(10):第104章・・・中傷者

最近のネット社会では誹謗中傷が酷い状態であるらしい。まもなく閉会となる東京オリンピックに出場したアスリートたちに対するものも非常に多いようである。コーランを見ると第104章に「中傷者」という章があるので、それを見ることにしよう。

ええ呪われよ、よるとさわると他人の陰口
宝を山と貯めこんで、暇さえあれば銭勘定

これだけあればもう不老不死と思ってか。
いやいや、つぶし釜(なんでも粉々につぶしてしまうもの。地獄を指す)に叩き込まれる身のさだめ。
が、さて、つぶし釜とはそもなんぞやとなんで知る。
ぼうぼうと焚きつけられた神の火で、
忽ち心(投げこまれる罪人の心臓)を舐めつくし、
頭の上から蓋をして、
蜿々長蛇の柱とはなる(はてしなく続く柱の列のように火焔が燃え立つのである)。

後半は少し分かりにくいかもしれないが、要は人を中傷するような輩は地獄に落ちるんだということ。金をため込んで銭勘定ばかりするような輩は、貯め込んだ財産が不老不死を与えてくれると思っているのかもしれないが、そんな輩も地獄へ落ちるということだ。そして、地獄というのは、前回にも出て来たが、劫火の責めを受ける処である。最後の審判で地獄行となった者は火で焼かれるが、彼らは既に死を経験しており、地下のあの世から、喇叭の音によって復活した者どもである。一度死んでいるので、再び死ぬことはない者どもである。つまり、酷い劫火に焼かれても、死ぬことはなく、永遠に火の攻めを受けるのである。もう殺してくれと泣き叫んでも、死なずに、一生苦しみ続けるのである。一生というのは可笑しいな!

とにかく、イスラムの地獄での苦しみはコーランのあちこちで述べられている。その部分だけを抜き書きして整理するだけで学位論文が書けるかもしれない。世界中の人々が、他人を誹謗中傷したりすると地獄に落ちることを心に留めておいてもらいたいものである。

コーランについて(7):第5章・・・食卓②

第5章:食卓の章の続きです。
食卓という章の名前ですが、色々なことが書かれています。次のように礼拝の時の所作についてもここで述べられています。

これ汝ら、信徒の者、礼拝のために立ち上がる場合は、まず顔を洗い、次に両手を肘まで洗え。それから頭を擦り、両足の踝のところまで擦れ(これは斎めの象徴的動作で心身の清浄を来す)。
けがれの状態にあるときは、それを特に浄めなくてはならぬ。だが、病気の時、または旅路にある時、あるいはまた汝らのうち誰でも隠れ場(便所のこと)から出て来たとか妻に触れて来たとかした場合、もし水が見つからなかったら、きれいな砂を取って、それで顔と手を擦ればよろしい。アッラーは汝らをことさらいじめようとし給うわけではない。ただ汝らを浄め、そして汝らに充分の恵みを授けて、なろうことなら汝らが(神に)感謝の気持ちを抱くようにしてやりたいと思っておられるだけのこと。

礼拝の作法はイスラム関連本を見ると図で示されていることが多い。日本の神社でのお参りの作法は、「二礼二拍手一礼」
1.一度姿勢を正し、深いお辞儀を2回行う
2.胸の高さで、右手を少し引いて(ずらして)手を合わせる。 肩幅程度に両手を開き、2回打つ
3.手をきちんと合わせ、心を込めて祈る
4.深いお辞儀をする
などと説明書きがあるが、イスラムに比べると全然簡単である。
ただ、イスラムで感心するのは、できないときの対応を示していることである。前回の食物の取り方の場合も、どうしてもできない場合は許されるとあった。ここでも身を浄める水がなければ砂で擦ればいいのだと示している。他の場合でも断食ができなかった場合の穴埋めの方法なども事細かく示されている。次はユダヤ教徒やキリスト教徒に関する部分を取り上げよう。

かつてアッラーはイスラエルの子らと契約を結ばれたことがある。その時我ら(ここで人称が急にかわる。アッラーの自称)彼らの間から十二人の首長(十二支族の首長)を興し、アッラーが仰せられるには、「わしは汝らとともにあるぞよ。汝らもし礼拝を怠らず、定めの喜捨をこころよく出し、わしの遣わす使徒たちを信じてこれを助け、アッラーに立派な貸しつけをする(善行をすること。善行はアッラーに対する一種の貸しである)ならば、わしの方でも必ず汝らの悪行を赦し、必ず潺々と河川流れる楽園に入れてつかわそうぞ。だが、万一汝らのうち誰か、これほどまでにして戴いておきながらなお信仰にそむくなら、まことにそれこそ正しい道から遠く迷うというもの。
さればこそ彼らが契約に違反した時、我らはこれに呪詛をあびせ、その心を頑なにした。それで彼らは(聖典)の言葉を曲げて解釈し(ユダヤ人は聖書の文句を自分に都合がいいような意味に曲解しているという)たりしているうちに、ついには教えて戴いたものの一部をすっかり忘れてしまった。お前(ムハンマド)にしても、今後いつまでも彼らの裏切りに遭うことであろう。勿論ごく少数の例外はあるが。だが、赦してやれ、勘弁しておいてやれ。よいことをすれば必ずアッラーに愛していただけよう。

前回述べたように、ここに紹介している日本語訳は岩波文庫の井筒俊彦氏による訳文である。日本語訳で出版されているものも複数あり、それぞれが立派なものである。またネット上でも日本語訳を見ることができる。「イスラムのホームページ」http://islamjp.com/ と題するサイトでは上の部分を以下のように訳している。

5-12.アッラーは、以前にイスラエルの子孫と約束を結ばれ、われはかれらの中から12人の首長を立てた。そしてアッラーは仰せられた。「本当にわれはあなたがたと一緒にいるのである。もしあなたがたが礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、われの使徒たちを信じて援助し、アッラーによい貸付をするならば、われは、必ずあなたがたの凡ての罪業を消滅し、川が下を流れる楽園にきっと入らせよう。今後あなたがたの中、これ(約束)を信じない者は、正しい道から迷い去る。
5-13.しかしかれらはこの約束を破ったので、われは見限って、かれらの心を頑なにした。かれらは(啓典の中の)字句の位置を変え、与えられた訓戒の一部分を忘れてしまった。それでかれらの中の少数の者以外は、いつも契約を破棄し、裏切りに出るであろう。だがかれらを許して見逃しなさい。」本当にアッラーは善い行いをする者を御好みになられる。

こうして並べて比べてみると、後者の方が頭にスーと入ってくるように思う。口語調のせいであろうか。そうなるとついでに作品社発行・中田孝監修の『日亜対訳クルアーン』の訳も気になってくる。以下に紹介しておこう。

アッラーはかつてイスラーイールの子孫からの確約を取り給い、われらは彼らのうちから十二人の首長(*語源的には広大さや傑出を意味する語で、保証人、信頼ある長、責任ある庇護者等の意味があるといわれる)を遣わした。そしてアッラーは仰せられた。「まこといわれはおまえたちと共にある。もしも、おまえたちが礼拝を遵守し浄財を払い、わが使徒たちを信じて彼らに助力し、アッラーに良い債券を貸付たならば、われはおまえたちからおまえたちの悪事を帳消しにし、おまえたちを下に河川が流れる楽園に必ずや入れよう。そしておまえたちのうち、その後に信仰を拒んだものは中庸の道から迷ったのである。」
だが、彼らの確約の破棄ゆえにわれらは彼らを呪い、彼らの心を頑なにした。彼らは言葉をその場所から捻じ曲げ、彼らに訓戒されたものの一部を忘れた(*「律法の書」を改竄し、その一部を破棄し、あるいは解釈を捻じ曲げた)。それでおまえは彼らのうちわずかな者を除き、彼らの裏切り(*あるいは「彼らのなかの裏切り者たち)を目にし続けるのである。それゆえ彼らを免じ、見逃せ(*これは9章29節、あるいは8章58節によって破棄された。破棄されなかったとの説もある)。まことに、アッラーは善をなす者を愛し給う。

こちらは注釈が頁の下に記されているが、ここでは( )内に記しておいた。十二人の首長という部分の意味がこの訳本ではきちんと説明があり、理解できた。また最後の注釈の部分で、破棄されたとかそうではないという風な記述がある。他の二つの訳ではどちらも免ずるあるいは赦すなどとなっているので、破棄されていないのが一般的なのであろうと理解できたりする。やはり、複数の訳を読むとより良く理解できるようである。