アラビア文字の面白さ

先日、左肩を痛めたけど少し良くなったのでアラビア書道の稽古も始めたとか、ブログも再開するよと言ったのでした。でも、中々痛みが無くなりません。そこで改めて別の評判の良い整形外科病院を訪れたのです。これまでの医院と同様にレントゲンを撮ったのですが、「腱が切れているようだよ。MRIで精密検査したほうがいいよ」ということでした。その検査までは少々日にちが空くのですが明後日なのです。そんなわけでこのブログも書けていませんが、今日は晴天で暖かいので、あまり腕に負荷のかからないことを書こうと奮起しました。そこで決めたテーマはアラビア文字のことです。
アラビア語には興味がない読者も多いと思います。私自身も
参考書は持っていますが、「アラビア語は難しいので手が出ない」状態です。が、アラビア文字には興味がありますし、好きです。アラビア語に興味ない人も今回はアラビア文字についてちょっと関心を持って見てください。

上にアップしたのはNHKラジオのアラビア語講座のテキストの「アルファベット早見表」です。アラビア語は28文字です。でも表を見て下さい。28文字が全然異なる形ではなく、ある文字の一つに点が一つ、あるいは二つ、三つついている文字がありますね。それらを一つとして数えたら、17個の形になります。覚えるのは簡単そうですね。今言っているのは独立系の文字のことです。これらの文字が単語の頭にきた時、文字と文字との間にきた時、語尾にきた時で形が変わったりするのが少しややこしいかもしれませんが、実際に書いて見ると、合理的になっているわけです。また後ろの文字に繋いで書かれない文字があったりもします。話を点のことに戻しましょう。

ب 英文字の b に相当します。
ت 英文字の t に相当します。
ث 英文字の th に相当します。th の日本人が苦手な発音ですね。
点の数で違う文字になります。点の数が非常に重要ということです。別の文字も見ましょうか。

ج 英文字の j に相当します。
ح 
英文字の h に相当します。
خ 
英文字の kh に相当します。
このように点の数で文字が変わるということがお分かりですね。次にアラビア語以外でもアラビア文字を使っている国(言語)があります。昔はトルコやインドネシアもそうでした。現在ではウルドゥー語やペルシア語がそうです。そこで面白いことが発生するのです。例えばアラビア語には P という音=文字がありません。でもペルシア語には P はペルシア語のPですから必須ですよね。そこで پ という文字が使われています。アラビア語では点を3つ付けた th がありましたが、それは上についていました。ペルシア語では下に点を3つ付けてPとしているのです。同様にアラビア語にはチ chi という音=文字がありません。日本人の千葉さんの名前を書くことができません。ペルシア語にはその音があるので文字が必要です。トルコ語でも必要でした。そこでできたのが چ です。上述したグループに点3つの文字が追加されて利用されているのです。そのような文字は5つあるのです。
まだまだ話したいのですが、少し腕がつかれました。今日はこの辺で終わりとしましょう。アラビア文字、如何でしたか?面白いと思われたら「いいね」ボタンを押していただければ嬉しく思います。

 

新シリーズ「オスマン帝国」:①「オスマン・トルコ」という呼び方

このブログの最初は歴史から始まった。その過程の中でオスマン帝国も登場したのであるが、このブログの表示履歴を見ると、オスマン帝国の表示が意外に多い。日本人のトルコに対するイメージは「アジアの中の一員でありながら、西洋との接点の国であり、どこかエキゾチックな国」というようなものではないだろうか。トルコへの観光客も多いと聞いている。私も随分前に行ったことがあるが、やはりイスラム建築の美しいモスクなどが魅力的であった。ということで、トルコ、オスマン帝国について、今度は少し細かく辿ってみようと思うのである。勿論いつものように、ペルシャの詩、ペルシャ語講座など、あちらこちらに寄り道をしながらのことではあるが。

「オスマン帝国」と「オスマン・トルコ」

今では「オスマン帝国」という呼び方が定着しているように思うが、私が高校生だった当時は「オスマン・トルコ」や「オスマン・トルコ帝国」という呼び方が一般的であった。私は世界史の教科を選択したので、『世界史辞典』を手元に置いていた。受験参考書の出版社「数研出版」の発行である。それは今現在も手の届くところに置いてある。その時点の項目は「オスマン・トルコ帝国」となっている。その説明文は以下の通りである。

13世紀末、オスマン=ベイ(オスマン1世、1258~1326)が小アジアを中心に建てたオスマン=トルコ族のイスラム国家。オットマン帝国ともいう。その後バルカンに進出し、1453年コンスタンティンープルを陥れて東ローマ帝国を滅ぼし、アジア・ヨーロッパ・アフリカ3大陸にまたがる大国となった。1517年セリム1世のとき、アッバース朝の子孫からカリフの尊号を譲られ、ついで16世紀、スレイマン1世時代に国力の極盛期を現出、その後17世紀後半に至って衰微オーストリア・露の侵略を受けた。19世紀に入ると領内に多くの民族国家が独立し、さらに第一次大戦に独側に参加して失敗したので1922年、ケマル=アタチュルクはスルタン制を廃して帝国を滅ぼし、翌年トルコ共和国を建てた。

文中にある「オットマン帝国」は英語の「Ottoman Empire」のことであり、「オスマン帝国」のことを英語ではこう呼ぶのである。オスマンとはOttoman(オットマン)であることが分かる。

やはり、高校から大学生の頃であるが、私は大阪外国語大学の学生であり、言葉に対する興味・関心は強い方だった。自分の話す日本語は紀州の田舎弁であったため、言葉遣いやイントネーションには少々劣等感を持っていたが、クラスメートが「お前の言葉には古い日本の言葉が残っているようだ」と言ってくれたことから、むしろ誇りに思うようになった。横道に逸れたが、その頃の私はトルコ語も日本語もウラルアルタイ語族に分類されるので語学的には近い関係にあると認識していた覚えがある。でも、今はそんなことは言われていないようである。こう書いたのであるが、あまり信ぴょう性のないことを書いてもいけないので、ちょっとウィキペディアを開いてみると、今ではウラル語とアルタイ語とに分かれているようである。また、トルコ語がウラル・アルタイ語族であったというのは仮設であったようで、その後、その仮説は否定されているようである。そしてなによりも、トルコ語はチュルク諸語、トルコ諸語というようなグループ分けに入り、そこにはアゼルバイジャン語、トルクメン語、キルギス語、カザフ語、ウズベク語、ウイグル語、タタール語、サハ語(ヤクート語)などが挙げられていた。つまり、私は学生時代の仮説を今までずーと思い続けていたようである。常に勉強しておかないといけないということが分かった。

他にもトルコ人には我々と同じように赤ちゃんのお尻に蒙古斑ができるとも聞いていた。これなども正しくはないのかも知れないなと不安がよぎるのである。でも人種的にはアジアの方から移動していったという説があるようだから、トルコ人の人種について、次は調べて書いてみよう。今日は取り留めのない話になってしまったが、今入力しているパソコンの傍には宮田律先生の『中東イスラーム民族史』が置いてある。きっと、トルコ民族の答を見ることができるであろう。