パレスチナ問題の復習❹:ユダヤ人の歴史

久しぶりの投稿です。夏休み、お盆休みなどで孫が帰省していますので、上の画像のようにトンボ取りに行ったりして毎日忙しくしています。ちょっと時間をとって投稿しています。今回はユダヤ人の歴史(というほどのものではありませんが)を少しアップしましょう。

ユダヤ人の歴史
 パレスチナ問題が生じた経緯を非常に簡単に述べたが、ここでパレスチナのアラブ世界における位置づけを顧みることにしよう。パレスチナは地理的にはアラブ世界の中心に位置している。アラブ人にとって最も重要な地域といえば、いうまでもなくヘジャズ地方である。ヘジャズ地方とはアラビア半島の紅海沿岸地方で、そこにはイスラムの聖地メッカとメディナがある。ヘジャズ地方を除けばパレスチナは非常に重要な地であった。アラブ世界に侵攻してきた勢力、例えばモンゴル軍、ナポレオン軍、あるいは第三次十字軍などはパレスチナにおいてイスラム軍によって追い払われた。イスラエルがパレスチナに国家を建設したことは、アラブ人の結束を固めた。ユダヤ民族対パレスチナ民族という戦いではなくユダヤ民族対アラブ民族あるいはイスラエル対アラブ諸国という対立に変わっていった。
 パレスチナ人とは、ユダヤ人とはどのような民族なのであろうか。パレスチナという地名は、ローマ支配やビザンツ支配のもとで行政区画につけられた名前である 。その由来はもっと古く、旧約聖書に登場するペリシテ人の国フィラスティに起源があるらしい。旧約聖書ではユダヤ人はアブラハムに率いられて古代メソポタミアのウルから西へ向かい、カナンの地に入植した。そこは乳と蜜の流れる地であり、ここがパレスチナである。ここでユダヤ人がペレシテ人の地に初めて入植したことになる。しかし、その後、飢饉などのせいでユダヤ人達はエジプトに移住していった。エジプトでは奴隷のような扱いをうけて苦難の日々を送っていたことから、再びエジプトを脱出することになる。それを率いたのがモーゼである。旧約聖書の「出エジプト記」にはそのことが記されている。モーゼに率いられた一行は「十戒」を授けられが、それを守り、ついにカナンの土地に戻ることができたのである。しばらくの間、ユダヤ人たちの世界は繁栄し自分たちの国・ヘブライ王国を持つことができた。都エルサレムには神殿が建設された。この神殿は今では残っていないがユダヤ教徒が聖地としているのはこの神殿跡である。神殿の壁の一部が残っており、それが「嘆きの壁」である。智恵者で有名なソロモン王はこの国の第三代目の王であった。しかしながら、この王国は紀元前926年頃に北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した。イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされ、ユダヤ王国も新バビロニアにより征服され、ユダヤ人達は捕らえられバビロンに連れて行かれてしまう。歴史でいうところの「バビロニア捕囚」である。時は紀元前586年~538年頃のことである。バビロンでの苦しい心を旧約聖書から紹介しよう。詩の中のシオンというのはエルサレムの神殿のあった丘のことであり、ユダヤ人達がシオンの丘に国家を作って戻ろうという運動がシオニズムと呼ばれるようになった。

バビロンの流れのほとりに座り
シオンを思って、わたしたちは泣いた。
竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。
わたしたちを捕囚にした民が
歌をうたえと言うから
わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして
      「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。
どうして歌うことができようか
  主のための歌を、異教の地で。
エルサレムよ
 もしも、わたしたちがあなたを忘れるなら
   わたしの右手はなえるがよい。
わたしたちの舌は上顎にはり付くがよい
 もしも、あなたを思わぬときがあるなら
   もしも、エルサレムを
     わたしたちの最大の喜びとしないなら。   (詩篇137の1~6)

そのころ、イラン系の王朝アケメネス朝ペルシアが興り勢力を拡大していった。ペルシアは紀元前525年ころ全オリエントを統一するが、その少し前の紀元前538年ころに新バビロニアを征服した。その際に、ペルシアのキロス二世がユダヤ人を解放したのである。ユダヤ人達はパレスチナに戻ることができ、破壊された神殿は再建された。パレスチナの地はアケメネス朝の支配下にはいるが、やがてアケメネス朝は紀元前330年マケドニアのアレクサンドロス大王に滅ぼされてしまう。その後、パレスチナはプトレマイオス朝からセレウコス朝の支配下に入ったあと、紀元前142にユダヤ人のハスモン朝が成立したのである。この王朝は紀元前63年にローマの支配下に入ったため約80年で消え去った。ローマの支配下に入ったあとローマ皇帝ネロの時代である紀元66年から70年にかけて第一次ユダヤ戦争を起こした。このときに神殿は再び破壊されてしまった。133年からの第二次ユダヤ戦争もハドリアヌス帝によって鎮圧されてしまい、それ以後、ユダヤ人はエルサレムにとどまることができなくなったのである。ユダヤ人はこれ以後、エルサレムから離散して世界中に分散していく運命を辿るのである。このようにユダヤ人はカナンの地パレスチナを求めてさまよい続けた苦難の歴史を抱えた民族である。歴史年表からユダヤ人に関わる部分を箇条書きにしてみよう。

紀元前1230年頃 ユダヤ人モーゼに率いられてエジプトから脱出モーゼが十戒を授かる
紀元前1006年頃 ユダヤ人サウルを王に戴き、ペレシテ人と戦う
紀元前1004年頃 ダビデがペレシテ人を破りエルサレムを都として王国を建設
紀元前960年 ソロモン王即位(紀元前926年頃まで)
紀元前926年頃 王国が北のイスラエル王国と南のユダヤ王国に分裂
紀元前721年 イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされる
紀元前586年 ユダヤ王国が新バビロニアのネブカドネザル王により滅ばされ、ユダヤ人達がバビロニア捕囚の身となる
紀元前558年 アケメネス朝ペルシア成立
紀元前538年頃 バビロニア捕囚が解放され、ユダヤ人はパレスチナに戻る
紀元前142年 ユダヤ人のハスモン朝成立
紀元前63年 ハスモン朝ローマ帝国の支配下にはいる
紀元66~70年 第1次ユダヤ戦争
紀元133~135年 第2次ユダヤ戦争、ユダヤ人エルサレムから追放される

 このようにユダヤ人の歴史を顧みると、ユダヤ人がパレスチナに戻ろうとする気持ちが理解できるような気がしないでもない。離散したユダヤ人達は行く先々で差別や迫害を受けてきた。ロシアでは多くのユダヤ人が虐殺された。それらの行為はポグロムと呼ばれたが、ロシア語で破壊という意味である。ロシアのユダヤ人の多くはアメリカに移り住んだ。欧州ではナチスドイツのホロコーストがその代表である。欧州からユダヤ人を追放、いや絶滅する計画が行なわれた。ロシアや欧州を追われるユダヤ人の姿はまさに紀元前の時代と重なるものがあるわけである。そのような状況でシオニズム運動がおきて、パレスチナにイスラエルが建国された。
 では、ここで問題を原点に戻そう。いったいユダヤ人とは誰なのであろうか。わたしたち日本人は大きな人種区分では多くのアジアの人々ともにモンゴロイドに入るが、遠くインカ文明を築いた人々もモンゴロイドである。外見から明らかに共通する特徴がある。しかしながら、中東から北アフリカに住んでいる大多数のアラブとなると、その定義は「アラビア語を母語とする人々」となる。おそらく中東の東の端と北アフリカの西の端のアラブ人では人種的には異なる部分もあるのではないかと思うのであるが専門家でない私にはよく分からない。人種的に区分された民族と文化的に区分された民族があってもおかしくないだろう。民族と文化が時代とともに交錯してくることは十二分に考えられる。ユダヤの場合は宗教によって区分された民族なのであろうか。ユダヤ教を信仰するものがユダヤ民族なら簡単明瞭であるが、実際はそうではないようだ。イスラエルが建国されたときの独立宣言には「ユダヤ人国家樹立」と叫ばれているが、ユダヤ人という定義はこのときになされていない。ユダヤ民族移民を受け入れるための法律「帰還法」では母親が「ユダヤ人」であるか、ユダヤ教に改宗した人のこととされている。また、ユダヤ教内でも正統派や保守派、改革派などがあり正統派から見た他派はユダヤでないという過激な見方もあるようである。

パレスチナ問題の復習❶:シオニズム運動

前回、バイデン米大統領が中東を訪問したがパレスチナ和平問題については何も進展がなかったことを紹介した。トランプ大統領になって以後、彼のイスラエル寄りの姿勢が鮮明になっていらい、和平への動きはストップしていた。バイデンになれば何らかの進展があるかとする期待も若干あったわけだが、それも期待外れであった。今回(およびこれ以後)でパレスチナ問題の経緯を時代を遡って振り返ってみよう。内容は私がかなり昔に書いていたものを引っ張り出してきたものを修正しつつアップしていく。それゆえ今回のタイトルには復習とつけた。

パレスチナ問題は現代中東における最大の問題といっていいだろう。古い話になるが、1990年イラク軍がクウェートに侵攻した湾岸危機の解決にあたり、フセイン元大統領は単にイラクとクウェート間の問題ではなくパレスチナ問題とリンクさせなければならないと主張した。彼は中東における全ての問題はパレスチナ問題につながり、それ抜きにしての解決はありえないと言いたかったのであろう。中東諸国の成立過程を顧みるならば、中東諸国の諸問題を解決するには中東諸国間の国境、いやその国々の成立にまで遡って議論し、西側諸国の行動を総括することが本当は必要なのかも知れない。しかしながら、戦後70年以上が既に経過した今では現状国家の枠組みの中で和平・安定に向けて努力しなければならないだろう。パレスチナ問題は第二次世界大戦前後に発生した極めて新しい紛争であることを認識しなければならない。二〇世紀以前のパレスチナは現在のような紛争状況にあったわけではなく、少数のユダヤ人たちとアラブ人は平和に共存していたのである。

シオニズム運動
ユダヤ人たちは世界各地に居住し自分たちの国をもっていなかった。十八世紀までのヨーロッパ・キリスト教中心の世界においてユダヤ人たちはさまざまな形で迫害をうけてきた。例えば、帽子やユダヤの星のバッジの着用を強いられた。ゲットーとよばれる地区に居住させられた。このような状況のあと、1789年のフランス革命は身分制社会に終止符をうち国民という新しい集団を誕生させた。個々の国民は身分や民族・宗教などに関係なく国民として平等な義務と権利を有することができるようになった。1871年にはユダヤ人にもヨーロッパで初めて市民権が与えられた。ユダヤ人にとって、市民権が与えられたことは喜ばしいことであったが、一面ではユダヤ人としてのアイデンティをどのように維持するのか複雑な思いも同時に抱いたようである。
一九世紀に入りヨーロッパ各地で民族主義が台頭した。民族主義は時には他民族を差別し排斥する人種差別的な運動にもつながる危険性があった。1894年のドレフェス事件はそのような時代に起きた出来事であった。フランス軍のドレフェス大尉がドイツに軍事秘密を漏洩したというスパイ疑惑事件であった。彼がユダヤ人であったために反ユダヤムードが拡大したのだった。ユダヤ人ジャーナリストであったヘルツルは1886年に『ユダヤ人国家』を著し、ユダヤ人国家建設こそがユダヤ人を解放するものであると主張した。1897年に最初のシオニスト会議がスイスのバーゼルで開催された。ユダヤ教の聖地であるエルサレムのシオンの丘に帰ろうという運動がシオニズム運動であり、その運動家たちがシオニストと呼ばれるようになった。「土地なき民に、民なき土地を」がシオニストたちのスローガンであった。シオンの丘には民がいないわけではなく、パレスチナ人(アラブ人)が住んでいたのだが。イギリスはシオニズム運動を支持し、オスマントルコの領土に第一大戦後にユダヤ人たちがホームランドを作ることを支援するというバルフォア宣言を発した(1915年)。ユダヤ人たちのパレスチナへの移民が次第に増加していった。ユダヤ人たちが増えるにつれてパレスチナ人との対立が激しくなった。それでも初期の移民に対してパレスチナ人たちはさほど拒絶反応を示したわけではなかった。あるものはユダヤ人に土地を売却しているのである。1947年当時のユダヤ人の比率は三分の一程度に達した。ユダヤ人とパレスチナ人の対立が激化するなか、イギリスは委任統治を放棄しパレスチナの地の扱いを国連に委ね、1947年11月29日に国連総会はパレスチナ地域をユダヤ人の国とアラブ人の国に分割するという「パレスチナ分割決議」を採択した。その内容はパレスチナ全土の五五%を少数派のユダヤ人国家、残りの四五%の土地をアラブ人国家とし、エルサレムとその周辺は国際管理とするものであった(図1-A参照)。ユダヤ側はこの決議を受け入れたが、アラブ側は拒絶した。その翌日、ユダヤ人のバスがアラブ人に攻撃を受けることになり、ユダヤ人はこの日から「イスラエル独立戦争」が始まったとしている。

ユダヤ人とは?

「アラブ人とは?」の中で、アラブとユダヤはセム系民族同士であるので言語学的には近いということでした。旧約聖書をみてもアラブとユダヤのルーツであるとされているイシュマエルとイサクは異母兄弟でした。それはそれとして、ユダヤ人とはどういう人たちなのでしょうか。ユダヤ民族とかユダヤ人という人種があるのでしょうか。

佐藤千景著『ユダヤ世界を読む』(創成社新書、2006年)の第一章の冒頭には次のような記載がある。
イスラエル外務省がウェブサイト上で紹介しているユダヤ民族の歴史は、「約4000年前の族長アブラハムとその子イサク、孫のヤコブによってその幕が開かれた」という記述から始まっている。この記述は、旧約聖書の創世記第12章から始まる族長時代に相当する部分であるが、現代においてこうした聖書の物語を、史実としての「歴史」としてとらえる人は少ないであろう。
他方で近年、死海近くにあるクムランの洞窟から発掘された死海文書や、後に述べるマサダの遺跡のように、考古学上の様々な発見によって聖書時代の出来事が徐々に裏付けられつつあることも事実である。とはいえ、過去の旧約聖書に関する多くの研究が示しているように、特に族長時代からダビデ・ソロモン王国成立頃までの記述は、イスラエルの民族に関する政治的、神学的な立場を説明するためにさまざまな部族や集団の民間伝承を紀元前一千年紀頃に再編集したものであるとされている。・・・・中略・・・・
イスラエルの帰還法によれば、ユダヤ人とはユダヤ人の母親から生まれた者、またはユダヤ教に改宗した者と定義されている。この定義に従うならば、ユダヤ人とは先祖の地を受け継いだ者たちだけではなく、特定の宗教信徒を示す名称であるということになる。彼らが別名「啓典の民」または「書の民」と呼ばれているのは、こうした理由による。事実、非ユダヤ人であっても、身体的な特徴を問わず、改宗によってユダヤ民族の一員として認められる場合がある。もちろん、ユダヤ教への改宗は決して簡単なものではない。しかしそれは、来日したスポーツ選手が帰化したにもかかわらず、いわゆる一般的な「日本人」としての集団に加えられることはないという、我が国での民族に対する感覚とは大きく異なるものといえよう。

ここに記載されているように、まずはユダヤ教に改宗した者はユダヤ人なのである。私・日本人がユダヤ教に改宗したとしたらユダヤ人となるということらしい。勿論、ユダヤ教に改宗することは簡単にはできないらしい。それにしても、ユダヤ人というのはユダヤ民族とかユダヤ人種というものではないということは間違いないというわけだ。

もう一つの、ユダヤ人の母親から生まれた者がユダヤ人であるという定義はどうだろう。「あっ、そうか。お母さんがユダヤ人であれば子供はユダヤ人ということだね。」分かりやすいですね。でも実際はそう簡単ではないらしい。ユダヤ人の母とは誰なのか、つまり、母親がユダヤ人であることはどうやってわかるのかという問題が残るというのである。なんかややこしいのであるが、ユダヤ人というのは皆ユダヤ教徒ではあるのでしょうね。

ユダヤ人と言うと外見の特徴がある。ヒゲや帽子などですぐに分かるが、それはそういう格好をすればユダヤ人ということであり、イスラム教徒がベールを着たりするのと同じことで、身体的な特徴ではない。和服の着物をきたのが日本人であるというようなものだろう。

結論としてはユダヤ人という人種や民族はいないということ。ユダヤの民が離散して世界中に散らばって存在しているうちに多様なユダヤ人になっていったというような感じなのでしょうか。

アラブ人、アラブ民族とは?(続き):旧約聖書から

「ユダヤ人とは?」を書く前に、「アラブ人、アラブ民族とは?」の続きを書いてみたいと思いました。それは旧約聖書を思い出したからなのです。

私の手元には旧約聖書が2冊あります。一つは妻が中学時代に使ったもの。もう1冊は娘が同じ中学時代に使ったものです。二人は同じキリスト系の学校だったので、聖書は必須だったそうです。私は中東のことを研究する上でイスラムだけではなくて、ユダヤ教やキリスト教、聖書などにも興味があります。そこで二人の聖書を譲ってもらい大事にしながら時々読んでいました。そこでアラブの祖のことが書いてあったことを思い出したのです。

創世記第25章7節~(アブラハムの死と埋葬)
7アブラハムの生涯は百七十五年であった。 8アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。 9息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあったが、 10その畑は、アブラハムがヘトの人々から買い取ったものである。そこに、アブラハムは妻サラと共に葬られた。

創世記第25章12節~(イシュマエルの子孫)
12サラの女奴隷であったエジプト人ハガルが、アブラハムとの間に産んだ息子イシュマエルの系図は次のとおりである。 13イシュマエルの息子たちの名前は、生まれた順に挙げれば、長男がネバヨト、次はケダル、アドベエル、ミブサム、 14ミシュマ、ドマ、マサ、 15ハダド、テマ、エトル、ナフィシュ、ケデマである。 16以上がイシュマエルの息子たちで、村落や宿営地に従って付けられた名前である。彼らはそれぞれの部族の十二人の首長であった。 17イシュマエルの生涯は百三十七年であった。彼は息を引き取り、死んで先祖の列に加えられた。 18イシュマエルの子孫は、エジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル方面に向かう道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた。

アブラハムと女奴隷であったエジプト人のハガルとの間にできた息子がイシュマエルであった。そして、その子孫たちがエジプトの近くで住むようになったと記されている。このイシュマエルがアラブ人の祖になっているのである。
一方で、アブラハムと妻のサラとの間に生まれたのがイサクである。創世記25章19節からは「アブラハムの息子イサクの系図は次のとおりである。と始まり、イサクの子供たちが生まれる過程を記しています。双子の息子でした。エサウとヤコブです。イサクの一族がユダヤ人の祖となるのです。

アラブ人の祖も、ユダヤ人の祖もアブラハムから生まれた異母兄弟であるということなのです。

私が今回言いたいことは、聖書に書かれていることを物語として読むことは非常に面白いということをお伝えしたかったのです。いかがですか?聖書に興味を湧いてきませんでしょうか?聖書を読んでいると他にも興味深いことがあります。ユダヤ人がバビロン捕囚から解放したペルシャのキュロス大王が、旧約聖書では英雄になっています。当然のことでしょう。このユダヤとペルシャが現代世界ではイスラエルとイランという形で激しく敵対しているのです。キュロス大王のユダヤ人解放は歴史上の事実です。聖書には伝説と事実が入り混じっている点も謎めいて面白い点でしょう。例えばノアの方舟は空想物語なのでしょうか或いは大洪水という歴史的な災害に基づいた事実なのでしょうか?????

アラブ人、アラブ民族とは?

今回は基本に戻ってみましょう。このブログを書き始めた時、つまり2019年の1月だから約1年半前に書いた第2番めの記事で次の図を示していました。

ブログを始めたばかりで、一回の文字数も短い状況でした。この図を示して「中東世界には大雑把にいうと、3つの民族・文化で成り立っている」ということを述べたのでした。ただそれだけでした。トルコとペルシャとアラブです。そして、それぞれについては何も説明がなされていませんでした。その後も、このブログの中ではアラブやトルコ、ペルシャなどという語句を当たり前のように使ってきました。でも、よく考えてみれば、ちょっと不親切なような気がします。今回は反省の意味を含めて「アラブとは?」を考えてみましょう。

アラブとはどういう意味でしょうか?アラブ民族というのがあるのでしょうか。アラビア半島の例えばサウジアラビアの人と、地中海沿岸のモロッコ人とはアラブ人という同じ民族なのでしょうか?いま、「アラブ人とは」とネットで検索してみると、世界史の窓というサイトでは次のように書かれています。
「アラブ人は、本来はアラビア半島を原住地とするセム系民族でアラビア人ともいう。彼らは広大な砂漠地帯で、遊牧生活を送っていたので、ベドウィンとも言われる。いくつかの部族に分かれ、交易と略奪に従事し、それぞれの部族神を礼拝する多神教を信仰していたが、7世紀に厳格な一神教であるイスラーム教を創始したムハンマドによって統一された。イスラーム教の教団国家は当初、アラブ人が主体となっており、非アラブ人のイスラーム教徒は差別される状態だったため、「アラブ帝国」と言われたが、イスラーム教の拡大に伴い、その周辺の諸民族と融合していくと次第にアラブ人と非アラブ人の差はなくなり、アッバース朝の時からは「イスラーム帝国」となった。こうしてアラブ人の概念そのものも拡張されていった。単にイスラーム教の信者と言うときには「ムスリム」を使う。また、イスラーム教徒の商人はムスリム商人といわれ、帝国の拡大に伴い広く東西で活動するようになり、東では中国にも及んだ。中国では唐代以来イスラーム教徒(広い意味のアラブ人)は「大食(タージ)」といわれた。」ちょっと意味不明のような記述がでています。アラブ人とは別名ベドウィンとも呼ばれる遊牧民だというのです。その前にセム系民族であると言っています。民族的な分類ではセム系という範疇に入るのがアラブ人であると。それは良しとしましょう。そうするとセム系民族とは何ぞや?となりますね。同じく世界史の窓で調べてみましょう。次のように書かれています。
「アフロ=アジア語族のひとつの語派とされ、西アジアに広く活動する語族の一派。セム語族(語派、語系)に入る言語には、アッカド語、バビロニア語、アッシリア語、アラム語、フェニキア語、ヘブライ語、アラビア語がある。なお、アフロ=アジア語に含まれる語派には、他に古代エジプト語派、チャド語派などがある。かつて、セム語族に対して、エジプトや北アフリカの言語をハム語族と言ったが、現在ではこの用語は用いられていない。」と。だんだん分からなくなってきます。つまりセム語系という言語学上の分類があって、その言葉を話す民族をセム系民族というらしいのです。そのセム語系にはアラビア語のほかに色々な言語が挙げられています。アラビア語のあればヘブライ語もあるのです。アラビア語を話すアラブ人もヘブライ語を話すユダヤ人もセム系という同じ民族なのです。

回りくどいことは止めましょう。アラブ人という人種的な区分はなくて言語的な区分でいうセム系民族の一つであるわけです。そして、アラブ人というのはアラビア語を母語とする人々のことなのです。

だから、先ほどのモロッコ人とサウジアラビア人とは同じアラブ人なのかという疑問は、アラビア語を話す人々同士だからどちらもアラブ人で良いわけです。人種的には異なるかもしれませんが、アラブ人ということです。

今日のタイトル「アラブ人とは?」の答えは「アラビア語を母語とする人々」ということです。そうするとトルコ人の定義とか、ペルシャ人の定義も気になりますね。それは次の機会に譲るとして、先ほどのヘブライ語を話すユダヤ人のことが気になります。アラブ人と同じセム系民族であり、ヘブライ語を母語とする人々なのでしょうか。そう簡単ではないようです。外見を見ただけでユダヤ人と分かる場合もあるようなので、ユダヤ人という人種があるのでしょうか。・・・ながくなりそうなので、それは次回にしましょう。