新シリーズ「オスマン帝国」:③ セルジューク朝

前回はトルコ系民族がモンゴル平原の方から西へ移動し、カラハン朝やガズナ朝、さらにセルジューク朝を築いたというところまで辿り着いたのであった。なるほど、オスマン帝国を築いたトルコ系民族が、そのような国を築きながらオスマン帝国の建国に辿り着いたのだなと歴史の大きな流れを理解したのである。でも、まだしっくり納得できない部分があるので、セルジューク朝についてもう少し触れることにしたい。

インターネットの「世界史の窓」で「セルジューク朝」を検索すると以下のように説明されている。

中央アジア起源のトルコ人イスラーム政権。11世紀に大移動を行い、西アジアに入り、1055年にバグダードを占領、ブワイフ朝を倒しカリフからスルタンの称号を与えられる。1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ軍を破り、小アジアに進出。小アジアのトルコ化の第一歩となった。その西アジアへの進出は、ヨーロッパのキリスト教世界に大きな脅威を与え、十字軍の発端となった。その後、いくつかの地域政権に分裂、十字軍とモンゴルの侵攻があって、13世紀には消滅した。
セルジューク族はもとはオグズ族といわれるトルコ系民族で、アラル海に注ぐシル川の下流(現在のカザフスタン)にいた。スンナ派イスラームを信奉し、はじめガズナ朝に服していたが、トゥグリル=ベクがニーシャープールで自立し、1038年に建国。セルジュークは一族の伝説的な始祖の名前からきた。

記述の順番が逆ではあるが、1038年にセルジューク朝が建国された経緯は前回の内容と同じである。そして、モンゴルの襲来によって13世紀には崩壊したということである。ではセルジューク朝の領土を図で確かめてみよう。いつものように山川出版社の世界史図録から引用させていただく。
膨大な領土である。最初、ニシャプールで立ち上がったトゥグリル・ベクは1055年にバグダードを占拠して、アッバース朝のカリフからスルタンの称号をえたのである。しかしながら、当時のアッバース朝は衰退期であって、西北イランに成立したシーア派のブワイフ朝がバグダードを占領し、アッバース朝カリフの権威を利用し、「大アミール」と称し、イラク、イランを支配していたのである。つまり、バグダードを支配していたブワイフ朝を打ってバグダードを占拠した功績でスルタンの称号を得たということである。アッバース朝は既に衰退期であったものの、崩壊はしておらず、権威付けのために地方政権が利用するような状態であったようだ。ブワイフ朝はバグダードの支配権を失った後、最後の拠点ファールスも1062年に失って滅亡した。

バグダードは再びスンナ派のセルジューク朝の支配下になった。セルジューク軍の中心はトルコ系の遊牧部隊であった。また、政治や文化を支える官僚として多くのイラン人が登用された。いわゆるイラン=イスラーム文化が開花した。私がこのブログの中で何度も紹介している『ルバイヤート』の作者であるオマル・ハイヤームもこのセルジューク朝時代のイラン(ペルシャ)の詩人である。前回、ガズナ朝のところでも多くのペルシャ詩人が宮廷に出入りしていたとあったように、トルコ系民族の王朝であったが、ペルシャ人、ペルシャ文化との融合が顕著であった。

広大な版図を有したセルジューク朝はセルジューク朝の権威を認める、複数のセルジューク族の地方政権で成り立ち、彼らは自治権を有していたようである。地方政権=小さな王朝を統括したのがセルジューク朝で、それゆえに大セルジュークという呼称があるのであろう。代表的な地方政権がルーム・セルジューク朝であろうし、ほかにはダマスカスのシリア・セルジューク朝、ケルマン・セルジューク朝などがある。

 

セルジューク朝時代の歴史としてビザンツ帝国との戦いを取り上げておこう。

1071年マンジケルトの戦:
セルジューク朝がビザンツ帝国軍を破った戦い。小アジア(アナトリア)のトルコ化の端緒となり、ビザンツ皇帝の十字軍派遣要請の要因となった。マンジケルトはマラズギルドとも言い、アナトリア(小アジア)東部の現在のトルコとシリア、イラク国境のヴァン湖に近いところ。1055年にバグダードに入ったセルジューク朝は、さらに西へと勢力を広げ、第2代スルタンのアルプ=アルスラーンは、ビザンツ帝国領のアナトリア(小アジア)に侵入した。ビザンツ皇帝ロマノス4世は大軍を率いて出兵したが、この戦いでマムルーク兵を主力とするセルジューク軍に惨敗し、皇帝は捕虜となって奴隷の印の耳輪を付けられてスルタンの前に連れて行かれたという。

歴史の常であるが、特にこの時代の王朝というか国の寿命は短かった。セルジューク朝も同様であり、先述の地方政権であったルーム・セルジューク朝が次の主役になってくるのである。