前回のタバコボイコット運動(1891年)はペルシアの利権をことごとく獲得していった帝国主義に対する抵抗であった。抵抗運動の中心であった宗教界の要人や有力商人たちの政治的発言力は高まっていった。そんな時代である1904年から日本がロシアと戦ったのであるが、東洋の小さな国がロシアという大国と戦ったことは中東世界でも大きな関心事であった。そして日本が日露戦争に勝利したとなると、日本という国の分析が始まったのであった。日本の勝利の要因は「日本が立憲君主国であったからである」と。
上の図で見るように、1905年から憲法の発布と議会の開設を求める運動が起きてた。そして、それを勝ち取ったのであったが、その時のシャー(王)が死去したあとに就任したシャーは1908年に議会を解散し、憲法も停止してしまった。これにより、ペルシア全国で反政府運動が湧き上がったのであった。カスピ海沿岸のラシュト市やイスファハーン市からは国民軍が結成されてテヘランに集結した。その結果、シャーを廃位に追い込み、新たなシャーを擁立して、国民国家を作ることにしたのであった。この流れが立憲革命と呼ばれるものである。しかしながら、ここでロシアが武力干渉して、議会の機能を停止してしまったのである。
カージャール朝は今度はロシアの帝国主義に翻弄されてしまった。そしてロシアとイギリスはカージャール朝の領土を勝手に線引きして自分たちの勢力圏を設定したのである。1907年の英露協商である。
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