英露の圧力下でカージャール朝ペルシアは衰退していった。このカージャール朝時代に日本はペルシアと国交をもつのであるが、その前にペルシアがどのような国であるのか視察に出た一行がある。それを率いたのは吉田正春である。土佐藩の出である。土佐藩で吉田と言えば、参政・吉田東洋を思い起こすであろう。NHKの大河ドラマ「龍馬伝」を見た方は吉田東洋が暗殺された場面を覚えているかもしれない。吉田正春とは東洋の息子である。父東洋が死したあと、彼を養育したのは遠縁に当たる後藤象二郎である。吉田正春が当時のペルシアを視察した記録が残されており、その頃のペルシアを知る貴重な資料である。この時の様子は後日「日本と中東との関係」で改ためて取り上げることにする。
第一次大戦後の1925年にレザー・ハーンがクーデターによって実権を握ると、カージャール朝に代わってパーラヴィー朝を興して自らシャーと名乗った。近代化に努めて1925年にはペルシアという国名をアーリア人の国という意味を込めてイランと改めた。イラン人の祖先は北から移住してきたアーリア人とされており、イラン人はそれを誇りにしている。イラク人などのアラブ人と間違われると「俺たちはアラブではない。アーリア人だ」と声をあげる。レザー・ハーンがレザー・シャーとなってイランは改革を進めた。このブログではオスマン帝国が崩壊して新生トルコに至る部分はまだ登場していないのであるが、パーラヴィー朝が始まった時は既に新生トルコの時代になっている。レザー・シャーはオスマン帝国が解体されてトルコ民族の国が消滅しかけたことを見てきた。そしてケマルが新生トルコを建設したことを目の前で見ていた人物である。彼はケマルのやり方を手本として帝国主義に立ち向かおうとした。が、結局、彼も帝国主義には勝てなかったのが結論である。彼は追放されて、幼い息子が王位に就き、それを保護するという大国がイランを翻弄したのであった。私がイランにいた1970年代のテヘランにはシャー・レザー通りという空港に通ずる東西の道路があり、テヘラン大学近くのロータリーには彼の銅像があった。そのロータリーは通称「メイダーネ・モジャッサメ」と呼ばれていた。モジャッサメとは彫像という意味である。このパーラヴィー朝も1979年に崩壊するのであるが、この王朝については、オスマン帝国から新生トルコの項を書いた後で取りあげることにしましょう。
冒頭の写真は1976年に住んでいたテヘランの我が家(アパートメント)
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