第一次大戦後の中東:イギリスの三枚舌外交

第一次世界大戦でオスマン帝国が降伏したのは1908年である。その後、セーヴル条約やローザンヌ条約を経て、現在のトルコが生まれたことは前回述べた通りである。さて、今回はそれ以外のオスマン帝国の領土であった中東地域の戦後処理について述べるわけであるが、それには第一次大戦の時にさかのぼる必要があろう。

  • 1915年:フセイン・マクマホン書簡:イギリスはオスマン帝国を攻略するうえでアラブを味方にする必要があった。イギリスはカイロに駐在していた高等弁務官であるヘンリー・マクマホンにイスラムの聖地メッカの太守であるフセイン・イブン・アリと交渉させていた。両者の交渉のやり取りが「フセイン・マクマホン書簡」と呼ばれるものである。そこには、彼らアラブ側がイギリス軍に参戦してオスマン帝国に勝利すれば、現在のシリア周辺にアラブ人の国を造ることを認めると約束したことは書かれている。ここでアラブ人を率いて大活躍したのが「アラビアのロレンス」である。
  • 1916年:サイクス・ピコ条約:イギリスとフランスは戦争中から、オスマン帝国の領土を分割して分け合うということを秘密裏に協議していた。その合意がサイクス・ピコ条約である。合意の内容は「シリア周辺はフランスの影響下に置かれる」というものであった。フセインに約束したことと、相反する協定であった。
  • 1917年:バルフォア宣言:1917年11月にイギリスはユダヤ人に対してユダヤ人国家の建設を支援することを表明した。バルフォア外相がロスチャイルドに充てた書簡で「ユダヤ人のためのナショナル・ホームをパレスチナに建設することを支援する」という内容で、「バルフォア宣言」と呼ばれている。

このようにイギリスは第一大戦後にオスマン帝国の領土分割について、矛盾する画策を行っていたのである。イギリスの狡猾なやり方は「二枚舌」ではなく「三枚舌」というべきものである。イギリスのどこが紳士の国であるのだろうか。このような経緯があったために、フセイン達はアラブの独立国家を樹立しようと行動を起こしたのは当然である。それを制して、英仏は植民地化へ動く。結果的にイギリスとフランスの委任統治領というものが誕生するのである。また、ユダヤ人たちも自分たちの国家を建設しようとして移住しようとしてきたのである。

  • 英国の委任統治領
  • イラクの地域・・・・・・・・後にイラク王国(1921年)⇒イラク共和国
  • トランスヨルダンの地域・・・後にヨルダン・ハシムヤット王国(1928年)
  • パレスチナの地域・・・・・・ユダヤ人流入⇒イスラエル独立宣言(1948年)
  • 仏国の委任統治領
  • シリアの地域
  • レバノンの地域

書いてしまえば簡単に見えるが、実際にはそうではない。アラブ人たちはフセインの息子たちがシリアの地域で独立を宣言すると、フランスが制圧するという戦争状態であったわけである。委任統治というと穏やかに委任されて治めてあげるように聞こえるが、体のいい植民地化である。そんなものがうまくいくはずがない。イラクとヨルダンの国にはフセインの息子を国王に据えて打開策を図ったのである。シリアとレバノンにしても、伝統的な大シリアという地域とレバノン地域の国境を作為的に線引きして、分離して団結させないように画策したのである。ユダヤ人とパレスチナ人(アラブ諸国対イスラエル国)間の紛争、いわゆるパレスチナ問題の原因もここに始まっているのである。まだまだ述べたいことはあるが、気が立ってくるので今日はこの辺にしておこう。

キーワード:サイクス・ピコ条約、フセイン・マクマホン書簡、バルフォア宣言、委任統治領、アラビアのロレンス、セーヴル条約、ローザンヌ条約、イラク、ヨルダン、

 

コメントを残す