ペルシャ語講座7:名詞と形容詞

余談ですが、先日愛知県図書館で上の本を見つけました。サーデク・ヘダーヤトの短編集です。イランでは有名な作家です。自殺したと聞いていました。現地にいる時に何冊か買い求めましたが、ちゃんと読むことはできずに積読になったと思います。折角の和訳があるので読んでみることにしました。それはそれとして、今日のペルシャ語講座です。

今回も基本的なところで名詞と形容詞を扱います。まず、ペルシャ語には男性名詞や女性名詞という区分はありません。だから、それによって動詞が影響されるようなこともないので、簡単です。複数形の作り方について少し説明しましょう。

名詞の後ろに ha-  ハー ها  を付けるだけです。簡単そのものです。例えば book はketa-bですから、keta-b haで結構です。ケターブハーです。

ただし、例外というか、そうでないものが少しあります。ありますが、少しなので大したことではありません。

子供は「バッチェ」です。「バッチェハー」でも間違いではありませんが「バッチェガーン」が一般的です。

イスラム教とは「モスレム」です。複数は「モスレミン」。「モスレマーン」ともいうかな?ちょっと自信ない。

すぐには思い出せませんが、ほかにもいくつかあると思います。アラビア語からきた単語に多いのかもしれません。おいおい覚えていけばいいでしょう。次に形容詞です。

形容詞の使い方は、名詞の後ろに置きます。大きいは「ボゾルグ」です。「大きい本」の場合は 本(ketab) の後ろに「ボゾルグ」を置きます。ローマ字で書くと、 ketab-e-bozrg となります。見てお分かりのように ketab と bozrgのあいだにeがあります。これはエザフェというものですが、名詞の後ろに形容詞が付くと、e エ という音が付いて、繋がります。ペルシャ語の文字には何も付記されません。状況から判断してエの音を入れて発音することになります。

大きい本 ケターベ・ボゾルグ ketab-e-bozrg کتاب بزرگ
小さな車 マシーネ・クチェック mashin-e-kuchek ماشین کوچک
美しい花 ゴレ・カシャング gol-e-qashang پل قشنگ
美味しいパン ナーネ・ホシュマゼ nan-e-khoshmazeh نان خوشمزه
冷たい水 アーベ・サルド ab-e-sard آب سرد

 

名詞や形容詞の単語をどのようにして覚えるのかという問題があります。書店で単語集を購入するのが手っ取り早い方法です。しかし、文法書にしても単語集にしても高価ですね。でも一冊は必要かもしれません。このブログをご覧の皆さんはインターネットを利用しているわけですから、グーグル翻訳を使えば必要な単語は簡単に知ることができます。日本語とペルシャを対比させておけば、左側に日本語を打ち込めば、即座にペルシャ語が現れます。短文でも同じことです。一度利用してみてはいかがでしょうか。

形容詞には比較級や最上級もあるわけですね。それについてはまた後日ということで、今日は形容詞は名詞の後ろに付けるが、その時に名詞の語尾にe エの発音が付いてつながるということを覚えてください。

キーワード:ペルシャ語、名詞、形容詞、サーデク・ヘダーヤト、

アフガニスタンレストラン紹介

東京や大阪に比べると名古屋には中東の国の料理のレストランが殆どありません。私の知っている限りですが、トルコ料理店が2軒。モロッコ料理店が一軒(ここは以前紹介しましたね)。イラン料理店は無くなったけど、マーヒチェなら食べられる店があるようだ。そこで今日のタイトルはアフガニスタンレストランである。来月に新年会を中東・イスラム学習会「南山会」の仲間でやることになっているので、アフガニスタン料理はどうかなと思ったのです。そこでi一昨日下見に行ってきました。実は以前にランチで行ったことがあるのです。でも、昼はカレーしかなかったのです。今回は夜の料理メニューを確かめに行ってきました。

場所は愛知県名古屋市東区筒井3-31-13 恒川ビル2F。店舗の看板には インド、アフガニスタン、イランレストランと横文字で書いていました。外観の写真は撮るのを忘れましたが、内部の写真を撮りました。

ごくありふれた食堂という感じ。そして、ここには「ハラール」マークが貼られていました。

テーブルに座って、とりあえず「チキン」「羊肉のクビデのキャバーブ」「サフランライス」のワンプレートを注文。それから「マントウ」と「ナン」を。そして、飲み物を「ビール!」と言うと、「ありません!」・・・・思わず無言。対面のSさんと顔を見合わせて「えっ!」・・・・・

とりあえず頼んだ料理を水を飲みながら食べました。チキンも、クビデも味は悪くはない。美味しい。マントウは自分は少々苦手かな。ビールがないから、アルコールがないから進まない。といいうことで、私にとって酒のない新年会は想定外である。この時点で新年会の会場はアフガン料理店ではなくなった次第!

でも料理は決してまずくはなく、メニューも豊富である。ネットから料理の写真を転用させてもらおう。

ということで、新年会は別の会場を設けますが、酒なしで良いという方にはお勧めです。グループで行って、何品かをとって分け合って食べると良いと思います。

キーワード:アフガニスタン、インド、イラン、マントウ、キャバーブ、クビデ、羊肉、

 

イランのロウハニ大統領訪日・安倍総理と会談

今回はロウハニ大統領来日に関する中日新聞のマンガと記事を紹介します。そのあとにイランの新聞もプラスしました。

アメリカとイランの間で板ばさみになった日本政府は自衛隊の派遣を「調査活動」としてペルシャ湾内には入らずに、有志連合とは別に湾外で「調査活動」という苦肉の策で対応する。このような名目が通用するのであれば、「調査活動」と名付ければどこにでも行けることになってしまう。

一方、12月21日のイランの新聞「Iran Daily」はロウハニ大統領の訪日、安倍総理との会談を以下のように報じた。

Rouhani in Tokyo urges Japan to help rein in US 東京でロウハニ大統領は日本にアメリカの手綱を握るように促す

President Hassan Rouhani on Friday called on Japan to help confront the United States’ bid to wreck the multinational deal on Iran’s nuclear program, as he met Japanese Prime Minister Abe Shinzo in Tokyo.

“I hope Japan and other countries will make efforts to help keep the nuclear agreement in place,” said Rouhani, who became the first Iranian head of state to visit Japan for two decades.

The Iranian president inspected a guard of honor along with Abe at the latter’s central Tokyo office before summit talks.

He slammed the “irrational” withdrawal of the United States from the 2015 nuclear deal.

“The nuclear agreement, needless to say, is a very important agreement for Iran. That is all the more reason for me to criticize strongly the United States’ unilateral and irrational departure,” Rouhani said through a translator.

“The withdrawal was a blow to peace and security, and in fact did not benefit either the United States or any of the other parties to the deal,” the Iranian president said. “The withdrawal proved that sanctions have no destiny except a lose-lose situation for all.”

Known formally as the Joint Comprehensive Plan of Action (JCPOA), the nuclear deal was agreed between Britain, China, France, Russia, and the United States, plus Germany.

The JCPOA has been at risk of falling apart since US President Donald Trump unilaterally withdrew from it in May last year and reimposed economic sanctions.

Twelve months from the US pullout, Iran began reducing its commitments to the deal, in an effort to win concessions from those still party to the accord.

Its latest step back came last month, when engineers began feeding uranium hexafluoride gas into mothballed enrichment centrifuges at the underground Fordo plant south of Tehran.

Rouhani branded US sanctions as “economic terrorism” and “countries fight terrorism must counter this act by the US”.

The European parties to the deal have been pushing for talks between Iran and the US to salvage the nuclear deal.

Rouhani said Iran “has done and will do its utmost to reserve the JCPOA” and in return expects other parties live up to their commitments.

He also said Iran was ready for talks and welcomes any effort to maintain the deal as well as global peace and stability.

“Naturally, we do not refrain from any negotiation or agreement in the context of our interests,” he said.

 

 

キーワード:イラン大統領、ロウハニ大統領

 

ペルシャ語講座6:動詞現在形の作り方

به مدرسه میروم 私は学校へ行きます。

前回動詞の過去形に続き、今回は現在形です。過去形の方が簡単だから過去形から始めたのですが、現在形も難しくはありません。現在形には全て「ミ」「mi」「می」が頭につきます。そして、前回、動詞には「原形」があると説明しました。原形から過去形が簡単に作れるということでしたね。もう一つ、動詞には「語幹」というものがあります。現在形はこの「語幹」から作ることになります。ペルシャ語の学習者は動詞を勉強するときには、この「原形」と「語幹」を口に覚えさせるのです。例えば、「行く」の原形は「ラフタン」でしたね。語幹は「ラヴ」です。ですから、学習者は raftan—rav と覚えます。他の動詞も紹介すると次のようになります。

  • 来る  o-madan —–o-    オーマダン オー
  • 見る  didan —- bin   ディダン ビン
  • 持っていく  bordan — bar    ボルダン バル

そこで現在形ですが、この語幹の前に mi を付けて、語幹の後ろに人称別の語尾を付けます。例えば「私は行きます」の「行く」は mi-rav-am となります。あなたが行くなら mi-rav-i  彼・彼女なら mi-rav-ad, 以下複数形は一人称から順番に mi-rav-im,  mi-rav-id,  mi-rav-and となります。前回の به مدرسه رفتم  私は学校へ行きましたを現在形にすると به مدرسه میروم beh madoresseh miravam となります。

現在形の作り方、いかがでしたか。語幹に人称語尾と頭にmiを付けるだけですから、簡単でしたね。上にあげた「来る」「見る」「持っていく」についても同様に現在形を作ってみてください。

それから発音について、少し付記します。「行く」という単語の場合、1人称の場合、miravamですが、これは正式な発音ですから間違いではありません。しかし、そのように発音していた私に友人たちからは「お前の発音はketa-bi-だ」と指摘されました。keta-bとはbook=本ですから、書き言葉、読み言葉的だということで口語では違う言い方をするのです。miravamはmiramとなります。miraviはmiriに。miravadはmireに。miravimはmirimに。miravidはmirid。miravandはmirandとなるわけです。最初からそのような発音を覚える必要はありません。イラン人と会話していると自然に覚えることができるでしょう。でも、彼らの会話を聞いた時にこのことだとちょっと頭に入れておくと、戸惑うことはないかも知れません。go=行く という言葉は日常、頻繁に出てくるので申し添えました。他の単語はそのまま発音してください。

キーワード:動詞の現在形、語幹、原形、

想い出の中東・イスラム:幻のイラン新幹線計画

東海道新幹線が開業したのは昭和39年(1964年)10月1日であった。東京オリンピック開催の直前だった。私は高校3年生で大学受験前であった。あれからもう55年になるのだ。私が大学を卒業して、社会人になったのが昭和44年(1969年)。そして、2年後の1971年にイラン駐在員となった。その後、現地で2年ほど経過したときだった。パーラヴィー国王時代であったが、イラン政府が日本の新幹線をイランに走らせたいという意向を私たちの会社に伝えてきた。日本の新幹線をイランに走らせるという新たな計画が突然現実化し始めたのであった。

当時の日本はまだ「国鉄」の時代だった。昔のことなので詳しいことは忘れたが、国鉄と直接ではなくJARTSという国鉄の関連組織が窓口となって、プロジェクトの調査計画を始めたと記憶している。イランはテヘランとペルシャ湾の港コラムシャーとを結ぶ既存の「南線」を電化複線化にすることのほかに、テヘランと聖地マシャドを結ぶ既存の路線を新幹線にすることが希望であった。マシャド線はフランスの技術協力で完成したターボトレイン車が快適な列車の旅を提供していた。下の写真のように車内には飛行機のキャビンアテンダントのような若い女性がいて乗客のケアをしていた。しかし、国王は国威発揚的な意味で新幹線を走らせたいという意向であったようだ。従って、このプロジェクトのメインは新幹線計画であった。

とんとんと話が進み、日本国鉄の技術者たちがイランに入ってきた。当時の滝山技師長、呉副技師長他が来イした。副技師長は現地の中心メンバーとして長期に滞在していた。テヘランからマシャド間の調査のためにイラン国鉄は列車を提供してくれた。列車には寝台車と食堂車がついており、調査中の食事はそこで摂ることができた。イラン料理は美味しかった。次の写真はその時のものである。私はずーと同行して、現地の人の聞き取りなどに活躍(笑)した。

数日間かけて路線の周辺を調査しながらマシャドに到着した。マシャドはシーア派イラン国内で重要な聖地である。817年、8代目イマーム・レザーがこの場所で殉教した地である。モンゴルの攻撃を受けたり、ティームールの息子ミーラーン・シャーによって壊滅的な打撃を受けた町である。しかし、16世紀になりサファヴィー朝の時代に復活したのである。

我々の調査はマスタープラン作成後のフィージビリティ・スタディ(可能性調査)を経て、実施設計へとはいり、その設計も完了したのだった。分厚い報告者が日本から持参されて、すぐさまそれは道路大臣にプレゼンされた。そして、計画に係るすべての成果品を引き渡したのであった。

イランに革命(1979年)が起こらなかったなら、80年代に日本の新幹線がイランに走ったはずだった。けれども革命、その後のイラクとの戦争でイランは混乱状態になっていった。前政権(王政時代)のプロジェクトは殆どが否定されてしまった。ペルシャ湾では三井グループが推進していたIJPCプロジェクト(イラン・日本石油化学プロジェクト)が完成前に頓挫してしまった。私たちの会社が手掛けていた他のいくつかのプロジェクトも継続が不可能となっていった。

この新幹線計画がなされていた時、私は結婚直後であった。南線の方の調査に行ったときは、妻を一人テヘランに残すのが偲びないので、一緒に連れていくことが許されるという粋な計らいを会社はしてくれた。途中、イスファハンなどの名所は国鉄のスタッフと一緒に観光するということもできた。それは私たちの新婚旅行でもあった。

また、この時に日本の新幹線を語るときに欠かせない人物「島秀雄」さんにお会いすることができた。当時はすでに十河総裁とともに国鉄を去っており、宇宙開発事業団の初代理事長であったが、イランの新幹線計画ということでアドバイスにお出でいただいたのであった。滞在中にケアさせていただいたわけだが、同じ島という姓同士で色々話が弾んだことを覚えている。その時に戴いた宇宙開発公団のグッズ(ネクタイピン)は今も大事にとってある。その時は、正直言うと、新幹線計画になくてはならない人物という、そんなに偉い人とは知らなかったのである。でも新幹線と島三代の関りのテレビ番組などを見て、今は詳しく知っている。

長々と書いたが、日本の新幹線技術の最初の海外輸出が幻に終わったという苦い思い出である。

(注) マシャドという地名について。日本ではマシュハドと書かれているのが殆どであるが、それでは現地で通じない。現地語ではمشهدであり、m-sh-h-dの4文字である。3音目のhは子音のhであり、haではない。従って発音は「マシャhド」と書くのが一番近いと思う。地球の歩き方を読むとローマ字表記がMashhadとなっているので、カタカナではマシュハドとなっているようだ。余談ではあるが、旅行に行く人のために一言付記しました。

 

キーワード:イラン新幹線、テヘラン、マシャド、

 

 

ペルシャ語講座5:動詞過去形の作り方

به مدرسه رفتم  私は学校へ行きました。

今回は動詞です。基本的な決まり事をきちんと覚えておきましょう。動詞にはまず「原形」があります。英語の go で説明すると、原形は raftan です。ペルシャ語では رفتن と書きます。ペルシャ語の文字で r f t n の4文字です。 ra-f-t ‐の後に、第一人称の場合 m م を付けます。そうすると raftamとなります。ペルシャ語では رفتم です。そしてこれがgoという動詞の第一人称過去形となります。

  • 一人称単数過去   ラフタム raftam      رفتم
  • 二人称単数過去   ラフティ rafti          رفتی
  • 三人称単数過去   ラフト  raft           رفت    簡単ですね。
  • 一人称複数過去   ラフティム  raftim   رفتیم
  • 二人称複数過去   ラフティッド raftid    رقتید
  • 三人称複数過去   ラフタンド  raftand   رفتند

このように動詞の原形の末尾を変えるだけで動詞の過去形ができます。 go を例にしましたが、英語の say の場合は goftan ゴフタンですから。「私は言った」はゴフタム goftamです。以下、gofti,  goft,  goftim,  goftid,  goftand ということになります。

良く使う動詞は英語の give かな。dadanが原形なので「私は与えた」は、dadam,  以下 dadi,  dad,  dadim,  dadid, dadandとなります。

  • 折角なので「私は学校へ行きました」はどうなるでしょうか。
  • 学校   マドレッセ
  • ~へ   英語の to ですが、ペルシャ語では behです。
  • 完成形は  マン べh マドレッセ ラフタム です。
  • べの後ろにhを付けたのはペルシャ語のスペルがbとhでべの後に息を抜くような感じがあります。
  • 語順は日本語に近く、「私は へ 学校 行きました。」ですね。最初のマンは私という意味ですが、動詞の語尾が一人称の語尾なので、マンは付けてもつけなくてもいいことです。「私はねえ~・・」という風に私を強調したければ付けると良いですね。

読み書き、そして会話のためには単語を沢山覚える必要があります。動詞をいくつか紹介しておきましょう。

  • 来る     オーマダン
  • 持ってくる  アーヴァルダン  a-vardan
  • 持っていく  ボルダン                  bordan
  • 支払う    パルダークタン       parda-khtan
  • 着る     プーシダン              pu-shidan
  • 買う     ハリダン                  kharidan
  • 欲する    ハースタン              kha-stan
  • 走る     ダヴィダン              davidan
  • 見る     ディダン                  didan
  • 打つ     ザダン                      zada
  • 洗う     ショスタン               shostan
  • 聞く     シェニダン
  • 理解する   ファハミダン           fahmidan
  • する     キャルダン
  • 取る get    ゲレフタン
  • 座る     ネシャスタン
  • 書く     ネヴェシュタン

イラン料理

パソコンの中の画像を見ていたら、イランへ行ったときの食事を写したものがあった。そこで、今回はイラン料理を紹介することになった。上の画像はペルセポリスの帰りに昼食のために立ち寄ったレストランでの食事であった。手前中央は言わずと知れた「キャバーブ(カバーブ)」だ。キャバーブには普通焼いたトマトや生の玉ねぎが添えられる。その奥がライスだから、それとキャバーブをセットするとチェロウ(ライス)キャバーブ(焼肉)である。普通はライスにバターを混ぜる。その上にソマーグという粉(日本のユカリと同じ)も振りかけると美味しい。生卵が安全なら是非とも卵の黄身をかき混ぜたいところである。ライスとキャバーブ。ランチなら、これだけで十分である。

キャバーブの左は「ホレシュテ・サブズィー」だ。色々な香草に豆なども少し入れて煮込んだもの。これをライスにかけて食べる。香草なので香りがきつい場合もある。ライスの左奥はパニール。イランのチーズである。壁土のような食感(壁土を食べたことはないが)の印象を抱いていたのだが、久しぶりのイランで食べたこのパニールはなかなかクリーミーであった。パニールはナーン(パン)に挟んで食べるといい。その奥が「ホレシュテ・バーデンジャーン」というナスの煮込み。これもライスにかけて食べる。羊の肉が少々入っていることもあるが、ナスがメインである。ホレシュテ・サブズィーの左の白い容器はヨーグルト。その向こうがサブズィー。先ほどのホレシュテの下であるが、生で出てくる。これもナーンにパニールと一緒に挟んで食べるといい。その奥が野菜サラダである。キュウリが多い。これが出てくる前に出たのが大麦のスープであった。こうして全体を見ると、野菜が多くてヘルシーな印象ではないだろうか。

ドリンクは昔はアーベ・ジョー(麦の水)つまりビールを付けたが、いまは公には飲むことはできない。私が飲むのはドゥークといってヨーグルトを炭酸水で割ったドリンク。昔はテヘランのドゥークの銘柄はAb-Aliというものであったが、前回行った折には見当たらなかった。

二つ目の上の写真はまた別の日にどこかのレストランで食べた時のもの。ライスの少々サブズィーが混ざり、黄色いのはサフランライスで副食の鶏肉が添えられている。名前は「チェロウ・モルグ」とでもいうのだろうか。鶏肉でなく羊の肉の場合は「チェロウ・グーシュト」となる。その奥の一皿はちょっと見にくいが「タッチン・グーシュト」だろう。私が大好きで人と一緒の時は必ずこれを食べてもらうようにしていた。ごはんをケーキのように形作り、こんがり焦げ目が少しついている。サフランライスの層が少しあるのかな。これも羊肉と合わせれば「タッチン・グーシュト」だし、鶏肉となら「タッチン・モルグ」と呼ぶ。これ一皿で十分満腹になるが、サラダやヨーグルトも一緒に食べるのが普通だ。

イラン人はおもてなしが上手である。公園を歩いているとグループでランチをしている場面に出くわすことが多い。そのそばを通ると「ベファルマイ! どうぞ!」といって、食べて行けと進めてくれる。街を歩いていて話しかけてくることも多い。そうするうちに「是非とも、我が家へ来てください」ということになる。どうしようかな?社交辞令だよな?とか思っているうちに、自宅の場所と時間を示されて約束させられる。二人の日本人を連れてイランに行った時もそうだった。私はその二人にイラン人の家庭を体験してもらうのもいいかと思い。招待を受け入れて夜、3人で訪問した。その時の料理が次の写真である。

若い夫婦と小さな子供二人がいる家庭であった。富裕層ではなくごく普通の家庭である。突然の訪問に奥さんは戸惑ったであろうが精一杯の準備をしてくれていた。

料理に関していうと、私は「フェッセンジャーン」というローカル料理が好きである。テヘランのイラン料理レストランではメニューにおいているところが多くない。地方料理らしい。どんな料理かと説明できないのだが、ごはんにかけるホレシュテの類になるのだろうか。胡桃がすりつぶして入っており、少し酸っぱい味がするのはザクロのせいである。レストランでメニューにあれば食べたい料理であった。読者も機会があればオーダーしてみてください「フェッセンジャーン」と。

最後にケルマンシャーのチェロウ・キャバーブ店の玄関とキャバーブとチキンキャバーブの写真をアップしておこう。

キーワード:イラン料理、キャバーブ、カバーブ、ホレシュテ・バーデンジャーン、ホレシュテ・サブズィー、スーペ・ジョウ、チェロウ、ソマーグ、

 

アラビア書道作品展に出品しました。

7月22日に「アラビア書道でルバイヤート」という記事を書きました。そのときにルバイヤートの中のひとつの四行詩を作品展用に作成するために本田先生に書いていただいたお手本の画像をアップしたのでした。あれから4ヵ月以上が経過しています。私の作品はどうなったのでしょうか?作品展は11月12日から17日まで、京都市国際交流会館にて開かれました。予定通りと言いたいのですが、開催日直前になってやっとできあがりました。まだまだ満足できるものではありませんが、キリがないので不満足ながらも出品しました。また来年に向けて頑張ろうと思います。作品を以下にアップいたします。

用紙はイランで売られているA4サイズの書道用紙がありましたので、普段使っているA3サイズの用紙に拡大コピーしたものを利用しました。一応カラーコピーになります。最初は近所のコンビニにA3サイズの用紙を持参して、拡大コピーをしたのですが、周りの模様が濃い部分と薄い部分ができたり、色が飛んで白い部分ができたりしたのです。そこで、キンコーズに出かけて、コンビニの話もして相談した結果、奇麗な用紙が出来上がったのでした。あとは額縁も必要です、今回が5回目になりますが、いつもは妻が押し花の作品作りを30年位やっていて、額も沢山持っているので、それを借りていました。でも今回は作品展後もそのまま残しておきたいので画材屋さんにいって買ってきました。安いのから高いのまで色々一杯ありました。作品に合うような色や縁取りでそう高くなくて、京都に送るので軽いものをと探したものが画像の額です。作品ができたあと、文字周りの空間が真っ白ではちょっと寂しいので、バステルを削って粉にして指で擦りつけて薄く色付けしました。作品を書くことのほかにこのようなことを色々して、何とか格好がついてきました。そういうことがまた楽しくもありました。来年はもっともっと良いものをと思っています(毎年のことですが(笑))。

キーワード:アラビア書道、ルバイヤート、京都市国際交流会館、