先月の4月には「中東の石油」という記事を11回続けました。そこでは中東の石油が英仏蘭米の石油会社に支配されていた歴史を紹介しました。そして、産油国がその支配から資源を取り返すことができたのはまだ最近のことであることを理解していただけたと思います。イランの石油国有化の時には出光石油会社が石油市場からボイコットされたイランの石油を日章丸Ⅱ号で買い付けに行きました。資源を持たない日本企業の行動でした。同様に石油資源の獲得に奔走した人物がいました。それが通称アラビア太郎=山下太郎です。
そして、1957年12月、サウジアラビアとクウェートの沖合にあった中立地帯の石油開発に関して半分の権益を有していたサウジアラビア政府と利権協定を締結したのでした。そして、翌1958年7月には残りの半分の権益を有するクウェート政府とも利権協定を締結したのでした。この山下太郎はとういう人物だったのでしょうか。
山下太郎は明治22年(1889年)、秋田県生れ。祖父母の養子となり山下姓を名乗る。小学5年から東京の慶應義塾普通部に通い、その後、札幌農学校(現在の北海道大学)に入学した。
1909年3月、札幌農学校を卒業。従兄の山下九助とともにオブラートを発明し、1914年に特許を取得した。山下オブラート㈱を設立。会社は隆盛するが、山下太郎は海外貿易の資金を得るために会社を売却する。
1916年結婚。ロシアのウラジオストックで鮭缶を買い占めてて設けたり、第一次大戦中にはアメリカから硫安を輸入・販売し、巨利をえた。国内のコメ相場の高騰に際しては、アメリカの米を輸入するが米騒動などにより失敗。満鉄との取引でも損害を被っったり、成功したりを繰り返す。第二次大戦の敗戦により、満州の資産を失うも、戦後は石油資源の獲得に奔走したのだった。
昭和31年(1956年)、日本石油輸出株式会社を創立し先述のサウジアラビアとクウェートとの利権交渉を始め、協定に調印することができた。その結果、日本政府や財界の支援を得てアラビア石油会社が設立され、日本石油輸出㈱の権利を継承した。
1960年:カフジ油田で採掘に成功
1963年:フート油田で採掘に成功
石油資源のない日本にとってアラビア石油の石油は貴重なものであった。山下太郎は英雄であった。このような日本の資本によって開発された石油は「日の丸石油」とも呼ばれたのでした。
アラビア石油も産油国からみれば外国資本に利権を与えた石油です。欧米の石油会社に与えた利権と同じです。1974年にはサウジアラビアとクウェート政府による60%の事業参加協定が発効したのです。こうしてアラビア石油の利益は減少していくことになりました。そして、
2000年:サウジアラビア政府との利権協定が終了しました。
2003年:クウェート政府との利権協定が終了しました。
アラビア石油は撤退はせずに、同油田でのサービス契約で油田操業に係ることになったのです。サウジアラビアの利権延長交渉では、サウジ側が日本に対して産業用の鉄道建設支援などの要求があったのですが、日本政府はそれを受け入れることができなかったのでした。こうして日の丸石油も先細っていったのでした。