新シリーズ「オスマン帝国」:②トルコ民族の台頭

前回、宮田律先生の『中東イスラーム民族史』の名前を挙げて終わったのであった。その中公新書の126頁の一部を引用させて頂こう。
トルコ語を話す人々が最初に確認されたのは六世紀のことだった。その活動の地理的範囲は内陸アジアと東ヨーロッパで、内陸アジアでは六世紀半ばに、トルコ語を話す、つまりトルコ系の遊牧部族が台頭する。
この遊牧部族の支配層は、テュルク(突厥・とっけつ)と名乗っていた。540年ごろ、中国の北端に、柔然(じゅうぜん)という遊牧国家が存在し、モンゴリアとその周辺部分を支配していた。テュルクは柔然を滅ぼし、やはりトルコ系の鉄勒(てつろく)諸部族を服従させてモンゴル高原から中央アジアのオアシス地帯までも支配する大帝国を築いた。

ということで、6世紀頃からトルコ語を話す人々の存在が歴史に現れてきているようだ。そして、モンゴル高原から中央アジアのオアシス地帯へと支配を拡げていったのである。いつもお世話になっている山川出版の『世界史図録ヒストリカ』から次の図を引用させていただいた。

 

この図によれば、トルコ系民族は8世紀頃にウィグルのクチャやカシュガルにいたが、その後、西進しカラハン朝、ガズナ朝、セルジューク朝を築いていった。ガズナ朝はその後インドのイスラム化につながっていった。トルコ系民族の王朝を平凡社『新イスラム事典』で見てみることにしよう。

カラハン朝 (840-1212):
中央アジアを支配したトルコ系イスラム王朝。王朝の起源についてはまだ定説がない。ブリツァクの説によると、840年にウイグル王国が崩壊すると、その支配下にあったカルルク部族連合体が独立、チュー河畔のベラサグンを本拠に新王朝を開いたとされる。サトゥク・ボグラ・ハーン(955没)の時代に初めてイスラムを受容し、続くムーサーの時代にあたる960年には20万帳に上る遊牧トルコ人がイスラム化したという。以後の諸ハーンは東トルキスタンのホータン、クチャなどの仏教圏に聖戦を敢行するかたわら、999年にはブハラを占領してサーマン朝を滅ぼし、マー・ワラー・アンナフルのトルコ化を促進した。しかし内部抗争のため、1041/42年にはシル・ダリヤおよびホーカンドを境に東西に分裂した。西カラハン朝は1089年セルジューク朝、1141年カラキタイ朝の宗主権下に入り、1212年ホラズム・シャー朝によって滅ぼされた。一方、東カラハン朝の首都カシュガルでは、最古のトルコ・イスラム文学作品『クタドグ・ビリク』が著される(1069/70)など、新たなトルコ・イスラム文化の萌芽がみられたが、1089年にはセルジューク朝、1132年にはカラキタイ朝の支配下に入り、1211年ナイマンのクチュルクによって滅ぼされた。

ガズナ朝 (977-1186):
アフガニスタンに興ったトルコ系イスラム王朝。サーマン朝のトルコ人マムルーク、アルプティギーンは逃亡してアフガニスタンのガズナの実質的な支配者とない、以後マムルークたちが次々に権力を握った。サブクティギーン以降は世襲となり、インドへの侵入を開始、その子マフムードは遠くソムナートまで遠征してヒンドゥー教寺院を破壊し、イスラムの擁護者としての名声を得るとともに、多数の略奪品を得た。彼の時代が最盛期で、その版図は、イラン中央部からホラズム、パンジャーブにまで達した。軍隊の中核はトルコ人などのマムルークによって占められ、官僚にはイラン人が用いられた。公用語は主としてペルシャ語で、多数のペルシャ詩人が宮廷に出入りしたが、インド遠征に同行して記録を残したビールーニーのように、アラビア語で著作を行う学者もあった。第五代のマスウード時代には、セルジューク朝によってホラズム、ホラーサーンを失い、12世紀にはセルジューク朝のサンジャルに服属して貢納を行うようになった。同世紀の中ごろにはゴール朝にガズナを奪われ、最後はラホールで滅亡した。

セルジューク朝(1038-1194):
トルコ系の王朝。トゥルクマーンの族長セルジュークは、カスピ海、アラル海の北方方面より10世紀末にシル・ダリヤ河口のジャンドへ移住してムスリムとなり、ガージーを集めて勢力をなした。その子イスラーイールは、サーマン朝、次いでカラハン朝、ガズナ朝と同盟して力を伸ばした。その甥のトゥグリル・ベク、チャグリ・ベクらは、1038年ニシャプールに無血入城し、40年にはダンダーナカーンの戦でガズナ朝軍を破り、ホラーサーンの支配権を手中に入れた。55年にトゥグリル・ベクはバグダードに入り、アッバース朝カリフより史上初めてスルタンの称号を公式に受け、当方イスラム世界における支配者として公認された。・・・

セルジューク朝の記述はまだまだ続くのであるが、トゥグリル・ベクがスルタンの称号を得たということで、セルジューク朝は大きな王朝になるので、これについては改めて取り上げるほうが妥当であろう。
セルジューク朝が台頭してきたところで、トルコ系民族がオスマン帝国を築くに至った民族の大きな流れが掴めたようである。