日本書紀に見るゾロアスター教徒の来日(2)

前回は日本書紀の中にトカラ人が日本にやってきた記述の一部を紹介した。そして、その一行の中に舎衛という女性がいたが、舎衛とはどういう意味なのかという点で学者間に議論があって、どうやらそれは地名であるということになっている。ひとつはネパールの地名であるとし、ひとつはトカーレスターンの地名であると。そしてまた、トカラ人の名前に「乾豆波斯達阿(けんづはしだちあ)」というのがあった。波斯というのはペルシャの意味なので、トカラというのはペルシャのことなのだろうかも思うわけである。今回はその先に進めて行こう。

トカラを表記するのに私はここまでカタカナで記したが、書記には勿論感じで記されている。吐火羅、覩貨邏、覩カ羅(この部分のカは入力できなかったのでカタカナにした。貝の右に化の文字。つまりは貨と配置が異なった文字)などと表記されているのであるが、いずれも同じ地域をさすもので、伝統的にはトカーレスターン(トハーレスターン)とされてきたそうである。これはアフガニスタン北部から隣接する当時のソ連領域の一帯を汎称するもので、クンドゥズ、パルク(バルフ)、サマルカンド、ボカーラー(ボハーラー)などの都市を擁する地域である。サマルカンドやボハーラーというと現在はウズベキスタンの都市である。ところが、井上光貞博士や竹内理三博士によってトカラを東南アジアに求める説も提唱されたとある。それによるとトカラとは驃国のことで、ピュー族がビルマのイラワジ川の中流域に建設したもので、首都はプロムであるという。彼らは突羅成と自称し『新唐書』によれば、およそ18の属国があって、その中に舎衛が含まれているという。中央アジアではなくてもっと日本に近い東南アジアのほうが来日の可能性がより高いと思うが、それに対して実際にトカーレスターンのバルフから長安にやってきた宣教師などの事例を挙げて論争があったようである。

さて、先を急ごう、ペルシャ文化渡来考の著者、伊藤義教先生の説に移ろう。結論を先にいうと舎衛は地名ではないというのである。舎衛の女というのはトカラ人とは異なる舎衛人の女ではなく、同じトカラ人であるという。理由は一緒に行動していたことや、書記の記述をすなおに読めばそうなるという。そして、難題であるとする舎衛という意味を読み解くのである。以下、伊藤先生の説である。

舎衛は中世ペルシャ語シャーフ(shah) で王の対音とみるほかはない。従って舎衛女とは「舎衛の娘」として「王の娘・王女」以外のなにものでもない。ここまで詰めてくれば、書紀のトカラは、伝統に従って、トカーレスターンに同定するほかはない。トカラ人の漂着者たちの中に王女が一人いたことになり、それゆえに大和朝廷に迎え入れられた理由なのである。

7世紀にトカラ人が日本に漂着した。その中の一人が王女であって、大和朝廷に迎えられていた。トカラとはトカーレスターンであり、その地は今のウズベキスタン辺りである。ブハーラーやサマルカンドはかつてはペルシャ帝国に組み入れられたこともある地域である。つまり、日本書紀に登場する渡来人の招待はペルシャの王女とたちであったというわけである。とここまでくると、私の想像が駆け巡る。王女となるとペルシャの王女。となると、それはササン朝の王女であろう。ササン朝はイスラムによって滅びたわけであるが、その王朝の一部がシルクロードを経て長安へ、さらに日本へ来たということも可能性はあろう。そうなると、話はさらに続いていかねばなるまい。その話のネタは次の画像の書に託したい。