2024年正月

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皆様、新年おめでとうございます。上の画像は元旦に書き初めのつもりでペルシア語で「新年(さーれ のう)おめでとう(もばーらく)」と書きました。ナスタアリーク書体なので滑らかに優しく書きました。
元旦は暖かく快晴でいい日でしたと言えるような日であったのですが、午後になり大きな地震が起きました。ここ愛知県でもかなりの揺れで驚きました。すぐにテレビをつけて見ると震源は能登地方で震度7、大津波警報が発令される事態でした。それ以後、正月気分は吹っ飛んでしまって、今日現在(7日)までに死者は120人程、行方不明者も200人程いるとのことで本当に悲しい災害になりました。被災者の方々には心よりお見舞い申し上げます。

翌2日には羽田空港での航空機衝突事故が発生。旅客機のほうは全員無事に脱出できたのですが、海上保安庁側の乗務員は5名が死亡という大きな事故になりました。2024年のこの先に暗雲が立ち込めるような年初スタートになってしまいました。

パレスチナの戦争が拡大して以来、落ち着いてブログを書くような心境ではありませんでした。そして2024年の初めがこのような状態なのでその気持ちは続いているようですが、そろそろ気合を入れ直して明後日の3連休明けからはもとのようにブログを積極的に書いていこうと思います。皆さん、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

無事、退院しました。

肩の手術で入院してましたが、無事退院することができました。手術部位の痛みはあり、元のように腕が上がるまでは、まだまだ時間がかかるので、ブログを書くのはもう少し先になりますが、報告しておきます。この間に、このサイトに不正なトラフィックがあったので、広告の掲載が差し止められました。入院中のことで、自分のせいでもないのですが、抗弁することもできない一方的な措置は納得がいきませんが、いまはそんなことは気にせずに養生したいと思います。

想い出の中東イスラム世界:Sizdah Be-dar (سیزده‌بدر) 祝日 سیزده‌بدر

今日は3月31日です。そろそろイランではFarvardin月の13日になるでしょうか。3月21日の春分の日がイラン暦の元旦でしたから、4月の2日頃が13日になるでしょう。この日はタイトルに書いたように、シーズダアベダルという祝日になります。イスラムの行事ではありません。ペルシアの伝統的な祭事です。春が近づいた春分の日を年の初めの元旦とし、更に2週間ほど経つと草木の芽が一斉に吹きだします。このときイランの人々はお昼の食事を抱えて外に飛び出すのです。英語ではピクニックデイと訳されていたりします。この日でなくともイランの人々は外で食事をするのが大好きです。次の写真はある年の9月に通りがかった公園で写した風景です。家族そろって昼食をしている所でした。

普段でもこのように食事を広げて、楽しくひと時を過ごす姿があちこちで見られるのです。私たちが傍を通ると「ベファルマイ!(どうぞ)」と言って誘ってくれるのです。「メルシー(ありがとう)」と言って通り抜けようとすると「タアロフナコン(えんりょしないで)」と更にしつこく誘ってくれるのです。彼らはすごく社交的で開放的な人々でした。彼らは「自分たちはメフマンドゥーストなんだ」と言います。メフマンは客人のことで、ドゥーストは好きという意味。つまりお客好きの民だというわけです。そうです日本でいう「おもてなし」好きということです。

話を戻しましょう。イランの現体制は厳格なイスラムによって統治されています。イスラムにおいての祝祭日は当然イスラムに関する日に限られています。例えばラマダン明けの日というように。でも、イランは厳格なイスラム体制ですが、アケメネス朝ペルシアのようなイスラム以前の誇り高き歴史があります。その当時の宗教はゾロアスター教が有名です。先ほどの春分の日の元旦やここで紹介しているシーズダアベダルの風習はゾロアスター教に由来するものです。従って、イスラム暦の新年とは異なるノウルーズというお正月をお祝いする風習があるのです。お正月の飾りにも頭文字がSの付くハフト・シン(七つのS)を飾ったりします。ついでに言うならば「お年玉」も子供たちが楽しみにするものです。イランでは「エイディ」というのですが、日本と同じような風習です。

いま日本中が桜の花に酔いしれています。今年はコロナ以前のように花見をすることができるようになったところが増えましたね。コロナが治まって、イランの核合意が好転して制裁が緩和されたりすれば、是非ともイランを訪れたいと思います。そのためにも、ペルシア語を忘れないように勉強をしておきたいなと思うのです。

ちょっとお休み

先週、山歩き中に滑って手を故障したので、数日間、ブログを休みます。片手で入力は大変。

イランの反政府運動の行方

先週、中日新聞は2日にわたり「ヒジャブの下から・女性が変えるイラン」という特集記事を掲載した。
イランでは昨年秋頃から政府に対する抗議でもが、激化していた。きっかけはクルド人女性がヘジャブの着用が不適切だとして風紀警察に拘束された末に死亡したことに対する抗議だった。その抗議デモが各地に拡大して、反政府の大きなうねりとなってきたのである。鎮圧に乗り出した政府はデモの参加者の多くを拘束したが、衝突の過程で多くの死者がでている。また拘束された者で何人かは死刑を執行されたという。見せしめのための死刑執行であるが、それ以後、大規模のデモは姿を消しているが、国民の政府に対する控えめな抗議は続いている。

記事では、初めはクルド人女性の拘束後の死に対するものであったが、反政府運動にまで拡大したのは現在の経済悪化の状況に対する政府への反感であるとしている。米国の経済生活により経済は悪化し、ウクライナ問題のせいもあり物価はさらに上昇し、国民の生活は困窮しているのだ。

私はインスタグラムを利用している。そこでイランの人とも接点があるのだが、インターネットが常時つながる状態ではないと彼らは言う。また、この記事にも「女性・命・自由」というスローガンもインスタ上では飛び交っている。原語では زن  زندگی آزاد である。記事では真ん中の言葉を「命」としているが、命といういみでも間違いではないが、英語でいうと Life である。生活、人生の色合いが強いと思う。自分たちの生活が無茶苦茶だという意思表示であろう。風紀警察の車が姿を消したともあるが、一時的なものであろう。1979年の革命後にイスラム回帰した時代でも風委委員会が国中を席巻した。彼らはトヨタのピックアップを多く利用していた。その車の後ろ側にはTOYOTAの文字が浮き彫りされていた。当時はTOYOTAの車が怖いイメージを与えていたのだった。

アフガニスタン:国家の成立から共和国まで

前に紹介した渡辺光一著『アフガニスタン 戦乱の現代史』岩波新書にはアフガニスタンでの国家の形成について、以下のように記している。つまりはアフガン人達は周辺の強国に挟まれた地域に居住しており、これらの国に支配されてきたのであった。アフガン人が自分たちの国を形成できたのは18世紀になってからということである。

多民族に長い間支配されてきたアフガンに初めてアフガン人の王朝が成立したのは18世紀になってからである。18世紀初頭までのアフガンは三つの強力なイスラム帝国の支配下にあった。三つとはアフガン以北に展開してきたトルコ系民族のアストラハン朝、アフガン以西のペルシャに展開してきたサファヴィー朝、そしてアフガン以東のインドに展開してきたムガル朝である。これらの大きな国が勢力を競い、アフガニスタンはそれらの境界地域にあって支配されてきたのだった。18世紀になると、アストラハン朝とサファヴィー朝が衰退し始め、ムガル朝もイギリスの進出などにより国運が傾き始めていた。こんな中で急速に勢力を伸ばしたのが、カンダハールを地盤とするギルザイ族と呼ばれるパシュトゥーン人であった。1722年、ギルザイ族がペルシャの都イスファハンに進攻し、その壮麗さと富の大きさから「世界の半分」と呼ばれた都はあっけなく陥落したのだった。一方でアフガン南西部には部族の異なるアブダリ族が急速に勢力を伸ばし、1747年にはギルザイ族を倒すまでになった。彼らはパシュトゥーン人の伝統に従って、部族長の一人アフマド・シャーが王に選出された。彼は都をカンダハールに定めドゥッラーニー朝を創設した。そして、25年の短い治世の大半を領土拡大に励んだという(1772年、50歳で死亡)。息子のティムール・シャーが王を継承し、都をカーブルに移した。
これ以後を年表形式で列記する:
1747年 ドゥッラーニー朝成立
1826年 ドースト・ムハンマド・カーンが政権を握り、ムハンマドザイ朝成立
1839~42 第一次アフガン戦争
1878~80 第二次アフガン戦争
1880 アブドゥル・ラーマン・カーン即位
1885年 ロシアがアフガンに進出
1887年 英露、アフガン国境協定
1893年 英領インドとの間にデュランド・ライン確定
1914年 第一次世界大戦勃発
1919年 第三次アフガン戦争、アフガン独立
1929年 タジク朝成立
ナディル・シャー即位(~33年暗殺)
1933年 ザヒル・シャー即位(~73年)  1939~45年第二次世界大戦
1953年 ムハンマド・ダウド首相就任
1963年 ザヒル・シャー、ダウド首相を更迭
1964年 第三次憲法施行
1965年 初の総選挙。人民民主党結成。
1969年 第二回総選挙
1973年 軍事クーデターで元首相ダウドが大統領に。ザヒル・シャーが伊に亡命。
王制廃止。アフガニスタン共和国成立。

 

 

最近の中東情勢

メディアのニュースはロシアとウクライナの戦況が中心である。そして、国内では国会・政治が、特に統一教会と自民党のズブズブの関係に関わる問題で大賑わいである。山際大臣の国民をバカにしたような受け答えの繰り返しには本当に苛立ちを覚えた。先日やっと辞任したのであるが、これで終わりというわけにはいかない。そんなこんなで、中東のニュースなどは皆無に近い状態である。

イラン:
その中で、一番注目されたのはイラン女性のヘジャブの問題であろう。ヘジャブをきちんと被っていなかった女性が連行された後で、死亡したという事件が発端で反体制デモが拡大したニュースである。デモに参加した人々と警察の小競り合いが拡大し、ここでも逮捕されたり死者がでた。デモに参加した女性が死体で見つかったともいう。ヘジャブの着用強制に対する抗議は非民主的な社会体制への抗議と変化していっている。政府はインターネットの規制に乗り出して、SNSが利用しにくくなっている。私のイラン人の知人のインスタグラムの投稿も途絶えがちになっている。インスタグラムの投稿の中にはシャー(国王)時代の書籍の写真などをアップしているものも見受けられる。決してその時代に戻ればいいというような色ではなく、それらの書籍を紹介しているだけという形ではあるが、反体制の意思表示なのであろう。シャーの息子も投稿しているのは勿論である。どこにいるのか私には分からない。

イラク:
今月の13日、イラクでは新大統領が選出された。新大統領はラシード氏、78歳。元水資源大臣でクルド人。イラクでは宗教間対立を避ける為に大統領はクルド人、政治的実権を持つ首相はシーア派から選び、議会の議長はスンナ派から選ぶのが慣例である。ラシード氏が首相を指名し、1カ月ほどかけて組閣に取り組む。首相には元人権相スダニ氏を指名したとも伝えられているが、首相を選ぶにあたり内部抗争が激しくなることが予想される。つまりここでも親イラン派とそうでないものの対立が常にあるのである。

 

アラビア書道展の作品準備中


こんにちは。このところ毎週末になると台風が襲来しています。今週も東海地方に近づいているようです。このブログの更新もしばらく途絶えています。というのもアラビア書道の作品展の日程がだんだん迫ってきたからです。毎日数時間は練習しているのです(上の画像)が、中々思うように形が揃いません。上手く書けたなと思っても、次の行ではミスってしまうと、また新たに書かねばなりません。やはり4行詩は難しいです。早く完成して、ここでお見せできるようになりたいものです。実は先月末に自分の書いたものを、ここで時々紹介しているアラビア書道の世界的な大家に添削してもらったのです。一杯、直されました。殆どの部分でダメ出しされました。「形が違う」「太すぎる」「もっと細くデリケートに」「かすれている」「角ばるのではなく丸みをつける」「この部分はくっつける」などなどキリがありません。それで今必死で練習しているわけです。ブログの更新はままなりませんが、しばらくお待ちくださいね。腰の調子も良くなったので、先週は一日山登りもしてきました。良いリフレッシュもできたので、もう少し頑張って見ます。書道展の案内チラシを次にアップしておきます。

中東諸国❸:イラン(イランイスラム共和国)

サウジアラビア、トルコに続き、今回はイランです。なぜイランなのか?理由は簡単です。サウジアラビアはアラブ民族です。次のトルコはトルコ民族です。そして今回はペルシア民族のイランというわけです。中東には大きく分けてこの三つの民族=文化が存在するわけです(イスラエルのユダヤは別として)。公平さを保つために今回はイランです。いずれユダヤも登場すると思いますが。いつものようにCIAの資料を拝借して取りまとめてみます。

概要
1935年までペルシャとして知られていたイランは、支配的な君主制が崩壊し、シャーモハンマドレザパフラビが亡命を余儀なくされた後、1979年にイスラム共和国になりました。Ayatollah Ruhollah KHOMEINIが率いる保守的な聖職者部隊は、憲法によれば専門家会議(AOE)にのみ責任を負う、一般に最高指導者と呼ばれる学識のある宗教学者に与えられた究極の政治的権力を備えた神権政治体制を確立しました。1979年11月にイランの学生グループがテヘランの米国大使館を押収し、1981年1月中旬まで大使館職員を人質にしたとき、米国とイランの関係は緊張し、米国は1980年4月にイランとの外交関係を断ち切った。 イランとイラクの戦争は、最終的にはペルシャ湾に拡大し、米海軍とイラン軍の間で衝突を引き起こしました。イランはテロ支援国家に指定されており、テロへの関与が疑われていることと、核開発計画の軍事的側面に対する懸念から、米国、国連、EUの経済制裁と輸出規制の対象となっています。
1997年に改革派ホッジャトルエスラムモハンマドハータミが大統領に選出され、2000年に改革派マジュレス(議会)が選出された後、国民の不満に応えて政治改革を促進するキャンペーンが開始されました。運動は保守的な政治家として挫折し、最高指導者、監督者評議会のような選出されていない権威機関、そして治安部隊は治安抑圧を強めながら改革措置を逆転させ阻止した。2003年の全国的な地方選挙から始まり、2004年のマジュレス選挙まで、保守派はイランの選出された政府機関に対する支配を再確立し、2005年8月に強硬派のマフムードAHMADI-NEJADが大統領に就任した。2009年6月の彼の物議を醸した再選は、不正選挙の申し立てに対する全国的な抗議を引き起こしたが、抗議はすぐに抑制された。主に政府の管理ミスと国際的制裁による経済状況の悪化は、2012年7月と10月に少なくとも2つの主要な経済ベースの抗議を引き起こしたが、イランの内部治安状況は安定していた。AHMADI-NEJAD大統領の独立した筋は、最高指導者を含む政権樹立の数字を怒らせ、大統領の最後の年の議題に対する保守的な反対と、彼の政治的支持者の疎外につながった。2013年6月、イラン人は中道聖職者のHasanFereidunRUHANI博士を大統領に選出しました。政権の長年の上級メンバーであり、彼は社会の改革とイランの外交政策を約束した。2015年7月、イランと5人の常任理事国、およびドイツ(P5 + 1)は、制裁措置の緩和と引き換えにイランが核開発計画の制限に合意したJCPOAに署名しました。しかし、米国は2018年に制裁を再課し、ルハニの遺産とイラン経済に打撃を与えました。取引を回復するための交渉は2021年に始まり、現在も続いています。イランは2020年2月にマジュレスと大統領のために2021年6月に選挙を行い、その結果、政権の選出された機関と選出されていない機関全体が強硬で保守的な独占になりました。エブラヒーム・ライシ大統領は、イランの司法で数十年のキャリアを持つ強硬派の聖職者であり、外交政策と経済的経験は限られています。さらに、ドイツ(P5 + 1)は、制裁措置の緩和と引き換えにイランが核開発計画の制限に同意したJCPOAに署名しました。しかし、米国は2018年に制裁を再課し、ルハニの遺産とイラン経済に打撃を与えました。取引を回復するための交渉は2021年に始まり、現在も続いています。イランは2020年2月にマジュレスと大統領のために2021年6月に選挙を行い、その結果、政権の選出された機関と選出されていない機関全体が強硬で保守的な独占になりました。エブラヒーム・ライシ大統領は、イランの司法で数十年のキャリアを持つ強硬派の聖職者であり、外交政策と経済的経験は限られています。さらに、ドイツ(P5 + 1)は、制裁措置の緩和と引き換えにイランが核開発計画の制限に同意したJCPOAに署名しました。しかし、米国は2018年に制裁を再課し、ルハニの遺産とイラン経済に打撃を与えました。取引を回復するための交渉は2021年に始まり、現在も続いています。イランは2020年2月にマジュレスと大統領のために2021年6月に選挙を行い、その結果、政権の選出された機関と選出されていない機関全体が強硬で保守的な独占になりました。エブラヒーム・ライシ大統領は、イランの司法で数十年のキャリアを持つ強硬派の聖職者であり、外交政策と経済的経験は限られています。イランは2020年2月にマジュレスと大統領のために2021年6月に選挙を行い、その結果、政権の選出された機関と選出されていない機関全体が強硬で保守的な独占になりました。エブラヒーム・ライシ大統領は、イランの司法で数十年のキャリアを持つ強硬派の聖職者であり、外交政策と経済的経験は限られています。イランは2020年2月にマジュレスと大統領のために2021年6月に選挙を行い、その結果、政権の選出された機関と選出されていない機関全体が強硬で保守的な独占になりました。エブラヒーム・ライシ大統領は、イランの司法で数十年のキャリアを持つ強硬派の聖職者であり、外交政策と経済的経験は限られています。

 

人口
85,888,910(2021年7月推定
これはイランの人口ピラミッドです。 人口ピラミッドは、国の人口の年齢と性別の構造を示し、政治的および社会的安定、ならびに経済発展についての洞察を提供する可能性があります。 人口は横軸に沿って分布しており、左側が男性、右側が女性です。 男性と女性の人口は、縦軸に沿って横棒で表された5歳の年齢層に分類され、最も若い年齢層が下に、最も古い年齢層が上になります。 人口ピラミッドの形は、出生力、死亡率、および国際的な移住の傾向に基づいて、時間の経過とともに徐々に進化します。 <br/> <br/>詳細については、「定義とメモ」ページの人口ピラミッドのエントリを参照してください。

言語
ペルシア語・ファルシ語(公式)、アゼルバイジャン語およびその他のトルコ語方言、クルド語、ギラキ語、マーザンダラーン語、ルリ語、バローチー語、アラビア語

宗教
イスラム教徒(公式)99.6%(シーア派90-95%、スンニ派5-10%)、その他(ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒を含む)0.3%、詳細不明0.2%(2016年推定)

国土国土面積
1,648,195平方キロメートル国境が接する国: アフガニスタン921 km; アルメニア44km; アゼルバイジャン689km; イラク1,599km; パキスタン959km; トルコ534km; トルクメニスタン1,148km

国と政府国家元首
最高指導者Ali Hoseini-KHAMENEI(1989年6月4日以降)政府の長: Ebrahim RAISI大統領(2021年6月18日以降)。モハマド・モクバー初代副大統領(2021年8月8日以降)

経済
イランの経済は石油とガスの輸出への依存によって特徴づけられています。イランはまた、重要な農業、産業、およびサービス部門を所有していますが、イラン政府が所有する数百の国有企業が運営しています。また、政府は国の治安部隊に所属する多くの企業を間接的に管理しています。汚職、価格統制、補助金、数十億ドルの不良債権を抱える銀行システムなどの歪みは、経済を圧迫し、民間部門主導の成長の可能性を損なっています。民間部門の活動には、中規模の建設、セメント生産、鉱業、および金属加工に加えて、小規模のワークショップ、農業、一部の製造、およびサービスが含まれます。2016年1月の合同包括行動計画(JCPOA)に基づくほとんどの核関連制裁の解除は、イランの石油生産と収益の回復を引き起こし、GDPの急速な成長を牽引しましたが、石油生産が停滞したため、2017年の経済成長は低下しました。経済は、JCPOAの前から低水準の投資と生産性の低下に苦しみ続けており、特に女性と大学教育を受けたイランの若者の間で高水準の失業に苦しんでいます。2017年5月、Hasan RUHANI大統領の再選により、JCPOAの経済的利益が拡大し、社会のあらゆるレベルに到達するという一般の期待が広まりましたが、イランの核開発計画による制裁措置により、外国投資家がイランに関与することは難しい状況です。現大統領は保守強硬派であるため、対米関係は依然として緊張状態にあります。

GDP
実質GDP(購買力平価)$ 1,044,310,000,000(2020年推定)です$ 1,027,240,000,000(2019年推定)です実質GDP成長率3.7%(2017年推定)12.5%(2016年推定)一人当たりの実質GDP$ 12,400   (2020年推定)です$ 12,400(2019年推定)です$ 13,500(2018年推定)です。

GDPの構成
農業: 9.6%(2016年推定)
産業: 35.3%(2016年推定)
サービス: 55%(2017年推定)

貿易
輸出
1,014億ドル(2017年推定)
839.8億ドル(2016年推定)
輸出相手:中国48%、インド12%、韓国8%、トルコ6%、アラブ首長国連邦5%(2019)
輸出商品:原油、ポリマー、工業用アルコール、鉄、ピスタチオ(2019)

輸入
763.9億ドル(2017年推定)
631.4億ドル(2016年推定)
輸入相手:中国28%、アラブ首長国連邦20%、インド11%、トルコ7%、ブラジル6%、ドイツ5%(2019)
輸入商品:米、とうもろこし、放送機器、大豆製品、牛肉(2019)