イスラエルのガザ攻撃(現在のパレスチナ問題)

ハマスを撲滅するという旗を掲げたイスラエルのガザへの攻撃は続いています。数多くの民間人や子供たちも殺害されてきました。先日の学校への攻撃に対しても、イスラエルはその校舎にいたハマスの連中を狙ったものであったと開き直る有様です。理由はなんであれ、戦争によって多くの人々が傷つき、死んでいく有様は見たくありません。こういうことが継続するとユダヤ人に対する憎しみが増幅されてしまうのではないでしょうか。アメリカでは大学生たちがバイデン政権のイスラエル支援に「ノー」という意思表示をし、その動きは世界中に広がりつつあります。そうなるとイスラエル寄りの社会からはハマスに対する非難も高まります。戦争は一方が負けるまで終わらないものなのでしょう。このような戦争を引き起こしているパレスチナ紛争、パレスチナ問題とはどのようなものなのでしょうか。

パレスチナ問題についてはこのブログの中でも随分前に書いています。それらについては、このブログの中で「パレスチナ問題の復習」という語句で検索すれば4回分が出てきます。それを読んでいただければ幸いです。私たちの世代、つまりは高齢者の場合、パレスチナ紛争についてはある程度の知識は持っているように思います。なぜかというと若い時代に中東戦争があったからです。中東戦争は第一次から第4次と繰り返された戦争でして、特に第4次が1973年のオイルショック(第一次石油危機)を引き起こしたのです。ゆえに、その戦争に至る経緯、歴史がある程度、情報、知識として頭に入っているのです。詳しいことは覚えていないかもしれませんが。では、現在の高校の世界史教科書では、どれくらい記述されているのでしょうか。ちょっと覗いて見ましょう。

山川出版社『詳説 世界史』の298頁をピックアップしてみます。
アラブ地域では、アラビア半島においてかつての王国の再興をみざすイブン=サウードが、イギリスと同盟を結びながら、ワッハーブ派の勢力を率いて頭角を現した。彼は大戦中からアラブ独立運動を指導してきたヒジャーズ王国のフセインを破り、半島の大部分を統一して1932年にサウジ=アラビア王国を建てた。まもなく国内で莫大な石油資源が発見されると、同国の戦略的な重要性は著しく高まった。
大戦の開始とともにイギリスの保護国となっていたエジプトでは、戦後に全国的な反英独立運動がおこり(1919年革命)、1922年にイギリスは条件付きの独立を認めて、立憲君主制のエジプト王国が成立した。しかしイギリスはスエズ運河の支配権など多くの特権を維持したので、エジプト人による抗議が続いた。
またイラクはイギリスの、シリアはフランスの委任統治下に置かれたのち、それぞれ独立を達成していった。しかし、それらの国境線は列強の思惑によって定められたものであり、アラブ地域はいくつもの国境線で分断されることになった。
もっとも大きな矛盾が生じたのはパレスチナである。イギリスは大戦中、1915年のフセイン・マクマホン協定によってアラブ人にオスマン帝国からの独立を約束する一方、17年のバルフォア宣言ではパレスチナへの復帰をめざすユダヤ人のシオニズム運動を支援する姿勢を示し、双方から協力を得ようとした。こうしたあい反する約束に加えて、大戦後にパレスチナはイギリスの委任統治領となったため、アラブ・ユダヤの両民族はそれぞれの権利を主張して対立し、現在まで続く深刻なパレスチナ問題が生まれることになった。

この程度、教科書の1頁にも満たない程度の記述でパレスチナ問題の経緯が述べられています。勿論、他の部分でも関連する事項は書かれているのですが、薄っぺらい内容でしかありません。世界の歴史なので教科書1冊に入れるとしたらこの位が限度なのでしょうね。こうしている間にも、先日はハマスに捉えられていた人質の4人をイスラエルが救出したと報じられました。その救出に伴ってパレスチナ側の200人以上が殺されたとハマス側は発表しています。ハマスの報道がすべて真実であるとは思いませんが、胸が痛みます。イスラエルの国防相がネタニエフの方針に反対して辞任したとのこと。彼の辞任によってイスラエル側の攻撃はますます激しくなるという見方もでています。今日、岸田首相がG7サミットのためにイタリアに出発します。世界を代表する国の首脳が集まっても何も解決できる期待はありません。みんな自分の国が大変なことになっています。いったい世界はどうなっているのでしょう。

イスラエルとパレスチナの戦争

このブログの8月にエジプトの元大統領の言葉を紹介しました。その言葉をアラビア書道作品にして11月に開かれる京都での作品展に出品する予定でした。パレスチナでの戦争がこのように拡大することは、その時は思ってもいませんでした。世界中がイスラエルのガザ攻撃について、人道的な観点から市民を犠牲にしないようにと求めています。でも、イスラエルの攻撃をやめろ、戦争をやめろとは言いません(徐々に停戦すべきだという声がたかまりつつありますね)。戦争はしてもいいけど、市民を犠牲にしてはいけないというのですね。私たち日本人は戦争を放棄した国民です。どんなことがあっても戦争はダメと思うのですが。改めてサダトの言葉をここで紹介させていただきましょう。

「平和は土地よりもはるかに重要です・・・・。
戦争はもう終わりにしましょう。」

サダトがエジプトの大統領だったとき、イスラエルと和平条約を締結しました。その結果、ノーベル賞を受けました。その時にカイロでスピーチした時の一節なのです。

さて、イスラエルのガザへの侵攻がエスカレートしています。病院や学校にまで侵攻しています。病院の地下にハマスの拠点があるので、それを攻撃するというのです。ハマスは病院を盾にしているというのです。昨日のニュースでは地下の画像も出ていましたがイスラエルの元高官はこれらの地下トンネルや施設はかつてイスラエルが造ったものであるという証言もあります。アメリカがかつてイラクを攻撃したときのことを思い出します。イラクは「大量破壊兵器を有している」ことを理由に仕掛けたのでした。例え病院の地下にハマスの拠点があったとしても病院にいる患者や避難民を襲っていいという理由にはならないでしょう。

私はこのブログに書くことを躊躇っていました。パレスチナ問題の本質をきちんと理解していない世界の風潮に何を言っても無駄な気がするからです。いまハマスが人質を徐々に解放し始めました。一方でイスラエルもパレスチナ人を釈放し始めました。イスラエルには多くのパレスチナ人が拘留されていることが世界に明らかになりました。釈放された女性や子供をみて世界はどう感じているのでしょうか。罪状も明らかでなく裁判に掛けられたわけでもなく、行政拘禁という手段で留置されていたのです。ヨルダン川西岸へのイスラエル人の無法な入植も咎められていません。そういうイスラエルを世界が黙っていたことにパレスチナ人が反発するのは当然のことでしょう。冒頭の画像はサダトの言葉をアラビア書道の作品にしてみました。まだまだ拙い作品ですが、戦争は止めて欲しいという気持ちを込めました。

断食明けとイエメン

前回の投稿は断食月の最中であったので、断食のことを書きました。そして、断食明けは盛大なお祝いの日だと書きました。今回のラマダン明けは21日ということでした。そこでタイトルに挙げたイエメンでは85人の死亡者がでるような惨事が起こったことが報道されました。イランとサウジアラビアが国交正常化に向けて歩き出した一環の流れの中でイエメンの内戦も終結に向けて動きが進んでいる中での今回の事件というか事故だったので、私はとっさに和平への動きに反発する騒動かと思ったのでした。が、そうではなかったようです。事故のあらすじは以下のようでした。

ラマダン明けのお祝いのために富裕層が一人当たり5千イエメン・リアル(約1070円)を配っていたとのこと。そこに大勢の人が殺到して建物の入り口周辺で転倒して事故になったそうである。世界で最も貧しい国の一つに挙げられるイエメンでは5千リアルというのはかなりの金額なのであろう。少なくとも死者が85人、320人以上が負傷したとのことである。ラマダン明けのお祝いがこのようなことになったのは残念である。報道ではこの配布イベントを主催した実業家3名をフーシー派が逮捕したとのことである。ここが現在のイエメンの状況なのである。本来ならイエメンの正式な政府の支配の下での警察が逮捕するのであろうが、そうではなくてフーシーが事実上の支配者であることを示している。今後、イランとサウジの和解により、イエメンでのこの状況が変わろうとしている筈であるが、そうなるであろうか・・・・注目すべきことである。

 

パレスチナ問題の復習❷:イスラエル建国と中東戦争

イスラエル建国と中東戦争
 イギリス軍の撤退を前にユダヤ側とアラブ側との間で土地の奪い合いが拡大していった。1948年5月14日にイギリス軍の撤退が完了したが、その日に、ユダヤ側はベングリオン(初代首相に就任)がイスラエルの建国を宣言した。アラブ側(レバノン、シリア、ヨルダン、エジプト、イラク)は、即戦闘態勢にはいり第一次中東戦争が始まった。この戦争はイスラエルが勝利しパレスチナ全土の75%を支配下に置いた。アラブ側が大幅に国土を失った(前回の図1-B参照)が、エルサレムは東西に分割され東の旧市街はかろうじてヨルダン軍が確保した。イスラエルの支配下に陥った土地のアラブ人たち約75万人がヨルダン川西岸、ガザあるいは周辺のレバノン、シリア、ヨルダンなどに流出し難民となっていった。

 中東戦争はその後も第二次、第三次、第四次と繰り返すことになる。第二次中東戦争はスエズ運河の国有化に端を発した。アメリカからアスワン・ハイダムの建設資金援助の中止を宣言されたエジプト大統領ナセルはダムの建設資金を調達するために1956年にスエズ運河の国有化を宣言した。イギリスとフランスは先ずイスラエル軍をシナイ半島に侵入させておき、エジプトとイスラエル間の戦争からスエズ運河を守るという口実でポートサイドに上陸し、運河地帯を占領した。しかしながら、アメリカとソ連がイスラエル、イギリス、フランスに撤退を迫り、撤退を余儀なくさせられた。これ以後、中東地域の国々に影響力を行使できるように米ソが互いに競い合うことになり、両国は中東政策を強化していった。一方、エジプトのナセル大統領は1958年にエジプトとシリアでアラブ連合共和国を結成したのである。
 第三次中東戦争は別名を「六日間戦争」という。1967年、エジプト軍がアカバ湾を封鎖した。アカバ湾を封鎖するということはイスラエルの紅海への出口を塞ぐということである。イスラエルは戦線布告とみなし、エジプト、ヨルダン、シリアを攻撃し、この戦争は六日間で終止符を打った。イスラエルの圧勝であった。この戦争に至る期間にはシリアがイスラエルの水源であるガリラヤ湖の水を断つというような戦術も展開された。アラブ側にもエジプトとヨルダン関係の亀裂など複雑な様相が多く噴出していた期間である。第三次中東戦争により、イスラエルはスエズ運河までのシナイ半島、ヨルダン川西岸のパレスチナ、それにシリアのゴラン高原をも支配下に置いたのである。イスラエルは占領地にユダヤ人を入植させていった。この入植政策を積極的に推進したのが、その後首相にもなったシャロンであった。ユダヤ人にとってパレスチナの地は神から与えられた「約束の地」であり、そこに帰ることは入植者にとって当然のことだとの想いであった。
 第四次中東戦争は1973年10月6日に始まった。ユダヤ教徒にとっての最大の祝日であるヨムキプルの日にエジプト軍がスエズ運河を越えて奇襲をかけた。奇襲にあわてたイスラエル軍ではあったが、イスラエル軍の逆襲が成功し、イスラエル軍が有利な状況で小康状態に入った。その後は、エジプト大統領サダトがアメリカに仲介を委ね、キッシンジャー長官が東奔西走し停戦に至った。停戦交渉によりエジプトはシナイ半島を取り戻した。しかし、シリアはゴラン高原の奪回に成功することなく終わったため、アサド大統領はこれ以後サダトを裏切り者として恨んだ。さらに、1977年11月にはサダトがエルサレムを訪問した。1978年9月、サダト大統領とイスラエルのベギン首相が米国カーター大統領のキャンプデービッドの山荘で会談した結果、合意文書が調印された。この第四次中東戦争ではアラブ側がイスラエル寄りの国々に対して石油禁輸措置を発動したため、第一次石油危機が生じた。原油価格が約4倍に高騰し、先進国では省エネルギー対策に真剣に取組み始めることとなる。
 パレスチナ問題の歴史的な経緯を簡単に述べてきたが、最も重要なことは、そこに生きている人々のこと、いわゆるパレスチナ難民問題である。パレスチナ難民とは1948年にイスラエルが建国したことにより住んでいた土地を追われ、周辺地域に逃れた人と、その子孫のことである。当初、75万人程度であった難民に子孫が増えた。ヨルダン、シリア、レバノン、ヨルダン川西岸、ガザ地区に流出した難民の悲惨な生活が始まったのである。国連パレスチナ難民救済機関(UNPWA)が発表した2005年3月31日の難民数は425万人であった。今は2022年であるから、2005年からは既に17年も経過している。果たして難民の数はどのくらいになっていると思いますか?答えは冒頭の画像が示す通りです。2021年時点の難民数は約640万人であります。当初の75万人時代に適切な措置をしていたならここまで膨れ上がることはなかったことでしょう。そして、この数は今後も増え続けることになるのでしょう。戦争は一過性のものではないのです。その余波は未来永劫に続くということです。ウクライナからの難民が同じような道をたどらないことを祈るばかりです。

 

経済協力推進を確認 イスラエルとUAE

昨日のテレビニュースではイスラエルの首相がアブダビを訪問し、UAEの事実上の指導者ムハンマド皇太子と会談したことが伝えられました。両国の国交樹立から1年余が経ち、ベネット首相の訪問が実現したのです。

13日、アブダビで、イスラエルのベネット首相(左)を迎えるアラブ首長国連邦(UAE)アブダビ首長国のムハンマド皇太子=イスラエル政府提供(AFP時事)
13日、アブダビで、イスラエルのベネット首相(左)を迎えるアラブ首長国連邦(UAE)アブダビ首長国のムハンマド皇太子(AFP時事)

このニュースをこのブログで取り上げる意味はどこにあるでしょうか。私は、今後の中東情勢が非常に不透明になりつつあると思うのです。単純に言えば、この先の状況が分からないということです。

アラブの国であるUAEとユダヤ国家が友好関係を築き、平和な中東社会が実現するならば歓迎すべきことと言えるでしょう。でも両者の思惑はまた別のものがあるようです。メディアも注目するのはイランとの関係です。両国が協力する分野は多々あるでしょうが、政治的な面では対イラン政策です。イスラエルはUAE以外のアラブ諸国とも関係を改善しつつあります。それらは結局はイラン包囲網を築くということなのです。イランはアラブではありません。イランとアラブ諸国の関係はサウジアラビアのように険悪なところもあれば、オマーンのように関係が良好な国もあります。が、全体としてみれば関係は良くありません。イエメンの内戦ではイランとサウジアラビアの代理戦争の体をなしているわけです。イスラエルのアラブ接近の動きはトランプ大統領時代のアメリカの仲介によるものです。つまり、アメリカの対イラン政策の一環であるわけです。

話を広げましょう。いまサウジアラビアがレバノンからの輸入をストップさせています。レバノンは政治も経済も混乱状態にあります。政治への国民の信頼は崩壊しています。経済はサウジへの輸出が頼みの綱的な面もあったのですが、それがサウジの輸入規制によって、ますます混乱しているのです。レバノン国内の宗教分布は非常に多岐にわたっています。そこで現在の政治の運営はキリスト教徒、イスラムシーア派、イスラムスンニー派と3者から選出された三頭政治になっていたのです。もうおわかりでしょう。シーア派はイランの影響、とくにヒズボラの影響をうけています。スンニー派はサウジアラビアの影響をうけているわけです。そして、レバノンはフランスの植民地でありましたから、宗主国であるフランス(キリスト教)がいまだに影響力を有しています。日産のゴーンさんを思い出しますね。
今回のサウジの輸入禁止の原因はシーア派から出ている政治家の発言に対して、サウジ側が激怒した結果と言われているのです。

イランを巡って、今後さらに中東情勢が複雑化する予感がするのです。イランには中国やロシアが接近します。そしてこれまで通りシリアに影響力を及ぼします。逆にアメリカとイスラエルはアラブを仲間に入れようとしているわけです。そこにインドも加えようとの動きもあるようで、日本・アメリカ・オーストラリア・インドのクアッドに習い、これを中東のクアッドと呼ぼうとしているようです。ますます目が離せなくなる今後の中東情勢です。

コーランについて(11):第21章ーーー預言者たち

久しぶりにコーランです。この章を取り上げた理由は特にありません。コーランを取り出して、パッと開いたところが、この章だったのです。いつものように訳文は岩波文庫・井筒先生のものです。

上の画像はコーランのこの章の冒頭の部分です。昔イランで買ったものです。コーランはご存知のようにアラビア語で書かれています。画像を見ると、コーランの文章の下に小さな文字が書かれているのが見えますね。これはアラビア語のコーランの意味をペルシャ語で書いているのです。イランの言葉はペルシャ語ですので、アラビア語のコーランは読めても意味が分からない人も大勢います。従って、こうしてペルシャ語で意味を併記しているのです。イスラム教徒にとってコーランはアラビア語で唱えるのが鉄則です。イラン人もみんなアラビア語で唱えているのは言うまでもありません。

さて、今回の第21章が預言者たちと題されるのは何故でしょう。この章では、ムーサー(モーセ)、ハールーン、イブラーヒーム、ルート、イスハーク、ヤアクーブ、ヌーフ(ノア)、ダーウード、スライマーン、アイユーブ・・・・・そのほかの預言者たちについて言及されていることから、この名が付いたようです。先ずはイブラーヒームについて言及している辺りを紹介しましょう。

(1) ~(3) 人々がうかうかよそ見しているうちに、総決算の時は刻々と近づいてきた。いくら次々に新しいお諭が下されても、みんなは遊び半分に聞き流すばかり。一向に気がはいらぬ。しかも、不義の徒輩、こちらに聞かせぬつもりのひそひそ話で、「なんだ、これは君たちとおなじただの人間ではないか。立派に目が見えておりながら、君たち、妖術にやられる法はあるまい」などと言っている。

冒頭でいきなり信心深くない人間のことを取り上げて、次のように嘆いている。

(4)~(6) 「神様は天と地のどこで言われていることでもすっかり御存知。まことに早耳で、何から何まで御存知におわします。」と彼(ムハンマド)が言えば、さらに彼らは言い返す。「なあに、愚にもつかない夢ごたまぜ。」「どうせあの男のでっち上げ。」「あの男は詩人だ(当時は、詩人は妖霊に憑りつかれた人と考えられていた)。」「昔の使徒のように、一つお徴(おしるし=奇蹟)でもやって見せたらいいに。」今までも、我ら(アッラー)が滅ぼした邑(まち)はどれもこれも信仰しなかったもの。それでもあくまで信仰しないつもりか。

しばらく後になると、次のように壮大な神の力を力説する。

(31)~(34)  信仰なき者どもには分からないのか、天と地はもと一枚つづきの縫い合わせであったのを、我らがほどいて二つに分けた上、水であらゆる生きものを作りだしてやったということが。これでも信仰しないのか。また我らは大地の揺れをとめるために山塊をどっかと据え、そこに峡谷を縦横にはしらせ道となした。これもみな、なんとかして人々を正道に導こうとてしたこと(天地自然の不思議をみて信仰にはいるようにとしたこと)。さらにまた、我らは大空をもって、がっしりとまった(落ちてこないようにしっかりとめられた)屋根となした。それでも、彼らは、こういう神兆に平気で顔をそむけるのか。彼(アッラー)こそは、夜と昼と太陽と月とを創造し給うたお方。みな大空の中を泳いでいる。

(52)~(59 ) その昔、我らはイブラーヒーム(アブラハム)に正しい行きかたを授けた。あの男のことは我らもはじめからよく知っていた。あれが父親とその一族に向って「そうやって貴方がたが崇めたてまつっているその彫像は、一体なんです」と言った時のこと。「わしらの御先祖様がたの崇めておられたものじゃ」と一同が答える。「それでは、みなさん確かに道を踏み違えておられたのですよ、御先祖様たちも、貴方がた御自身も」と言う。「これ、お前、本気でそんなこと言っているのか。それとも悪ふざけしているのか。」「とんでもない。みなさんの本当の主は、天と地を統べ給うお方、それを初めてお創りになったお方なのです。私はそれの証人の一人です。誓って申します。みなさんが私に背を向けてあちらへ行ってしまったあとで、必ず私があの偶像(でく)どもに一泡ふかせて見せましょう。」とそう言って、彼は(邪神の彫像をことごとく)ばらばらに叩きこわしてしまった。但し、たった一つ、大物だけ残しておいた。これは(あとで)みながこのもののところへやって来るように(わざと)そうしておいたのであった。

アブラハムが人々に偶像崇拝を咎めて、それらを壊したのであった。だけど、一つだけ残したのには理由がある。後日、みんながそこに集まってけしからんと騒ぐだろう。その折に再び説諭するというシナリオのようである。

(63) ~(69 ) 「これ、イブラーヒーム、お前か、我々の神様がたにこんなまねをしたのは」と一同が尋ねた。「いえいえ、ほら、この大物のしわざです。あの連中(こわされた神々を指す)にきいてごらんなさい、もし彼らに口がきけるものなら」と彼が言う。そこせ一同、額を集めて協議となり、「悪いのはこちら側だった(物も言えない偶像を神とあがめたりした我々の方が間違っていた)と言う。(しかし反省したのもつかの間)、たちまちひっくりかえって。「この方々(神々を指す)に口がきけないことはお前(アブラハム)初めから知っていたくせに。」「さ、そこです」と彼が言う。「それでは、みなさん、アッラーをよそにして、毒にも薬にもならないようなものを神と崇めていらっしゃるんですね。いやはy、なんとなさけないことか、アッラーをよそにして、あのようなものを崇めるとは。みなさん、わからないのですか。」「あれ(アブラハム)を火炙りにしてしまえ。どうせやるなら、君たち(俺たち)の神々がたにお味方申せ」とみなが叫んだ。そこで我ら(アッラー)は「これ、火よ、冷たくなれ。イブラーヒームに危害を加えるな」と命じたのであった。

信仰深きない人々を相手にアッラーの凄さをPRするかのように我とイブラーヒームの働きかけがまるでコントを見ているように映像が浮かびます。イスラムで偶像崇拝を禁じ、それを破壊した初期の状態が動画をみているように目に浮かんでくるようです。中々興味深い内容でした。この後、ほかの預言者にも言及するわけですが、今日のところはここまでにしておきましょう。

 

 

オリエント世界の風土

前回の世界史学習の答を記入しておきましたので、確認してください。ネタ本となっているタペストリーの該当部分をちょっと取り上げておきましょう。

四角い枠の中の文字が小さいので、以下に書いておきましょう。
「エジプトはナイルの賜物」
ヘロドトスはエジプトの豊かさを、定期的に氾濫を繰り返して沃土をもたらすナイル川のめぐみとしてこうよんだ。

「塩害に悩む」
この地域では早くから灌漑農業が行われ、穀物の収量も増えた。一方で、灌漑用水に含まれる塩基物によって、土壌中の塩分も増加していった。そのため流域は最古の農業地帯でありながら、徐々に農業は衰退していったと考えられる。また水量が豊かで、ときに大洪水を引き起こした。

「肥沃な三日月地帯」
9000年前、人類が最初に農耕を始めた地域の一つ。平原と高原の境にあたる、森林の多様な植物と開墾しやすい平原が出会う地。

「ギルガメッシュ叙事詩」
古代メソポタミアの英雄でウルクの王とされているギルガメッシュの伝説的叙事詩。「旧約聖書」の「ノアの箱舟」の原型だとされる洪水説話が記載されている。

「ベヒストゥーン碑文」
ラガシュ周辺の「王の道」に面した岩壁に刻まれた碑文。ダレイオス1世の業績が彫られている。

「遊牧民の地」
アラブとは遊牧民を意味し、アラビアとは彼らが住んでいる地、すなわち砂漠を意味する。半島中央には246万㎢(日本の約6.5倍)の砂漠がある。

最後の項目の中の「アラブ」についての説明の部分は少し違和感があります。アラブとはアラビア語を母語とする人々の集団と言った方がいいでしょう。

更にユーフラテス川について次のような図と説明があります。

こちらは、このままでも読めますね。
先日紹介したナツメヤシ(デーツ)がメソポタミア原産であり、年二回の収穫ができ、食料として以外の用途にも幅広く利用されてきたことが紹介されています。
さらに、メソポタミア文明を支えたのは粘土とアシであると説明しています。
粘土と葦というのが興味深いです。私はアシがペンに使われたことはよく知っていました。一見ひ弱いと思う葦が船材、建築材に使われたのですね。葦のペンのことですが、実は私はそれを沢山持っているのです。

アラビア書道を始めた時に、買い求めたのです。アラブでは葦ペンを使って文字を書いていたのですから、アラビア書道も葦ペンを使うわけです。しかしながら、葦ペンは弱いです。葦にも色々あるでしょうから、固めのものを使うでしょう。でも、日本なら竹があるので、いま私たちは竹を利用しています。中東の人たちも今は竹を手に入れることができるので竹を利用することが多いと思います。話がアラビア書道のペンにまで及びました。それではまた。

 

イスラムの美②:陶器

前回の「イスラムの美①:タイル」の評判が良かったので、タイルに続いて陶器を紹介することにしました。前回同様にヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の所蔵品の紹介です。

白地藍黒彩文字文壺。エジプトまたはシリア。14世紀。高さ37センチ。

青釉黒彩透彫鳥首水差。イラン、カーシャーン。12世紀末~13世紀初期。高さ29センチ。

白地色絵人物文鉢。イランおそらくカーシャーン。12世紀末期~13世紀初期。直径20.7センチ。

白釉雄牛像。シリア。12世紀。高さ22.2センチ。

白地藍黒彩草花文壺。イラン。17世紀。高さ52.5センチ。

白地藍黒彩獣文壺。イラン。17世紀。高さ29.8センチ

左:白地藍黒彩三美人図鉢。イランおそらくカーシャーン。13世紀初期。直径29.7センチ。
右:ラスター彩騎馬人物図皿。イラン。1208年。直径35.2センチ。

グルガーン出土陶器類各種。全品が13世紀初期のカーシャーン産フリットウェア器物の埋蔵品の一部。このような上質の陶器を扱った行商人の手持ち商品と推定される。

白地藍彩アラベスク文台付鉢。トルコおそらくイズニク。15~16世紀。高さ23.5センチ。

白地多彩草花文台付鉢。トルコおそらくイズニク。16世紀中期。高さ26.5センチ。

白地多彩花文モスク・ランプ形壺。トルコおそらくイズニク。1557年頃。

白地多彩花文墓標。トルコおそらくイズニク。16世紀。高さ42.2センチ。

白釉青彩赤ラスター彩蓋付壺。イタリア、グッピオ。1510年頃。

左:白地藍黒彩草花文鉢。イランおそらくカーシャーン。13世紀初期。直径24.4センチ。
右:白地藍彩葡萄文皿。トルコおそらくイズニク。16世紀初期。直径39.1センチ。

円卓天板。9枚の別個のタイルから成り、それぞれイランの国民叙事詩『王書』に啓発された場面を描いたものである。中央図下部の銘文は、当品がロバート・マードック・スミス少将の注文によりアリー・ムハンマド・カシュガル・イスファハニーが、西暦1887年に相当するヒジュラ歴1304年に制作したものであることが記されている。直径136センチ。

12世紀以後の各地で作られたものであるが、中には日本の陶器と見間違うようなものもありますね。イスラム世界のものであるのに、人物像が描かれているものもあることに、オヤッと思われた方がいるかもしれません。でもそれらは、イランの作品です。イランはご承知のようにシーア派の国であります。イランでは第4代カリフ・アリーの肖像を飾ることがあるように、人物像を描くことを厳格に禁止しているわけではないようです。ペルシャの絵皿には独特の顔の人物像が描かれているものです。

 

アラブの詩

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最近書棚に埋もれていた、千曲学芸文庫・片倉もとこ著『アラビア・ノート』を発見したので、開いてみました。2002年発行のものですから、私が読んだのも15年くらい前のことなのでしょうか。改めて読んでみたのですが、内容をほとんど覚えていなくて初めて読むような感覚でした。アラビアという題名に魅かれて買ったけど、積読だったのかも知れません。片倉さんは1937年生まれの私より10歳上の方です。実際に中東諸国だけでなく南北アメリカ、地中海・・・などを回り民俗学的な調査を行った方です。この文庫本も最初は日本放送出版協会から1979年11月に刊行されたものだそうです。ですから、実際に現地を訪れたのは今から50年いやそれ以上前になるかもしれません。1970年代をイランで過ごした私には、そのころの中東での調査には大変な苦労があったとお察しするのです。

そういうことで、今じっくりと読み直しているところです。いつものように最初のページから順に読んでいくのではなく、目次を見て興味のある所から読んでいます。そして、今日のブログに書こうとするのは149頁からの「詩と踊りの世界」です。生活の中に詩が溶け込んでいるというのです。私は詩に関心があります。特にイランの詩に魅せられていることをこのブログの読者はお分かりだと思います。また、以前、このブログの中で岩波文庫のアブー・ ヌワース 『アラブ飲酒詩選』の詩を紹介したことがあります(2019年6月と2020年8月)が、正直な話、アラブ人全体の彼らの生活に詩が溶け込んでいるとは思っていませんでした。
私が関心を持った部分を紹介いたしましょう。青、赤色文字部分が引用。

生活の中の詩(うた)
アラブの伝統的な遊びは、まず何をおいても詩である。詩のかけ合いをする。二人で一組になり、かけ合い漫才のように楽しげに、詩の問答をしたり、歌をうたうように交替に即興詩を作り合う。大勢が二手に分かれ、二列に向かい合って並び、詩句をなげかけ合って勝負を決める遊びは、その昔、さかんだった詩の戦争の名残りだという。「そういう戦いのための練習試合なんだ」という者もいた。彼らは詩の言葉に、より強い武器性を見出す。武器は、物を破壊するだけだが、言葉は、人間の心を征服してしまう。イスラーム以前の古い時代からアラビアでは、詩人は、超能力をもつと信じられ恐れられた。偉大な詩人を出した部族は、いっぺんに部族の格が上がった。
遊び感覚で詩のかけ合いをやる光景が目に浮かぶ。大勢が一堂に集まり、グループ同士がかけ合って勝負を競う風景が目に浮かぶ。日本でもリングの上で二人が即興の詩を吟じて勝負するのを見たことがあるが、アラブでは日常生活においてこのような風景が見られるというのだ。また、引用部分の中の赤色のところ「言葉は人間の心を征服してしまう、ということにハッとさせられた。ヘイトスピーチや子供のいじめなど、言葉の恐ろしさが現実化している今日である。

彼らの一日は、日が沈んで砂漠の夜風に吹かれながら、インシャード(詩の朗読)をすることからたいてい始まる。詩のしりとりをすることもよくある。母親と息子が、詩のしりとりをするのをはじめて見た時は驚いた。彼らはなにげなくやっているだけなのだが。眼もとの涼しいアラビア美人のファイザが、やわらかい、しかしよく透る声で、詩の一節を朗々とうたいあげる。一瞬、美しくきまった間をおいて、母親に似て利発な顔立ちの息子、ガージーが、一段と声をあげて詩の一節をさけぶ。母親のファイザが続ける。ちょっとつまって、ガージーの番、ファイザの美しい声・・・・・
親子で詩のやり取りをする。しかも即興であるそうだ。つまってしまった息子に、ちょうど通りかかった父親がアドバイスしたりする様子が書かれている。

中々、絵になる風景である。ほかにも人を訪ねたときの手土産代わりに詩を贈る例も紹介している。本当に詩が生活に溶け込んでいることがわかった。きっとアブー・ ヌワース以外にも詩人と称する人々は多いはずである。後日、調べてみることにしよう。
とりあえず、「アラブの詩」という語で、インターネット検索すると、「中東地域の文学-アラブ篇」というサイトがあった。また、{アル・ジスル-日本とパレスチナを結ぶ(略称JSR)テーマ:「アラブの詩―ジャーヒリーヤからダルウィーシュまで」(仮題)}というのがあり、そこには「アラブの文化の核心はアラビア語。そのアラビア語を磨き上げたのが、詩です。「アラブの詩」抜きに「アラブ文化」を語ることはできません。日常生活から社会・政治にかかわるあらゆることが、「詩」という形で表現されました。」と書かれていました。

アラブにおける詩の文化を知ることができました。

シリーズ「オスマン帝国」:⑫ マムルークとは

オスマン帝国について読んだり見たりしていると「マムルーク」が時々登場してきます。歴史の流れの中では「マムルーク朝」というのもあります。今回はマムルークについて整理してみようと思います。

インターネットの「世界史の窓」では次のように書かれています。
イスラーム社会には多数の家内奴隷や軍事奴隷が存在した。軍事奴隷は戦争の捕虜が充てられ、アラブ人以外の異教徒が多かった。ウマイヤ朝の時代からアフリカ東海岸から売られてきた黒人奴隷も存在したが、アッバース朝時代からは西方のトルコ人やギリシア人、スラヴ人、チェルケス人、クルド人などが「白人奴隷兵」とされ、「マムルーク」(所有されるもの、の意味)と言われるようになった。彼らはイスラーム教に改宗してマワーリーになり、解放されることもあった(解放奴隷)。
ですから、マムルークはオスマン帝国以前からイスラム社会にあった奴隷であることが分かります。さらに次のような記述が続いています。
イスラーム帝国では、アラブ人の正規の軍隊のほかに、このようなマムルーク軍団を持っていたが、彼らは戦闘集団として次第に重要な存在となっていった。特に中央アジアから西アジア世界に移住したトルコ人は、騎馬技術に優れ、馬上から自在に弓を射ることができたので、アッバース朝時代の中央アジアの地方政権、サーマーン朝などによってもたらされたマムルークが広くイスラーム世界に輸出され、盛んに用いられるようになった。
特にトルコ人騎馬得意で馬上から弓を射る技術に長けていたので多用されたということです。ですから、マムルークというとトルコという強いイメージを私は持っているようです。イスラム社会には奴隷が沢山いたことは有名なことですが、必ずしも南部アメリカの重労働で酷使された奴隷とはちょっと異なっていたように思います。家庭教師のような教育をしてもらう奴隷などもいたそうです。ムハンマドがイスラムを拡げようとしたときの最初の弟子が奴隷であったと聞いたこともあるような気がします。マムルークという語の意味が所有されるものであることも興味深いことです。

マムルークが奴隷であることが分かったので、もう少し奴隷について調べましょう。私の疑問にいつも答えてくれる後藤明著『ビジュアル版イスラーム歴史物語』(講談社)の122頁を引用させていただきます。
中東地域は、世界に先駆けて文明の華を開花させた地域ですが、奴隷という、商品として売買する人間を世界に先駆けて生み出した地域でもあります。つまり、イスラームが誕生する数千年も前の昔から、この地域には奴隷がいたわけです。イスラームの時代になっても、イスラームは奴隷という存在を否定することなく、認めてきました。そして、戦争の際の捕虜などは奴隷となり、市場で売買されてきました。
奴隷を意味するアラビア語の単語はいくつかありますが、グラームはその一つです。この言葉は元来は一族の若者を意味しています。父親や伯父たちの仕事を手伝って、細々とした雑用をこなす半人前の若者です。学校などがなかった時代の若者は、このように実地訓練で教育されて、一人前になっていくのです。このような若者を意味する言葉が、同時に奴隷を意味していました。グラームと表現される奴隷は、一人前の自由人ではないのですが、主人たちのそばで雑用をこなす立場の人間とみなされていたわけです。農園で、鞭を打たれながら働く奴隷、主人の子供を嫌々ながらも生まなくてはいけない女奴隷など、惨めな境遇の奴隷もいましたが、イスラーム世界での奴隷の一般的イメージは、自由人とさほど変わらぬ立場の人間らしい存在でした。そして、奴隷を解放して自由人にすることが、善きムスリムの善行として、大いに勧められてきました。
少し長く引用しましたが、非常に良く分かるように説明されています。先ほど、私は奴隷がイスラム社会に居たことは有名だと書きましたが、奴隷はイスラム以前からの昔からいたということですね。

奴隷についてアチコチ検索してみると、ある論文を見つけました。それは、波戸愛美氏のイスラム世界における女奴隷 ―『千夜一夜物語』と同時代史料との比較― Female Slaves in the Islamic World : Comparison between the Arabian Nights and its Contemporary Sources です。そこに女奴隷を売買する場面が記載されていました。引用させていただきます。
『千夜一夜物語』においては、奴隷売買は、奴隷市場においてか、買い主のもとに奴隷商人がやってくるといった形で行われている。同時代史料との比較が可能なライデン版から事例を抜き出してみると、「女奴隷アニース・アルジャリースとヌール・アッディーン・イブン・ハーカーンの物語」には、奴隷の売買の記述が幾度か現れる。王に素晴らしい女奴隷を望まれたワジール(宰相)は、すぐさま市場に向かい、奴隷商人に「10,000ディーナール(金貨の単位)以上の美しい女奴隷がやってきたら、売りに出す前にこちらに見せるように」と命令する。そして、女奴隷アニース・アルジャリースがペルシア人の仲買人の手によって大臣のところに連れてこられるが、仲買人は彼女の値段を聞かれて次のようにいう。
ああ、ご主人様! 彼女の値段は10,000ディーナールでございます。しかし、彼女の持ち主が誓って申しますには、彼女が食べました鶏や、彼女が飲みました酒、そして彼女の先生方からいただきました恩賜の衣といったものの値段がそれではまかないきれないとのことでございます。なぜなら、彼女は書道、言語学、アラビア語、クルアーンの解釈、文法学、医学、法学などを修め、それと同様にあらゆる諸楽器の演奏にも通じているのでございます。
この台詞は、女奴隷アニース・アルジャリースが主人のもとで衣食住を保証され、また高度な教育を受けていたことを示唆するものである。そして、仲買人はその養育費をも大臣に払えと要求している。
やはりここでも奴隷ががんじがらめに束縛されていたわけではない。ここでは高等教育を受けた知的な人物であることが分かるのである。

マムルークについて調べながら書き始めたのですが、奴隷の話になってしまいました。かなり長くなったので、今回はここまでにしましょう。そして、マムルークが王朝を建てたという「マムルーク朝」に至る話は次回に回すことにいたしょうましょう。