アラブの詩

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最近書棚に埋もれていた、千曲学芸文庫・片倉もとこ著『アラビア・ノート』を発見したので、開いてみました。2002年発行のものですから、私が読んだのも15年くらい前のことなのでしょうか。改めて読んでみたのですが、内容をほとんど覚えていなくて初めて読むような感覚でした。アラビアという題名に魅かれて買ったけど、積読だったのかも知れません。片倉さんは1937年生まれの私より10歳上の方です。実際に中東諸国だけでなく南北アメリカ、地中海・・・などを回り民俗学的な調査を行った方です。この文庫本も最初は日本放送出版協会から1979年11月に刊行されたものだそうです。ですから、実際に現地を訪れたのは今から50年いやそれ以上前になるかもしれません。1970年代をイランで過ごした私には、そのころの中東での調査には大変な苦労があったとお察しするのです。

そういうことで、今じっくりと読み直しているところです。いつものように最初のページから順に読んでいくのではなく、目次を見て興味のある所から読んでいます。そして、今日のブログに書こうとするのは149頁からの「詩と踊りの世界」です。生活の中に詩が溶け込んでいるというのです。私は詩に関心があります。特にイランの詩に魅せられていることをこのブログの読者はお分かりだと思います。また、以前、このブログの中で岩波文庫のアブー・ ヌワース 『アラブ飲酒詩選』の詩を紹介したことがあります(2019年6月と2020年8月)が、正直な話、アラブ人全体の彼らの生活に詩が溶け込んでいるとは思っていませんでした。
私が関心を持った部分を紹介いたしましょう。青、赤色文字部分が引用。

生活の中の詩(うた)
アラブの伝統的な遊びは、まず何をおいても詩である。詩のかけ合いをする。二人で一組になり、かけ合い漫才のように楽しげに、詩の問答をしたり、歌をうたうように交替に即興詩を作り合う。大勢が二手に分かれ、二列に向かい合って並び、詩句をなげかけ合って勝負を決める遊びは、その昔、さかんだった詩の戦争の名残りだという。「そういう戦いのための練習試合なんだ」という者もいた。彼らは詩の言葉に、より強い武器性を見出す。武器は、物を破壊するだけだが、言葉は、人間の心を征服してしまう。イスラーム以前の古い時代からアラビアでは、詩人は、超能力をもつと信じられ恐れられた。偉大な詩人を出した部族は、いっぺんに部族の格が上がった。
遊び感覚で詩のかけ合いをやる光景が目に浮かぶ。大勢が一堂に集まり、グループ同士がかけ合って勝負を競う風景が目に浮かぶ。日本でもリングの上で二人が即興の詩を吟じて勝負するのを見たことがあるが、アラブでは日常生活においてこのような風景が見られるというのだ。また、引用部分の中の赤色のところ「言葉は人間の心を征服してしまう、ということにハッとさせられた。ヘイトスピーチや子供のいじめなど、言葉の恐ろしさが現実化している今日である。

彼らの一日は、日が沈んで砂漠の夜風に吹かれながら、インシャード(詩の朗読)をすることからたいてい始まる。詩のしりとりをすることもよくある。母親と息子が、詩のしりとりをするのをはじめて見た時は驚いた。彼らはなにげなくやっているだけなのだが。眼もとの涼しいアラビア美人のファイザが、やわらかい、しかしよく透る声で、詩の一節を朗々とうたいあげる。一瞬、美しくきまった間をおいて、母親に似て利発な顔立ちの息子、ガージーが、一段と声をあげて詩の一節をさけぶ。母親のファイザが続ける。ちょっとつまって、ガージーの番、ファイザの美しい声・・・・・
親子で詩のやり取りをする。しかも即興であるそうだ。つまってしまった息子に、ちょうど通りかかった父親がアドバイスしたりする様子が書かれている。

中々、絵になる風景である。ほかにも人を訪ねたときの手土産代わりに詩を贈る例も紹介している。本当に詩が生活に溶け込んでいることがわかった。きっとアブー・ ヌワース以外にも詩人と称する人々は多いはずである。後日、調べてみることにしよう。
とりあえず、「アラブの詩」という語で、インターネット検索すると、「中東地域の文学-アラブ篇」というサイトがあった。また、{アル・ジスル-日本とパレスチナを結ぶ(略称JSR)テーマ:「アラブの詩―ジャーヒリーヤからダルウィーシュまで」(仮題)}というのがあり、そこには「アラブの文化の核心はアラビア語。そのアラビア語を磨き上げたのが、詩です。「アラブの詩」抜きに「アラブ文化」を語ることはできません。日常生活から社会・政治にかかわるあらゆることが、「詩」という形で表現されました。」と書かれていました。

アラブにおける詩の文化を知ることができました。

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シリーズ「オスマン帝国」:⑫ マムルークとは

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オスマン帝国について読んだり見たりしていると「マムルーク」が時々登場してきます。歴史の流れの中では「マムルーク朝」というのもあります。今回はマムルークについて整理してみようと思います。

インターネットの「世界史の窓」では次のように書かれています。
イスラーム社会には多数の家内奴隷や軍事奴隷が存在した。軍事奴隷は戦争の捕虜が充てられ、アラブ人以外の異教徒が多かった。ウマイヤ朝の時代からアフリカ東海岸から売られてきた黒人奴隷も存在したが、アッバース朝時代からは西方のトルコ人やギリシア人、スラヴ人、チェルケス人、クルド人などが「白人奴隷兵」とされ、「マムルーク」(所有されるもの、の意味)と言われるようになった。彼らはイスラーム教に改宗してマワーリーになり、解放されることもあった(解放奴隷)。
ですから、マムルークはオスマン帝国以前からイスラム社会にあった奴隷であることが分かります。さらに次のような記述が続いています。
イスラーム帝国では、アラブ人の正規の軍隊のほかに、このようなマムルーク軍団を持っていたが、彼らは戦闘集団として次第に重要な存在となっていった。特に中央アジアから西アジア世界に移住したトルコ人は、騎馬技術に優れ、馬上から自在に弓を射ることができたので、アッバース朝時代の中央アジアの地方政権、サーマーン朝などによってもたらされたマムルークが広くイスラーム世界に輸出され、盛んに用いられるようになった。
特にトルコ人騎馬得意で馬上から弓を射る技術に長けていたので多用されたということです。ですから、マムルークというとトルコという強いイメージを私は持っているようです。イスラム社会には奴隷が沢山いたことは有名なことですが、必ずしも南部アメリカの重労働で酷使された奴隷とはちょっと異なっていたように思います。家庭教師のような教育をしてもらう奴隷などもいたそうです。ムハンマドがイスラムを拡げようとしたときの最初の弟子が奴隷であったと聞いたこともあるような気がします。マムルークという語の意味が所有されるものであることも興味深いことです。

マムルークが奴隷であることが分かったので、もう少し奴隷について調べましょう。私の疑問にいつも答えてくれる後藤明著『ビジュアル版イスラーム歴史物語』(講談社)の122頁を引用させていただきます。
中東地域は、世界に先駆けて文明の華を開花させた地域ですが、奴隷という、商品として売買する人間を世界に先駆けて生み出した地域でもあります。つまり、イスラームが誕生する数千年も前の昔から、この地域には奴隷がいたわけです。イスラームの時代になっても、イスラームは奴隷という存在を否定することなく、認めてきました。そして、戦争の際の捕虜などは奴隷となり、市場で売買されてきました。
奴隷を意味するアラビア語の単語はいくつかありますが、グラームはその一つです。この言葉は元来は一族の若者を意味しています。父親や伯父たちの仕事を手伝って、細々とした雑用をこなす半人前の若者です。学校などがなかった時代の若者は、このように実地訓練で教育されて、一人前になっていくのです。このような若者を意味する言葉が、同時に奴隷を意味していました。グラームと表現される奴隷は、一人前の自由人ではないのですが、主人たちのそばで雑用をこなす立場の人間とみなされていたわけです。農園で、鞭を打たれながら働く奴隷、主人の子供を嫌々ながらも生まなくてはいけない女奴隷など、惨めな境遇の奴隷もいましたが、イスラーム世界での奴隷の一般的イメージは、自由人とさほど変わらぬ立場の人間らしい存在でした。そして、奴隷を解放して自由人にすることが、善きムスリムの善行として、大いに勧められてきました。
少し長く引用しましたが、非常に良く分かるように説明されています。先ほど、私は奴隷がイスラム社会に居たことは有名だと書きましたが、奴隷はイスラム以前からの昔からいたということですね。

奴隷についてアチコチ検索してみると、ある論文を見つけました。それは、波戸愛美氏のイスラム世界における女奴隷 ―『千夜一夜物語』と同時代史料との比較― Female Slaves in the Islamic World : Comparison between the Arabian Nights and its Contemporary Sources です。そこに女奴隷を売買する場面が記載されていました。引用させていただきます。
『千夜一夜物語』においては、奴隷売買は、奴隷市場においてか、買い主のもとに奴隷商人がやってくるといった形で行われている。同時代史料との比較が可能なライデン版から事例を抜き出してみると、「女奴隷アニース・アルジャリースとヌール・アッディーン・イブン・ハーカーンの物語」には、奴隷の売買の記述が幾度か現れる。王に素晴らしい女奴隷を望まれたワジール(宰相)は、すぐさま市場に向かい、奴隷商人に「10,000ディーナール(金貨の単位)以上の美しい女奴隷がやってきたら、売りに出す前にこちらに見せるように」と命令する。そして、女奴隷アニース・アルジャリースがペルシア人の仲買人の手によって大臣のところに連れてこられるが、仲買人は彼女の値段を聞かれて次のようにいう。
ああ、ご主人様! 彼女の値段は10,000ディーナールでございます。しかし、彼女の持ち主が誓って申しますには、彼女が食べました鶏や、彼女が飲みました酒、そして彼女の先生方からいただきました恩賜の衣といったものの値段がそれではまかないきれないとのことでございます。なぜなら、彼女は書道、言語学、アラビア語、クルアーンの解釈、文法学、医学、法学などを修め、それと同様にあらゆる諸楽器の演奏にも通じているのでございます。
この台詞は、女奴隷アニース・アルジャリースが主人のもとで衣食住を保証され、また高度な教育を受けていたことを示唆するものである。そして、仲買人はその養育費をも大臣に払えと要求している。
やはりここでも奴隷ががんじがらめに束縛されていたわけではない。ここでは高等教育を受けた知的な人物であることが分かるのである。

マムルークについて調べながら書き始めたのですが、奴隷の話になってしまいました。かなり長くなったので、今回はここまでにしましょう。そして、マムルークが王朝を建てたという「マムルーク朝」に至る話は次回に回すことにいたしょうましょう。

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アラブ人、アラブ民族とは?(続き):旧約聖書から

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「ユダヤ人とは?」を書く前に、「アラブ人、アラブ民族とは?」の続きを書いてみたいと思いました。それは旧約聖書を思い出したからなのです。

私の手元には旧約聖書が2冊あります。一つは妻が中学時代に使ったもの。もう1冊は娘が同じ中学時代に使ったものです。二人は同じキリスト系の学校だったので、聖書は必須だったそうです。私は中東のことを研究する上でイスラムだけではなくて、ユダヤ教やキリスト教、聖書などにも興味があります。そこで二人の聖書を譲ってもらい大事にしながら時々読んでいました。そこでアラブの祖のことが書いてあったことを思い出したのです。

創世記第25章7節~(アブラハムの死と埋葬)
7アブラハムの生涯は百七十五年であった。 8アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。 9息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあったが、 10その畑は、アブラハムがヘトの人々から買い取ったものである。そこに、アブラハムは妻サラと共に葬られた。

創世記第25章12節~(イシュマエルの子孫)
12サラの女奴隷であったエジプト人ハガルが、アブラハムとの間に産んだ息子イシュマエルの系図は次のとおりである。 13イシュマエルの息子たちの名前は、生まれた順に挙げれば、長男がネバヨト、次はケダル、アドベエル、ミブサム、 14ミシュマ、ドマ、マサ、 15ハダド、テマ、エトル、ナフィシュ、ケデマである。 16以上がイシュマエルの息子たちで、村落や宿営地に従って付けられた名前である。彼らはそれぞれの部族の十二人の首長であった。 17イシュマエルの生涯は百三十七年であった。彼は息を引き取り、死んで先祖の列に加えられた。 18イシュマエルの子孫は、エジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル方面に向かう道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた。

アブラハムと女奴隷であったエジプト人のハガルとの間にできた息子がイシュマエルであった。そして、その子孫たちがエジプトの近くで住むようになったと記されている。このイシュマエルがアラブ人の祖になっているのである。
一方で、アブラハムと妻のサラとの間に生まれたのがイサクである。創世記25章19節からは「アブラハムの息子イサクの系図は次のとおりである。と始まり、イサクの子供たちが生まれる過程を記しています。双子の息子でした。エサウとヤコブです。イサクの一族がユダヤ人の祖となるのです。

アラブ人の祖も、ユダヤ人の祖もアブラハムから生まれた異母兄弟であるということなのです。

私が今回言いたいことは、聖書に書かれていることを物語として読むことは非常に面白いということをお伝えしたかったのです。いかがですか?聖書に興味を湧いてきませんでしょうか?聖書を読んでいると他にも興味深いことがあります。ユダヤ人がバビロン捕囚から解放したペルシャのキュロス大王が、旧約聖書では英雄になっています。当然のことでしょう。このユダヤとペルシャが現代世界ではイスラエルとイランという形で激しく敵対しているのです。キュロス大王のユダヤ人解放は歴史上の事実です。聖書には伝説と事実が入り混じっている点も謎めいて面白い点でしょう。例えばノアの方舟は空想物語なのでしょうか或いは大洪水という歴史的な災害に基づいた事実なのでしょうか?????

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バーレーンもイスラエルと国交樹立

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アラブ首長国連邦がイスラエルと国交を正常化させたという記事を書いたのが8月15日でしたから、およそ1ヵ月後の昨日、バーレーンとイスラエルが国交を正常化させると合意しました。予想通りの展開になっていることですので、驚きはしません。

トランプ大統領はこのような合意を仲介することによって、中東和平の進展を推し進める功労者として自己アピールしているわけです。それが大統領再選へむけて大いに後押しをしてくれると信じて、精力的に運動してきたわけです。それと同時にやはりイランの孤立化、イラン包囲網を築こうとしているわけです。

バーレーンという国は人口が150万人位の小さな国です。バーレーンの影響力はそう大きくはありませんが、アラブ首長国に続いてのことですから、今後もサウジアラビアなどが続くと予想されます。すでにイスラエル機はサウジ上空を飛ぶことが暗黙の了解になっているとも報じられています。時間の問題でしょう。

問題は一連の流れが中東和平にどう影響するかということです。日本ではほとんど真剣な議論が公になっていません。パレスチナ問題の解決・和平につながるならば文句はありませんが、逆に解決から遠ざかるようなことになる可能性も大きいのです。和平への仲介をするならばパレスチナ自治政府を抜きにしてはスムーズに運ぶ筈がないことは自明です。トランプの考えていることは、中東和平ではなくて、自分の大統領選なのです。

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アラブ人、アラブ民族とは?

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今回は基本に戻ってみましょう。このブログを書き始めた時、つまり2019年の1月だから約1年半前に書いた第2番めの記事で次の図を示していました。

ブログを始めたばかりで、一回の文字数も短い状況でした。この図を示して「中東世界には大雑把にいうと、3つの民族・文化で成り立っている」ということを述べたのでした。ただそれだけでした。トルコとペルシャとアラブです。そして、それぞれについては何も説明がなされていませんでした。その後も、このブログの中ではアラブやトルコ、ペルシャなどという語句を当たり前のように使ってきました。でも、よく考えてみれば、ちょっと不親切なような気がします。今回は反省の意味を含めて「アラブとは?」を考えてみましょう。

アラブとはどういう意味でしょうか?アラブ民族というのがあるのでしょうか。アラビア半島の例えばサウジアラビアの人と、地中海沿岸のモロッコ人とはアラブ人という同じ民族なのでしょうか?いま、「アラブ人とは」とネットで検索してみると、世界史の窓というサイトでは次のように書かれています。
「アラブ人は、本来はアラビア半島を原住地とするセム系民族でアラビア人ともいう。彼らは広大な砂漠地帯で、遊牧生活を送っていたので、ベドウィンとも言われる。いくつかの部族に分かれ、交易と略奪に従事し、それぞれの部族神を礼拝する多神教を信仰していたが、7世紀に厳格な一神教であるイスラーム教を創始したムハンマドによって統一された。イスラーム教の教団国家は当初、アラブ人が主体となっており、非アラブ人のイスラーム教徒は差別される状態だったため、「アラブ帝国」と言われたが、イスラーム教の拡大に伴い、その周辺の諸民族と融合していくと次第にアラブ人と非アラブ人の差はなくなり、アッバース朝の時からは「イスラーム帝国」となった。こうしてアラブ人の概念そのものも拡張されていった。単にイスラーム教の信者と言うときには「ムスリム」を使う。また、イスラーム教徒の商人はムスリム商人といわれ、帝国の拡大に伴い広く東西で活動するようになり、東では中国にも及んだ。中国では唐代以来イスラーム教徒(広い意味のアラブ人)は「大食(タージ)」といわれた。」ちょっと意味不明のような記述がでています。アラブ人とは別名ベドウィンとも呼ばれる遊牧民だというのです。その前にセム系民族であると言っています。民族的な分類ではセム系という範疇に入るのがアラブ人であると。それは良しとしましょう。そうするとセム系民族とは何ぞや?となりますね。同じく世界史の窓で調べてみましょう。次のように書かれています。
「アフロ=アジア語族のひとつの語派とされ、西アジアに広く活動する語族の一派。セム語族(語派、語系)に入る言語には、アッカド語、バビロニア語、アッシリア語、アラム語、フェニキア語、ヘブライ語、アラビア語がある。なお、アフロ=アジア語に含まれる語派には、他に古代エジプト語派、チャド語派などがある。かつて、セム語族に対して、エジプトや北アフリカの言語をハム語族と言ったが、現在ではこの用語は用いられていない。」と。だんだん分からなくなってきます。つまりセム語系という言語学上の分類があって、その言葉を話す民族をセム系民族というらしいのです。そのセム語系にはアラビア語のほかに色々な言語が挙げられています。アラビア語のあればヘブライ語もあるのです。アラビア語を話すアラブ人もヘブライ語を話すユダヤ人もセム系という同じ民族なのです。

回りくどいことは止めましょう。アラブ人という人種的な区分はなくて言語的な区分でいうセム系民族の一つであるわけです。そして、アラブ人というのはアラビア語を母語とする人々のことなのです。

だから、先ほどのモロッコ人とサウジアラビア人とは同じアラブ人なのかという疑問は、アラビア語を話す人々同士だからどちらもアラブ人で良いわけです。人種的には異なるかもしれませんが、アラブ人ということです。

今日のタイトル「アラブ人とは?」の答えは「アラビア語を母語とする人々」ということです。そうするとトルコ人の定義とか、ペルシャ人の定義も気になりますね。それは次の機会に譲るとして、先ほどのヘブライ語を話すユダヤ人のことが気になります。アラブ人と同じセム系民族であり、ヘブライ語を母語とする人々なのでしょうか。そう簡単ではないようです。外見を見ただけでユダヤ人と分かる場合もあるようなので、ユダヤ人という人種があるのでしょうか。・・・ながくなりそうなので、それは次回にしましょう。

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ウズベキスタンの書架台

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今日はウズベキスタン製の書架台の紹介です。ウズベキスタンの木工品でして、向こうに行くとお店に沢山並んでいるようです。残念ながら私はウズベキスタンに興味があり、是非とも行きたい国なのですがまだ行ったことがありません。かつて、ウズベキスタン観光から帰った知人に見せてもらったことがあり、以前から欲しいと思っていた品物です。今回、皆さんご存知のメルカリに出ていたので入手することができました。

冒頭の写真はその書架台にコーランを置いたところの写真です。英語では「Folding Quran holder」とか「Folding Quran stand」と訳されているように、イスラムのコーランを置く台なのです。Folding という 部分は折り畳み式ということです。もちろん、どんな本や楽譜などをおいてもいいでしょうね。

これの特徴は一枚の板でできているようなのです。信じられないのですが、厚い板をうまく切り込みをいれてはがすようにしてバラバラにならないように切っていって作るのでしょうか。確かに複数の板を組み込んでくっつけた形跡はありません。まず、畳んでいる状態が次です。

これを少し広げていくと、すこし高くなってきます。次のようになります。

さらに伸ばしていくと、次のようになります。

同じ状態のものを前からみると、高さも良く分かります。このような状態ならコーランを載せられます。

次の写真を見てください。これも同じような形になっていますが、上部両サイドの先端を見てください。先ほどの上の写真ではその部分が山のようにカーブしています。しかし、これは角ばった形になっています。組み立て方が幾通りもできるのです。最初はこの形にすることすら難しいかったです。形ができてもストッパー的な部分があわなくてペシャンコになったりします。試行錯誤しながら覚えればいいでしょう。でも書架台としてなら、今できている形で十分でしょう。

コーランを置くと様になりますね!

昨日、この写真をインスタグラムに投稿しました。するとイラン人の方から、ペルシャ語ではこれを「رحل」rahl ということを教えてくれました。早速辞書を見ると確かに載っていました。「コーランの書架」「書見台」と。こうして今日も又新しい単語を覚えることができました。

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アラビア太郎と石油利権

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先月の4月には「中東の石油」という記事を11回続けました。そこでは中東の石油が英仏蘭米の石油会社に支配されていた歴史を紹介しました。そして、産油国がその支配から資源を取り返すことができたのはまだ最近のことであることを理解していただけたと思います。イランの石油国有化の時には出光石油会社が石油市場からボイコットされたイランの石油を日章丸Ⅱ号で買い付けに行きました。資源を持たない日本企業の行動でした。同様に石油資源の獲得に奔走した人物がいました。それが通称アラビア太郎=山下太郎です。

そして、1957年12月、サウジアラビアとクウェートの沖合にあった中立地帯の石油開発に関して半分の権益を有していたサウジアラビア政府と利権協定を締結したのでした。そして、翌1958年7月には残りの半分の権益を有するクウェート政府とも利権協定を締結したのでした。この山下太郎はとういう人物だったのでしょうか。

山下太郎は明治22年(1889年)、秋田県生れ。祖父母の養子となり山下姓を名乗る。小学5年から東京の慶應義塾普通部に通い、その後、札幌農学校(現在の北海道大学)に入学した。
1909年3月、札幌農学校を卒業。従兄の山下九助とともにオブラートを発明し、1914年に特許を取得した。山下オブラート㈱を設立。会社は隆盛するが、山下太郎は海外貿易の資金を得るために会社を売却する。

1916年結婚。ロシアのウラジオストックで鮭缶を買い占めてて設けたり、第一次大戦中にはアメリカから硫安を輸入・販売し、巨利をえた。国内のコメ相場の高騰に際しては、アメリカの米を輸入するが米騒動などにより失敗。満鉄との取引でも損害を被っったり、成功したりを繰り返す。第二次大戦の敗戦により、満州の資産を失うも、戦後は石油資源の獲得に奔走したのだった。

昭和31年(1956年)、日本石油輸出株式会社を創立し先述のサウジアラビアとクウェートとの利権交渉を始め、協定に調印することができた。その結果、日本政府や財界の支援を得てアラビア石油会社が設立され、日本石油輸出㈱の権利を継承した。
1960年:カフジ油田で採掘に成功
1963年:フート油田で採掘に成功

石油資源のない日本にとってアラビア石油の石油は貴重なものであった。山下太郎は英雄であった。このような日本の資本によって開発された石油は「日の丸石油」とも呼ばれたのでした。

アラビア石油も産油国からみれば外国資本に利権を与えた石油です。欧米の石油会社に与えた利権と同じです。1974年にはサウジアラビアとクウェート政府による60%の事業参加協定が発効したのです。こうしてアラビア石油の利益は減少していくことになりました。そして、

2000年:サウジアラビア政府との利権協定が終了しました。
2003年:クウェート政府との利権協定が終了しました。
アラビア石油は撤退はせずに、同油田でのサービス契約で油田操業に係ることになったのです。サウジアラビアの利権延長交渉では、サウジ側が日本に対して産業用の鉄道建設支援などの要求があったのですが、日本政府はそれを受け入れることができなかったのでした。こうして日の丸石油も先細っていったのでした。

 

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放送大学のこと

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昨日放送大学の講座「中東の政治」について紹介しました。そして、今朝のことですが、6時にそろそろ起きようかなと思って、ベッドからテレビを点けました。チャンネルを回していると、BS231チャンネルで「中東の政治」の高橋和夫先生の講義が始まったところでした。今日の科目は「世界の中の日本」でした。タイトルから判断すると、この科目は中東に焦点を当てたものではないと思ったのですが、今回のテーマは「オスロ合意」でした。オスロ合意というのは、1993年、ノルウェー外相の仲介でイスラエルとPLOが初めて和平交渉に合意した出来事でした。パレスチナ暫定自治協定が成立したわけです。ここで和平へのロードマップが作られて、和平が実現するであろうと淡い期待が生まれたのでした。

当事者であったパレスチナのアラファト議長、イスラエルのラビン首相、ペレス外相には1994年にノーベル平和賞が送られたのでした。でも、あれから30年近くが経過した今も和平はほど遠いのが現状です。

今日の講義はオスロ合意がパレスチナとイスラエルに中立的な立場であるノルウェーという国が公平な仲介をした結果ではないということを、ノルウェーの歴史学者のインタビューをいれて説明していました。イスラエル寄りのノルウェーが、イスラエルという強者の意向を反映するように仲介した結果であると。アラファトも、それをよく理解していて、その時のパレスチナという弱い立場では、これに合意するしかなかったという見方でした。

それ以前のPLOはフセインのイラクのバックアップがあった。イスラエルに敵対するパレスチナにはアラブ諸国の支持があった。ソ連のゴルバチョフ政権も味方した。しかし、イラクのクウェート侵攻、そして湾岸戦争により、湾岸のアラブ諸国はイラクとは対立する立場になった。アラファトはそのイラクと袂を分かつことなく、イラクの侵攻に若干の理解を示したことから、アラブ諸国もPLOへの支援を止めてしまう。湾岸戦争で石油収入の途絶えたイラクはもはやPLOを支援する余裕は無くなってしまった。ソ連はゴルバチョフがペレストロイカを推し進め、冷戦も終結に向かった。ベルリンの壁が崩壊した。アラファトに肩入れしていたソ連自体が崩壊してのであった。これが上述の赤太線で示した「弱い立場」である。

オスロ合意の背景を分かりやすく講義していました。この科目は中東に焦点をあてたものではありませんが、幅広い視野で世界を見つめることができると思いました。次回も視聴してみます。皆様にもお勧めいたします。

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イスラム世界の偉人①:イブン・シーナ

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「イスラムを知る」のシリーズの一部として「イスラム世界の偉人」を何人か取り上げてみようと思う。最初はイブン・シーナである。このブログでしばしば引用させていただいている平凡社発行『新イスラム事典』から、イブン・シーナについて主要な部分を引用させていただく。

イブン・シーナ(980~1037):ラテン名はアヴィケンナ。イスラム哲学者、医学者。ブハラ近郊に生まれ、ハマダーンで没した。幼少のころから天才を発揮し、18歳の時には形而上学以外の全学問分野に精通し、医師としても名声が高まった。やがてアリストレレスの形而上学研究に手を染め、ついに独自の存在の形而上学を完成した。・・・・中略・・・・著作は多岐にわたるが、とりわけ哲学者として存在論の発展に寄与した。彼は外界も自己の肉体もなんら知覚しえない状態で空中に漂う「空中人間」の比喩により、自我の存在がアプリオリに把握されるとする。他方、存在を・・・・中略・・・・こうして、現存するものはすべて必然的であるという結論が導入されたのである。・・・中略・・・また、形而上学、医学の著書は、中世、西欧にラテン語訳され、トマス・アクイナスの存在論・超越論に大きな影響を与えた。その医学書『医学典範』は17世紀ころまで西欧の医科大学の教科書に使用されていた。哲学上の主著は『治癒の書』。

事典の説明の半分以上を割愛したが、彼が学問全般に幅広く、しかも深く究めていた学者であることがわかる。私自身は高校の世界史の教科書のイスラム文化のところでイブン・シーナの名前と『医学典範』を試験のために覚えたことを忘れない。イブン・シーナというイスラム世界での名前が、西側世界に伝わる過程でアヴィケンナ、あるいはアヴィセンナとなったということも世界史の先生は話してくれた。


画像はアマゾンで出品されているものです。14,994円である。1千年前の貴重な著書が日本語に訳されているのである。カスタマーレヴューを読むとちょっと残念なことが書かれているが、それはイブン・シーナの業績を汚すものではない。

ところで、イブン・シーナはどこの国の人なのでしょうか。ブハラに生まれたとある。数回前のハーフェズの詩を紹介したときに、「シーラーズの乙女に与えようサマルカンドをブハーラを」と出てきたあのブハーラのことである。サーマン朝の都ブハラでサーマン朝高官の息子としてうまれたそうである。サーマン朝(873年 – 999年)はイラン系のイスラム王朝である。サーマン朝が滅びたとき彼は19歳。21歳で父を亡くすと、カスピ海の東岸一体のホラムズ地方に移り、その地の統治者マームーン2世に仕えて『医学典範』の執筆を開始したという。その後、テヘラン、レイ、ブアイフ朝支配下のハマダンへと居を移し、『医学典範』を完成させたのは1020年ハマダンにいた時である。その後、イスファハンに移動する。

病で母を失った青年がロンドンからイスファハンに向かい、医師イブン・シーナの弟子になって医学を学ぶ物語の映画がある。上の画像はその時の広告のポスターである。このことはこのブログの「アッバース朝(つづき)」で書いたとおりである。

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トランプ大統領がとんでもない「中東和平案」を発表

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28日、イスラエルのネタニヤフ首相とトランプ米大統領がホワイトハウスで共同会見し、イスラエルとパレスチナの中東和平案を発表した。両首脳が発表した和平案はと当然のことながら、イスラエル寄りの内容であることは、内容を見るまでもなく想像の付くところである。我が中日新聞が和平案を分かりやすくまとめてくれているので、それを利用して紹介させていただこう。

ポイント 今回の内容 これまでの米政権方針
2国家共存 「現実的な2国家共存案」としてイスラエル占領政策追認 イスラエルと共存可能なパレスチナ独立主権国家の実現
ユダヤ人入植地 既存入植地はイスラエル主権

和平交渉の4年間は新規入植凍結

2001年3月以降の入植地は解体、入植活動は凍結

2000年以降の占領地からイスラエル軍の順次撤退

エルサレムの帰属 エルサレムは不可分のイスラエルの首都

パレスチナ国家の首都は東エルサレム

まずパレスチナ国家を樹立、エルサレム帰属は当事者間で協議
パレスチナ難民(500万人以上)の帰還 イスラエルへの帰還権認めず

帰還の選択肢は ①パレスチナ国家 ②現在の居住国 ③第三国移住

帰還権は認めるが、期間は将来のパレスチナ独立国家へ

要旨は以上の通りである。エルサレムをイスラエルの首都とするなど、これまで国際的に未解決であったものを独断で自由自在にかき回しているとしか言えない。イスラエルの入植地についても国際法違反とされて、撤退すべきものが、合法的なことになるという理不尽そのものである。中日新聞社説は「中東和平に値しない」と一刀両断である。

もしかすると、中東に関心が薄い人々はトランプの発表した案を「和平のためにいいんじゃない?」こ「これをたたき台にして話し合えばいいんじゃない?」とか思うかもしれない。しかし、この内容は、これまでのプロセスを無視した、理不尽な内容であることを理解してもらいたい。そのために中日新聞は上の表に「これまでの米政権方針」を入れているのである。エルサレムに米国大使館を移した件でも、アメリカ議会はずーと以前にそのことを決議していたが、歴代の大統領がそれを実行することに署名してこなかったのである。それは世界一の大国であるアメリカの大統領としての良識であった。

パレスチナのアッバス議長が猛反発したのは当然である。ただ、嘆かわしいのはアラブの一部の国である。イスラエル建国じのあのアラブの憎悪や反感はどこへ行ったのであろうか。すでに親米的なアラブ諸国はイスラエルと対峙しようとする姿勢は失せている。お互いが争わなくなることは良いことではある。しかしながら、筋を通すべきところは、筋を通してもらいたい。

それでは、アメリカ、イスラエルに対立しているイランの反応はどうだろうか。今朝のIran daily紙の一面が冒頭の画像である。記事は以下の通り。

Iranian Foreign Minister Mohammad Javad Zarif has lashed out at the US’s so-called peace plan for the Israeli-Palestinian conflict, saying the initiative is a “nightmare” both for the region and the world.
Zarif said in a tweet on Tuesday that the US President Donald Trump’s “so-called ‘Vision for Peace’ is simply the dream project of a bankruptcy-ridden real estate developer.”

The Iranian foreign minister added that the plan was a “nightmare for the region and the world and, hopefully, a wake-up call for all the Muslims who have been barking up the wrong tree”, Presstv Reported.

イランのモハマド・ジャバド・ザリフ外相は、イスラエルとパレスチナの紛争に対する米国のいわゆる平和計画を非難し、イニシアチブは地域と世界の両方にとって「悪夢」であると述べた。
ザリフは火曜日のツイートで、米国大統領ドナルド・トランプの「いわゆる「平和のためのビジョン」は、単に破産した不動産開発者の夢のプロジェクトである」と述べた。

イランの外務大臣は、この計画は「地域と世界にとって悪夢であり、できれば間違った木を植えているすべてのイスラム教徒の目覚めの呼びかけ」であると付け加えた。(自動翻訳)

キーワード:中東和平、トランプ大統領、ネタニヤフ首相、エルサレム、イスラエル、パレスチナ、

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