バーレーンもイスラエルと国交樹立

アラブ首長国連邦がイスラエルと国交を正常化させたという記事を書いたのが8月15日でしたから、およそ1ヵ月後の昨日、バーレーンとイスラエルが国交を正常化させると合意しました。予想通りの展開になっていることですので、驚きはしません。

トランプ大統領はこのような合意を仲介することによって、中東和平の進展を推し進める功労者として自己アピールしているわけです。それが大統領再選へむけて大いに後押しをしてくれると信じて、精力的に運動してきたわけです。それと同時にやはりイランの孤立化、イラン包囲網を築こうとしているわけです。

バーレーンという国は人口が150万人位の小さな国です。バーレーンの影響力はそう大きくはありませんが、アラブ首長国に続いてのことですから、今後もサウジアラビアなどが続くと予想されます。すでにイスラエル機はサウジ上空を飛ぶことが暗黙の了解になっているとも報じられています。時間の問題でしょう。

問題は一連の流れが中東和平にどう影響するかということです。日本ではほとんど真剣な議論が公になっていません。パレスチナ問題の解決・和平につながるならば文句はありませんが、逆に解決から遠ざかるようなことになる可能性も大きいのです。和平への仲介をするならばパレスチナ自治政府を抜きにしてはスムーズに運ぶ筈がないことは自明です。トランプの考えていることは、中東和平ではなくて、自分の大統領選なのです。

アラブ人、アラブ民族とは?

今回は基本に戻ってみましょう。このブログを書き始めた時、つまり2019年の1月だから約1年半前に書いた第2番めの記事で次の図を示していました。

ブログを始めたばかりで、一回の文字数も短い状況でした。この図を示して「中東世界には大雑把にいうと、3つの民族・文化で成り立っている」ということを述べたのでした。ただそれだけでした。トルコとペルシャとアラブです。そして、それぞれについては何も説明がなされていませんでした。その後も、このブログの中ではアラブやトルコ、ペルシャなどという語句を当たり前のように使ってきました。でも、よく考えてみれば、ちょっと不親切なような気がします。今回は反省の意味を含めて「アラブとは?」を考えてみましょう。

アラブとはどういう意味でしょうか?アラブ民族というのがあるのでしょうか。アラビア半島の例えばサウジアラビアの人と、地中海沿岸のモロッコ人とはアラブ人という同じ民族なのでしょうか?いま、「アラブ人とは」とネットで検索してみると、世界史の窓というサイトでは次のように書かれています。
「アラブ人は、本来はアラビア半島を原住地とするセム系民族でアラビア人ともいう。彼らは広大な砂漠地帯で、遊牧生活を送っていたので、ベドウィンとも言われる。いくつかの部族に分かれ、交易と略奪に従事し、それぞれの部族神を礼拝する多神教を信仰していたが、7世紀に厳格な一神教であるイスラーム教を創始したムハンマドによって統一された。イスラーム教の教団国家は当初、アラブ人が主体となっており、非アラブ人のイスラーム教徒は差別される状態だったため、「アラブ帝国」と言われたが、イスラーム教の拡大に伴い、その周辺の諸民族と融合していくと次第にアラブ人と非アラブ人の差はなくなり、アッバース朝の時からは「イスラーム帝国」となった。こうしてアラブ人の概念そのものも拡張されていった。単にイスラーム教の信者と言うときには「ムスリム」を使う。また、イスラーム教徒の商人はムスリム商人といわれ、帝国の拡大に伴い広く東西で活動するようになり、東では中国にも及んだ。中国では唐代以来イスラーム教徒(広い意味のアラブ人)は「大食(タージ)」といわれた。」ちょっと意味不明のような記述がでています。アラブ人とは別名ベドウィンとも呼ばれる遊牧民だというのです。その前にセム系民族であると言っています。民族的な分類ではセム系という範疇に入るのがアラブ人であると。それは良しとしましょう。そうするとセム系民族とは何ぞや?となりますね。同じく世界史の窓で調べてみましょう。次のように書かれています。
「アフロ=アジア語族のひとつの語派とされ、西アジアに広く活動する語族の一派。セム語族(語派、語系)に入る言語には、アッカド語、バビロニア語、アッシリア語、アラム語、フェニキア語、ヘブライ語、アラビア語がある。なお、アフロ=アジア語に含まれる語派には、他に古代エジプト語派、チャド語派などがある。かつて、セム語族に対して、エジプトや北アフリカの言語をハム語族と言ったが、現在ではこの用語は用いられていない。」と。だんだん分からなくなってきます。つまりセム語系という言語学上の分類があって、その言葉を話す民族をセム系民族というらしいのです。そのセム語系にはアラビア語のほかに色々な言語が挙げられています。アラビア語のあればヘブライ語もあるのです。アラビア語を話すアラブ人もヘブライ語を話すユダヤ人もセム系という同じ民族なのです。

回りくどいことは止めましょう。アラブ人という人種的な区分はなくて言語的な区分でいうセム系民族の一つであるわけです。そして、アラブ人というのはアラビア語を母語とする人々のことなのです。

だから、先ほどのモロッコ人とサウジアラビア人とは同じアラブ人なのかという疑問は、アラビア語を話す人々同士だからどちらもアラブ人で良いわけです。人種的には異なるかもしれませんが、アラブ人ということです。

今日のタイトル「アラブ人とは?」の答えは「アラビア語を母語とする人々」ということです。そうするとトルコ人の定義とか、ペルシャ人の定義も気になりますね。それは次の機会に譲るとして、先ほどのヘブライ語を話すユダヤ人のことが気になります。アラブ人と同じセム系民族であり、ヘブライ語を母語とする人々なのでしょうか。そう簡単ではないようです。外見を見ただけでユダヤ人と分かる場合もあるようなので、ユダヤ人という人種があるのでしょうか。・・・ながくなりそうなので、それは次回にしましょう。

ウズベキスタンの書架台

今日はウズベキスタン製の書架台の紹介です。ウズベキスタンの木工品でして、向こうに行くとお店に沢山並んでいるようです。残念ながら私はウズベキスタンに興味があり、是非とも行きたい国なのですがまだ行ったことがありません。かつて、ウズベキスタン観光から帰った知人に見せてもらったことがあり、以前から欲しいと思っていた品物です。今回、皆さんご存知のメルカリに出ていたので入手することができました。

冒頭の写真はその書架台にコーランを置いたところの写真です。英語では「Folding Quran holder」とか「Folding Quran stand」と訳されているように、イスラムのコーランを置く台なのです。Folding という 部分は折り畳み式ということです。もちろん、どんな本や楽譜などをおいてもいいでしょうね。

これの特徴は一枚の板でできているようなのです。信じられないのですが、厚い板をうまく切り込みをいれてはがすようにしてバラバラにならないように切っていって作るのでしょうか。確かに複数の板を組み込んでくっつけた形跡はありません。まず、畳んでいる状態が次です。

これを少し広げていくと、すこし高くなってきます。次のようになります。

さらに伸ばしていくと、次のようになります。

同じ状態のものを前からみると、高さも良く分かります。このような状態ならコーランを載せられます。

次の写真を見てください。これも同じような形になっていますが、上部両サイドの先端を見てください。先ほどの上の写真ではその部分が山のようにカーブしています。しかし、これは角ばった形になっています。組み立て方が幾通りもできるのです。最初はこの形にすることすら難しいかったです。形ができてもストッパー的な部分があわなくてペシャンコになったりします。試行錯誤しながら覚えればいいでしょう。でも書架台としてなら、今できている形で十分でしょう。

コーランを置くと様になりますね!

昨日、この写真をインスタグラムに投稿しました。するとイラン人の方から、ペルシャ語ではこれを「رحل」rahl ということを教えてくれました。早速辞書を見ると確かに載っていました。「コーランの書架」「書見台」と。こうして今日も又新しい単語を覚えることができました。

アラビア太郎と石油利権

先月の4月には「中東の石油」という記事を11回続けました。そこでは中東の石油が英仏蘭米の石油会社に支配されていた歴史を紹介しました。そして、産油国がその支配から資源を取り返すことができたのはまだ最近のことであることを理解していただけたと思います。イランの石油国有化の時には出光石油会社が石油市場からボイコットされたイランの石油を日章丸Ⅱ号で買い付けに行きました。資源を持たない日本企業の行動でした。同様に石油資源の獲得に奔走した人物がいました。それが通称アラビア太郎=山下太郎です。

そして、1957年12月、サウジアラビアとクウェートの沖合にあった中立地帯の石油開発に関して半分の権益を有していたサウジアラビア政府と利権協定を締結したのでした。そして、翌1958年7月には残りの半分の権益を有するクウェート政府とも利権協定を締結したのでした。この山下太郎はとういう人物だったのでしょうか。

山下太郎は明治22年(1889年)、秋田県生れ。祖父母の養子となり山下姓を名乗る。小学5年から東京の慶應義塾普通部に通い、その後、札幌農学校(現在の北海道大学)に入学した。
1909年3月、札幌農学校を卒業。従兄の山下九助とともにオブラートを発明し、1914年に特許を取得した。山下オブラート㈱を設立。会社は隆盛するが、山下太郎は海外貿易の資金を得るために会社を売却する。

1916年結婚。ロシアのウラジオストックで鮭缶を買い占めてて設けたり、第一次大戦中にはアメリカから硫安を輸入・販売し、巨利をえた。国内のコメ相場の高騰に際しては、アメリカの米を輸入するが米騒動などにより失敗。満鉄との取引でも損害を被っったり、成功したりを繰り返す。第二次大戦の敗戦により、満州の資産を失うも、戦後は石油資源の獲得に奔走したのだった。

昭和31年(1956年)、日本石油輸出株式会社を創立し先述のサウジアラビアとクウェートとの利権交渉を始め、協定に調印することができた。その結果、日本政府や財界の支援を得てアラビア石油会社が設立され、日本石油輸出㈱の権利を継承した。
1960年:カフジ油田で採掘に成功
1963年:フート油田で採掘に成功

石油資源のない日本にとってアラビア石油の石油は貴重なものであった。山下太郎は英雄であった。このような日本の資本によって開発された石油は「日の丸石油」とも呼ばれたのでした。

アラビア石油も産油国からみれば外国資本に利権を与えた石油です。欧米の石油会社に与えた利権と同じです。1974年にはサウジアラビアとクウェート政府による60%の事業参加協定が発効したのです。こうしてアラビア石油の利益は減少していくことになりました。そして、

2000年:サウジアラビア政府との利権協定が終了しました。
2003年:クウェート政府との利権協定が終了しました。
アラビア石油は撤退はせずに、同油田でのサービス契約で油田操業に係ることになったのです。サウジアラビアの利権延長交渉では、サウジ側が日本に対して産業用の鉄道建設支援などの要求があったのですが、日本政府はそれを受け入れることができなかったのでした。こうして日の丸石油も先細っていったのでした。

 

放送大学のこと

昨日放送大学の講座「中東の政治」について紹介しました。そして、今朝のことですが、6時にそろそろ起きようかなと思って、ベッドからテレビを点けました。チャンネルを回していると、BS231チャンネルで「中東の政治」の高橋和夫先生の講義が始まったところでした。今日の科目は「世界の中の日本」でした。タイトルから判断すると、この科目は中東に焦点を当てたものではないと思ったのですが、今回のテーマは「オスロ合意」でした。オスロ合意というのは、1993年、ノルウェー外相の仲介でイスラエルとPLOが初めて和平交渉に合意した出来事でした。パレスチナ暫定自治協定が成立したわけです。ここで和平へのロードマップが作られて、和平が実現するであろうと淡い期待が生まれたのでした。

当事者であったパレスチナのアラファト議長、イスラエルのラビン首相、ペレス外相には1994年にノーベル平和賞が送られたのでした。でも、あれから30年近くが経過した今も和平はほど遠いのが現状です。

今日の講義はオスロ合意がパレスチナとイスラエルに中立的な立場であるノルウェーという国が公平な仲介をした結果ではないということを、ノルウェーの歴史学者のインタビューをいれて説明していました。イスラエル寄りのノルウェーが、イスラエルという強者の意向を反映するように仲介した結果であると。アラファトも、それをよく理解していて、その時のパレスチナという弱い立場では、これに合意するしかなかったという見方でした。

それ以前のPLOはフセインのイラクのバックアップがあった。イスラエルに敵対するパレスチナにはアラブ諸国の支持があった。ソ連のゴルバチョフ政権も味方した。しかし、イラクのクウェート侵攻、そして湾岸戦争により、湾岸のアラブ諸国はイラクとは対立する立場になった。アラファトはそのイラクと袂を分かつことなく、イラクの侵攻に若干の理解を示したことから、アラブ諸国もPLOへの支援を止めてしまう。湾岸戦争で石油収入の途絶えたイラクはもはやPLOを支援する余裕は無くなってしまった。ソ連はゴルバチョフがペレストロイカを推し進め、冷戦も終結に向かった。ベルリンの壁が崩壊した。アラファトに肩入れしていたソ連自体が崩壊してのであった。これが上述の赤太線で示した「弱い立場」である。

オスロ合意の背景を分かりやすく講義していました。この科目は中東に焦点をあてたものではありませんが、幅広い視野で世界を見つめることができると思いました。次回も視聴してみます。皆様にもお勧めいたします。

イスラム世界の偉人①:イブン・シーナ

「イスラムを知る」のシリーズの一部として「イスラム世界の偉人」を何人か取り上げてみようと思う。最初はイブン・シーナである。このブログでしばしば引用させていただいている平凡社発行『新イスラム事典』から、イブン・シーナについて主要な部分を引用させていただく。

イブン・シーナ(980~1037):ラテン名はアヴィケンナ。イスラム哲学者、医学者。ブハラ近郊に生まれ、ハマダーンで没した。幼少のころから天才を発揮し、18歳の時には形而上学以外の全学問分野に精通し、医師としても名声が高まった。やがてアリストレレスの形而上学研究に手を染め、ついに独自の存在の形而上学を完成した。・・・・中略・・・・著作は多岐にわたるが、とりわけ哲学者として存在論の発展に寄与した。彼は外界も自己の肉体もなんら知覚しえない状態で空中に漂う「空中人間」の比喩により、自我の存在がアプリオリに把握されるとする。他方、存在を・・・・中略・・・・こうして、現存するものはすべて必然的であるという結論が導入されたのである。・・・中略・・・また、形而上学、医学の著書は、中世、西欧にラテン語訳され、トマス・アクイナスの存在論・超越論に大きな影響を与えた。その医学書『医学典範』は17世紀ころまで西欧の医科大学の教科書に使用されていた。哲学上の主著は『治癒の書』。

事典の説明の半分以上を割愛したが、彼が学問全般に幅広く、しかも深く究めていた学者であることがわかる。私自身は高校の世界史の教科書のイスラム文化のところでイブン・シーナの名前と『医学典範』を試験のために覚えたことを忘れない。イブン・シーナというイスラム世界での名前が、西側世界に伝わる過程でアヴィケンナ、あるいはアヴィセンナとなったということも世界史の先生は話してくれた。


画像はアマゾンで出品されているものです。14,994円である。1千年前の貴重な著書が日本語に訳されているのである。カスタマーレヴューを読むとちょっと残念なことが書かれているが、それはイブン・シーナの業績を汚すものではない。

ところで、イブン・シーナはどこの国の人なのでしょうか。ブハラに生まれたとある。数回前のハーフェズの詩を紹介したときに、「シーラーズの乙女に与えようサマルカンドをブハーラを」と出てきたあのブハーラのことである。サーマン朝の都ブハラでサーマン朝高官の息子としてうまれたそうである。サーマン朝(873年 – 999年)はイラン系のイスラム王朝である。サーマン朝が滅びたとき彼は19歳。21歳で父を亡くすと、カスピ海の東岸一体のホラムズ地方に移り、その地の統治者マームーン2世に仕えて『医学典範』の執筆を開始したという。その後、テヘラン、レイ、ブアイフ朝支配下のハマダンへと居を移し、『医学典範』を完成させたのは1020年ハマダンにいた時である。その後、イスファハンに移動する。

病で母を失った青年がロンドンからイスファハンに向かい、医師イブン・シーナの弟子になって医学を学ぶ物語の映画がある。上の画像はその時の広告のポスターである。このことはこのブログの「アッバース朝(つづき)」で書いたとおりである。

トランプ大統領がとんでもない「中東和平案」を発表

28日、イスラエルのネタニヤフ首相とトランプ米大統領がホワイトハウスで共同会見し、イスラエルとパレスチナの中東和平案を発表した。両首脳が発表した和平案はと当然のことながら、イスラエル寄りの内容であることは、内容を見るまでもなく想像の付くところである。我が中日新聞が和平案を分かりやすくまとめてくれているので、それを利用して紹介させていただこう。

ポイント 今回の内容 これまでの米政権方針
2国家共存 「現実的な2国家共存案」としてイスラエル占領政策追認 イスラエルと共存可能なパレスチナ独立主権国家の実現
ユダヤ人入植地 既存入植地はイスラエル主権

和平交渉の4年間は新規入植凍結

2001年3月以降の入植地は解体、入植活動は凍結

2000年以降の占領地からイスラエル軍の順次撤退

エルサレムの帰属 エルサレムは不可分のイスラエルの首都

パレスチナ国家の首都は東エルサレム

まずパレスチナ国家を樹立、エルサレム帰属は当事者間で協議
パレスチナ難民(500万人以上)の帰還 イスラエルへの帰還権認めず

帰還の選択肢は ①パレスチナ国家 ②現在の居住国 ③第三国移住

帰還権は認めるが、期間は将来のパレスチナ独立国家へ

要旨は以上の通りである。エルサレムをイスラエルの首都とするなど、これまで国際的に未解決であったものを独断で自由自在にかき回しているとしか言えない。イスラエルの入植地についても国際法違反とされて、撤退すべきものが、合法的なことになるという理不尽そのものである。中日新聞社説は「中東和平に値しない」と一刀両断である。

もしかすると、中東に関心が薄い人々はトランプの発表した案を「和平のためにいいんじゃない?」こ「これをたたき台にして話し合えばいいんじゃない?」とか思うかもしれない。しかし、この内容は、これまでのプロセスを無視した、理不尽な内容であることを理解してもらいたい。そのために中日新聞は上の表に「これまでの米政権方針」を入れているのである。エルサレムに米国大使館を移した件でも、アメリカ議会はずーと以前にそのことを決議していたが、歴代の大統領がそれを実行することに署名してこなかったのである。それは世界一の大国であるアメリカの大統領としての良識であった。

パレスチナのアッバス議長が猛反発したのは当然である。ただ、嘆かわしいのはアラブの一部の国である。イスラエル建国じのあのアラブの憎悪や反感はどこへ行ったのであろうか。すでに親米的なアラブ諸国はイスラエルと対峙しようとする姿勢は失せている。お互いが争わなくなることは良いことではある。しかしながら、筋を通すべきところは、筋を通してもらいたい。

それでは、アメリカ、イスラエルに対立しているイランの反応はどうだろうか。今朝のIran daily紙の一面が冒頭の画像である。記事は以下の通り。

Iranian Foreign Minister Mohammad Javad Zarif has lashed out at the US’s so-called peace plan for the Israeli-Palestinian conflict, saying the initiative is a “nightmare” both for the region and the world.
Zarif said in a tweet on Tuesday that the US President Donald Trump’s “so-called ‘Vision for Peace’ is simply the dream project of a bankruptcy-ridden real estate developer.”

The Iranian foreign minister added that the plan was a “nightmare for the region and the world and, hopefully, a wake-up call for all the Muslims who have been barking up the wrong tree”, Presstv Reported.

イランのモハマド・ジャバド・ザリフ外相は、イスラエルとパレスチナの紛争に対する米国のいわゆる平和計画を非難し、イニシアチブは地域と世界の両方にとって「悪夢」であると述べた。
ザリフは火曜日のツイートで、米国大統領ドナルド・トランプの「いわゆる「平和のためのビジョン」は、単に破産した不動産開発者の夢のプロジェクトである」と述べた。

イランの外務大臣は、この計画は「地域と世界にとって悪夢であり、できれば間違った木を植えているすべてのイスラム教徒の目覚めの呼びかけ」であると付け加えた。(自動翻訳)

キーワード:中東和平、トランプ大統領、ネタニヤフ首相、エルサレム、イスラエル、パレスチナ、

イラクの歴史(2)砂漠の女王ガートルード・ベル

前回の「イラクの歴史」の最後にイラク建国を語るに欠かせない女性がいると書いた。それは今回のタイトルとしたガートルード・ベルであり、「砂漠の女王」と呼ばれた女性である。ウィキペディアを見ると、冒頭に以下のように記述されている。

ガートルード・マーガレット・ロージアン・ベル(英: Gertrude Margaret Lowthian Bell, CBE、1868年7月14日 – 1926年7月12日)は、イラク王国建国の立役者的役割を果たし、「砂漠の女王」(Queen of the Desert) の異名をとったイギリスの考古学者・登山家・紀行作家・情報員。

今回はこの女性がテーマである。といっても、正直言うと、私自身が彼女のことを詳しく知っているわけではない。そこで手元にある阿部重夫著『イラク建国「不可能な国家」の原点』中公新書2004年を参考にさせていただき、そこからの引用もさせていただくことにする(青の太字)。

オックスフォード大学で学んだ才媛である。1982年の春にテヘラン駐在公使に赴任していた伯父を頼って初めて東方へ旅をした。その時のエッセー風の紀行文が『サファル・ナーメ』(邦題は『ペルシアの情景』)である。恋をしたが、不慮の事故で相手が死んだ。その面影を追ってペルシャの詩人ハーフェズ(1326~90)の詩を翻訳し、砂漠にのめり込んでいった。(前掲書18~19頁)・・・この部分を読んで私は彼女がアラビア語だけではなく、ペルシャ語にも堪能であったことを初めて知った。ハーフェズと言えば、ペルシャを代表する詩人であり、彼の詩集はイラン人のどの家庭にもあるというほどの国民的詩人である。もっと知識をさらけ出すなら(笑)、ハーフェズ占いというものもある。つまり彼の詩の章句が占いに利用されているのである。彼のお墓(ハーフェズ廟)がシーラーズに在る。ちょっとした公園になっており、そこではハーフェズ占いの売り子がいる。小銭を払うと、小鳥が小箱の中から一枚を取り出してくれる。おみくじを鳥が引き出してくれるようなものである。それが占いのすべてではない。私が持っているハーフェズ詩集のDVDには、占いにつかう部分も入っている。・・・話を戻そう。

第一次大戦とオスマン帝国の解体が、流ちょうなアラビア語を操るこの稀代の頭脳を放っておかなかった。中東戦線の司令塔カイロに設けられた諜報部門に「アラビアのロレンス」とともに招集され、「アラブの反乱」のために情報収集工作に専念する。・・・ロレンスに関する記事は既に9月に書いているので、アラブの反乱の部分は飛ばしていこう。・・・バグダードが陥落した後は占領行政に身を投じ、陳情のアラブ人が門前市をなして「ハトゥン」(女長官)とあだ名された。彼女はロレンスとともに戦後のパリ講和会議にも出席、アラブ人への約束を果たすために尽力するが、列強代表の横車の前で蹉跌を余儀なくされる。ほどなくメソポタミア全土を巻き込んだアラブ人暴動が発生した。苦慮の末に、英国の直接統治から王政への移管を設計し、現在の国境線を画定したのである。・・・イギリスの三枚舌外交に騙されたアラブが戦後処理で自分たちの国が得られないことに憤ったのは当然であり、それは暴動というものではないと私は思う。そして、イギリスの政策には腹立たしい思いがするが、アラブ人のために尽力しようとしていたベルに対しては同情する。これはロレンスに対する感情と同様のものである。

イラクの国境画定にあたっての議論も明らかになっている。北部のクルド人(スンニー派)地域、中部のアラブ人(スンニー派)地域、南部のアラブ人(シーア派)地域の3地域を踏まえてどのような構図の国にするかという議論である。ロレンスはクルド地区を外して英国の管理下に置くことを主張したが、ベルは3地域まとめてイラクとすることを主張して、そうなったのである。ベルはロレンスより二十歳ほど年上である。

ベルはその後もバグダードに残り、再び考古学に夢中になって過ごしたそうである。そして、1926年の夏にベルはバグダードで睡眠薬を飲んで命を絶った。多分自殺であろう。

これを機会に、私は複数の中東・イラク関係の書籍のなかでベルについて書かれている部分を拾い読みして、彼女に関する知識を少し増やした。そうするうちに、彼女が書いた旅の記録があることを知った。それは,平凡社の東洋文庫『シリア縦断紀行(1) (2)』である。アマゾンの本の内容をみると、次のように書かれている。「アラビアのロレンスの女性版」といわれる著者が、オスマン帝国末期の1905年、複雑な政治状況にあったシリア地域を訪れた際の旅の記録。本巻では、エルサレムからドルース山地をへてダマスクスに至る旅程で出会った人々の生活習慣や、各地の遺跡の様子が綴られる。・・・是非とも読んでみたい衝動にかられた。各巻2,860円であった。高い! と思ったのであるが「待てよ!」どこかで見覚えのあるタイトルだなと、本棚の奥の方をチェックすると、なんとあるではないか。この本が2巻とも。

もう15年も前のことである。市の公共の場で中部大学の図書館で破棄処分になった本を無料で頂ける機会があった。そこでは東洋文庫などが出ていた。この本以外にも中東に関するものを沢山頂いてきたのだった。このタイトルはシリアだったので、全然開くこともなくしまわれていたのだった。折角の機会なので、第1巻の中ほどまで読み終えたところである。冒頭の写真はその中の写真をアップしたものである。目次は以下の通りである。

 

 

一つの関心事が新たな関心事に広がっていくという面白さがある。15年間もの間眠っていたこの本もどうやら陽の目を見たようである。

キーワード:ガートルード・ベル、砂漠の女王、アラビアのロレンス、イラク、シリヤ、

イラクの歴史

参考文献

第一次世界大戦のところまでの歴史を綴ってきていたが、「第一次世界大戦後の中東:イギリスの三枚舌外交」という記事が昨年の4月であった。それ以来、歴史から少々横道にそれていたようだ。2020年も始まったことだし、この辺で再び歴史に戻ってみることにしようか。

とにもかくにも、オスマン帝国の領土のあとに英仏の委任統治領という形が出来上がった。

  • フランスの委任統治領
  • シリア
  • レバノン
  • イギリスの委任統治領
  • パレスチナ ➡ アラブとユダヤの対立激化
  • トランスヨルダン ➡ トランスヨルダン王国
  • メソポタミア   ➡ イラク王国(1921) ➡ 独立(1932)

イギリス委任統治領メソポタミアを成立させた英国は1921年8月23日に、大戦中のアラブの指導者として知られるハーシム家のファイサル・イブン=フサインを国王に据えて王政を布かせた。彼はフサイン・マクマホン書簡のフサインの息子である。クウェートはイラク王国から切り離されたままとなった。その後、イラク王国は1932年に独立を達成した。つまりイラクという国はイギリスの思いのままに造られた国であったということである。その後の歴史を簡単に箇条書き程度で書き記していこう。

1958年7月:クーデター発生。王政に不満を抱く「自由将校団」ガクーデターを起こす。ファイサル二世とアブドゥッラー皇太子が暗殺された。共和政となりカーセム将軍が権力を掌握。

1963年2月:アラブ民族主義者系の将校団がカーセムを殺害して、新政権を樹立。同年11月にクーデターにより、アラブ民族主義者であるアブドゥル・サラーム・アリフが全権掌握し、バース党を排除する。彼が1966年に事故死すると、兄が後継者となったが、1968年7月にバース党がクーデターを起こして政権を転覆させ、バース党の指導者であるアフマド・ハサン・アル・バクルが大統領に就いた。

このバース党政権下で台頭してきたのが、あのサダム・フセインである。1969年に革命指導評議会副議長に就任。実質的なナンバー2となった。

1979年7月、フセインが大統領、革命指導評議会議長に就任。1979年というとイランでは革命が起った年である。また、ソ連のアフガニスタン侵攻の年でもあった。イラクからイラン、アフガニスタンにかけての帯が変動の時代であった。

さて、サダム・フセインが登場したので、時代は今にかなり近づいたわけだ。ところで先ほどからバース党が出てきているので、バース党とはどういう党かインターネットの「世界史の窓」から引用しておこう。

バース党( حزب البعث‎):バース党(バアス党とも表記)は、シリアおよび、イラクなどで活動するアラブ民族主義政党。バースとは「復興」という意味で、正式な政党名はアラブ社会主義復興党といい、「大西洋からペルシア湾に及ぶアラブ語民族完全な統合」を第一目標とし、さらに社会主義経済の建設を目指すというが、社会主義といっても私有財産制は認めるのでマルクス主義ではなく、主たる敵は欧米の資本主義とユダヤ人のシオニズム(及びそれによって成立したイスラエル)であると主張する。
その起源は古く、1947年にシリアのダマスクスで二人の青年によって始められ、レバノン、イラク、ヨルダンに広がり、各国にバース党支部ができあがった。シリアでは1963年に、イラクでは68年にクーデターによって権力を握った。シリアでは1970年からバース党のアサドが大統領として独裁的な権力を握った。イラクでは1979年からサダム=フセイン大統領を出し、独裁権力を握った。<藤村信『中東現代史』岩波新書 1997 および 酒井啓子『イラクとアメリカ』岩波新書 2002>

バース党はシリアにもあるわけであるが、イラクのバース党とシリアのバース党が良好な関係にあるわけではない。フセイン大統領時代のイラクは体制維持のために独裁色を強め、権力の集中に熱心であった。そして対外的にはイランとの戦争を始めた。イランとの国境問題やイランのフーゼスタンの領土的野心を主張したが、宮田律先生は、それは表面的動機であり、根底には大衆動員による国家の掌握、政権維持の狙いがあったと記している(『中東・迷走の百年史』新潮新書)。

イランとの戦争、いわゆるイライラ戦争であったが、イラン革命後のアメリカ大使館人質事件などもあり、アメリカとイランの関係は悪化していた(現在に至っているが)。従って、アメリカはイラクを支援することになる。敵の敵は味方である。イラン・イラク戦争は1980年に始まり、1988年に国連の決議を受け入れて停戦に至ったのであったが、8年間にわたる戦争に両者は疲弊した。余談になるが、1981年当時に私自身もイランに2ヵ月ほど滞在したことがある。テヘランだけでなく地方の町でも戦死者の弔いを数多く目にしたものである。町の大きな道路の交差点はローターリーになっているところが多く、その周辺に戦死者の胸から上位の顔を描いた大きな写真ポスターが貼られていた。

この後、サダム・フセインはクゥートに侵攻に始まる、湾岸戦争を引き起こしていくのであるが、今回は委任統治下のイラクがフセイン大統領の時代に至る経緯を簡単にまとめたところで終わっておこう。それ以後についても改めて詳述することにしよう。また、イラクというとここにもアラビアのロレンスではないが、それに匹敵するガートルード・ベルというイギリス女性がいたこともブログ材料としては放っておけないものなのであるが、それらもまた改めて触れることにしたい。

キーワード:イギリス、フランス、委任統治、イラク、バース党、バアス党、イラン・イラク戦争、クゥエート侵攻、ガートルード・ベル

 

第一次世界大戦とアラビアのロレンス

このブログで紹介しているように、現在月に一回程度で「中東・イスラム学習会」、通称「南山会」を開いています。開催日やテーマは、このブログの「学習会の案内」から見ることができます。8月の例会は31日の土曜日に開催しました。テーマは「第一次世界大戦とアラビアのロレンス」でした。その内容をこのブログ(中東を見る視線)用にちょっと整理して、ここにアップしておきましょう。

第一次大戦は1914年に始まったが、その前からオスマン帝国周辺は不安定な状況が続いていた。オスマン帝国は1877年~78年のロシアとの戦争で大敗しており、ヨーロッパの領土の大半を失っていた。バルカン半島のスラブ系民族もオスマンから独立しようとしていた。そのような動きに対してロシアは汎スラブ主義を唱え、オーストリア、ドイツは汎ゲルマン主義を掲げて支援するような情勢であった。1912年の第一次バルカン戦争では、オスマン帝国に対してセルビア、ギリシア、ブルガリア、モンテネグロが戦った。そして、1913年に起きた第二次バルカン戦争は第一次バルカン戦争の戦後処理に不満を抱いたブルガリアがセルビア、ギリシア、ルーマニア、そしてオスマンと戦ったのである。昨日の敵は今日の友、昨日の友は今日の敵状態の混沌とした情勢であった。そんな折の1914年6月28日にオーストリア皇太子がサラエボにて、セルビアの青年に暗殺されるという事件が起こった(サラエボ事件)。これがきっかけとなって第一次大戦が引き起こされた。

簡単にいうと以上の通りであるが、第一次大戦は三国同盟側のドイツ、オーストリアなどと、三国協商のイギリス、フランス、ロシアなどとの戦争となった。そしてオスマン帝国はドイツ側に参加したわけであった。イギリスとフランスは戦争後にオスマン帝国領土を分割して自国の支配下に置こうと画策しており、そのために次のような協定や条約などを結んだ。

  • フセイン・マクマホン協定(1915年):メッカの太守フセイン(フサイン)と英国の駐エジプト高等弁務官マクマホンとの間で複数の書簡が交わされたが、その中で、オスマン帝国とたたかって勝利した後に、アラブ人の国家独立を支持すると約束した。
  • サイクス・ピコ条約(1916年5月16日):英仏の間で取り交わした秘密協定。内容は戦後にオスマン帝国領の中東を英仏で分割支配するものであった。前項のフセインと約束したアラブの国家建設予定地などが英仏の支配下になるというもので、アラブとの約束に反するものであった。
  • バルフォア宣言(1917年11月):イギリスの外務大臣バルフォアがユダヤ人に資金援助を求める対価に戦後処理のなかでユダヤ人の国家建設を支援するというもの。正確には国家とは言ってなくて「ホームランド」という表現であるが、これが現在のパレスチナ問題にまで発展している原因である。

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このような状況の中でロレンスが登場するのである。トーマス・エドワード・ロレンスは1888年にウェールズで生まれた。大学はオックスフォードでジーザス・カレッジに入学し、歴史や考古学を学んだ。1907年と1908年には長期にわたってフランスを旅して中世の城を見て回り、1909年にはレバノンを訪れて十字軍の調査をした。その後もメソポタミアの調査団に加わった。アラビア語にも堪能であったという。ロレンスは歴史学者、考古学者への道を辿っていたようである。

ロレンスは第一次大戦勃発後に陸軍省作戦部第四課(=地図班)で地図を作成する仕事に携わることになる。そして同年1914年12月にはカイロに赴任することになる。1916年10月までがカイロ駐在期であり、その後アラブの反乱に身を投じることになるのである。カイロの陸軍でのロレンスはどちらかというとつまはじきにされていたようである。また、軍がアラブの反乱に積極的に関わろうとする様子でもないことを感じる。そしてまた、サイクス・ピコ条約のことなどを知って、ここは自分の居場所ではないと思い、転任してもらえるように計画した。そして、外務省の直接命令下にある「アラビア局」の所属となったのである。そうしてロレンスはファイサルに会いに行く。ファイサルとはフセイン・マクマホン協定の当事者であるフセインの長男である。ロレンスはファイサルに会う前に弟のアブドゥッラーに会い、ファイサルのところまで案内される。ファイサルとの話し合いのあと、ロレンスが40名ほどのアラブ軍を率いてアカバを攻めることになるのであるが、その辺りの物語が冒頭に画像で示した映画「アラビアのロレンス」のストーリーである。アカバのオスマン軍の拠点は海から接近するであろう敵に対して大砲を海に向けて設置していた。ロレンスは敵の裏をかいて背後から攻めようとしたのである。それには過酷な自然条件のネフド砂漠を横断しなければならなかった。ファイサルたちはそれは無理だと言ったのであるが、ロレンスはアカバを攻略するにはその方法しかないと主張して決行した。映画のストーリーは実際のロレンスの行動をそのまま物語化したものではないが、大筋で合っている。面白い映画であった。私は大学生時代に始めて見たのであるが、その後何度かテレビで放映されたので、その都度みた。そして今はDVD化されたものを持っている。今回の学習会のためにもう一度見直してみた。

アカバを攻略したあと、ロレンスは英雄となる。そして、アラブ軍はヒジャーズ鉄道を破壊してオスマン軍に打撃を与えた。ヒジャーズ鉄道というのはダマスカスから南へ紅海沿いにメッカ迄建設しようとしたものであるが、メディナで終わった約1300kmの鉄道である。その後、アラブ軍はダマスカスに入城して、ダマスカスを陥落させる。

ファイサルは、大戦後の1919年に大シリア国民会議を招集して、大シリア立憲王国を建設しようとした。一方イギリスとフランスはシリアなどを分割支配しようとした。フランスはシリアの北半分を保護下におくことを主張して、武力でファイサルをダマスカスから追い払った。結局フランスは、新たにできた国際連盟から委託されたという形式をとって、シリアの北半分を、レバノンとシリアに分けて統治することになった。イギリスは、シリアの南半分を、ヨルダン渓谷の東(トランス・ヨルダン)とパレスチナに分けて統治し、またイラクも委任統治にした。アラブとの約束を守らずにイギリスはフランスと領土を分割してしまった。アラブ側の不満が収まることはなかった。そこでイギリスは不満を抑えるために、トランス・ヨルダンの国王にアブドゥッラーを、イラクの国王にファイサルを据えることにしたのであった。アラブ地域は結局イラク、シリア、レバノン、トランス・ヨルダン、パレスチナという五つの地域に分割されて、今現在あるような国境ができたのである。

最後にロレンスが描いていた戦後はどのようなものであったのか。彼はこのように言っている。

  • 今日でいうイラクの領域について「クルド人とアラブ人を分割した政府を設立すべきだ」、またシリアにおいては「アルメニア人をアラブ人と切り離して自主独立させるべき」であると。
  • 「自主独立はアラブ人の手で」
  • 「英国軍兵士は全員撤退させよ」「それまで英国人は単純に『英国流儀の英語で統治する政府』を設立してきたが、その代わりにアラブでは、アラビア語の政権を樹立しアラブ人の義勇兵軍隊を修練して、英国兵士は彼の地から撤退させるべきだ」

ロレンスの主張に耳を傾ける必要があったのではないだろうか。

 

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