アフガニスタンでタリバンが政権を奪取したために、イスラムについて尋ねられることが少し多くなりました。イスラムに対する関心が増えることはイスラムを正しく理解されるためにはいいことでしょう。まず、タリバンとは何なのでしょうか。ネットでweblio辞書のサイトには次のように書かれています。
タリバーン【Taliban】
「タリブ(イスラム神学生)」の複数形。「タリバン」「ターリバーン」とも》アフガニスタンのイスラム原理主義者による武装集団。1996年首都カブールを占領して内戦後のアフガニスタンを支配。偶像崇拝を排斥する立場から同国バーミヤンの石仏を破壊した。2001年のアメリカ同時多発テロの指導者ビンラディンをかくまったとして米軍の攻撃を受け、同年11月に政権は崩壊した。2006年ころから再び攻勢を強めている。
「タリバンはイスラム神学生」である。それだけではイスラム世界にはどこにでもあるイスラム神学生と同じでしかありません。タリバンは何が違うのでしょうか。「イスラム原理主義者による武装集団」ともあります。さて、原理主義者とはどういう定義なのでしょうか。原理主義という言葉は英語のfundamentalismを訳したもので、もともとはキリスト教の用語で、聖書の無謬性を主張する思想や運動(キリスト教根本主義)を指す言葉である。イスラム世界では自らが原理主義と名乗るようなことはなかったのです。1979年にはイランで革命により王政が崩壊し、イスラム政権が発足して今に至っています。イスラム法による統治をうたっています。でもそれはイスラム法に則る社会秩序を築くということで、原理主義というものではありません。サウジアラビアも厳格なイスラムの国です。彼らの宗派はワッハーブ派というものです。アラブの多くの国の人々がイスラムを信仰しているわけですが、地域や時代により厳格さが薄らいだところも沢山あります。そういう場合に、イスラムの原点に戻ろうという動きもあったりします。そういう場合は「イスラム回帰」あるいは「イスラム復興」などと表現されます。イスラム教徒自らが「原理主義」と名乗るようなものではないのです。
「偶像崇拝を排斥する立場から同国バーミヤンの石仏を破壊した」ともあります。あたかも偶像崇拝を配する立場の連中がバーミヤンの石仏を破壊したことは、イスラムの立場では当たり前のことであるように記されています。そうでしょうか。イスラム教徒のことをムスリムと言いますが、ムスリムたちは偶像崇拝をすることはいけないことだと教えられ、そのように信じています。それはそれで悪いことではありません。それが信仰というものでしょう。でもムスリムが他の宗教の信仰者たちが崇拝している文化財を破壊してもいいわけではありません。
次に1947年以後のアフガニスタンの歴史を年表形式で紹介します。
- 1747年、パシュトゥーン人によるドゥッラーニー朝が成立。
- 1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。
- 1838年、第一次アフガン戦争(~1842年)
- 1880年、第二次アフガン戦争(~1880年)に敗れ、イギリスの保護国となる。
- 1919年、アマーヌッラー・ハーン国王が対英戦争(第三次アフガン戦争)に勝利し、独立を達成。
- 1973年、ムハンマド・ダーウードが無血クーデターを起こして国王を追放。共和制を宣言して大統領に就任。
- 1978年、軍事クーデターが発生(四月革命)。大統領一族が処刑される。人民民主党政権成立。革命評議会発足。
- 1979年、ソ連軍によるアフガン侵攻開始。親ソ連派のクーデターによってアミン革命評議会議長を殺害し、バーブラーク・カールマル(元)副議長が実権を握る。社会主義政権樹立。
- 1992年、ムジャーヒディーンが攻勢、ナジーブッラー政権崩壊(その後ほぼ無政府状態)。
- 1993年、ブルハーヌッディーン・ラッバーニー指導評議会議長が大統領に就任。
- 1994年、内戦が全土に広がる。この年ターリバーンが急成長。
- 1996年、ターリバーンが全土をほぼ掌握し実効支配。旧ムジャーヒディーン勢力が反ターリバーンで一致し、北部同盟となる。またこの年、ウサマ・ビン=ラーディンとアル・カーイダがアフガニスタン国内に入り、ターリバーンの保護下に置かれる。
- 1998年、ターリバーンがアフガン全土をほぼ掌握。アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言するが、承認国は3カ国にとどまる。
- 1999年、ターリバーンに対する経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1267が採択される。
- 2000年、ターリバーンに対する追加経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333が採択される。
- 2001年3月6日、ターリバーンがバーミヤンの石仏を爆破する。
- 9月6日、北部同盟のアフマド・シャー・マスード司令官暗殺。
- 9月11日、アル・カーイダがアメリカ同時多発テロを起こしたとして10月、アメリカと有志連合諸国は自衛権の発動として攻撃を開始する。また、北部同盟も攻撃を開始する。
- 11月、カブール陥落。年末にターリバーン政権崩壊。
- 12月、ボン合意。アフガニスタン主要4勢力、暫定政権発足とその後の和平プロセスで合意。国際連合安全保障理事会決議1386にもとづき国際治安支援部隊 (ISAF) 創設、カブールの治安維持にあたる。また国際連合安全保障理事会決議1401により、国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)がスタート。アフガニスタン暫定行政機構が成立し、ハーミド・カルザイが議長となる。
- 2002年2月14日、アブドゥール・ラフマン航空観光大臣がカブール空港で暴徒に撲殺される。
- 2002年、ハーミド・カルザイを暫定大統領に選出。6月、アフガニスタン・イスラム移行国発足。
- 2004年1月、新憲法制定。
- 2004年10月9日、初の大統領選挙。カルザイが当選、正式政権アフガニスタン・イスラム国発足。選挙を前にターリバーンが再結成し、南部で武装蜂起。
- 2005年、総選挙・州議会選挙実施。
- 2006年、ISAFの指揮権が北大西洋条約機構(NATO)に移譲される。5月、タリバンの攻勢強まる。7月、ISAF南部展開。10月、ISAF東部展開、計13000人がアフガニスタンに駐留。
アフガニスタン内戦
1979年12月 ソ連がアフガニスタンへ軍事侵攻
1978年に成立した共産主義政権を支援するためであったが、反政府組織がソ連と戦い内戦状態となる。1989年のソ連軍の完全撤退まで10年間続いた。
代表的な反政府組織:
ラッバーニ率いるタジク人主体の イスラム協会
ドスタム率いるウズベク人主体の イスラム民族運動
ヘクマティヤール率いるバシュトゥーン人主体の イスラム党
ハザラ人主体のシーア派勢力 イスラム統一党
これらの勢力はソ連と戦ったわけであるが、ソ連撤退後に戦い合うことになる。1992年平和協定
1994年 平和協定が破棄され、大規模な軍事衝突へ。ここで台頭したのがイスラム原理主義者のターリバーンである。(パキスタンから支援をうけて勢力拡大。1996年9月に首都カーブルを制圧「アフガニスタン・イスラム共和国」を樹立。
長くなったがアフガニスタンにソ連軍が侵攻したのが1979年、その後、内紛が続いたのであるが、ソ連に対抗するために米国は様々な集団にテコ入れをして、米国の都合のいいように育て上げていったのです。タリバンもその一つであり、1989年のソ連軍撤退後にタリバンは急成長していった。細かいことをいう必要はありません。要はタリバンというイスラム集団を都合のいいように政治的集団として育て、利用していった結果が今のタリバンなわけです。タリバンがまっとうなイスラム精神を保持した(あえて言えば)原理主義集団などという輩ではないのです。