イスラム世界の偉人④:イブン・ルシュド(ラテン語名=アヴェロエス)

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無知は恐れにつながり、
 恐れは憎しみにつながり、
 憎しみは暴力につながります。
 これが方程式です。

イブン・ルシュドの言葉 

冒頭の画像の言葉の主であるイブン・ルシュドをご存知でしょうか。これまで①イブン・シーナ、②イブン・バットゥータ、③イブン・ハルドゥーンを紹介しましたが、今回もイブンのついたイブン・ルシュドです。一言でいうと12世紀、コルドバ(スペイン)でアリストテレスを研究した哲学者である。インターネット上の「世界史の窓」では次のように説明している。
12世紀のコルドバで活躍したイスラーム教徒の哲学者。 ラテン名アヴェロエスとしてもヨーロッパに広く知られ、アリストテレス哲学を紹介し、スコラ哲学に影響を与えた。1126年、コルドバの代々のカーディー(法官)の家に生まれ、医学、天文学、神学、哲学を研究した。1147年にコルドバに成立したムワッヒド朝の王アブー=ヤクブの侍医となって仕え(1169年頃)、国家的な事業としてアリストテレスの著作をアラビア語に翻訳する事業に従事した。アリストテレスの著作のアラビア語訳は10世紀末のイブン=シーナーの事業を受け継ぐものであったが、12世紀のイブン=ルシュドは「新プラトン主義」の影響を受け、プラトン的な神学理論による解釈を行ったものであった。また当時有力になっていた、ガザーリーによって始められた、理論を排し直感的に神を感じ取るというスーフィズムの思想に反対して、イスラーム神学の理論付けを行おうとしたものであった。しかし、北方のキリスト教徒のレコンキスタと戦っていたムワッヒド朝は次第に宗教的に不寛容となり、イブン=ルシュドの学説も受け入れられなくなった。1197年突然その著作は発禁とされ、地位も追われてコルドバを去り、1198年にモロッコのマラケシュで生涯を閉じた。イブン=ルシュドと同じ頃、コルドバでアリストテレス哲学を研究していたユダヤ人のマイモニデスもモロッコのフェスを経てエジプトに逃れた。
イブン=ルシュドのアリストテレス翻訳事業は上述のような事情でイスラーム世界では断絶したが、コルドバがレコンキスタの結果、キリスト教徒の手に落ちた1230年代以降に、彼の著作がラテン語訳されることによって、キリスト教世界に継承されることになった。特にパリ大学の神学者が熱心にその著作の研究を行った。こうしてイブン=ルシュドはラテン名でアヴェロエスとしてヨーロッパで知られるようになり、中世のスコラ哲学に大きな影響を与えた。しかし、イブン=ルシュドつまりアヴェロエスのもたらしたアリストテレス哲学は、その合理的解釈を推し進めれば宗教的真理と理性的真理の二元論に向かっていく。パリ大学の急進的なアヴェロエス派に特にそのような傾向が強まり、ローマ教皇庁はそれを危険視し、トマス=アクィナスをパリ大学に派遣しその学説の修正を求めた。ついに1270年に教皇庁はアヴェロエス主義を教授することを禁止した。<以上、樺山紘一『地中海』2006 岩波新書 第4章 p.114-145 による>

彼は幅広い分野に関して研究し、多数の業績を残しているが、最も力を注いだのがアリストテレスの研究であり、著作の多くがアリストテレス哲学の解説書、注釈書であり、そこに彼自身の考えを注いでいる。西欧では彼を「アラブ哲学の最大の星、アラブ哲学の頂点、終点」などという言葉で賞賛されている。

アリーの言葉

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先般『アラブのことばと絶景』を書籍紹介としてアップしました。その後、ボチボチ中を読んでいました。その中に正統カリフ第四代アリーの言葉がありました。上の画像の言葉です。「賢い人は最初に考えてから話し、愚か者は最初に話してから考える。」です。同じような言葉や似たような言葉は他にもあるような気がしますが、アリーがそう言っていたということが伝わっているのでしょう。

私は沖縄三線を趣味で弾くのですが、デンサー節には「むにいさざ慎め 口(フチ)ぬ外出(フカン)だすなよ。出(ウ)だしたら 又ん飲みぬならる デンサ」という部分があります。つまり「言葉は慎重にしなさい。 軽率な発言はしてはならない。 一度口走っててしまえば取り消しはできない。」という意味です。アリーの言葉とは少しニュアンスが違いますが、言葉を発するときはよくよく考えなさいという点では共通していると思います。

アリーについて皆さんはご存知ですか。正統カリフ第四代と先述した通り、イスラムの創始者ムハンマド亡き後の後継者がカリフです。4代目のアリーまでを正統カリフ時代といいます。ムハンマドは両親の死後、叔父に育てられました。その叔父の息子がアリーであり従兄弟になります。二人は兄弟のように成長してきたのでした。ムハンマドの娘ファーティマの婿でもありました。このようにムハンマドに最も近い関係にあったアリーなので、ムハンマドの死後の後継者となるべきだと主張する者達も大勢いたわけですが、初代カリフは長老のアブー・バクルが選ばれました。結局、アリーは四代目に就任したのではありますが、ムアーウィヤという人物との争いの結果、イスラムは分裂したのでした。この辺りのことはこのブログのずっと以前の「イスラムの歴史」の中に書かれている筈です。分裂した一方がウマイヤ朝になり勢力を拡大しました。一方、アリーを担ぎ出そうとしたグループは「アリーの派」と呼ばれます。派という言葉がシーアです。つまり、イスラムのスンナ派(スンニー派)とシーア派になるわけですね。シーア派はスンナ派と何が違うのかと気になる方が大勢いますが、基本的な部分はムハンマドの教え、コーランを信奉することに変わりはありません。コーランの解釈などで異なる部分がでてきます。また、シーア派ではアリーの肖像画を飾ることが多々見られます。偶像崇拝禁止に厳しいスンナ派では肖像画を飾ることはありません。私も軽々に物を言ったり、書いたりすることを慎重にしなければならないと思いつつ、今日はこれにてお終いにしましょう。

 

書籍紹介:アラブのことばと絶景100

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先日購入した本を紹介します。タイトルは「生きる知恵を授かるアラブのことばと絶景100」です。先ずはアラブの絶景というと何を思い浮かべるでしょうか。私自身が第一に思い浮かぶ景色というと砂漠に沈む夕日です。あるいは夕暮れの砂丘を歩く隊商の駱駝の列、そうです平山郁夫さんの絵の景色などです。表紙にも駱駝の列が見えます。


実際に中を見ると、そのような景色もありました。成程と思ったのはローマの遺跡です。ローマ帝国が北アフリカ、中東地域を支配していた時代の神殿などの遺跡です。勿論、アラブで生まれたイスラムの建築が多いのは当然です。

さて、タイトルにある「生きる知恵を授かる言葉」とは、どのような言葉なのでしょうか。第一に浮かぶのはコーランの中の一節や言葉です。が、この本の中にはそれ以外の諺や偉人?や歴史上の人物の言葉が絶景の風景に合わせて紹介されているのです。著作権の侵害ではなく、この書籍のPRのために2つだけ紹介してみましょう。

絶景33:上の写真は「マダイン・サーレハ」。サウジアラビアの古代遺跡として世界遺産に登録されている。紀元前1世紀から紀元後1世紀のナバタイ人の遺跡だそう。この頁で紹介されている言葉は「開けゴマ」。その解説文をそのまま次に引用する。

乾いた大地でも力強く育ち、食用油も採れるゴマは、アラブでは古くから重要な作物でした。実は熟すと突然割れて種を外へはじき飛ばします。盗賊が宝物を隠した岩屋の扉を開けるとき、アリババが唱えたこのあまりにも有名な呪文は、その様子から作られたのではないかともいわれています。この物語はシリアの説話をもとに創作されたと伝わります。

絶景54:

これはモロッコの Royal Palace。13~15世紀のマリーン朝の君主の居城で、現在も国王がフェズに滞在するときに使われるそうである。モスクの煌びやかな外壁とは異なり、地味ではあるが美しい。この頁の言葉は「種蒔き育てる人が刈り取る」という諺である。その意味を引用しよう。

まじめにコツコツとがんばる人こそがその努力の実りを享受することができます。反対に怠惰で努力をしない人は何も得ることはできないともいえます。刈り取ることができるのは自分が蒔いた種だけということです。「千里の道も一歩から」。努力は報われることを信じて少しずつ進んでいきましょう。

この本の発行所は「株式会社地球の歩き方」
発売元は「株式会社学研プラス」
価格は1650円。
それに凄いのは全部ではありませんが、紹介されている言葉にアラビア語が併記されていることです。
久しぶりにお勧めの一冊です。

 

中東世界の女性たち:ハディージャ

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ハディージャとはいうまでもなく、イスラムの創設者「ムハンマド」の最初の妻である。25歳頃のムハンマドと結婚したハディージャは40歳位であり、夫とは死別していた寡婦であった。裕福な商人であった。東京堂出版の黒田壽郎編『イスラーム辞典』では次のように説明している。色々な書籍で彼女についての記述を読んだが、これが一番詳しくて正しいように思えたので、拝借することにした。

彼女はクライシュ族のフワイリドの娘で二度の結婚歴を持ち、財産と独立を備えた裕福な商人であった。ムハンマドを雇い入れたハディージャは、彼をシリアに向う隊商の長として派遣したが、彼はその使命を見事に果たしている。誠実で責任感のある人がらに心を動かされたハディージャは、ムハンマドに結婚を申込んだ。時にハディージャは40歳、ムハンマドは25歳であったといわれる。この結婚はムハンマドにとって大きな意義をもつものであった。その一つは、メッカでの主たる活動である商業において、彼にその才能を磨く機会を与えたことである。さらに彼の精神的発展にも大きな役割を果たしている。
ハディージャにはワラカと呼ばれるキリスト教徒の従兄弟がいた。啓示を受けたムハンマドが、自分はユダヤ教徒およびキリスト教徒のそれと同じ啓示を受けているというい確信を持つに至ったのは、ワラカとハディージャの助けによると伝えられている。また預言者としての使命に確信を失った時、ムハンマドを励まし、確信を再びとり戻させたのはハディージャそのひとであった。彼女はイスラームに帰依した最初の人物であった。
ハディージャはムハンマドとの間に、女四人、男二人の子供をもうけたが、息子二人は夭逝している。ムハンマドにとって、ハディージャの信頼はきわめて重要であった。彼は生涯、妻を思い起こすたびに愛と感動と感謝の念にあふれたと伝えられる。
「この世にあるいかなる女性もハディージャには値しない。私を信じる者がいない時に、彼女だけが私を信じてくれた。皆が私の言葉を嘘とみなしたのに、彼女は真実であると受け入れてくれた。」
ハディージャはヒジュラの三年前、おそらく619年にこの世を去った。彼女が生きている間、ムハンマドは他に妻を娶らなかった。

他の資料を見るとハディージャは二人の夫と結婚の経験があり一人は生別、一人は死別とある。またムハンマドとの間の子供は三男四女であったとも。いずれも男子は夭逝しているのは同じである。また、ハディージャは生前ムハンマドに他の妻を持つことを許さなかったともある。(以上岩波の新イスラム事典)。大きな差異はないが、こちらのほうはムハンマドが自発的に他の妻を持たなかったのではなく、ハディージャが許さなかったと少々ニュアンスが違っているのが面白い。またハディーシャの従兄弟のワラカがキリスト教徒というのは、ネストリウス派キリスト教修道僧であるという資料もある。私はコーランを読んでいるとムハンマドは旧約聖書のことをよく知っていたんだなと思う。元々読み書きのできない彼がどうして知識を吸収したのだろうかと思ったものであるが、彼の周りにワラカのような人物がいたということで納得がいくのである。イスラム誕生以前のアラビア半島にはユダヤ教徒もキリスト教徒も沢山いたのである。
またムハンマドが隊商の長としてシリア辺りまででかけたのであるが、そのような長距離を駱駝でトボトボと灼熱の砂漠も通過したであろうに、大変な苦労をしたことであろう。冒頭の画像を参考にされたい。

 

 

イスラム女性の服装

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色々なメディアでアフガニスタンのテレビの女性キャスターが復帰したことを伝えていた。発信元は共同通信だ。中日新聞の6月7日にもその記事がでていた。

タリバン政府の勧善懲悪省が顔を覆わずに出演していたロマ・アディルさんを降板させるよう命令を出し、テレビ局もそれに従ったのであったが、本人の強い意志の下でテレビ局が彼女を復帰させたというのである。イスラム社会における女性の服装は国や地域により差がある。アフガニスタンではスカーフのように頭を隠すだけではなく、顔全体を覆うのが一般的である。今回の彼女の行為に対してアフガニスタンでは勧善懲悪省の命令を支持する声もあるし、彼女の行動を支持する声もある。国際社会では彼女を支持する声の方が多いだろう。タリバン政権が今後彼女に対してどのように手に出るのか国際社会は注目することになるでしょう。

昨年11月にこのブログではコーランの第4章「女性」を取り上げたことがあります。この章はかなり長い章であり、女性が相続する場合のことなどが事細かく書かれていましたね。そして、女性の章というのですが、服装については書かれていませんでした。そこで、イスラム女性の服装については、コーランでは何処の章にどのように書かれているのでしょうか?

答えは第24章第31節です。
「慎み深く目を下げて、陰部は大事に守っておき、外部に出ている部分は仕方がないが、その他の美しい所は人見せぬよう。胸には蔽いを被せるよう。」このような記載があります。井筒俊彦先生の訳本からの引用ですが、外部というのはおもてとフリガナを打っています。顔の部分は外部になるので「仕方ない」部分になるのではないでしょうか。となると顔は隠さなくても良いという解釈が成り立ちそうです。問題は次の部分「その他の美しい所」です。女性の顔を美しいと感じる人は多いでしょう。男たちが虜になる美しいものだと言えるかもしれません。そうすると隠しておかなければなりません。でも、その程度の記述なので色々な解釈が国によって異なるのでしょうね。今度改めてイスラム女性の様々な服装について取り上げてみたいと思います。

 

書籍紹介:「アラブの春」の正体 / 欧米とメディアに踊らされた民主化革命

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2010年にチュニジアで起きた民衆の行動が、反政府運動へと拡大し、政権が崩壊したのでした。その余波が中東各国に広がり、エジプトの政権も崩壊したのでしたね。反政府運動の波は長期独裁を続けて来た国々の指導者たちを怯えさせたものでした。その一連の流れをマスコミはすぐに「アラブの春」と名付けたのでした。それは、1968年春にチェコスロバキアで起きた民主化の動きを意味した「プラハの春」という言葉を捩ったものでした。このときにはソ連と東欧軍が介入したのですが、結局は民主化が勝利したのです。

マスコミがジャーナリストが「アラブの春」という言葉を連発する状況をみて私は「春などすぐに来るわけはない!」と思っていたので、この言葉を聞くたびにうんざりしたのでした。結果はその通りでした。一部の国では政権が交代したものの、そこに春が来てはいないのです。いまでは、死語となった「アラブの春」です。

そんな死語となった「アラブの春」を題材とした書物を、今日は紹介いたします。書物の紹介というよりは、書物の存在を紹介したいのです。タイトルは冒頭の通りです。2012年、角川書店発行の新書(角川oneテーマ21)で著者は重信メイです。彼女は「はじめに」の中で次のように語っています。「アラブで生まれ育ち、いまは日本に暮らしている私の目からみたアラブの春について書いています」と。そうです、彼女はアラブで生まれ育ったのです。新書の帯には「大手メディアが伝えない革命の真実」と書いています。アラブの春の運動の経緯や事実関係は知っていたのですが、私は彼女の目からはどう見えていたのだろうかと興味を持ったのでした。著者の名前に魅かれたのです。彼女の母親は「重信房子」です。重信房子とパレスチナ人男性との間に生まれたのが著者「重信メイ」なのです。当時読み終えて特に満足感も違和感もない感想でした。知らないことも沢山あったので、そうなんだと受け入れたものでした。一度読んだだけなので、汚れもなく新品同様を維持しています。ただ一カ所だけ最終章の「おわりに」の中でパレスチナ問題について語った部分に鉛筆で線が引いてあります。次の言葉が印象に残ったのでした。
パレスチナとイスラエルの問題は、宗教的な問題ではないということです。イスラム教とユダヤ教の対立ではありません。
イスラエルは確かにユダヤ教徒がつくった国ですが、彼らに土地を奪われたパレスチナ人はイスラム教徒だけではありません。キリスト教徒も無宗教の人たちもいます。そういう人たちがみんなでかつて自分たちやその親が住んでいた土地を取り戻すために、イスラエルの占領政策に抵抗しています。
弾圧、差別、自由がない・・・だから抵抗しているのです。宗教のためではなく、生活のために戦わざるをえない。そのことをまず知ってほしいと思っています。
私がこのあとがきでパレスチア問題を取り上げたのは、この問題とアラブの春は決して無関係ではないからです。
チュニジアやエジプトで人々が訴えたのは、まさに「人間的な問題」です。・・・・・・」
パレスチナ問題を宗教の問題ではないという辺りは全く同感です。私も以前から同じように考えていました。さらに言うならばイスラム同士での紛争ではすぐにスンナ派とシーア派の対立だと決めつけることが多いのですが、対立の真の原因はそんな単純なものではないと考えています。

さて、この本の紹介を今日行った意味にもう皆さんはお気づきですね。重信房子が近く刑期を終えて出所することになるのです。彼女の今については新聞各紙が書き始めているので、そちらをご覧ください。毎日、短歌を詠んで日々を送っているようです。歌集も出版されるようです。これまでの過去を踏まえた歌のようで、いくつかを読みましたが、興味というか、うーんそうなんだという思いが湧いてきました。テルアビブ、ハーグなどなど、様々な思いが浮かんでくるようです。

モスクを知る❺:トルコのモスク

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今回はトルコ型のモスクとしたいのだが、私も含めて建築やモスクの専門家でない者にとっては、そんなに詳しいことは必要ないだろう。そこで、簡単にトルコのモスクと題したのであるが。

トルコの首都イスタンブールは元々はビザンツ帝国の首都であった。その名はコンスタンチノープルである。コンスタンチヌス帝の名前からきている。このブログの中でもビザンツ帝国がオスマン軍に攻略されて陥落したことは何度か述べたと思う。ビザンツ帝国の都には当時から素晴らしい建築物が存在していた。有名なのがキリスト教正教会の大聖堂(ハギア=ソフィア聖堂)である。これがイスラムのモスクとして転用されているアヤソフィアである。従って、アヤソフィアを見て、トルコのモスクはこうであるというのは間違っているだろう。というものの、それに匹敵するモスクを造ろうとしたのだから、トルコのモスクはこのようでいいということなのだろう。

ビザンツ帝国はオスマン軍に敗れて国は滅亡した。しかしながら、彼らは「国は敗れても、大聖堂を築くことのできる技術や文化をオスマンたちは手にすることはできないだろう」と言ったという。そして、このキリスト教正教会の大聖堂を見て、その技術の高さに驚き、あの大きなドームを自らの手で造りたいと発奮した男がいた。ミマール・シナンであった。

このシナンについて、「世界史の窓」では次のように記している。
シナンは、ギリシア系のキリスト教徒の家に生まれ、若くしてデウシルメによってイェニチェリとなり、スレイマンに従って各地を転戦しながら、架橋や陣地構築技術を身につけ、50歳を過ぎてから、スレイマン1世の悲願であったハギア=ソフィア聖堂を凌駕する規模のモスクの建築に取り組み、1557年に完成させた。そのほか、数多くのモスク建設や水道建設にあたり、オスマン帝国時代の技術水準の高さを示す建築を残している。そして更に次のような引用をしている。(引用)シナンの出自はギリシア系キリスト教徒であったといわれている。1494年から99年頃の間に、小アジアのカイセリの近くで生まれたらしい。当時のトルコでは、ギリシア系住民の子弟から特にすぐれた人材を登用し、イスラム教に改宗させて徴用する制度があった。その中核が、イェニチェリと呼ばれる、スルタン直属のエリート軍団であった。シナンはそのイェニチェリの中で、技術将校として才能を発揮し、スレイマン1世に認められ、宮廷の主任建築官にまでなった。百歳という長い寿命のなかで、81の大規模なモスク、50の小規模なモスク、55の学校、19の墳墓、32の宮殿、22の公衆浴場などを建てたといわれている。首都におけるシナンの代表作といえるモスクが、シュレイマニエ・ジャミイ(一般にスレイマン=モスク)である。1550年に着工、1557年に完成した。<浅野和生『イスタンブールの大聖堂』2003 中公新書 p.198>

彼自身がかつてはキリスト教徒であったこと。オスマン帝国には異教徒であるキリスト教徒を徴用して育てる制度があったことなども興味深いことである。イスタンブールに行けば彼の手掛けたモスクにも出会うことができるのである。また、少し離れるがエディルネという街にも彼が建てた有名なモスクがある。シナンがモスクを建てようとした土地はチューリップ畑であった。地主は土地を手放そうとはしないので、シナンは足繁く通った。結局、モスクにチューリップを残すことで話がついたのであった。このモスクの建物の中の一本の柱にチューリップが逆さに彫り込まれているという。一度訪れてみたいモスクである。モスクを訪れた人々がチューリップを触って、その物語を回想するのだそうで、チューリップはすり減ってしまった。今はガラスのカバーがつけられているそうだ。シナンの一生を描いているのが、夢枕獏さんの『ミマール・スィナン』である。文庫本2冊の大作であるが、面白いのであっという間に読めてしまう。

最後に神谷先生のサイトでのトルコ型モスクについての部分を一部だけ引用させていただこう。
・・・・・・一方、外部はというと、通常 広い敷地の中央に 整然としたプランで建つので、ペルシアよりは はるかに外観がある。しかし ドーム屋根は 近くで見ると 上部が蹴られて、実際の高さほどに 偉大には見えないし、常に黒っぽい鉛板で葺かれた姿は ややグルーミーでさえある。外観を誇示しようとはしなかった と言えるし、しかも どのモスクもよく似た外観をしているので、いささか退屈な感も なしとしない。あくまでも 内部空間の探求が主目的なのであって、外部の形は その結果にすぎなかったのだろう。
オスマン帝国は トルコばかりでなく エジプトから東欧まで支配したので、グレーのドーム屋根と鉛筆型のミナレットがセットになった トルコ型モスクを、津々浦々に建てた。その最高傑作が、トルコ史上最大の建築家(ミマル)シナンが設計した イスタンブルのスレイマニエ(スレイマン1世のモスク)と、エディルネの セリミエ(セリム2世のモスク)である。

トルコの素晴らしいモスクの写真はネットを見ればたくさん出て来るので、是非ともご覧いただきたい。

モスクを知る❹:ペルシア型のモスク

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前回モスクにはアラブ型、ペルシア型などがあることを知ったので、その辺りについて考えてみよう。先ず、イスラムが生まれたのはアラブ社会の中である。そこで生まれた礼拝の場であるモスクは当然アラブ型といえるだろう。いま、ペルシア型のモスクというと何が違うのであろう。ペルシアはアラブとは異なる文化圏である。イスラムが7世紀に誕生して、イスラム世界を拡大し始めた時、北西にはビザンツ帝国が、北にはササン朝(226年 – 651年)という二つの帝国が存在していた。そのササン朝は642年にニハーヴァンドの戦いでイスラム軍に敗れ、その後滅亡したのである。こうした歴史を経てペルシアはイスラム化していったのである。そこで造られたモスクがアラブ型のものとは異なっていても不思議ではない。ササン朝ペルシアといえば、シルクロードを経て中国へ、そして奈良へと洗練された文化を伝えた国である。その後のモスク建築にも独特の様式が取り入れられているのであろう。

先日紹介した神谷武夫氏のサイトでは次のような説明がある。
モスク建築の歴史に 画期的な変化をもたらしたのは、ペルシア(現在のイラン)が、ササン朝の遺産である「イーワーン」を モスクに もちこんだことである。初めはごく控えめに、中庭に面する礼拝室のアーケードの中央スパンを 他よりも幅広くし、アーチの高さも高くして、ミフラーブに向かう中央身廊を強調したのだった。この場所に イーワーンを設置すると、中庭が一気に活気づく。ササン朝宮殿のイーワーンは玉座や謁見室としての機能をもっていたのだが、この場合には そうした機能は不要なので、モスクを造形的に美化しようという意図のほうが強かった。

フィールーザーバードの アルダシール宮殿遺跡(イーワーンの元)


こうして中心軸が強調されると、中庭において このイーワーンと向き合う面にも その対応物が欲しくなる。そこで ここにもイーワーンを設けて向かいあわせると「ダブル・イーワーン型」のモスクとなる。列柱ホールが中庭を囲んでいただけの単調なモスク型は、こうして大いにメリハリのある建築となった。さらに、中庭を囲む他の2辺の中央にもイーワーンを設置すると、4基のイーワーンが 縦・横の中心軸上に向かいあう「四イーワーン型」のモスクとなって、飛躍的に造形効果が増大する。

ザワレの金曜モスク

 四イーワーン型の 最初の作例といわれるのは、12世紀の ザワレの金曜モスクである。地方都市なので 規模は小さく、中庭は約 16m角の正方形である。そこに 各辺の長さの 1/3ほどの幅をもつ イーワーンが 向かいあうのだから、アラブ型モスクとは まったく異なった中庭空間となった。4基のイーワーンに囲まれた中庭の求心性は強烈で、奥の礼拝室自体よりも シンボリックな空間となる。イスファハーンの金曜モスクでは、アッバース朝時代の 古典的な列柱ホール・モスクが、12世紀に 四イーワーン型モスクへと 劇的に変えられた。イーワーンのアーチの内側は 半ドームや半円筒形ヴォールトの天井とされ、しばしば華麗な ムカルナス装飾 がほどこされた。アラブ人よりも、見た目の美しさを重視する ペルシア人の 感性の発露だったと言える。

さて アラブ型からペルシア型への 変化部分は 、他にもあった。まず 屋根の不燃化である。アラブ型では シリア・ビザンティンの伝統に従って 木造の陸屋根が基本であったが、ペルシアでは 木材の欠如から、すべてをレンガ積みでつくろうとする。柱から柱へは すべてアーチを架け渡し、4つのアーチで囲まれた区画ごとに 小ドーム天井を架けたのである。それと同時に、ミフラーブの手前は 柱を取り除いて広い正方形の空間をつくり、ここに 大きなドーム屋根をかけた。この 天井の高い場所が主空間となり、均質的なアラブ型とはちがう、メリハリのある礼拝室となったのである。

以上で大体の違いがお分かりであろう。ペルシア型の最大の特長はイーワーンである。四角い壁のような入り口がアーチになっている面である。このイーワーンが四角い中庭を囲む対面の2カ所、あるいは4面に設けられているわけである。有名なイスファハンの「王のモスク(現在のイマーム・モスク)の図面は以下の通りである。

王の広場から入っていくと図の中庭にでるのであるが、中庭を囲む四面がイワーンであることがわかるであろう。王の広場から入っていくときに通る最初の門もイーワーンである。次の写真はそれを私が写したものである。

ドームと尖塔という取り合わせのアラブ型に対してペルシア型はイーワーンとタイルが特徴と言えるかもしれない。ペルシア型にも尖塔はある。前にも述べたことがあるが地方の素朴なモスクが好きである。私が写したそんなモスクのイーワーンも紹介しておこう。

モスクを知る❸:モスクの分類

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前回、モスクの形というタイトルで書いたのであった。が、それは基本的なことだけであった。もっと総合的に言及しなければモスクを知ることにはならないだろうと思う。というのはモスクと言っても地域によってかなり違ったものがあるからである。それらをどうまとめればいいのだろうか。モスクを分類するとどうなるのだろうか?インターネットで「モスクの分類」と検索すると神谷武夫氏のサイトに出会った(http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/1_primer/types/types.htm)。
神谷さんは建築家である。世界各地を旅して、インドやイスラム、ロマネスクの建築文化を研究している方である。
彼によれば、モスク建築の分類法としては ① 材料別 ② 機能別 ③ 構成別 という方法が考えられるとしている。

①材料による分類:
やはり建築家らしいと思った。私はアラブの一般的なモスクとイランのモスクは正面から見た形が異なると思っていたので、分類となるとまずは外観だろうと考えていたのである。しかし、建築家は建築に使用する資材から分類している。地域によって、利用できる資材が異なるであろう。従って、モスクを建築するについても、現地で容易に手に入るものを利用するのだと。もっともな話だ。
の分類によれば『「土のモスク」、「レンガのモスク」、「木のモスク」、「石のモスク」に大別される。現代では 鉄筋コンクリートのモスク、鉄とガラスのモスク、空気膜構造の 布のモスク、さらには プラスチックのモスクさえも考えられるが、ここでは伝統的な材料のみを考えることにする。』とある。イスラム建築、イスラムのモスクというと第一にレンガ造りをイメージする。そして、雨の降らない地域では泥を固めた土壁など、土を利用するのもある。私自身は木のモスクをイメージしたことはないが、山岳地方で木材が採れる地域ではモスクも木で造られるのである。そのような説明とともに、それぞれのモスクの画像も紹介されている。是非とも上述した神谷氏のサイトにアクセスして読んでもらいたい。

②機能別:第2の「機能別」というのは、そこで行われる礼拝が 個人用なのか、集団礼拝用なのか、葬祭用なのか、年に2度の大祭用なのか といった、規模と目的による種類分けである。このように記されているのだが、私には少しピンと来ない。集団礼拝が行われる大きなモスクと、そうではない比較的小さなモスク程度にしておきたい。あちこちに「金曜日のモスク」と呼ばれるものがあるが、それらは前者になるのだろう。

③構成別:この項は、神谷氏のブログの説明をそのままお借りしてここに張り付けておく。第3の「構成別」というのは、プランおよび空間構成による「型」の分類である。単室型と中庭型の違いは すでに見たので、歴史上で広く行われたモスク形式の 典型を求めると、「アラブ型」、「ペルシア型」、「トルコ型」、「インド型」の4つがある。最初のアラブ型は、アラビア語と同じように イスラーム圏全体で行われた建築形式であり、モスクの基本形となった。
モスクの代表的な 4つのタイプ
 アッバース朝が弱体化すると、各地が政治的に独立するとともに イスラーム以前からの文明を受けついだ独自の建築文化を発展させる。とりわけ 近世(16~17世紀)に イスラーム圏を分割するかのごとくに鼎立した3つの大帝国は、それぞれに 特徴的なモスク形式を確立することになる。すなわち ペルシアのサファヴィー朝、トルコのオスマン朝、インドのムガル朝である。それぞれの帝国は大規模なモスクを各地に建てたし、近隣諸国にも そのスタイルを普及させたので、ペルシア型、トルコ型、インド型のモスクが、アラブ型と並ぶ モスク建築の典型になったのである。以下に、それぞれの特徴を 詳しく見ていくことにしよう。とあるのである。しかしながらその説明を全てここに張り付けることはエチケットに反すると思うので、皆さんが各自、そのサイトにアクセスして勉強してもらうことにしよう。そのうえで、後日、私の目で見たアラブ型とペルシア型の比較でもやることにしようと思う。

モスクを知る❷:モスクの形

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イスファハンで写したモスク

前回に続いて「モスク」です。今回はモスクの形?をテーマにしましょう。多くの方はモスクのイメージを抱いていることでしょう。ドームの天井をもった建物があり、周囲にミナレットと呼ばれる尖塔がある。ドームと尖塔、これだけでモスクの画像が十分に浮かんできますね。大和書房発行・山内昌之監修『イスラーム基本練習帳』51頁の図を引用してみましょう。

言うまでもなく図は一例であって、全てのモスクがこのようではない。先ずはミナレットである。高い塔であり、人が登ってここから礼拝の呼びかけ(アザーン)をする場所である。モスクの近くの宿に泊まると、早朝にアザーンの大きな声に目が覚めることも多い。今では塔の上にスピーカーを備え付けて、大音量で流すところが多い。でも地方の田舎の風景のなかで遠くから聞こえるアザーンは何とも言えぬ心地いい気持ちになる。

図は次にミーダーア(清めの水場)を紹介している。形は様々である。小学校の水飲み場のように蛇口が複数個並んでいるものもあれば、大きな池があったりもする。祈りの前には必ず身を浄めなければならない。

一番重要なのが図の下の方の「ミフラーブ」である。イスラム教徒のお祈りは、モスク以外の外でも、あるいは世界中どこにいてもメッカの方角を向いて行わなければならない。その方角を「キブラ」という。ミフラーブはモスクの建物のなかのメッカの方角にあたる部分の壁にくぼみを造って、装飾している。その隣に「ミンバル(説教壇)」がある。人々はミフラーブに向い、その人々に向って導師がミンバルから語り掛けるのである。

日本人が観光ツアーでイスラム世界に行くと、モスクを訪れることもあるだろう。個人で行く場合も美しいモスクは是非とも見てもらいたい。トルコのアヤソフアやブルーモスクのように世界中から観光客が押よせるモスクも、それはそれで素晴らしいものではある。しかしながら、ガイドブックに載っていないような小さなモスクに出会ったなら、そんなモスクにも入って見てほしい。本来の静かな祈りの場である。地元の人々や子供がのんびり遊んでいる風景がある。癒される風景である。次の写真はイスファハンの中で見つけた質素なモスクで写したものである。お気に入りの一枚である。