前回の「第2章雌牛」の続きです。正直な話、私自身はコーランを丁寧に読んだことはありません。必要に応じて、所々を拾い読みしたというのが現実です。でも、最初に手にしたのが以前にも紹介しましたが、岩波文庫の井筒俊彦先生訳でして、大学生の時でした。だから、もう50年も前のことですから、その間、ずっと私の傍には置いてあったことになります。でも、丁寧に端から端まで読んだわけではありません。ブログを書くようになり、いまコーランについて書くのを機会に、勉強しながら読んでいるのが真実であります。コーランの専門家などではありません。その辺はご了承ください。一緒に勉強していきましょう。
さて、本題に入りますが、この章には色々なことが書かれています。特に一般の人でも知っているようなイスラムのこと、例えば前回述べた「メッカの方向に向かってお祈りすること」「豚肉を食べないこと」「断食のこと」などです。今回もそのようなこと(と言っても私が興味ある事柄になるでしょうが)、をいくつか紹介いたしましょう。今回も井筒訳を拝借します。
第195節「アッラーの道に(宗教のために)惜しみなく財を使え。だがわれとわが身を破滅に投げ込んではならぬ。善いことをせい。アッラーは善行をなす人々を愛し給う。」
第196節「メッカ巡礼と聖所詣での務めをアッラーの御ために立派に果せ。しかし妨害されてそれができない場合には、何か手ごろな捧げものを(出せばよい)。その捧げ物が生贄を捧げる場所に到達するまでは頭を剃ってはいかんぞ。しかし病気とか、または何か頭に傷をうけて(どうしても頭を剃らねばならぬ)人は、その償いとして断食するか、自由喜捨をするか、さもなければ生贄(少なくとも羊一頭)を出すがよい。・・・・・」
宗教のためには金を使うことを奨励していることが面白い。また、巡礼についてであるが、できない場合は捧げものを、しかし、それについても頭を剃ることはあわてるなとか、でも、それも都合によっては無理なら、こうしたらいいというようなことが述べられているわけです。イスラムではこのように「~ができないときは、~しろ」ということが随所にあるように思うのです。断食の場合もそうです。「病気の時は仕方がない。旅行の時も断食は辛くてしんどいからやらなくていい。でも、後日改めて断食しろ。それが出来なければ施しを与えなさい」という風にです。つまり、非常に現実的な規則を定めているのです。精神論だけでなく、現実的な規則なのです。私はそれが「人間臭い」と感じるのです。
次のくだりは神へのお願いのことらしい。
第198節~202節「汝らが神様にお恵みをおねだりするのは罪ではない。・・・中略・・・人によっては、「神様私どもに現世で(沢山よいものを)お与え下さい」などとお願いする者があるが、そのような者は来世で何の分け前にも与れまいぞ。また人によると「神様、私どもに現世でもよいものを、来世でもよいものをお与え下さい。私どもを(地獄)の劫火の罰から護り給え」という者もある。このような者どもには自分で稼いだだけのものが与えられよう。まことにアッラーは勘定早くおわします。」
ここの部分もユーモラスではないでしょうか。「お前たちのなかにはいろんなことをお願いしてくるやつがいるんだよ」と苦笑いしているアッラーが目に浮かびます。そこでお気づきでしょうか。イスラムは今生きている現世の利益を求めるのではないということです。ムスリム(イスラム教徒がもとめるのは来世利益なのです。死後の世界で地獄に落ちて劫火の苦しみを受けることから逃れるために生前に善行を積むことを奨励しているのです。
第214節「一体汝ら、過ぎた昔の人々が経験したような(苦しい試み)に遭わずに(楽々と)天国に入れるとでも思っておるのか。。(昔の人たちは)みんな不幸や災禍に見舞われ、地揺れに襲われ、しまいには使徒も信者たちも一緒になって「ああ、いつアッラーのお助けがいただけるのか」と嘆いたほどではなかったか。いや、なに、アッラーのお助けは実はすぐそこまできておるのだが。」
第215節「どんなことに金を使ったらよかろうかとみんながお前(ムハンマド)に訊いてくることであろう。答えてやるがよい、善行につかう金なら、両親と親類縁者、孤児と貧民と路の子(旅行者)のため。お前たちがする善行については、アッラーは何から何までご存知だぞと。」
第219節「酒と賭矢(賭け事の一つ)についてみんながお前に質問してくることであろう。答えよ、これら二つは大変な罪悪ではあるが、また人間に利益になる点もある。だが、罪の方が得になるところより大きい、と。・・・・・」
楽々と天国に行けるものではないのだと、言っている。イスラムは現世よりも来世のほうが長いので来世で天国で幸せに暮らすことを夢見ているのです。そのためにも地獄の劫火に遭わないことを求めるのです。地獄の劫火にあったらそれはそれは苦しいこと限りない世界のようです。すでにもう死んでいるのだから、劫火にあってどんな苦しい目にあっても死ぬことはない。極限の苦しみが永遠に続くことにある恐ろしい地獄の世界らしいのです。
ここでもお金の使い方がでてきました。使い道の一つとして両親、親類縁者、孤児、旅行者への支出が挙げられています。血縁よりもイスラム同胞を重んじるイメージがあるので両親、親類縁者はちょっと意外ですが、孤児を大事にするというのはあちこちで述べられていることです。酒と賭け事については 益<害 ということで説明されています。
第256節~257節「宗教には無理強いということが禁物。既にして正しい道と迷妄とははっきりと区別された。さればターグート(イスラム以前のアラビアで信仰されていた邪神のたぐい)に背いてアッラーの信仰に入る人は、絶対にもげることのない把手を掴んだようなもの。アッラーは全てを聞き、あらゆることを知り給う。アッラーこそは信仰ある人の保護者。彼らを暗闇から連れだして光明へと導き給う。だが、信仰なき者どもは、ターグートたちがその保護者、その手引きで光明から連れ出され、暗闇の中に落ちて行く。やがて地獄の劫火の住人となり、永遠にそこに住みつくことだろうぞ。」
無理強いして入信させるのは禁物であると言っている。だから入信しなくてもいいではなく、イスラムを信仰しなければ地獄へ落ちて大変なことになるぞと言っているのである。そして、光明という言葉がでてきたが、イスラムではイスラム以前の時代をジャーヒリヤといって日本では無明時代、つまり光のない時代と訳されています。イスラムではイスラムが誕生して人々は光ある世界の下で暮らせるようになったと言っているのです。私からみるとイスラム以前にも例えばササン朝ペルシャなどでは洗練された文化のもとで豊かな世界が発展していたと言いたいのですが。
この章はもう少しありますが、とりあえず今日はここまでにしておきます。続きを書くか、また別の章へ移るのか、それは神のみぞ知ると言っておきましょう(笑)。ところで冒頭の画像はオスマン朝時代の17世紀にムスタファ・イブン・ムハンマドという書家のコーランの写本です。『Palace and Mosque, Islamic art from the Victoria and Albert museum』から拝借させていただいたものです。それから、ここに書いた事柄がすべてではありません。例えば酒なら酒についての記述は他にも沢山あります。同様に賭け事についても、断食や巡礼についても複数の章で書かれているので、ここのものがすべてではないことには御留意ください。