想い出の中東・イスラム世界:カスピ海沿岸での子育て

平成から令和へと時代が変わった。新天皇即位のお祝いや十連休という初体験を多くの日本人が満喫したようだ。私事では娘一家の4人が帰ってきてくれたので、近くの行楽地に泊りがけでいくこともできて、二人の孫たちと楽しく過ごすことができた。孫の年齢は7歳と3歳である。孫たちは私の持つスマホを開いては、旅行中に写した写真や動画を見ている。3歳の孫ですら、自由自在に操作している。私たちの子供の時代(孫の親達)には想像もできなかったことである。

私の娘が生まれるころ、我々夫婦はイランのカスピ海沿岸のラシト(Rasht)という町に住んでいた。出産のために妻が帰国して、3ヵ月経った頃に子供とともに再びラシトに戻ってきた。今から40年ほど前のイランの田舎町である。スーパーマーケットがあるわけでもない。鶏の肉を料理したければ、鶏を買ってくるのだった。鶏をバラすことからやるのだった。もちろん、日本人の若い妻にはできないから、メイドさんがすべてやってくれるのであった。現地の料理も時々作ってくれた。その時は我々二人が食べる何倍もの量を大きな鍋で作ってくれた。彼女の家族の分も計算して作るのだ。我々はそんな生活を面白がって楽しんでいた。天井裏に蝙蝠が巣を作って、日が暮れだすとそこから蝙蝠が一斉に飛び出していく姿には驚いた。蝙蝠の赤ちゃんが落ちてくることもあった。そんな時にはメイドさんの旦那が天井裏に入っていって、蝙蝠を追い出して奇麗にしてくれた。楽しい思い出ばかりが浮かんでくる。

さて、生後3か月の赤ちゃんをメイドさんは可愛がってくれた。彼女の名はソラー(Sorah)。昼間は妻と二人で漫才のような会話をしながらの子育てだった。私は仕事から帰った後とか休みの日に子供を連れて散歩にでるのが常だった。イランの人が寄ってきては「ナーゼ、ナーゼ(可愛い、可愛い)」と言ってくれた。そして「ペサル?(男の子?)」と念を押すのだった。実は娘ので「ドクタル アスト(娘だよ)」と言うと、あわてて再び「ナーゼ、ナーゼ」と強調してくれた。確かに男の子のようであったことは確かなのだが。

時々おもちゃなどを日本から届けてもらうこともあった。でも、日本と同じようにはできない。その辺にあるものがなんでも玩具である。ある時はカボチャに目鼻を書いて遊び相手にした。

散歩に連れて行くのは家の周辺である。でも、周りの風景は日本ではない。でも、イランの風景というと砂漠や木のない山であるが、カスピ海沿岸は日本と同じような緑の多い風景である。生活様式も日本と似ている点が多い。働き者の女性が多く、彼女たちはチャドール(身体を隠すベール)を腰に巻き付けて作業する土地柄だ。話がそれたが、家のすぐ裏にいけば羊がいた。子供は羊たちをみて育ったと言えるかもしれない。イランでは犬は飼わない。犬を嫌う。「ペダレ サッグ」という言葉があるが、「くそ野郎」というような意味で相手を罵倒するときに使う。ペダルは父(親父)、サッグは犬である。最近ではペットに買う人もいるとは聞いているが。

夏は日本同様にこの地域は湿気が多い。蒸し暑い。でも乾燥したイランではそれが良いのである。カスピ海沿岸はショマール(北)という風に呼ばれており、イラン全土からリゾートへ来るという感覚なのである。私たちもカスピ海で泳いだ。もちろん赤子の娘も。次の写真がそうである。夏だから娘も8カ月ほどになっている時であろう。

カスピ海で泳いだ日本人の最年少かもしれない。最後は我が家である。平屋のゆったりした(悪く言えばだだっ広い)家であった。噴水の池があり、子供は何度も落ちかけた。これが40年余前である。

2011年にこの町を再訪したときに行ってみたら、そのまま残っていた。周辺はすっかり様変わりしていたが、我が家だけは残っていた(次の写真2枚)。この地はラムサールへ向かうため、早朝6時ごろに訪ねたので、インターフォンを押して住んでる人に会うことは断念したが、懐かしい思い出の場所である。もし、住人に会っていたら「どうぞ、どうぞ。中に入って下さい」となり、おもてなししてくれて出発が大幅に遅れてしまったことであろう。

キーワード:ラシト、Rasht、カスピ海

 

想い出の中東・イスラム世界:イスラムの若者たち(1970年代)

テヘランにあるゴレスターン宮殿(カージャール朝の王宮)

新年以後、ほぼ3週間の間、歴史の流れに沿ってこのブログを書いてきた。そして、いま七世紀のイスラム初期に入ったわけである。読者の方々が、ずっと歴史を読み続けるのも少々疲れるかもしれない。そこで今日は歴史を離れた話題を提供しようと思う。カテゴリーは「想い出の中東・イスラム」としておこう。

私が最初にいった海外がイランで1971年であった。当時のイランはパーラヴィー国王時代で脱イスラムの方向に向かっていた。女性たちもチャドール(女性が頭から身体全体を隠すヴェール)を被らないようになりつつあった。私は24歳であったが、会社には同世代の若い人もいたから、すぐに友達になった。イスラムの人たちである。ある時、パーティをするからと誘われたことがあった。仕事を終えて集まったのは夜の9時ごろで、そこには20人以上の若者がいて、照明を落として、薄暗い広間だった。ソフトドリンクとクッキーやケーキなどが用意されていて、おしゃべりの場であった。自分は殆どの人が初対面だったから、皆と最初の自己紹介的な会話をしていた。途中から音楽の音が大きくなって、皆が立ち上がり踊り始めたのだった。少し、テンポの速い曲でムード音楽ではない。フォークダンスではないけれども、輪になって回っていくような踊りで盛り上がった。社交ダンスならできないのでホッとしたのだった。その時に、ここはイスラムの国だと改めて気づいたのだった。というのは、その時の音楽の歌詞が時々「エイ ホダー、エイ ホダー」と繰り返すのである。ホダーといいうのは khoda-というスペルで神という意味だ。若者たちが「おー神様、おー神様」という歌詞の下で踊っているということが、印象的だった。繰り返し踊り、食べて、喋り、また踊る。夜も更けて疲れたころになりやっとスローな曲になった。いよいよお開きだった。この日は、この家の親たちは旅行で不在のために、ここを会場にして集まったという。その後も何度か誘われた。そんなパーティが私の思い出の若者同士の集いであった。その頃の若者たちのファッションは日本と一緒であった。日本ではミニスカートをはいたツィッギーという女性が大人気になり、テヘランでもミニが流行した時代であった。