イランの新大統領決選投票で改革派候補が勝利

2004年7月6日、イランの大統領選挙で改革派候補者が当選した。一回目の投票で過半数を獲得した候補者がいなかったために、上位2人による決選投票となっていた。私としては当然保守派が当選するための儀式でしかないであろうと予想していたのあるが、意外な結果に驚いている。保守派にとっては1回目の選挙結果が大きな誤算であった。保守強硬派の有力な2人の候補者の一本化ができなかったため、二人の候補者が1位と3位に票が割れてしまったのである。そして知名度の低い改革派のペゼシュキアン候補が第2位に食い込んだのであった。冒頭の新聞は7月7日付の Iran Daily 紙である。写真の左側のコラム(英文)には次のような編集者の記事がある。

モスタファ・シルモハマディ編集長
マスード・ペゼシュキアン氏は、イランの有権者6140万人のほぼ半数が投票した決選投票で、イランの第9代大統領に就任した。社会、政治、経済改革を公約に掲げて出馬した70歳の元保健大臣は、約1640万票を獲得した。一方、保守派のサイード・ジャリリ候補は約1350万票を獲得し、金曜日の時点で勝者と9%以上差をつけた。
(中略)
ペゼシュキアン氏は、経済繁栄、社会的自由、インターネット規制の緩和と解除などの選挙公約を実現し、4年間の任期中にこの国家資産を守るという大きな重荷を背負わなければならない。
このベテラン改革派には、制裁を受けたイランの経済を強化し、国民生活の向上を第一の優先事項とする以外に方法はない。これは、次期大統領選挙の支持基盤を維持し、一般投票率を上げるために、在任中の計画の要となる可能性がある。
急激なインフレ、2桁の失業率、法外な家賃など、経済的困難に見舞われている国を、選挙に積極的に参加させるのは「ミッション・インポッシブル」のように聞こえる。
こうした目標を達成するために、次期大統領は、他の権力機関、経験豊富な政党、そしてイスラム共和国内の同様に強力で影響力のある人物や団体を味方につける必要があることは間違いない。争いや内紛は、彼の政府だけでなく、より広い意味ではイスラム体制全体に害を及ぼすだろう。なぜなら、これが彼の改革計画の失敗を早め、結果として次の大統領選挙で多くの有権者の士気を低下させる可能性があるからだ。
国民の団結は、ペゼシュキアンの新興政権の成功にとって必要条件である。

承知のようにイランの政治体制では大統領の上に最高指導者が存在する。現在はハメネイ師である。彼は保守強硬派の頂点であり、大統領と言えども彼には逆らえないのである。新大統領が改革を進めようとしても保守派からの横槍が入るのは当然のことである、過去にもハタミ大統領、ロウハニ大統領などの穏健派大統領が選ばれたが思うような政治ができなかった経緯がある。今回も新大統領が難しいかじ取りに苦労するのは自明である。そのためにも上述の新聞記事が述べているように国民の団結を力にするように最大限の努力が必要であろう。

パレスチナ難民:75万人から640万人に

イスラエルとハマスの戦いは依然として続いています。イスラエルの軍事力をもってすれば、イスラエルが圧倒的に有利なことは当然です。その下で多くの子供たちが犠牲になっています。
今回はパレスチナ難民の人数を取り上げようと思います。そのためにはイスラエルの建国から話しを始めなければなりません。

イスラエルがパレスチナの地で建国宣言したのが1948年5月14日であった。アラブ側(レバノン、シリア、ヨルダン、エジプト、イラク)は即戦闘態勢に入り第一次中東戦争が始まった。この戦争はイスラエルが勝利し、パレスチナ全土の75%を支配下においた。イスラエルの支配下に陥った土地のアラブ人たち75万人がヨルダン川西岸、ガザあるいは周辺のレバノン、シリア、ヨルダンなどに流出し難民となっていった。この周辺地域に逃れた人が、劣悪な環境のもとで難民として生きてきたのである。子孫が増えていった。私がまだ現役の大学教員であったころ、その当時の難民の数がどうなったかと調べて本に書いたのが次の表である。当時2005年時点の数であるが、1948年に75万人であったものが425万人になっていたのである。

それでは現在の数はどうなっているのであろうか。
2021年時点のUNRWA統計によるとパレスチナ難民の分布はつぎのとおりである。

なんと約640万人となっているのである。難民キャンプで生まれ、難民生活から抜け出せない人々がこんなに沢山いるのだ。いま世界中で紛争が多発し、難民が生まれている。初期の対処方法を間違えば難民の数が増え続けることになるという現実がここにはある。戦争は一時的なものではない。戦争が終わっても、戦争の後遺症はその人の人生を狂わせてしまうのである。

イスラエルのガザ攻撃(現在のパレスチナ問題)

ハマスを撲滅するという旗を掲げたイスラエルのガザへの攻撃は続いています。数多くの民間人や子供たちも殺害されてきました。先日の学校への攻撃に対しても、イスラエルはその校舎にいたハマスの連中を狙ったものであったと開き直る有様です。理由はなんであれ、戦争によって多くの人々が傷つき、死んでいく有様は見たくありません。こういうことが継続するとユダヤ人に対する憎しみが増幅されてしまうのではないでしょうか。アメリカでは大学生たちがバイデン政権のイスラエル支援に「ノー」という意思表示をし、その動きは世界中に広がりつつあります。そうなるとイスラエル寄りの社会からはハマスに対する非難も高まります。戦争は一方が負けるまで終わらないものなのでしょう。このような戦争を引き起こしているパレスチナ紛争、パレスチナ問題とはどのようなものなのでしょうか。

パレスチナ問題についてはこのブログの中でも随分前に書いています。それらについては、このブログの中で「パレスチナ問題の復習」という語句で検索すれば4回分が出てきます。それを読んでいただければ幸いです。私たちの世代、つまりは高齢者の場合、パレスチナ紛争についてはある程度の知識は持っているように思います。なぜかというと若い時代に中東戦争があったからです。中東戦争は第一次から第4次と繰り返された戦争でして、特に第4次が1973年のオイルショック(第一次石油危機)を引き起こしたのです。ゆえに、その戦争に至る経緯、歴史がある程度、情報、知識として頭に入っているのです。詳しいことは覚えていないかもしれませんが。では、現在の高校の世界史教科書では、どれくらい記述されているのでしょうか。ちょっと覗いて見ましょう。

山川出版社『詳説 世界史』の298頁をピックアップしてみます。
アラブ地域では、アラビア半島においてかつての王国の再興をみざすイブン=サウードが、イギリスと同盟を結びながら、ワッハーブ派の勢力を率いて頭角を現した。彼は大戦中からアラブ独立運動を指導してきたヒジャーズ王国のフセインを破り、半島の大部分を統一して1932年にサウジ=アラビア王国を建てた。まもなく国内で莫大な石油資源が発見されると、同国の戦略的な重要性は著しく高まった。
大戦の開始とともにイギリスの保護国となっていたエジプトでは、戦後に全国的な反英独立運動がおこり(1919年革命)、1922年にイギリスは条件付きの独立を認めて、立憲君主制のエジプト王国が成立した。しかしイギリスはスエズ運河の支配権など多くの特権を維持したので、エジプト人による抗議が続いた。
またイラクはイギリスの、シリアはフランスの委任統治下に置かれたのち、それぞれ独立を達成していった。しかし、それらの国境線は列強の思惑によって定められたものであり、アラブ地域はいくつもの国境線で分断されることになった。
もっとも大きな矛盾が生じたのはパレスチナである。イギリスは大戦中、1915年のフセイン・マクマホン協定によってアラブ人にオスマン帝国からの独立を約束する一方、17年のバルフォア宣言ではパレスチナへの復帰をめざすユダヤ人のシオニズム運動を支援する姿勢を示し、双方から協力を得ようとした。こうしたあい反する約束に加えて、大戦後にパレスチナはイギリスの委任統治領となったため、アラブ・ユダヤの両民族はそれぞれの権利を主張して対立し、現在まで続く深刻なパレスチナ問題が生まれることになった。

この程度、教科書の1頁にも満たない程度の記述でパレスチナ問題の経緯が述べられています。勿論、他の部分でも関連する事項は書かれているのですが、薄っぺらい内容でしかありません。世界の歴史なので教科書1冊に入れるとしたらこの位が限度なのでしょうね。こうしている間にも、先日はハマスに捉えられていた人質の4人をイスラエルが救出したと報じられました。その救出に伴ってパレスチナ側の200人以上が殺されたとハマス側は発表しています。ハマスの報道がすべて真実であるとは思いませんが、胸が痛みます。イスラエルの国防相がネタニエフの方針に反対して辞任したとのこと。彼の辞任によってイスラエル側の攻撃はますます激しくなるという見方もでています。今日、岸田首相がG7サミットのためにイタリアに出発します。世界を代表する国の首脳が集まっても何も解決できる期待はありません。みんな自分の国が大変なことになっています。いったい世界はどうなっているのでしょう。

クルド人作家の『イスタンブル、イスタンブル』

前回は1月初めに「しばらく遠ざかっていたブログだが、新年になったので、再びこまめに書き始めよう」と意思表示したのであったが、何も書かずに2月下旬になってしまった。パレスチナの戦争や、ウクライナの戦争も停戦からほど遠い状態が続いているせいかもしれない。重い腰を上げて、今回はいま遅々と読んでいる本を紹介しようと思う。

ブルハン・ソンメズ著『イスタンブル・イスタンブル』である。新聞の書評によると、トルコの大作家であるという。クルド人であるとのこと。クルド人の作品は読んだことがないので、すぐに買い求めたのである。彼自身クルド人として弾圧を受け、人権弁護士として反政府活動に身を投じたとのこと。その結果、英国に亡命ということである。

クルド問題はパレスチナ問題と同等に大きな問題でありつづけてきた。クルド人はトルコ、イラク、イランの3つの国に居住した大きな民族である。でもそうではない。クルド人の土地(クルディスタン)に3つの国が国境線を引いた結果、クルディスタンが3つの国に分断されたのである。分断されたクルド人がそれぞれの国の政府と対立を繰り返して今に至った。第一次世界大戦後にはセーブル条約によってクルド人の国ができようとしていた歴史もある。・・・・ごちゃごちゃ言うのはやめておこう。話はこの本のことである。牢獄の中を舞台にして囚われた人々の会話が続いている。重苦しい内容であるが、あまり前に読み進めない。今私が言える感想はそれしかない。今日のような天気の良い、穏やかな日には読む気になれない。かと言って、昨日のような嵐のような風が吹いて寒い日にも、この本を手に取る気にはならなかった。でも、虐げられた人々の声を中東専門家として聞く、知ることは当然やらねばなりません。少し時間がかかるかもしれませんが、読み終えるつもりです。

イスラエルとパレスチナの戦争

このブログの8月にエジプトの元大統領の言葉を紹介しました。その言葉をアラビア書道作品にして11月に開かれる京都での作品展に出品する予定でした。パレスチナでの戦争がこのように拡大することは、その時は思ってもいませんでした。世界中がイスラエルのガザ攻撃について、人道的な観点から市民を犠牲にしないようにと求めています。でも、イスラエルの攻撃をやめろ、戦争をやめろとは言いません(徐々に停戦すべきだという声がたかまりつつありますね)。戦争はしてもいいけど、市民を犠牲にしてはいけないというのですね。私たち日本人は戦争を放棄した国民です。どんなことがあっても戦争はダメと思うのですが。改めてサダトの言葉をここで紹介させていただきましょう。

「平和は土地よりもはるかに重要です・・・・。
戦争はもう終わりにしましょう。」

サダトがエジプトの大統領だったとき、イスラエルと和平条約を締結しました。その結果、ノーベル賞を受けました。その時にカイロでスピーチした時の一節なのです。

さて、イスラエルのガザへの侵攻がエスカレートしています。病院や学校にまで侵攻しています。病院の地下にハマスの拠点があるので、それを攻撃するというのです。ハマスは病院を盾にしているというのです。昨日のニュースでは地下の画像も出ていましたがイスラエルの元高官はこれらの地下トンネルや施設はかつてイスラエルが造ったものであるという証言もあります。アメリカがかつてイラクを攻撃したときのことを思い出します。イラクは「大量破壊兵器を有している」ことを理由に仕掛けたのでした。例え病院の地下にハマスの拠点があったとしても病院にいる患者や避難民を襲っていいという理由にはならないでしょう。

私はこのブログに書くことを躊躇っていました。パレスチナ問題の本質をきちんと理解していない世界の風潮に何を言っても無駄な気がするからです。いまハマスが人質を徐々に解放し始めました。一方でイスラエルもパレスチナ人を釈放し始めました。イスラエルには多くのパレスチナ人が拘留されていることが世界に明らかになりました。釈放された女性や子供をみて世界はどう感じているのでしょうか。罪状も明らかでなく裁判に掛けられたわけでもなく、行政拘禁という手段で留置されていたのです。ヨルダン川西岸へのイスラエル人の無法な入植も咎められていません。そういうイスラエルを世界が黙っていたことにパレスチナ人が反発するのは当然のことでしょう。冒頭の画像はサダトの言葉をアラビア書道の作品にしてみました。まだまだ拙い作品ですが、戦争は止めて欲しいという気持ちを込めました。

ノーベル平和賞がイラン人女性に!

ノーベル平和賞がモハンマディさんに授与されました。イランの民主化、女性解放のために活動している女性です。同じく平和賞を2003年に授与されたエバディさんが率いる「人権擁護センター」の副代表である。モハンマディさんは現在刑務所に収監されている。イランで「自由、命、女性」というスローガンを掲げて立ち上がった人々のリーダーである。受賞当日彼女は「この日は刑務所での最も輝かしい最高の1日だった」と家族が投稿するインスタグラムで伝えられた。
喜ばしいニュースではある。私自身もインスタグラムに「おめでとう」と投稿した。そして「これが彼女にとって良かれとなるか否や?少し心配である。」と付け加えた。私の思いはノーベル賞が授与されることによってイランの現状が変わるかという疑問である。2003年のエバディさんの受賞によってイランは変わったか?いや変わってはいない。いまも継続して活動中であるので今後変わることを期待したいのであるが、ノーベル賞によって飛躍的に事が改善するとは思えないのである。活動が勢いづいて再び政府の圧力が増すことがないように祈りたい。

戦争はもう終わりにしましょう!

2022年11月に『アラブのことばと絶景100』の書籍を紹介しました。暇な時にパラパラと絶景の画像を見たり、時にはじっくりと言葉の意味を考えたりしてきました。その中に1970年代のエジプト大統領アンワル・アッ=サーダートの言葉があります。日本ではサダトと表記されている元大統領です。私が時々引用させていただいているインターネットの「世界史の窓」のサイトでは彼のことを詳しく説明していますので詳しいことはそこをご覧いただければいいと思います。
https://www.y-history.net/appendix/wh1703-020.html
ここには、その冒頭の数行を引用しておきます。
1970年代のエジプト大統領。軍人としてナセル政権を継承し、1973年に第4次中東戦争でイスラエル軍を急襲して有利に戦ったが、1977年に突如イスラエルを訪問して和平に転じ、1979年にアメリカの仲介により平和条約を締結した。しかしアラブ強硬派の反発をうけ、1981年に暗殺された。
第4次中東戦争の時の大統領でした。最初は有利だった戦況も最終的に敗れることになった。アラブ側が石油輸出を武器にしたために石油危機(オイルショック)につながった戦争である。以来、原油価格は上昇の一途を辿ってきた。

さて、サダトの言葉である。彼は何と言ったのだろうか。1978年、カイロでのスピーチで語った言葉です。イスラエルとの平和条約を結び、ノーベル賞を受賞しました。しかしながら、イスラエルとの和平合意を良く思わない過激派によって暗殺されました。
「平和は土地よりもはるかに重要です・・・・。
戦争はもう終わりにしましょう。」
明日8月1日は終戦記念日です。ウクライナとロシアの戦争はまだ終わる気配もありません。西側が武器や兵器を支援している間は戦争は終わらないでしょう。そのような支援は本当の支援とは言えないでしょう。どちらかが破滅するまで戦争が続くだけでしょう。日本の政治家が台湾に行って、台湾有事に触れて「戦う意志を表明することが最大の抑止力である。断固戦う意志をもちましょう」とスピーチで檄を飛ばしていました。戦う意志=戦争する意志とは!日本は憲法で戦争を放棄しています。憲法違反のセリフを堂々と発言するという恐ろしいことをしています。

話しを基に戻しましょう。このサダトの言葉の「戦争はもう終わりにしましょう」という言葉が気に入っているのです。世界の多くの人々の思いでしょう。そこで、私はアラビア書道の秋の作品展にこの言葉を書きたいのです。まだ上手に書けるかどうかは分かりません。作品ができたら勿論ここにアップいたします。腕も手術から徐々に回復して使えるようになりつつあります。アラビア書道界の世界の第一人者である本田先生にお願いしてお手本を書いていただきました。今回はそれをここに紹介しておきます。ナスヒ書体とナスタアリーク書体の2書体で3枚書いて下さいました。私は「戦争はもう終わりにしましょう」の部分だけを書こうと思っているのですが、先生はその前の部分も書いて下さいました。ご鑑賞下さい。

 

ブログ再開です。まずは手術の報告から

しばらく休んでいましたが、左手の指が拙いながらも使えるようになりましたので、ブログを再開することにします。6月26日に左肩の腱板断裂のためのリバース型人工関節置き換え手術を受けました。そして7月7日に退院しましたが、その時点では術部の痛みは相当ありました。丁度1カ月経過した今日8月7日現在では痛みは殆どありません。殆どというのはじっとしていれば痛くないということです。左腕を上に挙げようとすると、90度位から上には挙がりません。挙げようとすると痛いので、リハビリをやりつつ徐々に可動域を広げていくことが必要です。股関節や膝関節を人工関節にする手術はよく知られるようになりましたが、肩の人工関節のことはあまり知られていないような気がします。ちょっと紹介してみましょう。

先ほど、リバース型人工関節と述べたのですが、従来の人工関節とは反対の形で人工関節を付けるというものです。その辺りの詳しい説明は省きますが、私の方に入れた人工関節とは次の図のようなものです。腕の骨に穴をあけてステムとライナーをいれます。これが受け皿です。肩甲骨側にグレノスフェアを取り付けるわけです。取り付けた模式図が次の通りです。腱板は切れてしまっているので、三角筋を利用して繋いでいます。その結果、レントゲンでは次のように見えるのです。これら3枚の画像は京都下鴨病院様のウェブサイトの画像を拝借しています。

全身麻酔の手術でしたので、自分では何も分かりませんでしたが術後は大変痛かったです。というわけで徐々に良くなっていく途中です。それにしても暑い日が続きます。40度近い日が続いていますが、中東ドバイの気温を見てみました。 今日は41度。週末は43度位になりそうですね。日本はそれに比べると少しは良いかも。湿度が32%なのは羨ましいですね。

断食明けとイエメン

前回の投稿は断食月の最中であったので、断食のことを書きました。そして、断食明けは盛大なお祝いの日だと書きました。今回のラマダン明けは21日ということでした。そこでタイトルに挙げたイエメンでは85人の死亡者がでるような惨事が起こったことが報道されました。イランとサウジアラビアが国交正常化に向けて歩き出した一環の流れの中でイエメンの内戦も終結に向けて動きが進んでいる中での今回の事件というか事故だったので、私はとっさに和平への動きに反発する騒動かと思ったのでした。が、そうではなかったようです。事故のあらすじは以下のようでした。

ラマダン明けのお祝いのために富裕層が一人当たり5千イエメン・リアル(約1070円)を配っていたとのこと。そこに大勢の人が殺到して建物の入り口周辺で転倒して事故になったそうである。世界で最も貧しい国の一つに挙げられるイエメンでは5千リアルというのはかなりの金額なのであろう。少なくとも死者が85人、320人以上が負傷したとのことである。ラマダン明けのお祝いがこのようなことになったのは残念である。報道ではこの配布イベントを主催した実業家3名をフーシー派が逮捕したとのことである。ここが現在のイエメンの状況なのである。本来ならイエメンの正式な政府の支配の下での警察が逮捕するのであろうが、そうではなくてフーシーが事実上の支配者であることを示している。今後、イランとサウジの和解により、イエメンでのこの状況が変わろうとしている筈であるが、そうなるであろうか・・・・注目すべきことである。

 

想い出の中東イスラム世界:Sizdah Be-dar (سیزده‌بدر) 祝日 سیزده‌بدر

今日は3月31日です。そろそろイランではFarvardin月の13日になるでしょうか。3月21日の春分の日がイラン暦の元旦でしたから、4月の2日頃が13日になるでしょう。この日はタイトルに書いたように、シーズダアベダルという祝日になります。イスラムの行事ではありません。ペルシアの伝統的な祭事です。春が近づいた春分の日を年の初めの元旦とし、更に2週間ほど経つと草木の芽が一斉に吹きだします。このときイランの人々はお昼の食事を抱えて外に飛び出すのです。英語ではピクニックデイと訳されていたりします。この日でなくともイランの人々は外で食事をするのが大好きです。次の写真はある年の9月に通りがかった公園で写した風景です。家族そろって昼食をしている所でした。

普段でもこのように食事を広げて、楽しくひと時を過ごす姿があちこちで見られるのです。私たちが傍を通ると「ベファルマイ!(どうぞ)」と言って誘ってくれるのです。「メルシー(ありがとう)」と言って通り抜けようとすると「タアロフナコン(えんりょしないで)」と更にしつこく誘ってくれるのです。彼らはすごく社交的で開放的な人々でした。彼らは「自分たちはメフマンドゥーストなんだ」と言います。メフマンは客人のことで、ドゥーストは好きという意味。つまりお客好きの民だというわけです。そうです日本でいう「おもてなし」好きということです。

話を戻しましょう。イランの現体制は厳格なイスラムによって統治されています。イスラムにおいての祝祭日は当然イスラムに関する日に限られています。例えばラマダン明けの日というように。でも、イランは厳格なイスラム体制ですが、アケメネス朝ペルシアのようなイスラム以前の誇り高き歴史があります。その当時の宗教はゾロアスター教が有名です。先ほどの春分の日の元旦やここで紹介しているシーズダアベダルの風習はゾロアスター教に由来するものです。従って、イスラム暦の新年とは異なるノウルーズというお正月をお祝いする風習があるのです。お正月の飾りにも頭文字がSの付くハフト・シン(七つのS)を飾ったりします。ついでに言うならば「お年玉」も子供たちが楽しみにするものです。イランでは「エイディ」というのですが、日本と同じような風習です。

いま日本中が桜の花に酔いしれています。今年はコロナ以前のように花見をすることができるようになったところが増えましたね。コロナが治まって、イランの核合意が好転して制裁が緩和されたりすれば、是非ともイランを訪れたいと思います。そのためにも、ペルシア語を忘れないように勉強をしておきたいなと思うのです。