イスラム世界の偉人③:イブン・ハルドゥーン

久しぶりに「イスラムの偉人③」としてイブン・ハルドゥーンを紹介しよう。『歴史序説』を著した有名な歴史学者であるが、ここで取り上げた理由はそれだけではない。というのは前々回のテーマ「タラス河畔の戦い」でアッバース朝と対峙したティームールからの連想なのである。まずは人物の紹介から始めよう。

先ずは、東京堂出版・黒田壽郎編『イスラーム辞典』335頁:
歴史家、社会学者、哲学者、政治家。1332年にチュニスで生まれ、哲学者アービリーに諸学を学んだ。若くして政界に入り、グラナダのナスル朝、北アフリカの諸王朝、エジプトのマムルーク朝などに宰相や大法官として仕え、1401年のティムールのダマスカス攻略のときにはティムールの幕舎に迎えられるなど時代の変動をまなあたりにし、カイロでマーリキー派法官とし1406年、74歳の生涯を閉じた。
彼の大著『訓戒(イバル)の書』は、主としてアラブとペルシャの歴史、ベルベル史を扱った三部から成るが、特にその序論と第一部が単独に扱われて『歴史序説』と呼ばれ、人類最初の文明批判の書、歴史哲学の書として高い評価を得ている。ここでイブン・ハルドゥーンが展開する理論は、それぞれの社会は風土や自然条件等の諸環境によって規定されること。各個人、階級、諸民族間の力関係によって歴史が影響され、同時に政権争いや戦争ばかりでなく、人間の営み、精神的生産等んついても歴史的考察には不可欠であるとしている。またアラブ世界では定住民と遊牧民の交替によって王朝や文明の盛衰が行われるといった歴史観を述べている。
イブン・ハルドゥーンは、歴史的現象に関する包括的な視座、方法論的なアプローチにより、社会学をはじめとする人文諸学の先駆者とみなされている。

次に、平凡社『新イスラム事典』での説明は以下の通り:
1332~1406。イスラム世界を代表するアラブの歴史家。チュニス生まれ、祖先は南アラブ系でセビリャの支配貴族であったが、13世紀半ばにチュニスに亡命した。幼くして諸学を修めた後、北アフリカ、イベリア半島の諸スルタンに仕え、波乱万丈の政治生活を送ったが、その悲哀を感じて隠退するとともに、膨大な《歴史序説》と世界史に当たる《イバルの書》を著した。1382年、マムルーク朝下のカイロに移住し、学院の教授になったり、マーリク派の大カーディーとして裁判行政に尽くしたりしたが、その間、ティムールの西アジア遠征に対する防衛軍に加わり、ダマスカス郊外でティムールと会見したことがある。彼を有名にしたのは『歴史序説』に書かれた社会理論のためで、彼は人間社会を文明の進んだ都会とそうでない田舎としての砂漠に分け、そこに住む人間は生活環境の違いから、後者のほうが前者よりもより強力な結束力をもつ社会集団を形成しやすく、そこに内在する連帯意識が歴史を動かす動因となる。遊牧生活を送っている連帯集団は支配権への志向をもっていて、やがて発展し都市に根拠を置く支配国家を征服、新しい国家を建設する。しかし都会に生活の場を置いたこの集団は、文明の発展とともに連帯意識を喪失、やがて新たな連帯集団に征服される。彼は以上のような理論を展開するとともに、政治・社会・経済の諸要因の鋭い分析を行っている。彼のこのような思想は、後世の学者たちに少なからず影響を与えたようで、彼の講義を直接聴聞シタマムルーク朝時代の学者たちの中でも、歴史家マクリージーに最も強く認めることができる。しかし、マムルーク朝の滅亡とともに、イブン・ハルドゥーンの存在もアラブ世界では忘れられた。彼の思想や歴史観が再評価され出すのは16世紀末以降のオスマン帝国下で、19世紀にいたるまで、学者や政治家たちがなんらかの影響を受けた。もっとも彼の社会理論を凌駕するような思想をもつ真の意味の後継者は現れなかった。(森本公誠)

14世紀に生きたアラブの歴史学者である。同時に政治家でもあった。今に残る彼の功績の代表は、その著『歴史序説』である。高校の世界史の教科書にも出ている名前と書名である。岩波文庫から4冊になって出版されているが、今は絶版になっている。これの訳者は森本公誠氏である(上の平凡社のほうの執筆者)。古本で手に入れることはできるが、高価な値がついている。私の住んでいる町の図書館の蔵書にはないが、愛知県図書館では蔵書されていることが分かった。この『歴史序説』が『訓戒の書』の一部であるということも上の記述で初めて知ったことである。実際に読んでみたひとのクチコミでは、一般人には少々骨の折れる内容とのことなので、同じ訳者が執筆している講談社学術文庫の『イブン=ハルドゥーン』を読むことを勧めている。というものの探してみると、これまた絶版のようである。しかしながら、電子出版されているので本として手に取ることはできないが電子版なら入手できることが分かった。定価は688円。アマゾンからでもすぐに入手できる。中身の一部を見ることもできる。
[森本公誠]のイブン=ハルドゥーン (講談社学術文庫)

さて、私が興味を抱いたのはティムールとの会見である。ティムールが西進してきたダマスクスを征した時に彼が交渉役としてティムールに会ったわけである。私の手元にある中央公論社発行世界の歴史8、佐藤次高著『イスラーム世界の興隆』には次のように書かれている。

ティムールは1400年10月にはマムルーク総督が守備するシリア北部の古都アレッポを陥れた。二万人を超える死者の頭蓋骨で小山が築かれ、この時破壊されたモスクや学院は二度と修復されることはなかった。次いでハマー、バールベックを落としたティムールは、1401年1月、スルタン・ファラジュ(在位1399~1404)が率いるマムルーク群を一蹴して州都ダマスクスを占領した。このときエジプト側を代表してティムールとの和平交渉に当たったのがイブン=バットゥータであった。すでに『世界史序説』の著者として高名であったイブン=ハルドゥーンは1382年以来、北アフリカからマムルーク朝治下のカイロに移り住み、そこで歴史学やイスラーム法学を講じていた。今回は若いスルタンから直々に請われてのダマスクス行きであった。
64才のティムールと68才のイブン=ハルドゥーンとの会見はダマスクス近郊のグータの森でおこなわれた。・・・会談の途中で、英雄ティムールはこの希代の碩学にサマルカンドへの同行をしきりに求めた。しかしイブン=ハルドゥーンは征服者の厚意に感謝しつつも、結局、最後には家族や友人にるカイロへの帰還を希望したと伝えられる。両者の会談は35日にも及んだが、この間にダマスクス市内では征服軍による略奪や放火や殺人が容赦なくおこなわれた。・・

イブン・ハルドゥーンはサマルカンド行きを断ったが、学者や熟練の職人たちが大勢連れていかれたのだった。これにより、サマルカンドの文化は興隆することになったが、征服された地域は悲惨な状態であった。

タラス河畔の戦い (751年)

昨日のテーマが「アンカラの戦い」だったので、今回も「戦い」を扱おうと思って考えた。そこで、時代は遡るが751年の「タラス河畔の戦い」にした。世界史を学んだ時、この戦いは唐とアッバース朝の戦いであり、この戦いが契機となって蔡倫の製紙法が西域に伝わった、と教わったように思う。ただ、紙の製法は蔡倫が発明したものではないというのが現在の説だそうだ。それにしても、製紙法が伝わったことは間違いないのである。

出所:帝国書院『最新世界史図説・タペストリー』

アッバース朝が成立したのが750年であるから、この戦いは成立直後のことである。イスラムの発展は、ムハンマドの時代(~632) ⇒ (632~)正統カリフ時代 ⇒ (661~)ウマイヤ朝 ⇒ (750~)アッバース朝と辿ったのだったね。アッバース朝はその後バグダードに都を建設し9世紀には人口が150万人を超える大都市になった。一方の唐は最盛期であった玄宗 のころ(8世紀前半)で,人口は100万に達し,渤海 ・新羅 ・日本・ペルシア・アラビア・インド・トルキスタンから人が集まる国際的な文化都市であったという。いずれにせよ、東西の大国同士の戦いであったわけだ。その戦いの経緯、原因は何であったろうか。いつものように「世界史の窓」を見ると、次のように説明している。

この戦争の直接の原因は、唐の河西節度使高仙芝(こうせんし、高句麗出身)がタシュケントの王を捕虜として虐待し、脱走した王子がアッバース朝の応援を要請し、それに応えたイスラーム教徒軍が唐軍を攻撃したもの。高仙芝は3万の兵でタラス城を守り、5日間持ちこたえたが、一部の現地のトルコ系部隊がアッバース軍に内通したため総崩れとなり、生還者わずか数千という敗北を喫した。なおこの戦いの時、唐軍の捕虜によって製紙法がアラビア人に伝えられたことは、文化の東西交流の一つとして興味深い。タラスは現在のキルギス共和国ジャンプイル付近。唐が敗れ西域進出が停止され、中央アジアのイスラーム化が始まった。中国から製紙法がイスラーム世界に伝えられる契機となった。

東西の大国が戦ったこの戦いは8世紀のことである。日本は奈良時代になる。752年が東大寺大仏開眼供養、754年鑑真来日などの時代であった。遠い外国での出来事の時代を日本の時代に照らし合わせることも興味深いものである。

 

ノアの箱舟(続き):古代文書の洪水伝説

ノアの箱舟の話は実はメソポタミアで実際に起きた事柄が基になっているのである。発見された数多くの粘土板に刻まれた楔形文字から様々なことが明らかになっているのだ。有名なのが『ギルガメシュ叙事詩』である。上の画像はちくま学芸文庫の表紙であるが、矢島文夫さんによる訳本である。これによれば、粘土板は1~11までが紹介されている。ギルガメシュ叙事詩のあらすじはエンキドウという王の物語であるが、それはさておいて11の粘土板の部分に洪水の話がでてきている。大雑排に纏めてみると次のようである。

皆で舟を造り始めた。舟は七日目に完成した。私の持てる銀のすべてをそこに置いた。私の持てる金のすべてをそこに置いた。私の持てる命あるもののすべてをそこへ置いた。私は家族や身寄りの者のすべてを船に乗せた。・・・・・・六日と六晩にわたって、風と洪水がおしよせ、台風が国土を荒らした。七日目がやって来ると、洪水の嵐は戦いにまけた。それは軍隊の打ち合いのような戦いだった。海は静まり、嵐はおさまり、洪水は引いた。・・・・七日目に私は鳩を解き放してやった。鳩は立ち去ったが、舞い戻ってきた。休み場所が見当たらなかったので、帰ってきた。私は燕を解き放してやった。・・・(同じように燕も戻ってきた。次に大烏を放ったが、帰ってこなかった)・・・そこで私は四つの風に(鳥のすべてを)解き放し、犠牲を捧げた。私は山の頂にお神酒を注いだ。・・・・・

舟を造って大洪水から逃れたという旧約聖書やコーランと同じようなあらすじであり、旧約聖書の物語の基がこれらの粘土板に書かれたメソポタミア、シュメール人の記録によるものなのだ。それだけでなく、洪水伝説を記述したものは数多く発見されているようである。つまり、大洪水は実際にあった出来事であったわけである。ウィキペディアによれば、イラクにおける発掘で、シュルッパクの洪水は紀元前2900年~紀元前2750年頃、ほぼキシュの街まで及んだことが証明されているそうである。

先日 3.11 から10年目を迎えたところであった。また昨日の20日には震度5強が宮城県で揺すった。ノアの箱舟の物語の基は自然災害の怖さを伝える人類の叫びであったのであろう。

ノアの箱舟

画像の出所:ナツメ社発行、山形孝夫著『聖書入門』89頁

今日は「ノアの箱舟」伝説である。先ずは旧約聖書では、どのように書かれているのだろうか。
創世期第6章には次のように書かれている(青色が引用の部分):
主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
神は自らが造った人間の傲慢さに嫌気がさして、人々をこの世から抹殺しようとしたのであった。そして、神に従う無垢な人であったノアに言った。「あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。」そして、もっと細かく造り方を指示した。そして言った。「わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべての肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。また、すべて命あるもの、すべての肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは雄と雌でなければならない。それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」ノアは神の言うとおりに行動した。

創世期第7章:
「ノアが六百歳のとき、洪水が地上に起り、水が地の上にみなぎった。ノアは妻子や嫁たちと共に洪水を免れようと箱舟に入った。・・・・・雨が四十日四十夜降り続いたが、・・・・・洪水は四十日間地上を覆った。水は次第に増して箱船を押し上げ、箱舟は大地を離れて浮かんだ。水は勢力を増し、地の上に大いにみなぎり、箱舟は水の面を漂った。・・・・」そして、地上のものはすべて息絶えた。ノアたちだけが生き残った。水は百五十日の間、勢いを失わなかった。

創世期第8章:
やがて水が引いていった。7月の17日に箱舟はアララト山の上に止まった。そして10月には山々の頂が見えるようになった。「ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、鳥を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面から水がひいたかどうかを確かめようとした。しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰ってきた。・・・・さらに七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。鳩は夕方になって箱舟に帰ってきた。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。・・・彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰ってこなかった。」洪水をもたらした雨が止み、水がひいて、地上が現れてきた様子が生き生きと描写されている。そこで神は言った。「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。・・・・あなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。」ノアは神のために祭壇を築いて捧げものを祭壇の上に捧げたそうである。

このあと第9章以後もノアに関わる物語が続いているが、聖書に書かれているノアの箱船のあらすじは以上の通りである。

さて、ノアの方舟のことは実はイスラムのコーランにも出てくるのである。そこで、コーランではどのように書かれているのであろうか。その部分を抜粋して紹介することにしよう。

コーラン第11章フード:
コーランではノアの名はヌーフと読まれる。「さあ、我ら(アッラー)の目の前で、我らの啓示どおりに箱船を作るがよい。悪行にふけっている者どものことで(彼らをなんとかして救ってくれといって)わし(我らとおなじくアッラー)にうるさくせがんではならぬ。いずれにしてもあの者どもは溺れて死んでいくさだめじゃ。
そこで彼は箱船を作りだす。だが民の長老たちは、そのそばを通りかかるごとに彼を嘲弄した。彼が言うに「今のうちにたんとそうしてわしらを嘲りなさるがいい、いずれ(審判の日に)今度はわしらの方でお前がたを嘲ってやろうから、丁度いまお前がたが嘲っておるのと同じように。そうなったら、お前がたにもわかるであろう。(その時)天罰を受ける者は、散々な恥をかかされた上に、しかも永久にかわらぬ責苦を負わされるのですぞ。」
そうこうしているうちに、遂に我ら(アッラー)の最後の断は下され、(天の)大釜が煮こぼれた(大雨になった)ので、我らは(ヌーフに)こう命じた、「(船の)中に、あらゆる(生き)ものを一番ずつ入れるがよい。それから汝の家族をも。但し、前もって運命がきまっている者(無信仰者として死ぬことに決まっている者、の意で具体的にはノアの息子を指す)は(のせては)ならぬぞ。それから信仰ある人々も(乗せて)やるよう。」・・・・かくて舟は一同を乗せ、山なす波浪のなかを走り行く。・・・・ヌーフはいつまでも離れて(船に乗らずに)立っている息子に呼び掛けた。 ヌーフは舟に乗れと呼びかけるが息子は乗らずに山に逃げるという。そこでヌーフは主に呼びかけた。「主よ、私の息子は家族の1人でございます。・・・・」「これ、ヌーフ、あれは汝の家族ではない。彼の所業は正しくない。何も知りもしないことでわしにとやかく口出ししてはならぬ。・・・」ヌーフとアッラーとの間にこのような会話がある。要は旧約聖書の内容と同じようにヌーフの家族が箱船に乗り洪水を免れるのである。信仰深いもの以外は洪水にのまれて死んでしまう。ヌーフの息子でさえ家族の一人として認めないという厳格な裁きをして懲らしめる物語となっている。コーランでは聖書のノアの箱舟の話を少しアレンジしている内容となっている。

少々長くなったので私自身も入力に疲れてきた。もう少し話をしたいのであるが、今日はここまでにしておこう。

地下水路カナートについて

上の図はカナートの模式図である。中東地域の至る所で見られる地下水路のことであるが、イランではカナートであるが、他ではカレーズと呼ばれるところもある。降水量の少ない地域ではこのような地下水路を建設して地下水を利用している。図では右側が山地、左側が平地になる。降ることは少ないが山地に近いところで降った雨が地下に沁みこむ、その地下の底に不透水層と呼ばれる岩盤などの層があれば、水はそれ以上下には沁みこまずに地下水となって蓄えられる。その地下水を狙って縦井戸をほり、そこから横に水路を掘っていくのである。縦井戸を掘るとそこで掘り出された土が地上の穴の周りに積まれることになる。だから、空からカナートを見るとドーナツのような円形が続いている風景が見える。砂漠地帯を飛行機で通る時によく目にすることができる。模式図では単純化されて描かれているが、実際には非常に長いものである。数キロから数十キロのものまである。カナートの終点で露出したところが池であり、オアシスであって、村人を支えているのである。

インターネットでカナートのことを見ていたら2020年4月26日のTehran Timesの記事があった。見出しは「世界最長のカナートが修復中」とあった。その記事によれば、その水路はイランのヤズドにあるが、最近の洪水により土砂が流れ込んだようである。以下に新聞の写真を転載するが、冒頭の図に見るような単純な井戸ではなく、かなり大きな構造物のように見える。

私がカナートのことを知ったのは学生時代に受けた「西南アジア事情」という授業の中であった。その時に先生(確か京大から非常勤できていた末尾先生)が「このカナートに魚がいることがあるらしい。そして、その魚は白くて目が見えないらしい。」と話したのだった。先生が「らしい」と言ったのは先生自身が見たわけでなく、書物からの伝聞であったからである。その本の名は『Blind White Fish in Persia』であった。なぜ、そんな人工的な地下の水路に魚がいることが不思議であったし、さらに地下で日の当たらないところなので色は白く、目も見えないというのが神秘性を感じたのだった。

私自身、旅行中に道路の脇にカナートが見えた時に、車を降りてカナートの近くまで行ったことがある。近くで見ると竪穴の直径は3メートル以上はあって、意外と大きかった。竪穴から人が入り、横穴を掘っていくわけである。灯とりに蝋燭の燭台を使うと聞いた。それは灯とりだけではなく、酸欠の危険から身を護るためでもあるとも聞いた。いずれにせよ。地下での仕事である。土砂の崩壊などのリスクもあるだろう。私のような閉所恐怖症の者には耐えられない仕事である。皆さんも砂漠を横断するような道路を走る機会があったなら、少し注意して周りを見渡してみてはいかがでしょうか。

さきほど『Blind White Fish in Persia』という本の題名を記したのであるが、1972年頃、テヘランの書店でこの本を見つけたので、買ったのであった。今では古びているが書棚の隅に置かれている。表紙カバーはボロボロである。中の画像を少しここにアップしておこう。


表紙と中表紙

カナートの掘削風景と内部

内部

 

 

シリーズ「オスマン帝国」:⑫ マムルークとは

オスマン帝国について読んだり見たりしていると「マムルーク」が時々登場してきます。歴史の流れの中では「マムルーク朝」というのもあります。今回はマムルークについて整理してみようと思います。

インターネットの「世界史の窓」では次のように書かれています。
イスラーム社会には多数の家内奴隷や軍事奴隷が存在した。軍事奴隷は戦争の捕虜が充てられ、アラブ人以外の異教徒が多かった。ウマイヤ朝の時代からアフリカ東海岸から売られてきた黒人奴隷も存在したが、アッバース朝時代からは西方のトルコ人やギリシア人、スラヴ人、チェルケス人、クルド人などが「白人奴隷兵」とされ、「マムルーク」(所有されるもの、の意味)と言われるようになった。彼らはイスラーム教に改宗してマワーリーになり、解放されることもあった(解放奴隷)。
ですから、マムルークはオスマン帝国以前からイスラム社会にあった奴隷であることが分かります。さらに次のような記述が続いています。
イスラーム帝国では、アラブ人の正規の軍隊のほかに、このようなマムルーク軍団を持っていたが、彼らは戦闘集団として次第に重要な存在となっていった。特に中央アジアから西アジア世界に移住したトルコ人は、騎馬技術に優れ、馬上から自在に弓を射ることができたので、アッバース朝時代の中央アジアの地方政権、サーマーン朝などによってもたらされたマムルークが広くイスラーム世界に輸出され、盛んに用いられるようになった。
特にトルコ人騎馬得意で馬上から弓を射る技術に長けていたので多用されたということです。ですから、マムルークというとトルコという強いイメージを私は持っているようです。イスラム社会には奴隷が沢山いたことは有名なことですが、必ずしも南部アメリカの重労働で酷使された奴隷とはちょっと異なっていたように思います。家庭教師のような教育をしてもらう奴隷などもいたそうです。ムハンマドがイスラムを拡げようとしたときの最初の弟子が奴隷であったと聞いたこともあるような気がします。マムルークという語の意味が所有されるものであることも興味深いことです。

マムルークが奴隷であることが分かったので、もう少し奴隷について調べましょう。私の疑問にいつも答えてくれる後藤明著『ビジュアル版イスラーム歴史物語』(講談社)の122頁を引用させていただきます。
中東地域は、世界に先駆けて文明の華を開花させた地域ですが、奴隷という、商品として売買する人間を世界に先駆けて生み出した地域でもあります。つまり、イスラームが誕生する数千年も前の昔から、この地域には奴隷がいたわけです。イスラームの時代になっても、イスラームは奴隷という存在を否定することなく、認めてきました。そして、戦争の際の捕虜などは奴隷となり、市場で売買されてきました。
奴隷を意味するアラビア語の単語はいくつかありますが、グラームはその一つです。この言葉は元来は一族の若者を意味しています。父親や伯父たちの仕事を手伝って、細々とした雑用をこなす半人前の若者です。学校などがなかった時代の若者は、このように実地訓練で教育されて、一人前になっていくのです。このような若者を意味する言葉が、同時に奴隷を意味していました。グラームと表現される奴隷は、一人前の自由人ではないのですが、主人たちのそばで雑用をこなす立場の人間とみなされていたわけです。農園で、鞭を打たれながら働く奴隷、主人の子供を嫌々ながらも生まなくてはいけない女奴隷など、惨めな境遇の奴隷もいましたが、イスラーム世界での奴隷の一般的イメージは、自由人とさほど変わらぬ立場の人間らしい存在でした。そして、奴隷を解放して自由人にすることが、善きムスリムの善行として、大いに勧められてきました。
少し長く引用しましたが、非常に良く分かるように説明されています。先ほど、私は奴隷がイスラム社会に居たことは有名だと書きましたが、奴隷はイスラム以前からの昔からいたということですね。

奴隷についてアチコチ検索してみると、ある論文を見つけました。それは、波戸愛美氏のイスラム世界における女奴隷 ―『千夜一夜物語』と同時代史料との比較― Female Slaves in the Islamic World : Comparison between the Arabian Nights and its Contemporary Sources です。そこに女奴隷を売買する場面が記載されていました。引用させていただきます。
『千夜一夜物語』においては、奴隷売買は、奴隷市場においてか、買い主のもとに奴隷商人がやってくるといった形で行われている。同時代史料との比較が可能なライデン版から事例を抜き出してみると、「女奴隷アニース・アルジャリースとヌール・アッディーン・イブン・ハーカーンの物語」には、奴隷の売買の記述が幾度か現れる。王に素晴らしい女奴隷を望まれたワジール(宰相)は、すぐさま市場に向かい、奴隷商人に「10,000ディーナール(金貨の単位)以上の美しい女奴隷がやってきたら、売りに出す前にこちらに見せるように」と命令する。そして、女奴隷アニース・アルジャリースがペルシア人の仲買人の手によって大臣のところに連れてこられるが、仲買人は彼女の値段を聞かれて次のようにいう。
ああ、ご主人様! 彼女の値段は10,000ディーナールでございます。しかし、彼女の持ち主が誓って申しますには、彼女が食べました鶏や、彼女が飲みました酒、そして彼女の先生方からいただきました恩賜の衣といったものの値段がそれではまかないきれないとのことでございます。なぜなら、彼女は書道、言語学、アラビア語、クルアーンの解釈、文法学、医学、法学などを修め、それと同様にあらゆる諸楽器の演奏にも通じているのでございます。
この台詞は、女奴隷アニース・アルジャリースが主人のもとで衣食住を保証され、また高度な教育を受けていたことを示唆するものである。そして、仲買人はその養育費をも大臣に払えと要求している。
やはりここでも奴隷ががんじがらめに束縛されていたわけではない。ここでは高等教育を受けた知的な人物であることが分かるのである。

マムルークについて調べながら書き始めたのですが、奴隷の話になってしまいました。かなり長くなったので、今回はここまでにしましょう。そして、マムルークが王朝を建てたという「マムルーク朝」に至る話は次回に回すことにいたしょうましょう。

ペルシャ語講座26:有用表現 انشاءالله インシャ・アッラー

この画像は集英社文庫・曾野綾子著『アラブのこころ』の表紙である。初版が1979年の発行である。彼女が中東アラブ諸国を旅したときのエッセイである。その中でこう書いている「アラブと付き合うには、IBMがいると教えられたのはエジプトに入って、ほんの数時間目であった」。その説明は以下の通りである。

I・・・・「インシャ・アッラー」ということで「アッラーの神の御意のままに」ということです。
B・・・・「ブクラ」明日という意味でして、当てにならないこと。
M・・・・「マレシ」といって「理のないもの」という意味だが「気にするな」「しょうがないじゃないか」というニュアンスである。
これらの言葉は使いようで非常に便利なのだと体験で知ったことを書いている。

前回のペルシャ語のエイブ・ナドレはMに相当する言葉だと私は感じました。ペルシャはアラブとは違いますが、同じイスラム社会、同じ中東の自然環境の厳しい点では共通しているので、言葉の表現にも相通ずるものがあるのですね。さて、今日のペルシャ語の有用表現はこのIです。曾野綾子さんの著書ではもう少し解説がありますので、その部分を引用させていただきましょう。
パレスチナ人に尋ねた時の話です。
たとえば「明日あなたはピクニックに来ますか?」と訊くと、「インシャ・アッラー」と答える。この言葉の中には、文字通り、アッラーの神様が、自分を行けるようにしてくれたら行くよ、との意味があるのですか。それとも、本当は、初めから行く気は全くないのだけれど、あまりはっきりその場で断ると相手に悪いから「行けたら行くよ」という程度の意味で言っているのですか。「両方です。どちらもありえます」と親切なパレスチナ人は教えてくれた。
「インシャ・アッラーについてはいろんな使い方がありますよ」アラブ人の女性と結婚したある日本人が青年が教えてくれた。「例えば僕が、いま勤め先で「僕は将来、一本立ちしてこういう事業をしようと思う」なんていうでしょ。そうすると、僕くらいの年のアラブ人連中は鼻の先で「シャルラ!」と聞こえるように言うんですよ。口の中では「インシャ・アッラー」と言ってるんだけど、調子が違うから日本語に訳したら、どうなるかな、「やれるものならやってみな」という感じかな。
ところが僕の女房に、「今日は早く帰って、映画に行くと約束したけど、用事ができて、少し遅くなるかも知れない。しかしできるだけ早く戻るからね」と電話すると、彼女「インシャ・アッラー」と心から言いますね。

インシャ・アッラーの少々複雑なニュアンスがよく説明されていると思います。さて、ペルシャ語でも同じでしょうか。ペルシャ語ではこのように書きます。 انشاءالله 発音は辞書ではこう書いてます ensha-allah 。意味は「神のおぼしめしがあれば」「多分」「おそらく」そして次の例文を挙げています。  فرداذ انشاءالله اورا خواهم دید  多分明日私は彼に会うでしょう。確かにこの言葉の裏には「神様の思し召しがあれば」という意味があるのですが、イランでの経験では、この辞書の意味のように「多分」というニュアンスが濃いように思っていました。「明日、一緒に映画に行きましょうか」と言った場合に「エンシャーッラー」と返答された場合はたとえ神の思し召し云々の背景があったとしても行くということの意思を持っています。明日行かないなら「エンシャーッラー」とは言わないものです。軽い気持ちで使われている様子から、皆さんも「多分」という意味の程度で使っていいと思います。ちなみに私の耳には「エンシャーッラー」と聞こえます。

インシャ・アッラーはイスラム世界ならどこでも使われる言葉です。マレーシアに行ったときに高級クラブに連れて行ってもらったことがあります。楽しいお酒を飲んで(そこは飲めました)楽しんだ後、帰る段になるとマレー人のママさんが「また是非お出で下さいね」と言われたので、わたしは「エンシャーッラー」と答えたら、びっくりされて大笑いになった想い出があります。この言葉を覚えておくと必ずいいことに出会いますよ「インシャ・アッラー!」

GCC諸国の農業・貿易政策

少し古い話になるが、農林水産省の委託調査事業に参加したことがあった。その報告書が2009年に発行された。それほど前のことだとは思っていなかったが、もう12年前になるわけである。報告書のタイトルは『海外農業情報調査分析事業 アフリカ・ロシア・東欧・中南米等地域事業実施報告書』というものであった。その中で私は「GCC諸国の農業・貿易政策」を担当した。日本の農業政策の自給等々についての政策に寄与するような調査目的であったと思う。10年余前のものであるので、古いといえば、古いかもしれないが、GCC諸国の農業政策などは殆ど知られていないので、ここに掲載させていただくことにする。勿論、農林水産省ではこの報告書は公開しているので検索すればインターネット上で見ることができるものである。

 

GCC諸国の農業・貿易政策

 

1.概要

はじめに

GCC湾岸諸国とはサウジアラビア、アラブ首長国連邦、クウェート、カタール、バーレーン、オマーンの六カ国である。ペルシャ湾岸(1)に位置するアラブ諸国、イスラム国家としてグループ化される共通性はあるものの、国土面積、人口には大きな違いがあり、現在に至った歴史的背景にも相違がある。GCCの中で最大のサウジアラビアは数ある部族のなかからサウド家が1932年にアラビア半島の統一に成功し、現在に至っている。一方で、クウェートはかつてのオスマン帝国のバスラ州の一部であったが、その後に英国の保護領となり、1961年に英国から独立している。アラブ首長国連邦は休戦海岸(2)と呼ばれる時期、英国の支配下にあった時期を経て1971年以後独立連邦国として現在に至っている。バーレーンとカタールも英国の保護国から1971年に独立したものである。また、オマーンは16~17世紀にポルトガルの支配下にあったが、17世紀半ばにはその支配から脱却している。いずれも現在の国家の枠組みとなってから歴史の浅い国々である。

アラビア半島に位置するこれらの国々は石油や天然ガスなどの天然資源に恵まれた国々である。一方でアラビア半島の大部分は砂漠という厳しい自然条件下にあり、農業適地は少ない。というものの、人々は農産物を必要とし、国は食料の確保に努めなければならない。産油国の豊富なオイルマネーをもって農産物、食料を輸入することは現時点では比較的容易ではある。

ここ数年続いた原油高はバイオ燃料の開発を促し、トウモロコシなど穀物価格を押し上げた。GCC諸国は石油収入で潤うものの、一方では輸入する農産物や食料品価格高騰による打撃を受けている。石油資源は有限であり、数十年後には枯渇する運命にある。一方で、急増する人口に対する食料確保は未来永劫に続く。自国民のために、20年後、30年後を見据えた食料安全保障の確立は急務である。その政策の成否によっては、社会経済そして政治基盤の安定を損なう大きな波乱要因を秘めている。本報告書は輸入に依存せざるを得ないGCC諸国の農業の実態、農業政策と貿易についてとりまとめるものである。

 

(1) GCCとは

GCC(Gulf Cooperation Council 湾岸協力会議)諸国とはアラブ首長国連邦(3)、バーレーン、クウェート、オマーン、カタール、サウジアラビアの6カ国でいずれも産油国である。GCCが設立されたのは1981年5月25日、本部はサウジアラビアのリヤドにおかれている。正式名称は「Cooperation Council for the Arab States of the Gulf(ペルシャ湾岸アラブ諸国協力会議)」という地域協力機構である。

設立憲章には目的として次のような項目が挙げられている。

①加盟国間の団結のために、あらゆる分野で協力・統合・連帯すること

②以下の分野で共通する規則を確立すること

経済および金融部門

商業、関税および通信

教育および文化

③鉱工業、農業、水資源、畜産資源の科学的進歩を促進すること

④民間部門による共同企業体設立のための研究を推進すること

 

表向きの設立目的はこのようなものであるが、設立の1981年というのは、1979年のイラン革命後まもない時期であり、GCC設立はイランからの革命輸出を恐れた近隣アラブ諸国の体制保全のための同盟という色合いが濃いものであった。しかしながら、設立後すでに25年以上が経過した今日、GCCは上記目的にそった地域協力機構として機能し始めている。イェメンに対しても加盟を働きかけており、2016年までには加盟の見込みである。

経済統合のひとつとして、2010年の実施を目標に通貨統合の準備を進めてきた。2008年には各加盟国の財務相の間で通貨統合構想と中央銀行の組織についてとりまとめをおこなった。2008年12月にはGCC首脳会議で通貨統合が承認されたが、中央銀行の所在地については結論がでておらず、統合が遅れる原因になる可能性がある。

 

(2) GCCの人口

GCC諸国の総面積は267万平方キロメートル、日本の国土面積の約7倍に相当する。というものの、アラビア半島の大部分を占めるサウジアラビアが単独で215万平方キロメートルであるので、他の5カ国の合計面積は日本より僅かに広い程度である。総人口は2006年時点で約3500万人である。国別に占める比率はサウジアラビアが約68.9%(2400万人)とアラブ首長国連邦12.3%(420万人)オマーン7.5%(260万人)、クウェート6.7%(230万人)、カタール2.4%(84万人)、バーレーンが2.2%(74万人)である。バーレーンとカタールは僅か百万人にも満たない人口である。

これら産油国は1970年代以後の石油価格の上昇とともに石油輸出収入が増加した。石油収入増はGDPおよび1人当たり所得増、インフラ整備、教育や医療サービスの普及につながった。特に医療サービスの普及は乳幼児死亡率の低下をもたらし、出生時平均余命が伸びた。その結果、各国の人口は急激に増加した。

国連の統計(表2)によるとGCCの人口は1975年の1,015万人から2005年には3,444万人と約3倍に増加している。また、今後の人口を2020年4,685万人、2030年5,439万人、2040年6,076万人、2050年6,593万人と予測している。国別ではサウジアラビアが1975年の725万人から2005年2,361万人、2020年3,209万人、2050年4,503万人となり、アラブ首長国連邦では1975年の53万人が2005年には410万人、2030年675万人、2050年には852万人となる。全体としても、また個々の国も2005年の人口が、2050年にはほぼ倍増すると予測されている。将来の食料問題を考えるとき、この人口予測は非常に重要になる。

 

 

(3) 労働人口およびGDPに占める農業分野の比率

国連FAOの統計によると、2004年の総人口に占める労働人口の比率、および農業部門(農林水産部門)の比率は次の通りである。

GCCにおける労働人口に占める農業部門の比率はオマーン33%、サウジアラビア7%、アラブ首長国連邦4%、バーレーン、カタール、クウェートは1%程度である。この値には漁業も含まれている。また、アラブ地域では遊牧民による羊を中心とした牧畜が広く行われているが、畜産業もこの値には含まれているので、農業労働人口の比率は非常に少ない。GDPに占める農業部門のシェアも労働人口同様低い比率である。世界銀行が毎年発行する『世界開発報告』2008年版のテーマは「開発のための農業」であり、巻末には農業関連データが国別に掲載されているが、GCC諸国でリストアップされているのはサウジアラビア、オマーン、クウェートだけであり、クウェートについてはデータ欄に空白が多い。いずれにせよ、GCCにおいては農業に適した基盤はなく、農業を発展させるには非常に大きな困難とコストを伴うことが容易に推察できる。

 

(4) 経済の規模と農業部門

GCCの国内総生産を表4に示したが、いずれも順調に拡大してきた。というもののGCC6カ国は前項の人口同様、経済規模にも大きな較差がある。GCC全体の約半分をサウジアラビアが、四分の一をアラブ首長国連邦、そして残りの半分をクウェートが、その残り、つまり全体の約15%をバーレーン、カタール、オマーンが担っている。しかしながら、国民1人当りGDPで見るならば、経済規模の小さいカタールやバーレーンがサウジアラビアよりも上位になる。

 

  1. GCC諸国の農業

2-1 農業の現状

(1) アラブ首長国連邦

アラブ首長国連邦は7つの首長国で構成されており、連邦全体の農業に関する2003年の実績は次の通りであった。ここでは農産物を野菜類、果実類、穀物・牧草の3つに分類している。面積を表す単位はドナム(Donum)が使われており10aに相当する。金額はアラブ首長国連邦の通貨デルハムである。(4)

連邦全体で農地の82%で果実が生産されている。穀類や牧草は14.5%、野菜はわずか3.5%である。また、7つの首長国で成り立つ連邦ではあるが、農地の90%、収穫量の83%、収穫金額の78%がアブダビ首長国に集中している。アブダビ首長国における農業生産の実態は以下の通りである。

 

 

 

栽培されている野菜の多いものはトマトである。約四分の一の面積でトマトが栽培され、それによる収穫金額は55%に達している。次いで玉ねぎやキュウリ、じゃがいもなどが主要な野菜であるが、表示された野菜類が多品種、少比率であること、また、その他野菜に利用されている土地が36%あることなどから、多品種少量生産の傾向にあることがわかる。

 

 

果実生産の内訳ではナツメヤシが99%に達している。表が示すようにライムや柑橘類、マンゴーなども栽培はされているが全体としての比率は微々たるものである。また、表9からは牧草類は生産されているが、麦類の生産はほとんど作付けされていない。

 

これらの状況からアラブ首長国連邦では面積的には果実の栽培が広く行なわれているといえるが、その殆どはナツメヤシである。野菜栽培については上述の通り、トマトや豆類など多品種が栽培されている。2006年9月にアラブ首長国連邦を調査で訪れた東京海洋大学櫻井氏の報告書によると(5)、1968年にアルアインに設置された国の農業試験場が既存の農園や農法の改良、最適品種の普及等に大きな役割を果たしたとある。また、先進技術による砂漠地での農業開発の試みも70年代に始まり、アブダビから至近距離のサディアット島において、米国アリゾナ大学の指導でキュウリ、トマト、キャベツ、レタスなどの野菜類やキク、カーネーションなどの周年栽培を実証した。同じ頃、アルアインではフランスの石油会社による大規模な農場やこれとは別の仏系農場(Al Ain Company for Production of Fresh Vegetable)が設立され、厳しい気候条件下での野菜作りの模範が示されたとある。

一方、GCC事務局(Secretariat General of the Cooperation Council for the Arab States of the Gulf )が2007年に発行したMember States of the GCCによると、アラブ首長国連邦の農業について以下のように報告されている。 農業部門の成長は目ざましく、2002年の農業部門GDPは非石油部門の6.9%を占め、額にして91億デルハムであった。アラブ首長国連邦では厳しい自然条件を克服して砂漠の緑地化を進めている。現在では農産物および畜産製品の一部を自給することができるようになっている。それらの一部は外国に輸出できるようになった。アラブ首長国連邦の実績は近隣諸国からもモデルとして評価されている。1億3千本の樹木が110ヶ所の緑地公園沿いに植えられ、砂漠の緑地化に取り組んでいる。果実や野菜の一部はアメリカやイギリスに、ナツメヤシは日本、インドネシア、マレーシアに輸出されている。

農業基盤を強化するための計画の一部として農業漁業省では開墾した農業適地を国民に無料で払い下げている。農業従事者には生産に必要な道具類を市価の半額程度で提供している。同時に、農業用機器、肥料、種子などの購入のためのローンや信用保証なども提供している。農作物の病虫害に対する指導なども実施している。

アラブ首長国連邦の水環境相であるRashid Ahmad Bin Fahd(ラシド・アハマド・ビン・ファハド)は自給できる農産物の種類が増えていることを明らかにしている。ナツメヤシと魚類については100%の自給を達成している一方で、野菜栽培については依然として39%程度、酪農製品の生産は92%、また、食肉生産についてもまだ10~25%でしかないと述べている。UAEは環境を守りつつ、砂漠を開墾して農地を増やし、UAEの気候に適した農産物の新品種を開発するために力を入れている。

 

(2) バーレーン

FAOの農業生産統計でバーレーンを見ると、穀類の生産量はブランクとなっている。同様に果実・野菜の部をみると2003年31トン、2004年27トンとある。原油埋蔵量・生産量はそれほど多くはないが、人口が70万人程度という非常に小さな国であるので1人当りGDPは世界トップクラスにある。このように小規模でリッチな国家であるため、農産物や食料品は輸入に依存することは可能である。数少ない農業の2005年実績は、FAOのオンラインデータベースによると次の通り推定値が挙げられている。バーレーンでもナツメヤシは農産物の中心である。野菜類はトマト、レタス、玉ネギ、カリフラワー、キャベツなどが生産されている。

 

 

(3) サウジアラビア

中東の中でもサウジアラビアはアラビア半島の大部分を占める国であり、サウジアラビアというと乾燥地域、砂漠地帯をイメージすることが多いが、このサウジアラビアの農業が世界の注目を集めたのは小麦の生産拡大と自給達成であった。この小麦の生産および自給政策についてはすでに見直しが検討されているのであるが、GCCの中で人口が最も多いサウジアラビアは雇用の創出などの経済問題と同様に食料確保が非常に大きな課題である。

サウジアラビア中央銀行(Saudi Arabian Monetary Agency 通称SAMA)の年度レポート(2008年版)によると、サウジアラビアの農業の現状は概ね以下の通りである。

2006年の農業生産量は表11が示すとおりわずかではあるが減少した。同様に2007年版を見ると2004年から05年にかけても1.8%の減少であったから、連続して減少している。作付面積が1,106.7千haから1,074.2千haへと32.5千ha減少していることが生産量の減少につながった。作付面積が減少したのは、穀類や牧草類つまり水分を多く必要とする作物の減反政策によるものである。この政策は前年度も同様であり、前年は5.6%の作付面積減、約66千haが減少している。

個別に見ると穀類の作付面積が631,652haから602,656haへと約29,000ha減少し、作付面積全体の56.1%となった。作付面積は減少したものの生産量は若干増加し、穀類の生産量は全体の31.8%に達している。小麦については4.2%の作付面積減少でありながら、生産量は0.7%の減少に留まり、ミレットは3%の作付面積減少に対して18%の増収であることなどから、近代的な農業技術により生産性が向上したと報告書は述べている。野菜類の栽培についても近代的な野菜栽培の方法により、収穫高は46千トン増加した。野菜類の作付面積は全体の10.3%と前年から3.8%減少しているが野菜の生産量は1.8%の増加となった。

サウジアラビアではナツメヤシが農業の中心であり最も重要な作物である。作付面積が2005年に比して06年は145千haから152千haに増加した。ナツメヤシは単なる農産物ではなくサウジ国民が好んで食べる食品である。ナツメヤシは数多くの食品に加工されており、ナツメヤシ産業はサウジアラビアにとって雇用をもたらす重要な部門である。サウジアラビア全土でナツメヤシの木は2006年時点で2310万本、そのうち結実する木は1810万本に達している。生産量は97.7万トンで、その4.2%の4.1万トンが輸出された。サウジアラビアで栽培されている有力な品種はSokari, Minifi, Soufri, Khodri, Soqai, Shishi, Reziaiziなどである。

サウジアラビア農業は過酷な自然条件を克服しながら高い農業技術をもとに実績を上げてきた。しかしながら、GDPに占めるシェアは極めて低い。2000年以後のGDPの推移と農業の比率は次表に示すとおりである。

GDPは名目値であるので、実質でみるならば殆ど成長していないといえよう。GDP全体に対する比率はわずか3%程度でしかない。ちなみに、2007年の部門別シェアは鉱業部門50.9%、サービス部門32.5%、製造部門9.6%、建設部門4.6%、農業部門2.8%、電気ガス水道部門0.9%の割合である。サウジアラビアのように農耕に適した土地が限られている国において、農業の比率がどの程度で適正であるということは簡単には言えず、国民に必要な主要農産物の自給率が重要であろう。

 

(4) オマーン

オマーンのような限られた耕地、灌漑施設のもとでの農業政策は、輸入の可能性と輸入価格に大きく影響を受ける。世界的な穀物価格の上昇は、オマーンが輸入する農産物の価格を押し上げることになる。農産物の国内生産を高める必要性を認識しながらも、近年の農業・漁業部門の成長率は低い。2007年は4.6%と一見して高い数値ではあるが、その値は実際の生産増によるものではなく、価格上昇によるものである。ヴィジョン2020年で農業部門に期待されているのは、年間成長率4.5%を継続させて農業部門のGDPのシャアを2020年までに3.1%にアップさせるというものである。漁業部門のそれは年間5.6%の成長を続け、2020年にはGDP比2.0%を期待している。2007年におけるGDP比は農業・漁業を合わせて1.3%に過ぎなかった。過去4年間において、農業・漁業部門の名目生産は2004年の176.5百万ORから2007年の204.9百万ORへと16%の成長を記録しているが、実質に換算するならば殆ど成長はしていない。

オマーンの作付面積は約230万ha、国土面積の約7%にあたる。オマーンで農業が営まれているのは、Musandam半島、Batinah平野、東部地域の高原と谷間、内陸部オアシス、Dhofar地区の5つの地域である。その中でBatinah平野は全作付面積の半分以上を占めており、農業の中心である。農業は海岸沿岸地域と内陸ではワジ(6)に沿って行なわれている。南部の沿岸部にはインド洋からの季節風に伴って雨がもたらされ、ココナツやバナナが栽培されているが、オマーン農業は灌漑用水不足、塩性土壌という土質、厳しい気候条件などの問題を抱えている。農産物の最大主要作物は作付面積のほぼ半分を占めているなつめやしである。他には飼料作物(主にアルファルファ)、果樹(柑橘類)、野菜(トマト、じゃがいも)、穀類(大麦、小麦、とうもろこし)などが生産されている。

農業のなかに含まれる酪農の規模は小さいが、オマーンにとっては重要な部門である。Dhofar地域では住民の三分の二が酪農で生計をたてている。2004-05のセンサスによると、家畜の頭数は山羊160万頭、羊35万頭、牛33.5万頭、ラクダ12.3万頭である。牛はオマーン南部地域で集中的に飼育されている。鶏肉も商業ベースでの取り扱いが拡大している。

自給率が100%なのはナツメヤシ、バナナだけで、卵51%、牛肉46%、ミルク36%、羊肉23%である。農業製品の多くが国内需要を充たすためには輸入に依存しなければならないことはいうまでもない。

 

 

 

(5) カタール、クウェート

カタールとクウェートもバーレーン同様に農業は殆ど行なわれていないので省略する。

 

2-2  GCC諸国の農業政策

サウジアラビアでは、1970年代にいち早く小麦の生産拡大による100%自給を政策化した。そして、それは成功し、近隣諸国に余剰を輸出できる状態にまでなった。しかしながら、2008年初頭に、サウジアラビア政府は小麦の自給政策を放棄すると発表し世界を驚かせた。今後は小麦の生産を縮小して、輸入に依存することを決定したのである。輸入というものの単なる輸入ではなく、いわゆる開発輸入である。産油国が海外の農業に投資をして、その生産物の一定比率を安定輸入するものである。サウジアラビアは世界各地に投資先を求め始めた。この傾向はサウジアラビアだけではなく、アラブ首長国連邦でも同様な投資が次々と計画されつつある。さらには、GCCとしてだけでもなく、アラブ全体の食料安全保障政策へと広がりつつある。

一方、オマーンの場合は農業に取組む姿勢がサウジアラビアやアラブ首長国連邦とは少々異なっているように見える。外から見るかぎり、オマーンの今後の農産物や食料確保を開発投資による輸入に依存する方向性は出ていない。むしろ、厳しい自然条件化の下で農業を拡大させていこうという姿勢すら見えるのである。この節では、輸入依存に方向転換するサウジアラビアと、そうではないオマーンの農業政策について考察する。

 

(1) サウジアラビアの農業政策

サウジアラビア政府は農業奨励政策を実施してきた。1962年に農業銀行を設立し、長期ローンの貸付と補助金を農民に提供してきた。政府は農業機械と灌漑用ポンプの購入費用の50%を負担、農業器具と用品、国内産と輸入肥料購入費用の45%を負担するなど、また種や苗も低価格で配布してきた。未開墾地を国民に分配したりしながら農地を拡大し、農産物の輸送のために農業用道路を整備するなど着実に農業振興は図られた。注目される小麦だけではなく野菜類も近隣諸国へ輸出できるほどに成長した。農業にとって不可欠な水の確保が大きな課題であるが、民間によって管理されている井戸の数は10万以上に達し、多くは農業用に使用されている。農業・水資源省は雨水と河川の水を有効に利用するために、1998年末までに189のダムを各地に建設し、その貯水能力は約8億立方米に達する。このような農業政策を進展させながら現在のサウジアラビアの農業がある。ここでは、大麦、小麦、米の生産・輸入等の状況からサウジアラビアの農業政策を考察してみる。

 

大麦

現在、サウジアラビアにおいて大麦は生産されていない。サウジアラビアでは2003年に大麦生産に対する補助金を打ち切り、大麦生産は終結した。将来、小麦も大麦と同様な道をたどるので、大麦に関する実態をみておくことは有益であろう。

サウジアラビアは1995年以来、年間約600 万トンの大麦を輸入している。この輸入傾向は価格的に大麦に競う代替物がないために今後も持続すると見られている。約80%が遊牧民に代表される伝統的農業のもとで羊や山羊の飼料となっている。それは、サウジ政府が輸入大麦に補助金を付与しているからであり、アルファルファなどの需要は伸びることはない。これは、サウジアラビア政府が地下水を大量に消費するアルファルファの生産をストップあるいは極度に削減するという政策の現れである。以前にはアルファルファの輸出を禁止したこともあり、農家の多くはその時すでにアルファルファの生産を放棄している。

2003年当時には約700トンを輸入したが、このサウジアラビアの需要が大麦の世界価格を上昇させることになったとも言われている。飼料用大麦への依存を軽減するために政府は高エネルギー・高蛋白成分の飼料輸入を補助金対象にするプログラムを打ち出した。それによると、輸入する飼料により、トンあたり58.13ドル、または186.67ドルを輸入業者に直接補助することになった。政府はそれまでの補助金システムを改めたことにより大麦輸入が大幅に低下することを期待した。輸入大麦の需要が低下することにより、サウジへの大麦の輸入価格が約8%下がったという。また、MY(Market Year)2007年(カレンダー年の2007年7月スタート)の前半6ヶ月間の大麦輸入は前年の2,968千トンに比較して、12%増の3,317千トンに増加した。MY2007年末までの輸入は他の飼料との競合で8%減となり6,400千トンと見込まれる。MY2008年についても大幅減少が予測されている。現在支給されている対象別補助金額は次の通りである。

 

 

小麦

サウジアラビアでは、小麦に関することは政府機関であるGSFMO(Grain Silos and Flour Mills Organization サイロ・製粉公団)が全てをコントロールしている。政策により小麦が自給できるようになり、近隣諸国へ輸出できるような状態にまで小麦生産は発展したが、その後、2002年当時には小麦生産は国内需要を充たすだけの生産へと政策転換をしている。当時の国内需要は180万トンである。小麦に関しては少量の製パン用のミックスフラワーを除いて輸出も輸入もない。但し、輸入業者が米国から輸入して近隣諸国へ輸出するケースはある。政府は農民からの買付け価格をトン当たり400ドルで保証している。それを政府は白小麦粉と全粒粉を各々トン当たり148ドルと207ドルで消費者に売り渡している。農民は小麦生産からトン当たり約140ドルの利益を得ている。従って、農民は生産を過剰にしてしまう傾向があり、政府の頭痛の種となっている。2005年7月時点で小麦生産に対する補助金は400ドルから266.67ドルに引下げられたが、ザカート(イスラムにおける喜捨)やその他の控除で実質額は246.67ドルである。同じく2005年に政府は農業を営む持ち株会社六社の設立を認可した。これらの企業は小麦を生産してFSFMOに年間30万トンを納入することとなったが、地域農民の生産量とこれら大企業の生産能力を勘案しながら、数年後には60万トンに拡大すると見られていた。大企業に対する小麦や大麦の補助金支給は1993年にすでに廃止されている。このような企業の設立や前年に小麦にかかる輸入税を100%から25%に下げたことは政府の民営政策の一環と思われる。

さて、この節の冒頭に記した、サウジアラビア政府の小麦生産中止の政策の詳細をみることにしよう。政府の方針は2009年春の収穫期から、小麦生産量を毎年12.5%ずつ減少していき、2016年には小麦生産を終結させるというものである。生産減少分を輸入によってまかなう。これは、1985年に小麦自給を達成して以来、小麦・小麦粉の輸入を絶ってきた長年の政策を劇的に転換させるものである。農作物生産はほぼ100%灌漑に依存しており、政策転換の大きな理由は灌漑水の源である地下水の枯渇である。小麦生産は大量の地下水を必要とし、しかも、地下に流入する水が乏しく、消費量の方が多いために、穀類や飼料作物の生産地域では地下水位が大幅に低下してしまっている。

サウジアラビアは1980年代以来はじめて、2009年春から小麦を輸入することになる。今後の小麦生産と輸入のスケジュールは次の表のように考えられている。

 

 

サウジアラビアにおいて米は生産されていない。CY(Calendar year)2007年の米の輸入量は推定で914千トン、2006年に比して5%の減少であった。2008年については5%増と推定されている。サウジアラビアにおける主食は米とパンである。年間人口成長率が3%であること、メッカへの巡礼者の増加などから、両者の需要は今後も拡大しつづけると予測されている。

2007年12月の政府通達によると、米輸入に対する補助金はトン当たり266.67ドルである。最近では低価格のIndian Parimal rice が15年前ごろからParboiled rice(7) として導入されて需要が拡大している。米の品種差による価格差は次の通りである。

 

これまで見てきたように、サウジアラビア政府の農産物確保の姿勢は一貫して補助金政策が中心である。小麦生産に対しては生産農家に対して買上げ価格を保証し、農産物輸入に対しては輸入に対する補助金を与えている。生産・自給、輸入いずれの政策であれ、サウジアラビア政府にとって補助金支出は変わらないわけであるが、生産を継続するには水利用が大きな問題となる。水利用のために井戸が掘られ、ダムが作られているわけであるが、降雨の少ないサウジアラビアでは汲み上げた地下水量が回復することはなく減少の一途を辿っている。小麦の100%輸入政策への転換は、増加する人口増に対処するべく小麦自給政策を継続し小麦の生産量を拡大していくには限界があるという結論と思われる。

 

(2) オマーンの農業政策

オマーン経済の過去数年間において、石油・天然ガス部門のシェアが増大している一方で、農業とサービス部門のシェアは低下している。それにも関わらず、政府は石油・天然ガス部門に偏らない経済の多様化へのステップをとりつつある。例えば、製造業プロジェクトや観光ベンチャーがそれである。オマーンの長期開発戦略(Vision 1996-2020)によると、農業および製造業のGDPシェアをそれぞれ2.8%から5%、7%から29%に拡大することを目標としている。一方、サービス部門と石油・天然ガス部門はそれぞれ47%(1996年52.3%)、19%(1996年40%)とするのが目標である。石油・天然ガス部門のシェアは1996年の40%から19%にまで低下させることになる。BP(8)の統計によるとオマーンの原油可採年数は21年である。オマーンの政策はポスト石油時代を意識した政策である。これまで、GDPに占める農業のシェアは少ないけれども、政府は食料安全保障の観点から農業部門は非常に重要部門であると位置付けている。水産物では輸出国であるが、農産物においては輸入国である。食料安保のための政策と言えるものは農産物にかかる関税を低くしていること(3.9%)や、農業生産者に対しては灌漑・排水施設などのインフラ整備、融資、新種の種子や、肥料、化学薬品などを無償で与えている。

2007年9月の国王令により、農業・漁業省は農業省と漁業省に分割されることになった。狙いは農業、漁業の双方を強化するために各々の分野を統括する省も強化するためである。前述したように、この部門のヴィジョン2020の目標値GDPシェア5%を達成するためには、2001-05の年間成長率2.5%に対して、最低でも4.5%の成長が必要とされる。農業省は農作物と酪農製品のための政策を策定する責任を有している。農業省の最重要政策は国民のための食料確保であり、それは主として輸入によって達成させることになるが、同時に、農家に対する技術的な支援と補助金支給などが現在おこなわれている。

オマーンの農業政策は総合的な経済政策に沿って進められなければならない。農業部門での対策には、農業の強化、食料増産、既存の農業資源の再開発などがあり、最近強調されているのは放棄された農場の復興、全ての生産地区に対する近代的な灌漑・排水システムの導入、再生水利用の促進、水管理に関する法制定などである。食品加工の垂直統合や温室の環境改善なども推進されつつある。エクステンション・サービス(農業改良普及事業)は実験的あるいはデモンストレーション的な段階にとどまっており、まだ本格的には稼動していない。農産物の品質改善などを目的として農業省はレベルの高い指導・相談を行なっていこうとしている。また、農業関連産業(アグリビジネス)、家禽産業、ナツメヤシ加工産業やその他のプロジェクトのために技術的・経済的フィージビリティ評価の支援をしようとしている。また、新品種の種子、肥料、化学薬品などを供与して農業生産の改善を支援している。

1980年に設立された機関であるPASFR (Public Authority for Stores and Food Reserves)は非常事態に備えて、米・砂糖・粉ミルク・茶・食用油を4~6ヶ月分程度貯蔵(備蓄)することを責としている。貯蔵したものは随時新しいものとローテーションで入れ替えている。PASFRは砂糖、米は国際入札で、それ以外のものは国内入札にて調達している。

農業用水およびそれに付随する水の問題は非常に重要で、1990年には水資源省が設立された。水資源省は2001年にはMinistry of Regional Municipality and Environment and Water Resourceとなり、2007年9月に再びMinistry of Regional Municipality and Water Resource (MRMWR)と変更された。この省の使命は限られた水資源の制御と灌漑改良である。1998年に水資源は国有化され、①ファラジ(8)の母井戸から3.5㎞以内での井戸の掘削禁止、②既存の井戸の改修・用途変更・ポンプ設置を許可制に、③井戸掘削業者の毎年MRMWRに登録制度、④違反者に対する取扱いなど4つの対策が取られた。このように限りある水資源を農業に有効に生かそうという姿勢が現れている。

 

  1. GCC諸国の農産物貿易

GCC諸国ではサウジアラビアの小麦と野菜を除いて農産物と食料は輸入に依存している割合が非常に高い。原油高でここ数年潤ったGCC諸国もFood Crisis(食料危機)という言葉を引用しては、将来の食料安全保障を真剣に検討する状態に入った。この節では、GCCの貿易の中で農産物と食料に関わる部分を概観する。

 

(1) アラブ首長国連邦

FAOの統計資料をみると輸出実績に小麦のような穀物も現れている。GCC諸国の場合は近隣諸国への再輸出のケースがあるので、要注意である。それは輸入データを見るときにも同様のことが言えるのである。小麦の輸入がある一方で輸出があるのである。そのようなケースを念頭にいれておきながら、輸入の傾向を見る程度に留めておきたい。

(2) バーレーン

原油価格高を受けてバーレーン経済は近年高い成長を遂げている。2006年のGDP成長率は名目で17.6%、実質6.5%、2007年の名目25.8%、実質6.6%、さらに2008年は名目14.7%、実質6.2%と推定されている。貿易の中心は石油関連である。非石油部門の輸出入の中で農業部門の輸出入はどの程度を占めているのであろうか。2006年と2007年の農業製品関係の輸出入額の実績によると、これらの部分の輸出に占める比率は1%にも満たず、輸入については約5%である。。2007年の輸出実績における輸入元はアジア32.8%、欧州25.5%、アラブ諸国19.2%、オセアニア13.1%である。GCC間における貿易を非石油製品のみでみると、輸出はサウジアラビア60.8%、アラブ首長国連邦17.3%、カタール10.7%、クゥエート7.7%、オマーン4.5%である。一方輸入についてはサウジアラビア54.6%、アラブ首長国連邦32.3%、クゥエート6.1%、カタール3.9%、オマーン3.1%である。

 

(3) サウジアラビアの農産物貿易

サウジアラビアでは大麦を生産していないことは既に述べたとおりである。大麦の用途は羊やヤギなどの飼料であるが、輸入量は年間約7百万トンに達している。国別の輸入量は次表の通りである。供給国はドイツ、オーストラリア、ウクライナ、ロシア、トルコと多岐にわたっている。また、2007年からはスペイン、フランスなどが新たな供給者として登場している。

 

 

小麦については自給ができており輸入の必要はない。米についてはインド、米国、パキスタン、タイが供給国である。2002年からの国別の輸入量は次の通りである。

FAOの統計によると、2004年のサウジアラビアからの輸出実績は次のとおりであった。

 

(4) オマーン

オマーン中央銀行発行のAnnual Report 2007年版により、オマーンの貿易を概観すると輸出は2006年の83億OR(9)(オマーン・リアル)から2007年は95億ORに14.5%増加した。うち原油・石油製品・LNGなど石油部門の比率が76%、非石油部門13.6%、再輸出分が10.6%である。非石油製品の輸出先は近年多様化しつつあるというものの対UAEとインドで過半数を占めるという大きな傾向は変わっていない。アラブ首長国連邦40.5%、インド13.6%、サウジアラビア4.6%、カタール4.0%、パキスタン2.7%、イェメン2.1%、台湾2.0%と続く。再輸出の輸出先はUAE単独で55.6%、イラン12.1%、サウジアラビア3.7%のあとは数多くの国が1%程度で続いている。国際的に孤立しているイランへの再輸出がGCCを経由していることが垣間見える。

オマーンからの2007年度の非石油製品の輸出は12.9億ORである。その中で農業関係分は次表の0から3の項目に相当する。これによると野菜類が2006年には1290万OR、2007年には1540万OR輸出されている。06年から07年にかけての野菜の輸出の伸び率は19.4%であるが、それ以前の04年が1520万OR、05年が1610万ORであったことから推測すると野菜栽培が拡大されて収穫が増大し、輸出量が拡大したと理解することはできない。

 

一方、輸入については次表の通り2007年の輸入実績は61億ORである。輸入先はアラブ首長国連邦が26.5%、日本15.8%、インド6.5%、アメリカ5.8%、ドイツ5.3%、そのあとは5%以下で韓国、イギリス、中国などが続く。オマーンとGCC諸国間での貿易関係はアラブ首長国連邦を除いて強くはないと言える。

(5) カタール

カタールの農産物・食料の貿易実績は概ね次の通りである。米や小麦など主要穀物は当然輸入に依存するしかない。

 

 

(6) クゥエート

 

 

(7) GCC全体

各国の貿易統計資料では石油部門、非石油部門という分類がなされ、非石油部門のなかで更に農産物を詳しく扱っていない。GCC諸国がどの程度、農産物・食料を輸入しているかについては、国連FAOのデータベースにて抽出中できる。いずれにせよ、GCC諸国では多くの農産物が輸入に依存していることには間違いない。

 

  1. 農産物確保のための海外投資政策

2008年11月9日から11日の三日間、「農業開発と食料安全保障」のために、アラブ諸国とアフリカ諸国の専門家会議がサウジアラビアのリヤドにおいて.開催された。この会議は2008年3月のアラブ・ダマスカスサミットでの決議をフォローするものである。この会議における目的はアラブとアフリカの共同作業の実行プランを策定して、2009年に開かれるアフロ・アラブ大臣レベル会議に提案することになっている。セミナーではアフリカ、アラブ双方から農業開発と食料安全保障についての状況説明がなされた後、農業開発と食料安全保障の経験と題してホスト国であるサウジアラビアからプレゼンテーションが行なわれた。ここでは二つの地域の国々における農業部門の重要性が強調された。それぞれの国の市場のニーズに対応していくためには公的投資および民間投資の重要性が訴えられた。そのためにも両地域はより強力な協力関係を築いていこうというものであった。

サウジアラビアが発表した小麦の100%輸入化は、単にサウジアラビア、小麦だけの問題ではなく、GCC諸国全体からアラブ諸国、そして小麦だけではなく農産物全体の食料確保政策に関わるものである。したがって、近年、前述したようなアラブ・アフロ会議を初めとした、国際会議やセミナーが数多く開催されている。例えば、2008年7月30日付けのアラブニュースによると、カタールがホスト国なり7月31日からGCC六カ国の農業大臣が集まり食料供給確保のための会議を開いた。彼らは農業や漁業に関する共通の法規則を定めることや、GCC諸国のいずれかの国にFAOの事務所を開設することなどを話し合っている。

サウジアラビアでは、小麦生産の削減策により、今後小麦の輸入に拍車がかかるわけであるが、今後長期的に輸出元を確保することは容易ではない。そこで、考えられているのが農業プロジェクトへの投資戦略である。そこで得られる農産物の一定比率を安定輸入する計画である。2008年には、そのような投資案件がメデェア上で数多く報道されている。それらを別表にとりまとめた。

 

  1. まとめ

産油国のなかでも埋蔵量保有量のもっとも多いGCC産油国は、少し前まではポスト石油時代を見据え「脱石油、天然ガス主役」を志していた。いち早く、天然ガスのLNG化に走ったのがオマーン、カタール、アラブ首長国連邦である。また、コストのかかるLNGから小規模でも可能なGTLに舵取りしたのがカタールである。しかしながら、天然ガスも石油同様に化石燃料であることには変わりなく有限の資源である。その有限資源が枯渇しないうちに、急増する人口増⇒食料消費増大に対処する政策を模索している。農業開発は技術的には不可能ではないが、人口増、経済発展は都市用水や工業用水の需要も拡大させる。農業用に貴重な水を供給するのは非常に困難をともなうだろうという判断である。ちなみに、GCC全体において水資源が都市生活用水、産業用水、農業用水へ配分される比率は18%、4%、78%である。サウジアラビアの場合、15%、3%、82%である。アラブ首長国連邦が33%、6%、61%と大部分の水が農業につぎ込まれている。その水源は地表水、地下水、海水からの淡水化水となるが、農業用水の85%は地下水が利用されている。今後予測される人口増に対応して小麦生産を維持することは増産のための農地開発コストや水資源確保の面で困難が容易に予測できるのである。そこで浮上してきたのが海外農業投資政策である。

一方、オマーンのような原油埋蔵量も現在の生産量もそれほど多くはない国では、サウジアラビアなどのように海外の農業に投資する余裕はない。したがって、自国内での効果的な農業を模索していくことになる。小規模ながら農業試験場などが増えている。土を使わない農業が検討されている。

結果がでるのは30年後、50年後である。しかしながら、人口増、食料需要の増加はGCCだけではない、彼らが投資しようとしている途上国でも同様の問題はいずれ拡大してくる。その時に、食料難に苦しむ自国民を前にして投資国に契約どおりの農産物や食料を輸出することは、人道的見地からも揺るぐ恐れ、可能性がある。国連世界食料計画(World Food Program)ではスーダンの560万人に対して食料支援を行なってきた。そのような国への投資は双方の思惑に食い違いがある可能性が高い。

かつて先進国が石油資源をもとめて中東に投資(中東では支配あるいは搾取と受け止めているが)して、石油を自国に持ち帰ったことと重なりはしないだろうか。資源ナショナリズムの台頭は中東の石油利権を握った先進国(企業)を追いやったが、この食料確保、食料安全保障という投資プロジェクトも食料をめぐる利権の獲得に他ならない。今後、世界中で議論が高まると思われる。農業不適地といえども、持続可能な農業により、100%は無理であるが、できうる限り自給率を高める食料安全保障政策が取られるべきであろうと考える。それは、自給率40%の日本が食料安全保障のためにとるべき政策に通じることでもある。

米国のワールドウォッチ研究所のレスター・ブラウンがかつて興味溢れることを語っている。1970年当時まで、1ブッシェルの小麦は世界市場で1バレルの石油と交換できた。しかし、2004年当時では1バレルの石油を買うには9ブッシェルの小麦が必要である(小麦4.20ドル、石油36.00ドル)。世界最大の石油輸入国かつ穀物輸出国であるアメリカでは、小麦と石油の交換比率が9倍に上昇したしわ寄せがガソリン価格の値上がりという形で現れている。また、この変動でアメリカの貿易赤字は膨らみ、これがドミノ式に未曾有の対外債務と国家経済の弱体化をもたらしている。対照的に、世界最大の赤輸出国であり穀物の輸入上位国であるサウジアラビアは首尾よく利益を収めている。

OPECが石油価格を引上げる以前の1970年代初頭は、アメリカが石油の輸入代金を穀物輸出で支払うことはおおむね可能であった。だが、2003年には、穀物輸出は990億ドルという巨額の石油輸入手形の11%しか賄えなかった。穀物と石油の交換比率が悪化する一方、国内の石油生産量が減って消費量が増えたため輸入量は増大し、2003年には輸入量が総使用量の60%を占めた。

穀物価格に代用される小麦価格と石油価格の交易条件は、大幅かつ継続的に変動している。1950~73年までは、小麦と石油の関係と同様に両者の価格もきわめて安定していた。この23年間、世界市場において小麦1ブッシェルは常に石油1バレルと交換できた。1974年~78年は1バレルの石油を買うには約3ブッシェルの小麦が必要であった。その後、石油価格の変動とともに、必要小麦は7ブッシェル、時には5ブッシェルに下がり、また2000年~03年には7ブッシェル、2004年9ブッシェルとなった。

小麦と石油の交換比率が今後どのように変動するかを確実に知ることはできない。しかしながら、数十年後にはGCC諸国を潤している原油は枯渇寸前になり、その価値は無に等しくなっていく。その時が到来する前に、GCC諸国は人口抑制政策からスタートさせた農業政策を再構築すべきである。

 

 

参考資料

Central Bank of Bahrain, Economic Report 2007

Central Bank of the United Arab Emirates, Statistical Bulletin,  Apr-Jun 2008

Central Bank of Oman, Annual Report 2007

Oman, Ministry of National Economy, Statistical Year Book, Oct. 2007

Saudi Arabian Monetary Agency (SAMA) 43rd Annual Report 2007

Saudi Arabian Monetary Agency (SAMA) 44th Annual Report 2007

IMF, United Arab Emirates: Statistical Appendix, July 2006

The Cooperation Council for the Arab States of the Gulf, Secretarial General, Achievements in Figures, Information center statistical department, Dec.2007

Secretariat General, Information Center Statistical Department, GCC A Statistical Glance

Member States of the Gulf Cooperation Council (GCC) 2007

GCC, Secretariat General, Statistical Bulletin 2007,

UAE Environmental & Agricultural Information Center, Ministry of Environment & Water, Agriculture Statistics Year Book 2003

FAO, The Statistical Division, http://www.fao.org/statistics/toptrade/trade.asp

WTO, Trade Policy Review, Oman

USDA, Grain Report, Saudi Arabia Grain and Feed Annual 2002, 2006, 2008

(1) アラブ圏ではアラビア湾と呼ぶことも多い。

(2) 1853年、英国は現在のアラブ首長国連邦北部周辺の「海賊勢力」と恒久休戦協定を結び、以後当地は休戦海岸と呼ばれた(外務省ホームページ参照)

(3) アラブ首長国連邦は7つの首長国からなる連邦である。石油が取れるのはその中のアブダビとドバイである。

(4) 1ドル=3.6725デルハム(1997年11月以来ドルに連動。日本国外務省アラブ首長国連邦の基礎データ参照)

(5) 櫻井研「アラブ首長国連邦の農業と野菜の生産流通の現状」月報『野菜情報』2007年7月、

(独)農畜産業振興機構

(6) アラビア語。砂漠や乾燥地帯にある枯れ川。雨季や降水があるときには水が流れる。

(7) モミのまま蒸して乾かした後に脱穀精白したもの

(8) 石油メジャーズの1社。かつてはBritish Petroleum と称したが、現在はBPが正式名称。

(8) オマーンの地下水路を利用する灌漑システム。イランではカナートと呼ばれるものと同類。

(9) ORオマーン・リアルの為替レートは1ドル=0.835OR

アルメニアとアゼルバイジャンの紛争(その後)

ナゴルノカラバフ地域を巡るこの旅の紛争もどうやら停戦に到ったようである。10日、アルメニアのパシニャン首相、アゼルバイジャンのアリエフ大統領、それに仲介したロシアのプーチン大統領の三人が共同声明に署名して、停戦に合意した。決着の結果はアルメニアがこれまで実効支配していたナゴルノカラバフの一部を失った。但し、旧自治州の帰属については触れられておらず根本的な解決には至っていない。それは先送りされたということである。

過去にも1994年に欧州安保協力機構とロシアの仲介で両者が停戦合意したこともあったが、アルメニアが旧自治州の実効支配を認める内容であったため、アゼルバイジャン側には不満であった。今回の停戦合意により、両者の衝突は停止することになるが、根本的な解決を先送りしている以上、この先に再び紛争が再燃しないという保証はない。米大統領選、その後の開票にまつわる混乱に乗じて、この地域に対するロシアの影響力が強まったという印象である。

アルメニアとアゼルバイジャンの紛争

アルメニアとアゼルバイジャンとの間で衝突が起きている。この地域は中東ではなく、コーカサス地方になるのであろうが、中東と密接に関係ある地域なので、取り上げてみることにする。

この両国間の紛争は今に始まったことではない。歴史的な流れからみると、ロシア帝国とオスマン帝国が崩壊し、その後、アルメニアとアゼルバイジャンが独立した時から、ナゴルノカラバフの帰属問題が発生したのである。アゼルバイジャン国内の領域であるナゴルノカラバフ地域に住む大半の人々がアルメニア人であった。第一次世界大戦後両国はソビエト社会主義共和国連邦下に置かれることとなった。そして、ナゴルノカラバフはソビエト社会主義共和国憲法において、アゼルバイジャン内の自治州としての地位を与えられたが、事態が収束することはなかった。Global News View (大阪大学を拠点とするメディア研究機関のHP参照)。

このように、アゼルバイジャン領内において、多くのアルメニア人が居住するナゴルノカラバフ地域がアゼルバイジャンからの離脱志向があり、そこにアルメニアが肩入れしたというのが紛争の始まりということである。私が若いころには「アゼルバイジャンの中にアルメニアの飛び地がある」という風に理解していたものだった。

この図でわかるように、アゼルバイジャンは産油国であるので、ジョージアからトルコ経由で各国に輸出している。両国はパイプラインの通過料を得ることができる。アルメニアはロシアやイランと発電・電力供給で親密な関係にある。イランは電力の代わりに天然ガスをパイプラインで供給している。イラン北部にはアゼルバイジャン系住民がいるので、イランは常に彼らの独立運動に目を光らせている。宗教的にイランとアゼルバイジャンはシーア派とスンニ派の違いはあるがイスラム同士ではある。アルメニア人はキリスト教徒(アルメニア正教)であるが、イランとの関係は良好である。一方、武器調達においては、アゼルバイジャンはイスラエルから大量の武器を購入している。最近続いているイスラエルとアラブのアラブ首長国連邦やバーレーンとの国交樹立などが、イラン封じ込め戦略と言われるように、イランにとってはイスラエルとアゼルバイジャンの関係強化も気になるところである。また、産油国のアゼルバイジャンには米国の石油関係会社も進出しているから、米国もこの地域での衝突には重大な関心を寄せざるをえない。

日本からは遠いコーカサスのあまり馴染みのない国同士の紛争であり、関心も薄く注目の度合いも薄いかもしれない。しかしながら、上述したように、両国間だけではなく、両国に繋がりのある周辺国(トルコ、イラン、イスラエル、シリヤ、レバノン等)ならびに米国やロシアも干渉することになると中東を巻き込んだ国際紛争になるわけである。そうなると石油を中東に依存する我が国としても傍観はできないであろう。

(地図は中日新聞10月1日、10月9日より拝借)