トランプ大統領がとんでもない「中東和平案」を発表

28日、イスラエルのネタニヤフ首相とトランプ米大統領がホワイトハウスで共同会見し、イスラエルとパレスチナの中東和平案を発表した。両首脳が発表した和平案はと当然のことながら、イスラエル寄りの内容であることは、内容を見るまでもなく想像の付くところである。我が中日新聞が和平案を分かりやすくまとめてくれているので、それを利用して紹介させていただこう。

ポイント 今回の内容 これまでの米政権方針
2国家共存 「現実的な2国家共存案」としてイスラエル占領政策追認 イスラエルと共存可能なパレスチナ独立主権国家の実現
ユダヤ人入植地 既存入植地はイスラエル主権

和平交渉の4年間は新規入植凍結

2001年3月以降の入植地は解体、入植活動は凍結

2000年以降の占領地からイスラエル軍の順次撤退

エルサレムの帰属 エルサレムは不可分のイスラエルの首都

パレスチナ国家の首都は東エルサレム

まずパレスチナ国家を樹立、エルサレム帰属は当事者間で協議
パレスチナ難民(500万人以上)の帰還 イスラエルへの帰還権認めず

帰還の選択肢は ①パレスチナ国家 ②現在の居住国 ③第三国移住

帰還権は認めるが、期間は将来のパレスチナ独立国家へ

要旨は以上の通りである。エルサレムをイスラエルの首都とするなど、これまで国際的に未解決であったものを独断で自由自在にかき回しているとしか言えない。イスラエルの入植地についても国際法違反とされて、撤退すべきものが、合法的なことになるという理不尽そのものである。中日新聞社説は「中東和平に値しない」と一刀両断である。

もしかすると、中東に関心が薄い人々はトランプの発表した案を「和平のためにいいんじゃない?」こ「これをたたき台にして話し合えばいいんじゃない?」とか思うかもしれない。しかし、この内容は、これまでのプロセスを無視した、理不尽な内容であることを理解してもらいたい。そのために中日新聞は上の表に「これまでの米政権方針」を入れているのである。エルサレムに米国大使館を移した件でも、アメリカ議会はずーと以前にそのことを決議していたが、歴代の大統領がそれを実行することに署名してこなかったのである。それは世界一の大国であるアメリカの大統領としての良識であった。

パレスチナのアッバス議長が猛反発したのは当然である。ただ、嘆かわしいのはアラブの一部の国である。イスラエル建国じのあのアラブの憎悪や反感はどこへ行ったのであろうか。すでに親米的なアラブ諸国はイスラエルと対峙しようとする姿勢は失せている。お互いが争わなくなることは良いことではある。しかしながら、筋を通すべきところは、筋を通してもらいたい。

それでは、アメリカ、イスラエルに対立しているイランの反応はどうだろうか。今朝のIran daily紙の一面が冒頭の画像である。記事は以下の通り。

Iranian Foreign Minister Mohammad Javad Zarif has lashed out at the US’s so-called peace plan for the Israeli-Palestinian conflict, saying the initiative is a “nightmare” both for the region and the world.
Zarif said in a tweet on Tuesday that the US President Donald Trump’s “so-called ‘Vision for Peace’ is simply the dream project of a bankruptcy-ridden real estate developer.”

The Iranian foreign minister added that the plan was a “nightmare for the region and the world and, hopefully, a wake-up call for all the Muslims who have been barking up the wrong tree”, Presstv Reported.

イランのモハマド・ジャバド・ザリフ外相は、イスラエルとパレスチナの紛争に対する米国のいわゆる平和計画を非難し、イニシアチブは地域と世界の両方にとって「悪夢」であると述べた。
ザリフは火曜日のツイートで、米国大統領ドナルド・トランプの「いわゆる「平和のためのビジョン」は、単に破産した不動産開発者の夢のプロジェクトである」と述べた。

イランの外務大臣は、この計画は「地域と世界にとって悪夢であり、できれば間違った木を植えているすべてのイスラム教徒の目覚めの呼びかけ」であると付け加えた。(自動翻訳)

キーワード:中東和平、トランプ大統領、ネタニヤフ首相、エルサレム、イスラエル、パレスチナ、

アリーの派=シーア派の誕生

イスファハン(イラン)郊外のモスクで寛ぐ家族

前回からの続きである。アリーの死後、ムアーウイアがカリフに就いてウマイヤ朝(661~750)を創設した。首都はダマスカス(シリア)においた。イスラムの歴史としてはムハンマド⇒正統カリフ時代⇒ウマイヤ朝⇒アッバース朝・・・・と流れていくのである。アリーには二人の男子がいたが、四代目カリフの遺児として、それ相応の待遇をうけて静かに暮らしていた。ウマイヤ朝の時代もムアー・ウィアが死去し二代目になっていた。ウマイヤ朝はカリフを世襲する体制になっていた。そんな時代にクーファ(第四代アリーが拠点としていた地)のアリーの信奉者たちがウマイヤ朝に反旗をひるがえし、そこにアリーの次男フサインが担ぎ出されたのだった。これがシーア派の始まりである。正統カリフ時代の後のウマイヤ朝には同調せずに、自分たちの派をつくり、歩み始めたのだ。シーアとは「派」という意味である。それまでイスラムという一枚岩的な組織に新たな「派」ができた。それがシーアである。シーア派という言い方は「派派」というおかしな意味になってしまうが仕方ない。そして、シーアが支流なら本流のウマイヤ朝はスンニー(スンナ)派という。スンナとは規範・慣行などの意味がある。コーランや共同体で定められた規範に則っていきる派というような意味になる。詳細は省くが680年のカルバラの戦いにおいてフサインは戦死した。シーア派はこの時の戦いを現代でも昨日のことのように深い悲しみとともに抱いている。毎年アシュラの日が近づくと、カルバラの戦いの悲劇を再現した演劇(タージェ)が各地で開かれる。人々はそれを見て涙する。アシュラ当日には男どもが鎖で背中を打ち、こぶしで胸を叩いて町を行進する。女どもは泣きながら後を歩く。シーア派の最高指導者はカリフではなく、イマームという。初代イマームがアリーであり、2代目が長男のハサン、3代目が次男のフサインであるが、その後、幾通りかに分派していくのである。シーア派で主流が12イマーム派であり、今のイランのイスラムはシーア派のこの派である。

そうなると、シーア派とスンナ派の教義はどう違うかという疑問がでるのは当然である。が、両派にとっても、それ以外の諸派にとってもコーランが第一の法源であることには変わりない。その解釈の仕方にスンナ派では四大法学派の解釈に拠ったりする(派によって若干違ったりする)が、シーア派ではイマームの解釈に拠るとか。聖地にしても、シーア派は途中から独自の道を歩いたために、シーア派のイマームにまつわる地が聖地になる。例えば、先ほどのカルバラの戦いのカルバラ、イランのマシャドなどがあるが、メッカもエルサレムもシーア派にとっても聖地である。アリーはシーア派のイマームであるが、スンナ派にとっては正統カリフ時代のカリフであることに変わりはない。イスタンブールのアヤソフィアにはムハンマドなどと並んでアリーの文字が大きく書かれているのを見た人は多いだろう。スンナ派では決してやらない肖像画(例えばアリーの顔)をシーア派では飾ることがある。アリーの肖像画はイランでよく見かける。イマームザーデなどもはシーア派独特のものだろう。こまごまとしたことは、一通りの歴史が終わった時にまた個別に詳しく取り上げてみよう。今回は正統カリフ時代の終わりにシーア派が誕生したということである。基本的なことだけであるが、いつものように山川出版のヒストリカに掲載されている両派の違いを下に紹介しておく。

オリエント世界 (1) メソポタミア文明からバビロン第一王朝

中東世界について2回書いたのであるが、アラブやトルコ、イランという前の中東世界があった。中国、インドとともに世界の四大文明であるメソポタミア文明とエジプト文明が中東地域で誕生した。現代世界において、政治・社会面で不安定な地域ではあるが、その昔、この地域は文明の開けた世界の中で最も発展していた地域であった。やがてこの地域はヨーロッパ世界からオリエントと呼ばれるようになる。その時代を大雑把に下図のように描いてみた。

メソポタミア文明を築いた中心はシュメール人であった。ウル、ウルク、ラガシュといった有力な都市が互いに競い合って発展していった。だが、シュメール人がどのような人々だったかは、いまだに謎とされている。

メソポタミアは世界で最も早く文字が発明された場所でもある。彼らの文字は絵文字の起源となり、やがて楔形文字に発展していった。文字は商業、経済、政治、文学といった多くの場面で使用された。メソポタミア周辺で発見された粘土板文書は50万枚にも達すると言われている。粘土板に記された有名な物語が『ギルガメシュ叙事詩』である。神と人間が入り混じった主人公ギルガメシュの物語で粘土板に書かれている。「ノアの方舟」の元と思われる洪水伝説が語られている。矢島文夫さんが訳出したものがちくま学芸文庫から出版されている(900円税別)。

図に記されたアツカド文明は紀元前2330年頃から約1世紀の間、シュメール時代に割り込むように栄えた。アツカド人はアラビア半島にルーツをもつセム系言語(アラビア語もセム系)を話す民族だったとされている。その次がバビロニアである。前2000年頃~前9世紀頃まで、中部イラクのバビロンを中心に栄えた。ハンムラビ王はメソポタミアを統一して帝国を築こうとしたが、多様な民族を統合するために制定したのが「ハンムラビ法典」であった。そのバビロニア王国もヒッタイトの攻撃により滅びた。

 

 

中東世界とは (2)

前回、数多くの少数民族がいると書いた。例えば、イランにはルール、バルチ、トルクメン、クルド、バクチヤーリなどがいる。アラブ人やトルコ人もアルメニア人もいる。でも中心をなすのはイラン人=ペルシア人=アーリア人であって、イランと言えばペルシア文化が基調の国である。

同様にトルコもそうである。中東問題のひとつでもあるクルド問題のクルド人達は少数民族ではない。しかしながら、東ローマ帝国を滅ぼして築いたオスマン帝国の主役はトルコ人であり、そこに築いたのはトルコ文化である。このような意味合いで、私は上の図を描いたのである。中東にはアラブとペルシアとトルコの3つの文化があることを認識してもらいたい。

強調したいのは「中東には数多くの民族、そして彼らの文化があるので一つではない。しかし、中東の文化には3つの中心的な文化がある」ということである。多くの人々はイラク人とイラン人は同じ中東の隣の国で同じような民族・文化であると思っているのではないだろうか。イラクはアラブであり、イランはそうではない。特にイラン人は同一視されることを嫌悪する。それは西洋人が我々をみて「チャイニーズ?」「コーリアン?」と言われたときの感情以上のものがある。シルクロードを通じて中国や日本に洗練された文化を伝えたササン朝ペルシアは初期のイスラム帝国=アラブに滅ぼされたのだった。

 

中東世界とは

本ブログのサブ・タイトルは「中東・イスラム世界への招待」である。中東とはどの地域を指すのだろうか。上の地図はヨーロッパの人々が見慣れている世界地図である。我々日本人が見慣れている地図は日本が中心に描かれているが、この地図で日本は東の端に描かれている。つまり「極東」という言葉はこのような地図を利用している人々の世界観から生まれた概念である。ヨーロッパに近い東方が「近東」と呼ばれ、それは東北アフリカの辺りを指すことになり、「中東」とはその東となる。このブログではトルコ、シリア、レバノン、パレスチナ、ヨルダン、イラク、イラン、クウェート、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーン、カタール、オマーン、イェメン、そしてイスラエルの15ヵ国を中東諸国としておこう。

これらの国々を宗教で分類するとイスラム教が主流でない国家はイスラエルだけである。レバノンは元来キリスト教マロン派が中心勢力を占めていた地域であり、複雑な民族と宗教構造からなるイスラムとキリスト勢力の混合国家としておこう。残りの13ヵ国はすべてイスラムの国である(宗派に違いはあるものの)。

民族で分類するならば、イスラエルはユダヤ民族が建設した国家である。この国家建設がパレスチナ問題を引き起こしたのである。トルコ民族の国家がトルコであり、イラン民族(ペルシア人)の国家がイランである。残りの国々の主要構成民族はアラブ民族である。アラブ民族とはアラビア語を母語とする人々を指し、その人々は中東から北アフリカ一帯の広い世界に居住している。アラブはひとつというアラブ民族主義の質は時代とともに変遷してきた。トルコの公用語はトルコ語であり、イランの公用語はペルシア語である。というもののトルコやイランにはクルド語を話すクルド民族やキリスト教徒のアルメニア人も居住しているし、もっと数多くの少数民族も存在しているので、この国はこれこれであるとステレオスコープ的に決めつけることはできない。

キーワード:中東世界、中東、中東諸国、アラブ民族、トルコ民族、イラン民族、アラビア語、ペルシャ語、トルコ語

2019年1月ブログ開始です。

中東・イスラム世界について名古屋から発信いたします。サイトの整備しながら進めてまいります。記事の掲載は最初は歴史から入っていきますが、合間合間に時事的な記事や、想いでの体験話などを取り混ぜていこうと思います。遅々たるものかもしれませんが、お付き合いの程を宜しくお願いいたします。