書籍紹介:アケメネス朝ペルシア・史上初の世界帝国

前回の記事投稿が、10月9日でした。アラビア書道展が川崎で開かれたので、そちらを訪れたついでに子供たちの家に行って1週間ほど滞在してきました。子供たちというより、目的は久しぶりの孫二人と会いたかったわけです。コロナのせいで2年近く会ってませんでした。といっても、昼間は孫たちは学校や保育園に行ってるわけですから、私は暇なわけです。今回はパソコンを持参しなかったので、暇つぶしのために見つけたのがタイトルの新書版です。

 

中公新書、阿部拓児著『アケメネス朝ペルシア・史上初の世界帝国』880円+税です。書店で偶然発見したのですが、発行は今年の9月ですから新刊です。とっさに思ったことはアケメネス朝ペルシアだけで一冊の本を一般人向けに出版することができるんだ!ということです。失礼かもしれませんが「へえ、こんな本でも売れるのかなあ?」という思いでした。アケメネス朝ペルシャは当然世界史で学ぶところでありますし、キュロス大王やダレイオス大王とペルセポリスの遺跡、そしてこの帝国がアレクサンドロス大王に滅ぼされたことなどで興味・関心もある人は多いでしょう。でも、その中間の部分つまり、ダレイオス大王の最盛期から末期に至る間のことはあまり関心がない人が多いと思っているのです。正直、自分もそうでした。そのような偏見に満ちた私感はここまでにしましょう。ペルシアに興味のある人は是非とも読んでいただきたい本だと思います。

まず、最初に伝えたいことはダレイオス大王がアケメネス朝の初代の王かもしれないということです。普通は初代がキュロス大王で二代目が息子のカンビュセス、そして3代目にするか4代目かと紛らわしいダレイオス大王となるのですが、キュロス大王の国とダレイオス大王の国は分ける考え方もできると諸説を紹介しています。私もこの説は以前から知っています。青木健氏はその著書の中で、キュロス大王から3代目までをチシュピシュ朝としています。今、世の中にでている歴史書の中の系図で、アケメネス朝は以下の図になっています。

確かにダレイオス1世(ダレイオス大王)はキュロスの直系ではありません。しかし遡れば繋がるということになるわけです。しかし真実はそうではなくて、ダレイオス大王が自らが王位についた正統性を主張するために作り上げた可能性があるというのです。それに関することがらがいくつか示されるのが大変興味深い。

カンビュセスが死んでダレイオス大王の時代になるわけであるが、カンビュセスの死とそこにまつわるストーリーもいくつかのシナリオが示されておりこれまた興味深いものであります。普通は、カンビュセスが実の弟を殺害し、秘密にしていた。しかし、それを知った弟に瓜二つのそっくりさんが、カンビュセスのエジプト遠征中に弟になりすまし王位就任を宣言する。慌てて引き返すカンビュセスが馬から落ちて死ぬとかなのでありますが、このあたりのストーリーも諸説があり、面白い。

とにかく、大昔の歴史であり、その当時を伝えるのがヘロドトスの『歴史』やクテシアスの『ペルシア史』しかないのである。あと有力なものとしてはベヒストゥーン碑文であり、私も地上100m、断崖絶壁に登りこの碑文を目の前にして感動したのですが、この碑文はダレイオス大王が造った、造らせたものであるから、自分に都合の良いように記している可能性は皆無ではないわけです。

このようにこれまで当たり前とされていた点が、そうでなくなるという内容は中々読みごたえがあるものです。しかし、一般読者にはそこまで細かい点は必要ないと思う点もあるので、適当に取捨選択してページをめくればいいでしょう。

 

 

 

 

 

zendan-e-Soleiman ソロモンの牢獄

前回のパサルガダエの記事の最後の方で「zendan-e-Soleiman ソロモンの牢獄」を紹介して、次のように書いた。
この先に行くと、zendan-e-Soleiman ソロモンの牢獄と呼ばれる四角い石の塔のような構造物がある。次の写真であるが、これはゾロアスター教の拝火殿に近いものであるらしい。ナクシェ・ロスタムにあるゾロアスター教のカーバはより良好に保存された同様のものであるとか。

しかしながら、そのあとで読んだ青木健著『ペルシア帝国』講談社現代新書を読むと、40頁に以下の記述があった。
長らく用途不明だったパサルガダエのゼンダーネ・ソレイマーン遺跡の不思議な塔は、現在ではクールシュ二世の衣装の倉庫と解釈されており、その塔の屋上で、クールシュ二世の衣装を着用した新大王のお披露目式が行われたと推定されている。
クールシュ二世というのはキュロス二世のことであり、新大王というのは、息子のカンビセスのことである。今ではそのように推定されているというのであるから、それを紹介しておくことにした。でも、推定と記述しているので、あくまでも推定の範囲内のことである。

中東の世界遺産①:パサルガダエ Pasargadae

中東地域にも世界遺産は数多くあります。これまでこのブログでは、特に世界遺産として取り上げてはいませんが、記事にした事柄の中には世界遺産になっているものもあります。今後、中東の世界遺産にも世界遺産として目を向けようと思うのです。一回目はイランのパサルガダエです。

パサルガダエ
パサルガダエは紀元前6世紀にキュロス大王(キュロス2世)によって建てられたアケメネス朝の最初の都である。その領土は地中海東岸とエジプトからインダス川に至る広大な帝国であった。パサルガダエの遺跡の大まかな図を次に示そう。

数字の1のところがキュロス大王の墓である。そこから北東へ歩いていくと③王の謁見の間跡があり、その先に⑤住居にしていた宮殿跡がある。6の地点にはソロモンの牢獄という建造物がある。その先の7の地点は高台になっており、そこから全体を見渡すことができる。そこから見る風景は2500年前の廃墟でしかないが、それぞれの箇所で見る遺跡群は当時の栄華の様を忍ぶことができる。はじめから写真で辿ることにしてみよう。

東からパサルガダエに近づいていくと両側に立派な並木が現れる。その道の奥の方にキュロス大王の墓が少しずつ見えてくる。到着して先ずはまっすぐにキュロス大王の墓に行く。

キュロスの墓を後にして東北に歩いていくと建物の基礎部分だけが残ったエリアに着く。このあたりが王の謁見の間のようだ。

更に歩をすすめるとResidential Palace of Cyrus になる。日本語ではキュロスが居住した宮殿ということだろう。建物はないが太い大きな柱が沢山建っている。キュロス大王の栄華の跡であろう。

この先に行くと、zendan-e-Soleiman ソロモンの牢獄と呼ばれる四角い石の塔のような構造物がある。次の写真であるが、これはゾロアスター教の拝火殿に近いものであるらしい。ナクシェ・ロスタムにあるゾロアスター教のカーバはより良好に保存された同様のものであるとか。

アレクサンドロスの帝国!

いよいよアレクサンドロス大王の登場である。アケメネス朝ペルシアを滅ぼしたのは、マケドニアの若き英雄アレクサンドロスであった。上の画像は講談社発行興亡の世界史第1巻『アレクサンドロスの征服と神話』の表紙である。タイトルの背景はペルセポリスである。馬の顔のようなのは柱頭に据えられたものであり、これは伝説的な架空の動物(鳥?)である。たしかペルシア語でhomaと呼んでいたように思う。余談はさておいて、アレクサンドロスはペルシアを征服したが、ペルシアの制度や文化を否定することなく、また自己のギリシア・マケドニアのそれを押し付けるのでなく、両者の融合を図った。彼自らがペルシアの女性を娶り、部下にもそのように奨励した。ペルシアとギリシアの融合:東と西の融合が進んでいった・・・・ヘレニズム文化である。

アケメネス朝ペルシアの大帝国はアレクサンドロスの帝国となった。彼はさらに東方へ領土を拡大しようとしたが、兵士たちの多くに疲れが現れていた。故国を遠く離れ、過酷な自然条件のもとでの長い遠征の途であった。兵士たちの不満も高まりつつあった。そんな折に、アレクサンドロスは突然この世を去ったのであった。BC323年、バビロンにて病死、32歳の若さであった。この若さでの死は彼に後継者を定めさせる思いも時間も与えていなかった。リーダーを亡くした帝国は混乱状態になった。アレクサンドロス亡き後は、上図のように3つに分裂する。マケドニア本国はアンティゴノス朝に、エジプトはプトレマイオス朝に、そしてペルシア一帯を含む東方はセレウコス朝となったのである。エジプトのプトレマイオス朝といえばクレオパトラだ。そうなるとローマ帝国も登場する。華やかな世界史となりそうではあるが、ここ中東世界ではそれぞれの王朝が図に記しているように200年から300年後には全てが滅亡しているのである。興亡の世界史とはよく言ったものである。

ナクシェ・ロスタム(Naqsh-e-Rostam) 王の墓群

前回、アケメネス朝はアレクサンドロス大王によって滅ぼされたと書いた。次のテーマに移りたいところであるが、ナクシェ・ロスタムについて書き残しておきたい。ナクシェとは絵、ロスタムとはペルシアの伝説物語の英雄の名前である。英語で表記するとNaqsh-e-Rostam ペルシア語でنقش رستم‎ である。ここはペルセポリスから北へ約4kmほどのところにある王族の墓が並んでいる場所である。ビストゥーンの磨崖碑と同じように垂直に立っている岩山の壁面に造られている。墓は4つ並んでいるのだが、左の3つから少し離れた右の方に1つが少し左の方を向きかげんで並んでいる。一番左からダレイオス2世、アルタクセルクセス1世、ダレイオス1世、クセルクセス1世の順番である。前回の王の系図をみれば4人の関係がわかるであろう。

最初にここを訪れたのは1972年であったと思う。自分も二十代であった。その時には誰もいなくて、このような歴史的遺産に対する取り扱いに驚いたものだった。あれから何度も訪れた。日本から来訪者が来る度にイスラハンとペルセポリスを案内したついでにここにも来た。いつからか入場料(といっても囲いがしてあるわけでもないが)を徴収する人がいるようになった。金額も大した額ではないが、一応、歴史的な遺産として扱われるようになった。いつ行っても晴天ばかり(これはイランなら北のカスピ海沿岸を除いてほとんどのところがそうであるが)。青い空に磨崖壁の遺跡が美しく映えるのである。

アケメネス朝の滅亡

ペルセポリスはダレイオス1世が建設したが、完成したのはクセルクセス1世のときである。この王朝の特徴としてサトラップ制、王の目王の耳、王の道などは既に述べたが、ほかには貨幣制度の導入がある。ペルシアの金貨は帝国の統一貨幣としての役割を果し、国内の商業の発展を促進した。また、ギリシアなどでも通用し、当時の世界通貨的な面を持つようになった。また、農業も重視され、被征服地から新しい作物を持ち込むことなども行われた。イラン北西部辺りで始まった地下水路(カナート)がこの時代になると乾燥した高原地帯でも広く普及していった。カナートは現在でもイランを中心に各地でみられるが、降雨の少ない中東地域では非常に重要な施設である。飛行機の窓から下を見た時に、山の裾野から平地に向かって〇状のものが連なっているのが見えることがある。これはカナートを掘った時に地下から掘り出した土饅頭のようなもので、中心部に穴があいているのである。この〇をつなぐ線の下に地下水路が流れているのである。その構造は次の図のようになっている。カナートの終点は地表になり、そこはオアシスである。この水のおかげで人が住むことができ村ができる。隊商の人々やラクダにとっての貴重な水を提供しているのである。

アケメネス朝は上の系図が示すように11代国王まで続いて滅亡するのであるが、この間、ギリシアとの度重なる戦いもあった。その一つマラトンの戦い(BC490)で、この時にギリシア側の戦士が勝利を伝えるために走ったことが現在のマラソンの起源となっていることは皆さんご存知のことですね。このペルシア帝国を滅ぼしたのはマケドニアの若き英雄アレクサンドロスであった。ペルセポリスはアレクサンドロス軍の攻撃で炎上し滅び去ったのであった。

ダレイオス大王の偉業② ペルセポリス

ペルセポリスはダレイオス大王が造ったペルシア帝国第三の首都であり、ここの宮殿跡が残っている。ピエール・ブリアン著『ペルシア帝国』によれば、「王家の食卓には毎日、王と側近だけでなく、高官から行政官、帝国内の諸民族の代表、王宮の衛兵、寵臣など、宮廷に仕えるすべての臣下ー総計1万5千人分の食事が用意される」とある。ここからも宮殿の規模の大きさがわかる。実際に現地を見ると乱雑に残された柱跡や、宮殿の門、壁面の様々な図柄の彫刻や楔形文字に圧倒される。様々なレリーフに描かれている人々は朝貢のために来た者たちで、その衣装や貢物の形から、どこの国から何を持ってきているのかが特定されているのである。ここでは講釈することはせずに、写真をアップすることでペルセポリスを味わっていただきたい。写真をクリックすると拡大されます。

 

 

アケメネス朝ペルシア:ダレイオス1世の偉業①

ダレイオス大王やビストゥーンの磨崖碑のことばかり書いてきたが、アケメネス朝のことについても話すことにしよう。アケメネス朝は当時の世界における最大の国家であった。ペルシア帝国と呼ばれる所以である。上の図はこれまた帝国書院のものであるが、キュロス⇒カンビュセス⇒ダレイオスの三代の王が国土を広げていった過程を示している。西はエジプト、今のトルコから東はインダス川へ、北東は中央アジアにまで及んでいる広大な領土だった。ダレイオスが成し遂げた偉業の1つは「王の道」の建設であった。図の中心部のスサからアナトリア半島の地中海近くのサルディスに至る2,699kmの道を造り、そこには111の宿駅を設け、守備隊が置かれていた。スサは行政の中心であり、サルディスは旧リディアの首都であった。これまでは徒歩で3ヵ月かかったものが、王室の伝令はわずか数日間で移動することができた。

中央集権体制であったが、全国を20の州(サトラピー)に分けて州知事(サトラップ)を置いた。そして州にはある程度の自治を認めた。これはアッシリアの圧政が裏目にでて早々と崩壊したことの二の舞を避けたのであった。その代わりに州知事の動向を把握するために「王の目、王の耳」を設けた。彼らは各州を回り、州知事の状況を王に報告していた。

ゾロアスター教(2)現代に生きているゾロアスター教

前回、ゾロアスター教について簡単に紹介しました。ユダヤ教やキリスト教以前に誕生した古い中東の宗教です。ゾロアスター教はアケメネス朝で王族の信仰の対象となり、ペルシアを中心に普及していきました。ササン朝ペルシアでは国教となるのでした。しかしながら、ササン朝がイスラム勢力の台頭によって滅びた後、ゾロアスター教は衰退してしまったわけです。現代でもゾロアスター教徒はいます。イランではヤズドという町に多くの信者がいます。またパキスタンやインドに渡った人々の中にも多くいるようです。彼らはパールシー教徒などと呼ばれているようです。

ゾロアスター教が今日の社会に生きている名残りの代表的なものはノウルーズでしょう。3月の春分の日がノウルーズです。ノウは新=英語のnew, ルーズは日です。新しい日=新しい年の意味になります。つまり新年です。イランはイスラムの国です。当然のことですが、イスラム暦を使用しています。が、イランではもう一つの暦がごく普通に使われています。イラン暦というものです。この暦はイスラム暦と同じように西暦622年のヒジュラを紀元とした暦です。イスラム暦はそこから太陰暦でスタートしていますが、イラン暦は太陽暦です。従って、イラン暦の新年は毎年3月の春分の日に始まるのです。ノウルーズはイランだけでなく中東の他の地区、中央アジアの一部の地域でもお祝いするところがあります。イランのノウルーズは日本の正月飾りと同じように定番の飾り物があります。それはハフト・シン(Haft sin)と呼ばれます、ハフトは7で、シンはペルシア語のSです。Sの頭文字のものを7つ揃えるのです。ニンニクやリンゴ、日本のおせちのようにそれぞれに意味があるのです。ユーチューブでもハフト・シンの動画を見ることができます。イスラム世界では新年を祝うということはありませんが、イランではノウルーズの新年を盛大にお祝いするのです。この太陽中心の暦がゾロアスター教の名残なのです。

ノウルーズに子供たちはお年玉をもらいます。エイディというものですが、ちょうど日本のお年玉と一緒です。ノウルーズが近づく年末最後の水曜日にはチャハールシャンベ・スーリーという行事があります。家の近くの広場や路上で枯れ木を燃やして、その上を子供たちがピョンピョン飛び跳ねる行事です。男も女も一緒になって飛び跳ねます。日本でも火の上を歩く行事がありますね。それと同じような年末の行事です。チャハールシャンベというのは水曜日、スーリとは火の炎という意味です。水曜日の行事なのですが、行われるのは火曜日の夜になります。なぜでしょうか。イスラム世界では一日は日没から始まるのです。ですから火曜日の夜はすでに水曜日になっているのです。面白いですね。もっともっとお話ししたいことはありますが、今日はこの辺でさようなら。

 

 

 

 

ゾロアスター教について

ビストゥーンの磨崖碑のところでアフラマズダのシンボルが描かれていた。ダレイオス大王はアフラマズダ神が我を王位を授けたという意味を述べていた。そこでアフラマズダを神と崇めるゾロアスター教について触れておくことにしよう。

アフラマズダはゾロアスター教の神である。ゾロアスター教とは日本では拝火教、中国では祆教(けんきょう)と呼ばれた宗教であり、拝火教という名が意味するとおり、「火を崇める宗教」である。祭壇には途絶えることなく火が灯されているという。松本清張氏は著書『ペルセポリスから飛鳥へ』のなかで「ゾロアスターの教義」として書いている部分があることを以下に紹介しよう。

ゾロアスター教は西アジアに紀元前1000年ころからある土俗信仰のミトラ神(太陽信仰)を理論化し組織化したものだが、太陽たる「善」のほかに「悪」の存在を認め、これを暗黒にあらわして二元的な世界観にした。暗黒を「悪」としてあらわしたのは、夜が急激に冷え込むイラン高原や砂漠地方の自然条件のもとに住む人間の実感から出ている。岩山の断層がゆがみ、斜面や頂上が崩壊し、亀裂が生じ、岩屑が落ちるのも、前に触れたように昼間の太陽熱による膨張と夜の寒冷による収縮の繰り返しからである。光明の善神アフラマズダと暗黒の悪神アングロマイニュ(インドの『ヴェーダ』ではアシュラにあたる)との闘争は長く、アングロマニュアの率いる軍隊によってアフラマズダの軍隊が敗北し、世界にはしばしば終末がおとずれようとする。だが、終局的にはアフラマズダの軍隊が勝利し、ここに世界の救済がなるというものである。このことがユダヤ教に影響を与え、それまでは唯一神ヤーハウェのみであったが、悪魔の存在を認めて二元論とした。また仏教に影響を与え、終末思想つまり末世思想となる。・・・・・・だが、終末期には救世主が現れる。ゾロアスター教ではそれがゾロアスターの預言者であり、仏教においては弥勒であり、ユダヤ教ではダビデであり、キリスト教ではキリスト自身である。・・・

引用部分の終わりの方は少々????と思うところもあるが、松本清張さんはゾロアスター教に思い入れが強く、飛鳥の石造物とゾロアスター教の関係を強く訴えている自称考古学者なのである。ゾロアスターについてはちくま学芸文庫から前田耕作氏の『宗祖ゾロアスター』が発刊されている。定価千円(税別)。非常に面白い著書である。

ゾロアスター教の宗祖がゾロアスターである。この人物は謎の多い人である。日本では馴染みが薄いのであるが、西欧社会には想像以上に影響力をもっていたのである。

「アテナイの学堂」はルネサンス期イタリアの画家ラファエロ・サンティのもっとも有名な絵画の一つである。描かれたのは、ローマ教皇ユリウス2世に仕えた1509年と1510年の間である。バチカン教皇庁の中の、現在ラファエロの間と呼ばれる4つの部屋の壁をフレスコ画で飾ることになって、ラファエロはまず署名の間と呼ばれる部屋から着手することにした。そして、最初に『聖体の論議』を仕上げてから、2番目に手がけたのがこの『アテナイの学堂』である。その絵は、長きにわたってラファエロの最高傑作とみられてきた。・・・これはウィキペディアの文章を引用したのであるが、このアテナイの学堂という絵の中に地球儀を抱えたゾロアスターが占星術師として描かれているのである。興味ある人はインターネットでご覧いただきたい。

さらに、ニーチェの作品『ツァラトゥストラはかく語りき』を読んだことはなくとも、題名は知っている人が多いだろう。このツァラトゥストラという人物が実はゾロアスターなのである。ペルシア語の呼称をドイツ語読みにしたものである。

そうそう、思い出しました。そういえば自動車メーカーのマツダというのはイランではMAZDAと車体に書かれている。たしかマツダの社名の由来が、アフラ・マズダにあるということを聞いたことがある。本当かな?(笑)

今日はこの辺でおわりとするが、ゾロアスター教と奈良東大寺のお水取りの行事が関係あるとする学者さんもいるのである。代表的なのが故伊藤義教先生である。小生は昔、この先生からビストゥーンの碑文の楔型文字について講義を受けたことがある。そのような過去が私を中東世界に引き込んでいった一つの要因かもしれない。