新シリーズ「オスマン帝国」:①「オスマン・トルコ」という呼び方

このブログの最初は歴史から始まった。その過程の中でオスマン帝国も登場したのであるが、このブログの表示履歴を見ると、オスマン帝国の表示が意外に多い。日本人のトルコに対するイメージは「アジアの中の一員でありながら、西洋との接点の国であり、どこかエキゾチックな国」というようなものではないだろうか。トルコへの観光客も多いと聞いている。私も随分前に行ったことがあるが、やはりイスラム建築の美しいモスクなどが魅力的であった。ということで、トルコ、オスマン帝国について、今度は少し細かく辿ってみようと思うのである。勿論いつものように、ペルシャの詩、ペルシャ語講座など、あちらこちらに寄り道をしながらのことではあるが。

「オスマン帝国」と「オスマン・トルコ」

今では「オスマン帝国」という呼び方が定着しているように思うが、私が高校生だった当時は「オスマン・トルコ」や「オスマン・トルコ帝国」という呼び方が一般的であった。私は世界史の教科を選択したので、『世界史辞典』を手元に置いていた。受験参考書の出版社「数研出版」の発行である。それは今現在も手の届くところに置いてある。その時点の項目は「オスマン・トルコ帝国」となっている。その説明文は以下の通りである。

13世紀末、オスマン=ベイ(オスマン1世、1258~1326)が小アジアを中心に建てたオスマン=トルコ族のイスラム国家。オットマン帝国ともいう。その後バルカンに進出し、1453年コンスタンティンープルを陥れて東ローマ帝国を滅ぼし、アジア・ヨーロッパ・アフリカ3大陸にまたがる大国となった。1517年セリム1世のとき、アッバース朝の子孫からカリフの尊号を譲られ、ついで16世紀、スレイマン1世時代に国力の極盛期を現出、その後17世紀後半に至って衰微オーストリア・露の侵略を受けた。19世紀に入ると領内に多くの民族国家が独立し、さらに第一次大戦に独側に参加して失敗したので1922年、ケマル=アタチュルクはスルタン制を廃して帝国を滅ぼし、翌年トルコ共和国を建てた。

文中にある「オットマン帝国」は英語の「Ottoman Empire」のことであり、「オスマン帝国」のことを英語ではこう呼ぶのである。オスマンとはOttoman(オットマン)であることが分かる。

やはり、高校から大学生の頃であるが、私は大阪外国語大学の学生であり、言葉に対する興味・関心は強い方だった。自分の話す日本語は紀州の田舎弁であったため、言葉遣いやイントネーションには少々劣等感を持っていたが、クラスメートが「お前の言葉には古い日本の言葉が残っているようだ」と言ってくれたことから、むしろ誇りに思うようになった。横道に逸れたが、その頃の私はトルコ語も日本語もウラルアルタイ語族に分類されるので語学的には近い関係にあると認識していた覚えがある。でも、今はそんなことは言われていないようである。こう書いたのであるが、あまり信ぴょう性のないことを書いてもいけないので、ちょっとウィキペディアを開いてみると、今ではウラル語とアルタイ語とに分かれているようである。また、トルコ語がウラル・アルタイ語族であったというのは仮設であったようで、その後、その仮説は否定されているようである。そしてなによりも、トルコ語はチュルク諸語、トルコ諸語というようなグループ分けに入り、そこにはアゼルバイジャン語、トルクメン語、キルギス語、カザフ語、ウズベク語、ウイグル語、タタール語、サハ語(ヤクート語)などが挙げられていた。つまり、私は学生時代の仮説を今までずーと思い続けていたようである。常に勉強しておかないといけないということが分かった。

他にもトルコ人には我々と同じように赤ちゃんのお尻に蒙古斑ができるとも聞いていた。これなども正しくはないのかも知れないなと不安がよぎるのである。でも人種的にはアジアの方から移動していったという説があるようだから、トルコ人の人種について、次は調べて書いてみよう。今日は取り留めのない話になってしまったが、今入力しているパソコンの傍には宮田律先生の『中東イスラーム民族史』が置いてある。きっと、トルコ民族の答を見ることができるであろう。

小川亮作訳『ルバイヤート』57~73「無常の車」

岩波文庫、小川亮作訳、オマル・ハイヤーム著『ルバイヤート』の第5章「無上の車」をお届けします。テキストの電子化は「青空文庫」さんによるものです。ここに感謝して利用させて頂きます。

 

無常の車

57
君も、われも、やがて身と魂が分れよう。
塚《つか》の上には一|基《もと》ずつの瓦《かわら》が立とう。
そしてまたわれらの骨が朽《く》ちたころ、
その土で新しい塚の瓦が焼かれよう。

(58)

地の表にある一塊の土だっても、
かつては輝く日の面《おも》、星の額《ひたい》であったろう。
袖《そで》の上の埃《ほこり》を払うにも静かにしよう、
それとても花の乙女《おとめ》の変え姿よ。

59

人情《こころ》知る老人よ、早く行って、
土ふるいの小童の手を戒めてやれ、
パルヴィーズ*の目やケイコバード*の頭を
なぜああ手あらにふるうのかえ!

60

朝風に薔薇《ばら》の蕾《つぼみ》はほころび、
鶯《うぐいす》も花の色香に酔《よ》い心地《ごこち》。
お前もしばしその下蔭で憩えよ。
そら、花は土から咲いて土に散る。

61

雲は垂れて草の葉末に涙ふる、
花の酒がなくてどうして生きておれる?
今日わが目をなぐさめるあの若草が
明日はまたわが身に生えて誰が見る?

62

新春《ノールーズ》* 雲はチューリップの面に涙、
さあ、早く盃《さかずき》に酒をついでのまぬか。
いま君の目をたのします青草が
明日はまた君のなきがらからも生えるさ。

 

63

川の岸べに生え出《い》でたあの草の葉は
美女の唇《くちびる》から芽を吹いた溜《た》め息《いき》か。
一茎《ひとくき》の草でも蔑《さげす》んで踏んではならぬ、
そのかみの乙女の身から咲いた花。

64

酒のもう、天日はわれらを滅ぼす、
君やわれの魂を奪う。
草の上に坐《すわ》って耀《かがよ》う酒をのもう、
どうせ土になったらあまたの草が生える!

(65)

ありし日の宮居《みやい》の場所で或《あ》る男が、
土を両足で踏みつけた。
土は声なき声上げて男に言った――
待てよ、お前も踏まれるのさ!

66

よき人よ、盃と酒壺《さかつぼ》を持って来い、
水のほとりの青草の茂みのあたり。
そら、めぐる車*は月の面《おも》、花の姿を
くりかえし盃にしたり、また壺にしたり。

67

昨夜酔うての仕業《しわざ》だったが、
石の面《も》に素焼の壺を投げつけた。
壺は無言の言葉で行った――
お前もそんなにされるのだ!

68

なんでけがれ*がある、この酒甕《さけがめ》に?
盃にうつしてのんで、おれにもよこせ、
さあ、若人よ、この旅路のはてで
われわれが酒甕とならないうちに。

(69)

昨日壺をつくる所へ立ちよったら、
壺つくりは土をこねてしきりに腕をふるっていた。
盲の人は気もつかなかったろう、しかし
その手の中におれは亡《な》き人の土を見た。

(70)

壺つくりよ、心あるならその手を休めよ、
尊い土に無礼なことはやめよ!
ファレイドゥーン*の指やケイホスロウ*の掌《てのひら》を
ろくろに取ってどうしようてんだよ?

71

壺つくりの仕事場へ来て見れば、
壺つくり朗らかにろくろをまわしては、
みかどの首もこじきの足もごっちゃに、
手に取ってつくるは壺の首と足だ。

72

この壺も、おれと同じ、人を恋《こ》う嘆きの姿、
黒髪に身を捕われの境涯か。
この壺に手がある、これこそはいつの日か
よき人の肩にかかった腕なのだ。

73

壺つくりの仕事場に昨日《きのう》よって見ると、
千も二千もの土器《かわらけ》がならべてあったよ。
そのおのおのが声なき言葉でおれにきくよう――
壺つくり、売り手、買い手は誰なのかと。

小川亮作訳『ルバイヤート』35~56「万物流転」

岩波文庫、小川亮作訳、オマル・ハイヤーム著『ルバイヤート』の第4章「万物流転(ばんぶつるてん)」をお届けします。テキストの電子化は「青空文庫」さんによるものです。ここに感謝して利用させて頂きます。

万物流転《ばんぶつるてん》

35

若き日の絵巻は早も閉じてしまった、
命の春はいつのまにか暮れてしまった。
青春という命の季節は、いつ来て
いつ去るともなしに、過ぎてしまった。

36

ああ、掌中《しょうちゅう》の珠《たま》も砕けて散ったか。
血まみれの肺腑《はいふ》は落ちた、死魔の足下。
あの世から帰った人はなし、きく由《よし》もない――
世の旅人はどこへ行ったか、どうなったか?

37

幼い頃には師について学んだもの、
長じては自ら学識を誇ったもの。
だが今にして胸に宿る辞世の言葉は――
水のごとくも来たり、風のごとくも去る身よ!

38

同心の友はみな別れて去った、
死の枕べにつぎつぎ倒れていった。
命の宴《うたげ》に酒盛りをしていたが、
ひと足さきに酔魔のとりことなった。

39

天輪よ、滅亡はお前の憎しみ、
無情はお前 日頃《ひごろ》のつとめ。
地軸よ、地軸よ、お前のふところの中にこそは
かぎりなくも秘められている尊い宝*!

40

日のめぐりは博士の思いどおりにならない、
天宮など七つとも八つとも数えるがいい。
どうせ死ぬ命だし、一切の望みは失せる、
塚蟻《つかあり》にでも野の狼《おおかみ》にでも食われるがいい。

41

一滴の水だったものは海に注ぐ。
一握の塵《ちり》だったものは土にかえる。
この世に来てまた立ち去るお前の姿は
一匹の蠅《はえ》――風とともに来て風とともに去る。

(42)

この幻の影が何であるかと言ったっても、
真相をそう簡単にはつくされぬ。
水面に現われた泡沫《ほうまつ》のような形相は、
やがてまた水底へ行方《ゆくえ》も知れず没する。

43

知は酒盃《しゅはい》をほめたたえてやまず、
愛は百度もその額《ひたい》に口づける。
だのに無情の陶器師《すえし》は自らの手で焼いた
妙《たえ》なる器を再び地上に投げつける。

44

せっかく立派な形に出来た酒盃なら、
毀《こわ》すのをどこの酒のみが承知するものか?
形よい掌《て》をつくってはまた毀すのは
誰のご機嫌《きげん》とりで誰への嫉妬《しっと》やら?

45

時はお前のため花の装《よそお》いをこらしているのに、
道学者などの言うことなどに耳を傾けるものでない。
この野辺《のべ》を人はかぎりなく通って行く、
摘むべき花は早く摘むがよい、身を摘まれぬうちに。

46

この永遠の旅路を人はただ歩み去るばかり、
帰って来て謎《なぞ》をあかしてくれる人はない。
気をつけてこのはたごやに忘れものをするな、
出て行ったが最後二度と再び帰っては来れない。

47

酒をのめ、土の下には友もなく、またつれもない、
眠るばかりで、そこに一滴の酒もない。
気をつけて、気をつけて、この秘密 人には言うな――
チューリップひとたび萎《しぼ》めば開かない。

(48)

われは酒屋に一人の翁《おきな》を見た。
先客の噂《うわさ》をたずねたら彼は言った――
酒をのめ、みんな行ったきりで、
一人として帰っては来なかった。

49

幾山川を越えて来たこの旅路であった、
どこの地平のはてまでもめぐりめぐった。
だが、向うから誰一人来るのに会わず、
道はただ行く道、帰る旅人を見なかった。

50

われらは人形で人形使いは天さ。
それは比喩《ひゆ》ではなくて現実なんだ。
この席で一くさり演技《わざ》をすませば、
一つずつ無の手筥《てばこ》に入れられるのさ。

51

われらの後にも世は永遠につづくよ、ああ!
われらは影も形もなく消えるよ、ああ!
来なかったとてなんの不足があろう?
行くからとてなんの変りもないよ、ああ!

52

土の褥《しとね》の上に横《よこた》わっている者、
大地の底にかくれて見えない者。
虚無の荒野をそぞろ見わたせば、
そこにはまだ来ない者と行った者だけだよ。

53

人呼んで世界と言う古びた宿場は、
昼と夜との二色の休み場所だ。
ジャムシード*らの後裔《こうえい》はうたげに興じ、
バラーム*らはまた墓に眠るのだ。

54

バラームが酒盃を手にした宮居《みやい》は
狐《きつね》の巣、鹿《しか》のすみかとなりはてた。
命のかぎり野驢を射たバラームも、
野驢に踏みしだかれる身とはてた。

55

廃墟と化した城壁に烏《からす》がとまり、
爪の間にケイカーウス*の頭《こうべ》をはさみ、
ああ、ああと、声ひとしきり上げてなく――
鈴の音*も、太鼓《たいこ》のひびきも、今はどこに?

56

天に聳《そび》えて宮殿は立っていた。
ああ、そのむかし帝王が出御《しゅつぎょ》の玉座、
名残りの円蓋《えんがい》で数珠《じゅず》かけ鳩《ばと》が、
何処《クークー》、何処《クークー》とばかり啼《な》いていた。

 

ペルシャ語講座 23:丁寧な表現(尊敬語や謙譲語)

こんな本もありました。

久しぶりのペルシャ語講座です。「日本語には尊敬語や謙譲語というものがあるが、外国語にはそんなものはない」というようなことを聞いたことがあります。先ず日本語以外のすべての言葉を外国語と一括りにしていることが大胆すぎますね。そのような外国語もあるのかもしれません。少なくともペルシャ語の場合は日本語と同じように丁寧な尊敬語もあれば、謙譲語もあるということをお伝えしましょう。

一人称の「私(わたくし)」は من  man  マン ですが、目上の人にへり下って「わたくしめが」というような時には、بنده  bande  バンデ と言います。バンデの意味は「しもべ」という感じです。

逆に「あなた」は普段は شما だとか تو  ですが、目上の人に改まって言う時には、سرکار sarkar (貴殿) があります。もっと恭しくいうと「閣下」的に جناب janab があります。会社にかかってきた電話を秘書がとった時に相手を確かめます。「どちら様ですか」「あなた様は?」という時にجناب عالی janabe ali と言うのをよく耳にしました。jenabは閣下という尊称ですが、jenabe ali は「あなた」の敬称になります。

次は「言う」です。普通は  گفتن  goftan ですね。でも「仰る(おっしゃる)」に相当するのが  فرمودن farmdan です。
なんと言いましたか? چه گفتی
なんと仰いましたか? چه فرمودی

次は「来る」です。普通は آمدن  Omadan でしたね。丁寧に「お出でになる」「いらっしゃる」の場合は تشریف آوردن  tashrif avardan を使います。この tashrif を使うと幅が広がります。
tashrif bordan  تشریف بردن    「行く」の丁寧語
tashrif dashtan     تشریف داشتن   「居る」の丁寧語

このような言葉はある程度会話ができるようになると、自然に覚えるようになるものです。こんな時にはこんな風に言うのだと自然に気づくものです。そうなると本物になってくるのです。私自身は長い間現地での会話から遠ざかっているので、思うように言葉が出なくなってきました(謙遜?(笑))。最近はインスタグラムでやり取りすることが多くなったので徐々に思い出すことが多くなりました。それでは今日はこれまでにしておきましょう。 روز بخیر

小川亮作訳『ルバイヤート』26~34「太初のさだめ」

岩波文庫、小川亮作訳、オマル・ハイヤーム著『ルバイヤート』の第3章「太初(はじめ)のさだめ」をお届けします。テキストの電子化は「青空文庫」さんによるものです。ここに感謝して利用させて頂きます。

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太初《はじめ》のさだめ

26

あることはみんな天《そら》の書に記されて、
人の所業《しわざ》を書き入れる筆もくたびれて*、
さだめは太初《はじめ》からすっかりさだまっているのに、
何になるかよ、悲しんだとてつとめたとて!

27

まかせぬものは昼と命の短さ、
まかせぬものに心よせるな。
われも君も、人の掌《て》の中の蝋《ろう》に似《に》て、
思いのままに弄《もてあそ》ばれるばかりだ。

28

嘆きのほかに何もない宇宙! お前は、
追い立てるのになぜ連れて来たのか?
まだ来ぬ旅人も酌《く》む酒の苦さを知ったら、
誰がこんな宿へなど来るものか!

29

おお、七と四*の結果にすぎない者が、
七と四の中に始終《しじゅう》もだえているのか?
千度ならず言うように酒をのむがいい、
一度行ったら二度と帰らぬ旅路だ。

(30)

土を型に入れてつくられた身なのだ、
あらましの罪けがれは土から来たのだ。
これ以上よくなれとて出来ない相談だ、
自分をこんな風につくった主が悪いのだ。

(31)

礼堂《マスジッド》*のともしび、火殿《ケネシト》*のけむりがなんだ。
天国の報い、地獄の責めがなんだ。
見よ、天の書を、創世の主は
あることはみんな初発《はつ》の日に書いたんだ。

(32)

宇宙の真理は不可知なのに、なあ、
そんなに心を労してなんの甲斐《かい》があるか?
身を天命にまかして心の悩みはすてよ、
ふりかかった筆のはこび*はどうせ避《さ》けられないや。

33

天に声してわが耳もとに囁《ささや》くよう――
ひためぐるこのさだめを誰が知っていよう?
このめぐりが自由になるものなら、
われさきにその目まぐるしさを逃《のが》れたろう。

34

善悪は人に生まれついた天性、
苦楽は各自あたえられた天命。
しかし天輪を恨《うら》むな、理性の目に見れば、
かれもまたわれらとあわれは同じ。

 

小川亮作訳『ルバイヤート』1~15「解き得ぬ謎」

岩波文庫、小川亮作訳、オマル・ハイヤーム著『ルバイヤート』のまえがきと第1章「解き得ぬ謎」をお届けします。テキストの電子化は「青空文庫」さんによるものです。ここに感謝して利用させて頂きます。

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まえがき

ここに訳出した『ルバイヤート』(四行詩)は、十九世紀のイギリス詩人フィツジェラルド Edward FitzGerald の名訳によって、欧米はもちろん、広く全世界にその名を知られるにいたった十一-十二世紀のペルシアの科学者、哲学者また詩人、オマル・ハイヤーム 〔Omar Khayya_m(’Umar Khaiya_m)〕の作品である。
フィツジェラルドが、一八五九年にその翻訳を自費出版で初版わずかに二五〇部だけ印刷した時には、若干《じゃっかん》を友人に分けて、残りはこれを印刷した本屋に一冊五シリングで売らせたのであったが、当時はいっこうに人気がなく、いくら値を下げても買手がつかないので、ついには一冊一ペニイの安値で古本屋の見切り本の箱の中にならべられる運命となった。出版してから三年ばかり後のこと、ラファエル前派の詩人ロゼッテイの二人の友人が、散歩の途次偶然、埃《ほこり》に埋もれたこの珍しい本を発見して、彼にその話をした。ロゼッテイは同志の詩人スウィンバーンと一緒に件《くだん》の店に出かけて行って、ちょっとその本を覗《のぞ》いただけで直ちにその価値を認め、おのおの数冊ずつ買って帰った。翌日彼らは友人に贈るためになお数冊買うつもりでまたその店へ行ったが、店の者は前には一冊一ペニイだったのを今度は二ペンスだと言った。ロゼッテイは怒りと諧謔《かいぎゃく》をまぜた抗議口調でその男に食ってかかったが、結局二倍の値段で少しばかり買って立ち去った。それから一、二週間後には残りの『ルバイヤート』の値段は一躍一ギニイにも跳《は》ね上ったという。
このように数奇な運命をたどったフィツジェラルドの翻訳は、ラファエル前派の詩人たちの推称によってようやく識者の注目をひくにいたり、初版後九年を経た一八六八年に第二版、それから四年後の七二年に第三版、また七九年には最後の第四版が出版され、フィツジェラルドの死後『ルバイヤート』はますます広く読まれるにいたった。ことに十九世紀末から今世紀の初めにかけてオマル・ハイヤーム熱は一種の流行となって英米を風靡《ふうび》し、その余波は大陸諸国にも及んだ。ロンドンやアメリカには『オマル・ハイヤーム・クラブ』が設立され、またパリでは彼の名が、酒場の看板にまで用いられるほどであった。フィツジェラルドの翻訳はいろいろの体裁で翻刻され、各国語に訳された。さらにまたフィツジェラルドのこの奔放《ほんぽう》な韻文訳以外にも、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、イタリイ語等への直接ペルシア語からの韻文や散文の訳が数多く試みられた。わが国でも、明治四十一年(一九〇八年)にはじめて蒲原有明《かんばらありあけ》がフィツジェラルドの訳書中から六首を選んで重訳紹介して以来、今日までに多くの翻訳書が出た。今ではもうフィツジェラルドの名訳はそれ自身英文学のクラシックに列せられている。オマル・ハイヤームの名はこうして世界的なものとなった。
詩聖ゲーテはその有名な『西東詩集』の中で、人も知るごとく、ペルシア語の原文さえも引用して、古きイランの詩人たちを推称した。彼は言った――「ペルシア人は五世紀間の数多い詩人の中で、特筆に値いする詩人としてわずかに七人の名しか挙げないと言われている。しかし彼らが斥《しりぞ》ける残余の詩人の中にさえも、私などよりは遙《はる》かに傑《すぐ》れた人々がたくさんいるのにちがいない」と。自負心の強いこの詩人にしてこの言《げん》をなした、もって傾倒のほどが知られよう。だが彼の挙げた七人の詩人の中にはわがオマル・ハイヤームの名は含まれていない。ゲーテはオマルをも『ルバイヤート』をも知らなかったものと見える。ハイヤームの詩人としての名は昔も今もペルシアではすこぶる高い。だから田舎《いなか》の農夫でもその詩の一首や二首は知っている。現代イラン人の書いた文学史にはオマルの名は八大詩人の中に数え上げられている。それにもかかわらず、彼の詩に盛られた思想が、狂信的なイスラム教(回教)と相容《あいい》れないばかりか、これを冒涜《ぼうとく》する性質さえ持っていたために、ペルシアにおけるイスラム教勢力が衰えた最近代にいたるまでは、文学史上でハイヤームの詩人的才能を讃《たた》えた例はなかったもので、したがってヨーロッパのペルシア学者も、フィツジェラルドや彼にオマルを推称した友人の東洋学者以前には、あまり『ルバイヤート』に注意を払わなかった。そういうわけで、一八三二年に死んだゲーテとしてはフィツジェラルドの翻訳(一八五九年出版)に接する機会はもちろんなかったし、またそれ以前のドイツ語訳によってハイヤームを知るという機会もなかった。彼はまさに「私などよりは遙かに傑れた人々がたくさんいるのにちがいない」と予期したとおり、最も傑れた詩人の一人を逸したわけである。
自ら挙げた七人のペルシア詩人中の一人で、十四世紀に生きていたハーフェズのペシミズム溢れる抒情詩から、ゲーテは多大の影響を受けたと言われている。もしも彼にしてハーフェズの創作上の先師であったオマル・ハイヤームを知っていたならば、この東方に深く憧《あこが》れた詩人の『西東詩集』には、さらに色濃いオマル的な懐疑の色調が加えられたかも知れない。

本書に収めた一四三首はペルシア語の原典から直接訳したもので、テクストにはオマルの原作として定評のあるものだけを厳選し、また最近のイランにおける新しい配列の仕方に従って、「解き得ぬ謎《なぞ》」、「生きのなやみ」、「太初《はじめ》のさだめ」、「万物流転《ばんぶつるてん》」、「無常の車」、「ままよ、どうあろうと」、「むなしさよ」、「一瞬《ひととき》をいかせ」の八部に分類した。もちろんハイヤームが最初の写本を友人に示した当時にはこのような配列順序にはよらなかったであろう。しかも彼自身の配列方法は今では不明であるし、普通の写本のようにイロハ順で漫然と並べるよりも、内容の類似点を捉《とら》えたこの配列の方が遙かに合理的だと考える。各四行詩に附した番号はこの分類にはかかわりなく、全体に通ずる通し番号である。オマルのものかどうかなお多少疑いの余地あるものは冒頭の番号を( )で包んだ。他はすべて彼の作として異論がない。

はじめ、フィツジェラルドの英訳をテクストとした森亮《もりりょう》氏の傑《すぐ》れた訳業に啓発されて、全部|有明《ありあけ》調の文語体で翻訳したが(解説二、「ルバイヤートについて」の項参照)、その後|佐藤春夫《さとうはるお》氏のすすめにより口語体に改めた。同氏の御親切に対して深謝するものである。なお挿絵は小林孔《こばやしこう》氏に負うところ大である。
昭和二十二年八月二十日
松戸にて   訳者

目次

まえがき
解き得ぬ謎《なぞ》1-15
生きのなやみ  16-25
太初《はじめ》のさだめ  26-34
万物流転《ばんぶつるてん》35-56
無常の車 57-73
ままよ、どうあろうと 74-100
むなしさよ 101-107
一瞬《ひととき》をいかせ 108-143

解き得ぬ謎《なぞ》


  1

チューリップのおもて、糸杉のあで姿よ、
わが面影のいかばかり麗《うるわ》しかろうと、
なんのためにこうしてわれを久遠の絵師は
土のうてなになんか飾ったものだろう?

もともと無理やりつれ出された世界なんだ、
生きてなやみのほか得るところ何があったか?
今は、何のために来《きた》り住みそして去るのやら
わかりもしないで、しぶしぶ世を去るのだ!

自分が来て宇宙になんの益があったか?
また行けばとて格別変化があったか?
いったい何のためにこうして来り去るのか、
この耳に説きあかしてくれた人があったか?

魂よ、謎《なぞ》を解くことはお前には出来ない。
さかしい知者*の立場になることは出来ない。
せめては酒と盃《さかずき》でこの世に楽土をひらこう。
あの世でお前が楽土に行けるときまってはいない。

生きてこの世の理を知りつくした魂なら、
死してあの世の謎も解けたであろうか。
今おのが身にいて何もわからないお前に、
あした身をはなれて何がわかろうか?

(6)

いつまで水の上に瓦《かわら》を積んで*おれようや!
仏教徒や拝火教徒の説にはもう飽《あ》きはてた。
またの世に地獄があるなどと言うのは誰か?
誰か地獄から帰って来たとでも言うのか?

創世の神秘は君もわれも知らない。
その謎は君やわれには解けない。
何を言い合おうと幕の外のこと、
その幕がおりたらわれらは形もない。

この万象《ばんしょう》の海ほど不思議なものはない、
誰ひとりそのみなもとをつきとめた人はない。
あてずっぽうにめいめい勝手なことは言ったが、
真相を明らかにすることは誰にも出来ない。

このたかどのを宿とするかの天体の群
こそは博士らの心になやみのたね
だが、心して見ればそれほどの天体でさえ
揺られてはしきりに頭を振る身の上。

10

われらが来たり行ったりするこの世の中、
それはおしまいもなし、はじめもなかった。
答えようとて誰にはっきり答えられよう――
われらはどこから来てどこへ行くやら?

11

造物主が万物の形をつくり出したそのとき、
なぜとじこめたのであろう、滅亡と不足の中に?
せっかく美しい形をこわすのがわからない、
もしまた美しくなかったらそれは誰の罪?

12

苦心して学徳をつみかさねた人たちは
「世の燈明*」と仰がれて光りかがやきながら、
闇《やみ》の夜にぼそぼそお伽《とぎ》ばなしをしたばかりで、
夜も明けやらぬに早《は》や燃えつきてしまった。

(13)

この道を歩んで行った人たちは、ねえ酒姫《サーキイ》*、
もうあの誇らしい地のふところに臥《ふ》したよ。
酒をのんで、おれの言うことをききたまえ――
あの人たちの言ったことはただの風だよ。

(14)

愚かしい者ども知恵《ちえ》の結晶をもとめては
大空のめぐる中でくさぐさの論を立てた。
だが、ついに宇宙の謎には達せず、
しばしたわごとしてやがてねむりこけた!

15

綺羅星《きらぼし》の空高くいる牛――金牛星、
地の底にはまた大地を担《にな》う牛*もいるし、
さあ、理性の目を開き二頭の牛の
上下にいる驢馬《ろば》の一群を見るがよい。

小川亮作訳『ルバイヤート』16~25「生きのなやみ」

岩波文庫、小川亮作訳、オマル・ハイヤーム著『ルバイヤート』の第2章「生きのなやみ」をお届けします。テキストの電子化は「青空文庫」さんによるものです。ここに感謝して利用させて頂きます。

生きのなやみ

16
今日こそわが青春はめぐって来た!
酒をのもうよ、それがこの身の幸だ。
たとえ苦くても、君、とがめるな。
苦いのが道理、それが自分の命だ。

17
思いどおりになったなら来はしなかった。
思いどおりになるものなら誰(た)が行くものか?
この荒家(あばらや)に来ず、行かず、住まずだったら、
ああ、それこそどんなによかったろうか!

18
来ては行くだけでなんの甲斐(かい)があろう?
この玉の緒の切れ目はいったいどこであろう?
罪もなく輪廻(りんね)の環(わ)の中につながれ、
身を燃やして灰(はい)となる煙はどこであろう?

19
ああ、空(むな)しくも齢(よわい)をかさねたものよ、
いまに大空の利(と)鎌(かま)が首を掻(か)くよ。
いたましや、助けてくれ、この命を、
のぞみ一つかなわずに消えてしまうよ!

20
よい人と一生安らかにいたとて、
一生この世の栄耀(えよう)をつくしたとて、
所詮(しょせん)は旅出する身の上だもの、
すべて一場の夢さ、一生に何を見たとて。

21
歓楽もやがて思い出と消えようもの、
古き好(よしみ)をつなぐに足るのは生(き)の酒のみだよ。
酒の器にかけた手をしっかりと離すまい、
お前が消えたって盃(さかずき)だけは残るよ!

22
ああ、全く、休み場所でもあったらいいに、
この長旅に終点があったらいいに。
千万年をへたときに土の中から
草のように芽をふくのぞみがあったらいいに!

23
二つ戸口のこの宿にいることの効果(しるし)は
心の痛みと命へのあきらめのみだ。
生の息吹(いぶき)を知らない者が羨(うらや)ましい。
母から生まれなかった者こそ幸福だ!

24
地を固め天のめぐりをはじめたお前は
なんという痛恨を哀れな胸にあたえたのか?
紅玉の唇(くちびる)や蘭麝(らんじゃ)の黒髪(くろかみ)をどれだけ
地の底の小筥(こばこ)に入れたのか?

25
神のように宇宙が自由に出来たらよかったろうに、
そうしたらこんな宇宙は砕きすてたろうに。
何でも心のままになる自由な宇宙を
別に新しくつくり出したろうに。

 

アルメニアとアゼルバイジャンの紛争(その後)

ナゴルノカラバフ地域を巡るこの旅の紛争もどうやら停戦に到ったようである。10日、アルメニアのパシニャン首相、アゼルバイジャンのアリエフ大統領、それに仲介したロシアのプーチン大統領の三人が共同声明に署名して、停戦に合意した。決着の結果はアルメニアがこれまで実効支配していたナゴルノカラバフの一部を失った。但し、旧自治州の帰属については触れられておらず根本的な解決には至っていない。それは先送りされたということである。

過去にも1994年に欧州安保協力機構とロシアの仲介で両者が停戦合意したこともあったが、アルメニアが旧自治州の実効支配を認める内容であったため、アゼルバイジャン側には不満であった。今回の停戦合意により、両者の衝突は停止することになるが、根本的な解決を先送りしている以上、この先に再び紛争が再燃しないという保証はない。米大統領選、その後の開票にまつわる混乱に乗じて、この地域に対するロシアの影響力が強まったという印象である。

コーランについて(6):第4章・・・女性

 

久しぶりにコーラン第4章について書いてみる。この章のタイトルは「女性」である。イスラム社会では女性が男性とは対等に扱われていないと批判的な発言をする人たちが少なくないことを知っている。それらの批判的な声に同感したり、反論する気持ちを私は全然持っていない。なぜなら、私はイスラム教徒としてイスラム社会で生活した者ではないし、イスラム社会や人々と触れ合った経験はあるというものの、ごくわずかな期間でしかない。これまで、このブログの中ではイランの女性は有能でテキパキと仕事をこなしていることを紹介したことがある。また、シーラーズの底抜けに明るいオバチャンたちとのやり取りを動画で紹介したこともある。現地で接した彼女達との関係は日本でのそれとあまり変わりはしなかった。でも、私たち異国の異教徒と接点を持った女性たちというのはごく一部の人なのかもしれない。一般的に家庭外で他の男性とは一線を画すのが普通なのかも知れない。そんなことはともかくとして、コーランでは女性について、どのようなことが書かれているのかというのが今回の内容である。

コーランには「孤児たちを大切にしてやれ」ということがあちらこちらに書かれている。この章の初めの方にも(4-2)「孤児(みなしご)にはその財産を渡してやれよ。よいものを(自分でせしめて)その代わりに悪いものをやったりしてはいけない。彼らの財産を自分の財産と一緒にして使ってはいけない。そのようなことをすれば大罪を犯すことになる。」(4-3) 「もし汝ら(自分だけでは)孤児に公正にしてやれそうもないと思ったら、誰か気に入った女をめとるがよい、二人なり、三人なり、四人なり。だがもし(妻が多くては)公平にできないようならば一人だけにしておくか、さもなくばお前たちの右手が所有しているもの(女奴隷を指す)だけで我慢しておけ。その方が片手落ちになる心配が少なくてすむ。」
女を複数娶ってもいいとあるが、それは孤児たちを公正に扱うことが自分だけでは難しいならばという条件がついている。そして複数の女を娶っても、その扱いは公平でなければならぬのであって、それができないなら一人にせよと言っているのである。むやみやたらに妻を4人持ってもいいということではないのである。イスラム=一夫多妻OKというのは間違いである。

(4-4) 「妻たちには贈与財(結婚契約の成立時に夫から妻に贈る財産)をこころよく払ってやれよ。だが、女の方で汝らに特に好意を示して、その一部を返してくれた場合には、遠慮なく喜んで頂戴するがよい。」
結婚前に金銭の授受があることがわかる。そして、女が返してくれるなら喜んで受け取ってもいいとある。コーランの記述はいつもながら、非常に現実的で人間臭い内容に思わず微笑んでしまうのである。

(4-7) 「両親、および親戚の遺産の一部は男子に。女にもまた両親、および親戚の遺産の一部を。少額のこともあろう、多額のこともあろう、がともかく所定の割当分を。(4-8) もしその分配の席に縁つづきの者や孤児や貧民が居合わせたなら、そういう人たちにも何分かの志を出してやり、やさしい言葉の一つもかけてやること。」(4-12) 「汝らの子供に関してアッラーはこうお命じになっておられる。男の子には女の子の二人分を。もし女が二人以上ある場合は、(彼女らは)遺産の三分の二を貰う。女の子が一人きりの場合は、彼女のもらい分は全体の半分。それから両親の方は(被相続人に)男の子がある場合は、どちらも遺産の六分の一ずつ。子供がいなくて、両親が相続人である場合には、母親に三分の一。彼に(子供はいないが)兄弟があれば、母親は、彼が(他の誰かのために)遺言しておいた分とそれから負債とを引き去った残額の六分の一を貰う。・・・・・・(4-13) また妻の遺したものについては、彼女らに子供がない場合は汝ら(夫)はその半分。もし子供があれば、彼女たちが特に遺言しておいた分と負債とを差し引いた残りの四分の一を汝らが取る。(4-14) また汝ら(夫の側)の遺産については、もし子供がない場合は、妻たちがその四分の一を貰う。だが、もし子供があれば、遺産から汝らが特に遺言しておいた分と負債を差し引いた残りの八分の一を彼女らが貰う。(4-15) 男でも女でもこれを正当に相続する者がなくて(つまり子供も両親もなくて)ただ兄か弟または姉か妹が一人いるような場合には、そのいずれも六分の一を貰う。しかしそれ以上の人数であれば、本人が特に遺言しておいた分と負債とを差し引いた残額の三分の一を皆で均等に分配する。(4-16) 決して害を被らせるようなことがあってはならぬぞ。これがアッラーのおきめになった分配法。まことにアッラーは全知にして心ゆたかにおわします。」
女性に関する記述が多いから女性の章と名付けられたというが、この章全体をざっと読んでみても、私にはそれほど多いとは思えなかった。上述した部分は相続に関する記述で、女性に関係ある部分を抜き出してみた。男は女二人分を取るだとか、妻の取り分はどうだとか、女性に対しても何らかの配分があるのである。多い少ないかの問題はあるかもしれないが一応女性の取り分があることが明示されていることは評価できるのではないだろうか。それ以上に相続について、男女の問題とは別に事細かく分配の方法が示されていることに驚いた。ここだけでは細かい点の詳細は良く分からない点があるが、八分の一だとか六分の一という数値の根拠などについても知ってみたい気がするのである。次に紹介する部分は女性蔑視と言われる部分かもしれないので紹介しておこう。

(4-34) 「アッラーはもともと男と(女)とな間には優劣をおつけになったのでし、また(生活に必要な)お金は男が出すのだから、この点で男の方が女の上に立つべきもの。だから貞淑な女は(男にたいして)ひたすら従順に、またアッラーが大切に守って下さる(夫婦間の)秘めごとを他人に知られぬようそっと守ることが肝要(この部分は色々な解釈の可能性がある)。反抗的になりそうな心配のある女はよく諭し、(剃れでも駄目なら)寝床に追いやって(こらしめ、それでも効かない場合は)打擲(ちょうちゃく)を加えるもよい。だが、それで言うことをきくようなら、それ以上のことをしようとしてはならぬ。アッラーはいと高く、いとも偉大におわします。

現代では完全にアウトでしょう(笑)。パワハラ、セクハラの最たるものでしょう。男女間には優劣があるのだとはっきり断言しているのが凄いとおもうのであるが、現実のイスラム社会でも、もうこんな考えは多くのところでは消えているのではないだろうか?私には良く分からないけれども。結構、かかあ天下である面を見聞きしたのであるが。ともかくコーランの中にこのような記述があるのは事実なのだ。いつものようにこのブログの日本語は岩波文庫の井筒先生の訳を利用させていただいている。この部分を他の訳文でみると「男たちは女たちの上に立つ管理人である」となっている(中田孝訳)。今BSNHKで放映している朝ドラの前に昔の「澪つくし」が再放送されている(沢口靖子主演)が、貞淑な女性が模範的であるような時代の中で進歩的、活発な女性が現れ始める世の中を描いているようだ(昔は見ていなかったので、新鮮な目で見ている)。イスラム世界も時代とともに変化していくことは必至であろう。

この章には女性に関することだけ書かれているのではなく、ユダヤ人のこととか他のことも数多く書かれていることを付記して終わろう。

 

アルメニアとアゼルバイジャンの紛争

アルメニアとアゼルバイジャンとの間で衝突が起きている。この地域は中東ではなく、コーカサス地方になるのであろうが、中東と密接に関係ある地域なので、取り上げてみることにする。

この両国間の紛争は今に始まったことではない。歴史的な流れからみると、ロシア帝国とオスマン帝国が崩壊し、その後、アルメニアとアゼルバイジャンが独立した時から、ナゴルノカラバフの帰属問題が発生したのである。アゼルバイジャン国内の領域であるナゴルノカラバフ地域に住む大半の人々がアルメニア人であった。第一次世界大戦後両国はソビエト社会主義共和国連邦下に置かれることとなった。そして、ナゴルノカラバフはソビエト社会主義共和国憲法において、アゼルバイジャン内の自治州としての地位を与えられたが、事態が収束することはなかった。Global News View (大阪大学を拠点とするメディア研究機関のHP参照)。

このように、アゼルバイジャン領内において、多くのアルメニア人が居住するナゴルノカラバフ地域がアゼルバイジャンからの離脱志向があり、そこにアルメニアが肩入れしたというのが紛争の始まりということである。私が若いころには「アゼルバイジャンの中にアルメニアの飛び地がある」という風に理解していたものだった。

この図でわかるように、アゼルバイジャンは産油国であるので、ジョージアからトルコ経由で各国に輸出している。両国はパイプラインの通過料を得ることができる。アルメニアはロシアやイランと発電・電力供給で親密な関係にある。イランは電力の代わりに天然ガスをパイプラインで供給している。イラン北部にはアゼルバイジャン系住民がいるので、イランは常に彼らの独立運動に目を光らせている。宗教的にイランとアゼルバイジャンはシーア派とスンニ派の違いはあるがイスラム同士ではある。アルメニア人はキリスト教徒(アルメニア正教)であるが、イランとの関係は良好である。一方、武器調達においては、アゼルバイジャンはイスラエルから大量の武器を購入している。最近続いているイスラエルとアラブのアラブ首長国連邦やバーレーンとの国交樹立などが、イラン封じ込め戦略と言われるように、イランにとってはイスラエルとアゼルバイジャンの関係強化も気になるところである。また、産油国のアゼルバイジャンには米国の石油関係会社も進出しているから、米国もこの地域での衝突には重大な関心を寄せざるをえない。

日本からは遠いコーカサスのあまり馴染みのない国同士の紛争であり、関心も薄く注目の度合いも薄いかもしれない。しかしながら、上述したように、両国間だけではなく、両国に繋がりのある周辺国(トルコ、イラン、イスラエル、シリヤ、レバノン等)ならびに米国やロシアも干渉することになると中東を巻き込んだ国際紛争になるわけである。そうなると石油を中東に依存する我が国としても傍観はできないであろう。

(地図は中日新聞10月1日、10月9日より拝借)