小川亮作訳『ルバイヤート』74~100「ままよ、どうあろうと」

岩波文庫、小川亮作訳、オマル・ハイヤーム著『ルバイヤート』の第6章「ままよ、どうあろうと」をお届けします。テキストの電子化は「青空文庫」さんによるものです。ここに感謝して利用させて頂きます。

この挿絵は㈱マール社発行『ルバイヤート ペルシャで生まれた四行詩集』から拝借いたしました。この本の和訳は竹友藻風によるもので、美しい調べの見事な訳で有名です。フィッツジェラルドの英訳からの重訳でありますが、ペルシャ詩のイメージを伝えている名訳だと思います。

ままよ、どうあろうと

74
マギイ*の酒に酔うたとならば、正《まさ》にそうさ。
異端《いたん》邪教《じゃきょう》の徒というならば、正にそうさ。
しかしわがふるまいを人がどんなにけなしたとて、
われはどうなりもしない、相変らずのものさ。

75
わが宗旨はうんと酒のんでたのしむこと、
わが信条は正信と邪教の争いをはなれること。
久遠の花嫁*に欲しい形見は何かときいたら、
答えて言ったよ――君が心のよろこびをと。

76
身の内に酒がなくては生きておれぬ、
葡萄酒《ぶどうしゅ》なくては身の重さにも堪えられぬ。
酒姫《サーキイ》がもう一杯《いっぱい》と差し出す瞬間の
われは奴隷《どれい》だ、それが忘れられぬ。

77
今宵《こよい》またあの酒壺を取り出してのう、
そこばくの酒に心を富ましめよう。
信仰や理知の束縛《きずな》を解き放ってのう、
葡萄樹の娘*を一夜の妻としよう。

(78)
死んだらおれの屍《しかばね》は野辺《のべ》にすてて、
美酒《うまざけ》を墓場の土にふりそそいで。
白骨が土と化したらその土から
瓦《かわら》を焼いて、あの酒甕《さかがめ》の蓋《ふた》にして。

(79)
死んだら湯灌《ゆかん》は酒でしてくれ、
野の送りにもかけて欲しい美酒《うまざけ》。
もし復活の日ともなり会いたい人は、
酒場の戸口にやって来ておれを待て。

(80)
墓の中から酒の香が立ちのぼるほど、
そして墓場へやって来る酒のみがあっても
その香に酔《よ》い痴《し》れて倒れるほど、
ああ、そんなにも酒をのみたいもの!

81
尊い命の芽を摘みとられる日、
身体の各部がちりぢりに分れる日、
その土でもし壺を焼いたら、さっそく
酒をついでよ、息を吹きかえすに。

(82)
命の幹が根を掘られて、
死の足もとにうなじをたれよう日、
身の土だけは必ず酒の器に焼いてくれ、
しばらくは息をつこう、酒の香に。

(83)
愛《いと》しい友よ、いつかまた相会うことがあってくれ、
酌《く》み交《か》わす酒にはおれを偲《しの》んでくれ。
おれのいた座にもし盃《さかずき》がめぐって来たら、
地に傾けてその酒をおれに注《そそ》いでくれ。

(84)
あのしかつめらしい分別《ふんべつ》のとりことなった
人たちは、あるなしの嘆きの中にむなしく去った。
気をつけて早く、はやく葡萄の古酒を酌《く》め、
愚か者らはまだ熟《う》れぬまに房を摘まれた。

(85)
法官《ムフテイ》よ、マギイの酒にこれほど酔っても
おれの心はなおたしかだよ、君よりも。
君は人の血、おれは葡萄の血汐《ちしお》を吸う、
吸血の罪はどちらか、裁けよ。

(86)
或る淫《たわ》れ女《め》に教長《シャイク》*の言葉――気でも触れたか、
いつもそう違った人となぜ交わるか?
答えに――教長《シャイク》よ、わたしはお言葉のとおりでも、
あなたの口と行《おこな》いは同じでしょうか?

(87)
恋する者と酒のみは地獄に行くと言う、
根も葉もない囈言《たわごと》にしかすぎぬ。
恋する者や酒のみが地獄に落ちたら、
天国は人影もなくさびれよう!

88
天国にはそんなに美しい天女がいるのか?
酒の泉や蜜《みつ》の池があふれてるというのか?
この世の恋と美酒《うまざけ》を選んだわれらに、
天国もやっぱりそんなものにすぎないのか?

(89)
天女のいるコーサル河*のほとりには、
蜜、香乳と、酒があふれているそうな。
だが、おれは今ある酒の一杯を手に選ぶ、
現物はよろずの約にまさるから。

(90)
エデンの園《その》が天女の顔でたのしいなら、
おれの心は葡萄の液でたのしいのだ。
現物をとれ、あの世の約束に手を出すな、
遠くきく太鼓《たいこ》はすべて音がよいのだ。

91
なにびとも楽土や煉獄《れんごく》を見ていない、
あの世から帰ってきたという人はない。
われらのねがいやおそれもそれではなく、
ただこの命――消えて名前しかとどめない!

(92)
おれは天国の住人なのか、それとも
地獄に落ちる身なのか、わからぬ。
草の上の盃と花の乙女と長琴さえあれば、
この現物と引き替えに天国は君にやるよ。

93
この世に永久にとどまるわれらじゃないぞ、
愛《いと》しい人や美酒《うまざけ》をとり上げるとは罪だぞ。
いつまで旧慣にとらわれているのか、賢者よ?
自分が去ってからの世に何の旧慣があろうぞ!

94
はじめから自由意志でここへ来たのでない。
あてどなく立ち去るのも自分の心でない。
酒姫《サーキイ》よ、さあ、早く起きて仕度をなさい、
この世の憂いを生《き》の酒で洗いなさい。

95
バグダード*でも、バルク*でも、命はつきる。
酒が甘かろうと、苦かろうと、盃は満ちる。
たのしむがいい、おれと君と立ち去ってからも、
月は無限に朔望《さくぼう》をかけめぐる!

(96)
選ぶならば、酒場の|舞い男《カランダール》*の道がよい。
酒と楽の音と恋人と、そのほかには何もない!
手には酒盃、肩には瓶子《へいし》ひとすじに
酒をのめ、君、つまらぬことを言わぬがよい。

(97)
酒姫《サーキイ》よ、寄る年の憂いの波にさらわれてしまった、
おれの酔いは程度を越してしまった。
だがつもる齢《よわい》の盃《つき》になお君の酒をよろこぶのは、
頭に霜をいただいても心に春の風が吹くから。

(98)
一壺の紅《あけ》の酒、一巻の歌さえあれば、
それにただ命をつなぐ糧《かて》さえあれば、
君とともにたとえ荒屋《あばらや》に住まおうとも、
心は王侯《スルタン》の栄華にまさるたのしさ!

99
おれは有と無の現象《あらわれ》を知った。
またかぎりない変転の本質《もと》を知った。
しかもそのさかしさのすべてをさげすむ、
酔いの彼方《かなた》にはそれ以上の境地があった。

100
酒姫《サーキイ》の心づくしでとりとめたおれの命、
今はむなしく創世の論議も解けず、
昨夜の酒も余すところわずかに一杯、
さてあとはいつまでつづく? おれの命!

新シリーズ「オスマン帝国」:③ セルジューク朝

前回はトルコ系民族がモンゴル平原の方から西へ移動し、カラハン朝やガズナ朝、さらにセルジューク朝を築いたというところまで辿り着いたのであった。なるほど、オスマン帝国を築いたトルコ系民族が、そのような国を築きながらオスマン帝国の建国に辿り着いたのだなと歴史の大きな流れを理解したのである。でも、まだしっくり納得できない部分があるので、セルジューク朝についてもう少し触れることにしたい。

インターネットの「世界史の窓」で「セルジューク朝」を検索すると以下のように説明されている。

中央アジア起源のトルコ人イスラーム政権。11世紀に大移動を行い、西アジアに入り、1055年にバグダードを占領、ブワイフ朝を倒しカリフからスルタンの称号を与えられる。1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ軍を破り、小アジアに進出。小アジアのトルコ化の第一歩となった。その西アジアへの進出は、ヨーロッパのキリスト教世界に大きな脅威を与え、十字軍の発端となった。その後、いくつかの地域政権に分裂、十字軍とモンゴルの侵攻があって、13世紀には消滅した。
セルジューク族はもとはオグズ族といわれるトルコ系民族で、アラル海に注ぐシル川の下流(現在のカザフスタン)にいた。スンナ派イスラームを信奉し、はじめガズナ朝に服していたが、トゥグリル=ベクがニーシャープールで自立し、1038年に建国。セルジュークは一族の伝説的な始祖の名前からきた。

記述の順番が逆ではあるが、1038年にセルジューク朝が建国された経緯は前回の内容と同じである。そして、モンゴルの襲来によって13世紀には崩壊したということである。ではセルジューク朝の領土を図で確かめてみよう。いつものように山川出版社の世界史図録から引用させていただく。
膨大な領土である。最初、ニシャプールで立ち上がったトゥグリル・ベクは1055年にバグダードを占拠して、アッバース朝のカリフからスルタンの称号をえたのである。しかしながら、当時のアッバース朝は衰退期であって、西北イランに成立したシーア派のブワイフ朝がバグダードを占領し、アッバース朝カリフの権威を利用し、「大アミール」と称し、イラク、イランを支配していたのである。つまり、バグダードを支配していたブワイフ朝を打ってバグダードを占拠した功績でスルタンの称号を得たということである。アッバース朝は既に衰退期であったものの、崩壊はしておらず、権威付けのために地方政権が利用するような状態であったようだ。ブワイフ朝はバグダードの支配権を失った後、最後の拠点ファールスも1062年に失って滅亡した。

バグダードは再びスンナ派のセルジューク朝の支配下になった。セルジューク軍の中心はトルコ系の遊牧部隊であった。また、政治や文化を支える官僚として多くのイラン人が登用された。いわゆるイラン=イスラーム文化が開花した。私がこのブログの中で何度も紹介している『ルバイヤート』の作者であるオマル・ハイヤームもこのセルジューク朝時代のイラン(ペルシャ)の詩人である。前回、ガズナ朝のところでも多くのペルシャ詩人が宮廷に出入りしていたとあったように、トルコ系民族の王朝であったが、ペルシャ人、ペルシャ文化との融合が顕著であった。

広大な版図を有したセルジューク朝はセルジューク朝の権威を認める、複数のセルジューク族の地方政権で成り立ち、彼らは自治権を有していたようである。地方政権=小さな王朝を統括したのがセルジューク朝で、それゆえに大セルジュークという呼称があるのであろう。代表的な地方政権がルーム・セルジューク朝であろうし、ほかにはダマスカスのシリア・セルジューク朝、ケルマン・セルジューク朝などがある。

 

セルジューク朝時代の歴史としてビザンツ帝国との戦いを取り上げておこう。

1071年マンジケルトの戦:
セルジューク朝がビザンツ帝国軍を破った戦い。小アジア(アナトリア)のトルコ化の端緒となり、ビザンツ皇帝の十字軍派遣要請の要因となった。マンジケルトはマラズギルドとも言い、アナトリア(小アジア)東部の現在のトルコとシリア、イラク国境のヴァン湖に近いところ。1055年にバグダードに入ったセルジューク朝は、さらに西へと勢力を広げ、第2代スルタンのアルプ=アルスラーンは、ビザンツ帝国領のアナトリア(小アジア)に侵入した。ビザンツ皇帝ロマノス4世は大軍を率いて出兵したが、この戦いでマムルーク兵を主力とするセルジューク軍に惨敗し、皇帝は捕虜となって奴隷の印の耳輪を付けられてスルタンの前に連れて行かれたという。

歴史の常であるが、特にこの時代の王朝というか国の寿命は短かった。セルジューク朝も同様であり、先述の地方政権であったルーム・セルジューク朝が次の主役になってくるのである。

 

 

 

新シリーズ「オスマン帝国」:①「オスマン・トルコ」という呼び方

このブログの最初は歴史から始まった。その過程の中でオスマン帝国も登場したのであるが、このブログの表示履歴を見ると、オスマン帝国の表示が意外に多い。日本人のトルコに対するイメージは「アジアの中の一員でありながら、西洋との接点の国であり、どこかエキゾチックな国」というようなものではないだろうか。トルコへの観光客も多いと聞いている。私も随分前に行ったことがあるが、やはりイスラム建築の美しいモスクなどが魅力的であった。ということで、トルコ、オスマン帝国について、今度は少し細かく辿ってみようと思うのである。勿論いつものように、ペルシャの詩、ペルシャ語講座など、あちらこちらに寄り道をしながらのことではあるが。

「オスマン帝国」と「オスマン・トルコ」

今では「オスマン帝国」という呼び方が定着しているように思うが、私が高校生だった当時は「オスマン・トルコ」や「オスマン・トルコ帝国」という呼び方が一般的であった。私は世界史の教科を選択したので、『世界史辞典』を手元に置いていた。受験参考書の出版社「数研出版」の発行である。それは今現在も手の届くところに置いてある。その時点の項目は「オスマン・トルコ帝国」となっている。その説明文は以下の通りである。

13世紀末、オスマン=ベイ(オスマン1世、1258~1326)が小アジアを中心に建てたオスマン=トルコ族のイスラム国家。オットマン帝国ともいう。その後バルカンに進出し、1453年コンスタンティンープルを陥れて東ローマ帝国を滅ぼし、アジア・ヨーロッパ・アフリカ3大陸にまたがる大国となった。1517年セリム1世のとき、アッバース朝の子孫からカリフの尊号を譲られ、ついで16世紀、スレイマン1世時代に国力の極盛期を現出、その後17世紀後半に至って衰微オーストリア・露の侵略を受けた。19世紀に入ると領内に多くの民族国家が独立し、さらに第一次大戦に独側に参加して失敗したので1922年、ケマル=アタチュルクはスルタン制を廃して帝国を滅ぼし、翌年トルコ共和国を建てた。

文中にある「オットマン帝国」は英語の「Ottoman Empire」のことであり、「オスマン帝国」のことを英語ではこう呼ぶのである。オスマンとはOttoman(オットマン)であることが分かる。

やはり、高校から大学生の頃であるが、私は大阪外国語大学の学生であり、言葉に対する興味・関心は強い方だった。自分の話す日本語は紀州の田舎弁であったため、言葉遣いやイントネーションには少々劣等感を持っていたが、クラスメートが「お前の言葉には古い日本の言葉が残っているようだ」と言ってくれたことから、むしろ誇りに思うようになった。横道に逸れたが、その頃の私はトルコ語も日本語もウラルアルタイ語族に分類されるので語学的には近い関係にあると認識していた覚えがある。でも、今はそんなことは言われていないようである。こう書いたのであるが、あまり信ぴょう性のないことを書いてもいけないので、ちょっとウィキペディアを開いてみると、今ではウラル語とアルタイ語とに分かれているようである。また、トルコ語がウラル・アルタイ語族であったというのは仮設であったようで、その後、その仮説は否定されているようである。そしてなによりも、トルコ語はチュルク諸語、トルコ諸語というようなグループ分けに入り、そこにはアゼルバイジャン語、トルクメン語、キルギス語、カザフ語、ウズベク語、ウイグル語、タタール語、サハ語(ヤクート語)などが挙げられていた。つまり、私は学生時代の仮説を今までずーと思い続けていたようである。常に勉強しておかないといけないということが分かった。

他にもトルコ人には我々と同じように赤ちゃんのお尻に蒙古斑ができるとも聞いていた。これなども正しくはないのかも知れないなと不安がよぎるのである。でも人種的にはアジアの方から移動していったという説があるようだから、トルコ人の人種について、次は調べて書いてみよう。今日は取り留めのない話になってしまったが、今入力しているパソコンの傍には宮田律先生の『中東イスラーム民族史』が置いてある。きっと、トルコ民族の答を見ることができるであろう。

小川亮作訳『ルバイヤート』57~73「無常の車」

岩波文庫、小川亮作訳、オマル・ハイヤーム著『ルバイヤート』の第5章「無上の車」をお届けします。テキストの電子化は「青空文庫」さんによるものです。ここに感謝して利用させて頂きます。

 

無常の車

57
君も、われも、やがて身と魂が分れよう。
塚《つか》の上には一|基《もと》ずつの瓦《かわら》が立とう。
そしてまたわれらの骨が朽《く》ちたころ、
その土で新しい塚の瓦が焼かれよう。

(58)

地の表にある一塊の土だっても、
かつては輝く日の面《おも》、星の額《ひたい》であったろう。
袖《そで》の上の埃《ほこり》を払うにも静かにしよう、
それとても花の乙女《おとめ》の変え姿よ。

59

人情《こころ》知る老人よ、早く行って、
土ふるいの小童の手を戒めてやれ、
パルヴィーズ*の目やケイコバード*の頭を
なぜああ手あらにふるうのかえ!

60

朝風に薔薇《ばら》の蕾《つぼみ》はほころび、
鶯《うぐいす》も花の色香に酔《よ》い心地《ごこち》。
お前もしばしその下蔭で憩えよ。
そら、花は土から咲いて土に散る。

61

雲は垂れて草の葉末に涙ふる、
花の酒がなくてどうして生きておれる?
今日わが目をなぐさめるあの若草が
明日はまたわが身に生えて誰が見る?

62

新春《ノールーズ》* 雲はチューリップの面に涙、
さあ、早く盃《さかずき》に酒をついでのまぬか。
いま君の目をたのします青草が
明日はまた君のなきがらからも生えるさ。

 

63

川の岸べに生え出《い》でたあの草の葉は
美女の唇《くちびる》から芽を吹いた溜《た》め息《いき》か。
一茎《ひとくき》の草でも蔑《さげす》んで踏んではならぬ、
そのかみの乙女の身から咲いた花。

64

酒のもう、天日はわれらを滅ぼす、
君やわれの魂を奪う。
草の上に坐《すわ》って耀《かがよ》う酒をのもう、
どうせ土になったらあまたの草が生える!

(65)

ありし日の宮居《みやい》の場所で或《あ》る男が、
土を両足で踏みつけた。
土は声なき声上げて男に言った――
待てよ、お前も踏まれるのさ!

66

よき人よ、盃と酒壺《さかつぼ》を持って来い、
水のほとりの青草の茂みのあたり。
そら、めぐる車*は月の面《おも》、花の姿を
くりかえし盃にしたり、また壺にしたり。

67

昨夜酔うての仕業《しわざ》だったが、
石の面《も》に素焼の壺を投げつけた。
壺は無言の言葉で行った――
お前もそんなにされるのだ!

68

なんでけがれ*がある、この酒甕《さけがめ》に?
盃にうつしてのんで、おれにもよこせ、
さあ、若人よ、この旅路のはてで
われわれが酒甕とならないうちに。

(69)

昨日壺をつくる所へ立ちよったら、
壺つくりは土をこねてしきりに腕をふるっていた。
盲の人は気もつかなかったろう、しかし
その手の中におれは亡《な》き人の土を見た。

(70)

壺つくりよ、心あるならその手を休めよ、
尊い土に無礼なことはやめよ!
ファレイドゥーン*の指やケイホスロウ*の掌《てのひら》を
ろくろに取ってどうしようてんだよ?

71

壺つくりの仕事場へ来て見れば、
壺つくり朗らかにろくろをまわしては、
みかどの首もこじきの足もごっちゃに、
手に取ってつくるは壺の首と足だ。

72

この壺も、おれと同じ、人を恋《こ》う嘆きの姿、
黒髪に身を捕われの境涯か。
この壺に手がある、これこそはいつの日か
よき人の肩にかかった腕なのだ。

73

壺つくりの仕事場に昨日《きのう》よって見ると、
千も二千もの土器《かわらけ》がならべてあったよ。
そのおのおのが声なき言葉でおれにきくよう――
壺つくり、売り手、買い手は誰なのかと。

小川亮作訳『ルバイヤート』35~56「万物流転」

岩波文庫、小川亮作訳、オマル・ハイヤーム著『ルバイヤート』の第4章「万物流転(ばんぶつるてん)」をお届けします。テキストの電子化は「青空文庫」さんによるものです。ここに感謝して利用させて頂きます。

万物流転《ばんぶつるてん》

35

若き日の絵巻は早も閉じてしまった、
命の春はいつのまにか暮れてしまった。
青春という命の季節は、いつ来て
いつ去るともなしに、過ぎてしまった。

36

ああ、掌中《しょうちゅう》の珠《たま》も砕けて散ったか。
血まみれの肺腑《はいふ》は落ちた、死魔の足下。
あの世から帰った人はなし、きく由《よし》もない――
世の旅人はどこへ行ったか、どうなったか?

37

幼い頃には師について学んだもの、
長じては自ら学識を誇ったもの。
だが今にして胸に宿る辞世の言葉は――
水のごとくも来たり、風のごとくも去る身よ!

38

同心の友はみな別れて去った、
死の枕べにつぎつぎ倒れていった。
命の宴《うたげ》に酒盛りをしていたが、
ひと足さきに酔魔のとりことなった。

39

天輪よ、滅亡はお前の憎しみ、
無情はお前 日頃《ひごろ》のつとめ。
地軸よ、地軸よ、お前のふところの中にこそは
かぎりなくも秘められている尊い宝*!

40

日のめぐりは博士の思いどおりにならない、
天宮など七つとも八つとも数えるがいい。
どうせ死ぬ命だし、一切の望みは失せる、
塚蟻《つかあり》にでも野の狼《おおかみ》にでも食われるがいい。

41

一滴の水だったものは海に注ぐ。
一握の塵《ちり》だったものは土にかえる。
この世に来てまた立ち去るお前の姿は
一匹の蠅《はえ》――風とともに来て風とともに去る。

(42)

この幻の影が何であるかと言ったっても、
真相をそう簡単にはつくされぬ。
水面に現われた泡沫《ほうまつ》のような形相は、
やがてまた水底へ行方《ゆくえ》も知れず没する。

43

知は酒盃《しゅはい》をほめたたえてやまず、
愛は百度もその額《ひたい》に口づける。
だのに無情の陶器師《すえし》は自らの手で焼いた
妙《たえ》なる器を再び地上に投げつける。

44

せっかく立派な形に出来た酒盃なら、
毀《こわ》すのをどこの酒のみが承知するものか?
形よい掌《て》をつくってはまた毀すのは
誰のご機嫌《きげん》とりで誰への嫉妬《しっと》やら?

45

時はお前のため花の装《よそお》いをこらしているのに、
道学者などの言うことなどに耳を傾けるものでない。
この野辺《のべ》を人はかぎりなく通って行く、
摘むべき花は早く摘むがよい、身を摘まれぬうちに。

46

この永遠の旅路を人はただ歩み去るばかり、
帰って来て謎《なぞ》をあかしてくれる人はない。
気をつけてこのはたごやに忘れものをするな、
出て行ったが最後二度と再び帰っては来れない。

47

酒をのめ、土の下には友もなく、またつれもない、
眠るばかりで、そこに一滴の酒もない。
気をつけて、気をつけて、この秘密 人には言うな――
チューリップひとたび萎《しぼ》めば開かない。

(48)

われは酒屋に一人の翁《おきな》を見た。
先客の噂《うわさ》をたずねたら彼は言った――
酒をのめ、みんな行ったきりで、
一人として帰っては来なかった。

49

幾山川を越えて来たこの旅路であった、
どこの地平のはてまでもめぐりめぐった。
だが、向うから誰一人来るのに会わず、
道はただ行く道、帰る旅人を見なかった。

50

われらは人形で人形使いは天さ。
それは比喩《ひゆ》ではなくて現実なんだ。
この席で一くさり演技《わざ》をすませば、
一つずつ無の手筥《てばこ》に入れられるのさ。

51

われらの後にも世は永遠につづくよ、ああ!
われらは影も形もなく消えるよ、ああ!
来なかったとてなんの不足があろう?
行くからとてなんの変りもないよ、ああ!

52

土の褥《しとね》の上に横《よこた》わっている者、
大地の底にかくれて見えない者。
虚無の荒野をそぞろ見わたせば、
そこにはまだ来ない者と行った者だけだよ。

53

人呼んで世界と言う古びた宿場は、
昼と夜との二色の休み場所だ。
ジャムシード*らの後裔《こうえい》はうたげに興じ、
バラーム*らはまた墓に眠るのだ。

54

バラームが酒盃を手にした宮居《みやい》は
狐《きつね》の巣、鹿《しか》のすみかとなりはてた。
命のかぎり野驢を射たバラームも、
野驢に踏みしだかれる身とはてた。

55

廃墟と化した城壁に烏《からす》がとまり、
爪の間にケイカーウス*の頭《こうべ》をはさみ、
ああ、ああと、声ひとしきり上げてなく――
鈴の音*も、太鼓《たいこ》のひびきも、今はどこに?

56

天に聳《そび》えて宮殿は立っていた。
ああ、そのむかし帝王が出御《しゅつぎょ》の玉座、
名残りの円蓋《えんがい》で数珠《じゅず》かけ鳩《ばと》が、
何処《クークー》、何処《クークー》とばかり啼《な》いていた。

 

ペルシャ語講座 23:丁寧な表現(尊敬語や謙譲語)

こんな本もありました。

久しぶりのペルシャ語講座です。「日本語には尊敬語や謙譲語というものがあるが、外国語にはそんなものはない」というようなことを聞いたことがあります。先ず日本語以外のすべての言葉を外国語と一括りにしていることが大胆すぎますね。そのような外国語もあるのかもしれません。少なくともペルシャ語の場合は日本語と同じように丁寧な尊敬語もあれば、謙譲語もあるということをお伝えしましょう。

一人称の「私(わたくし)」は من  man  マン ですが、目上の人にへり下って「わたくしめが」というような時には、بنده  bande  バンデ と言います。バンデの意味は「しもべ」という感じです。

逆に「あなた」は普段は شما だとか تو  ですが、目上の人に改まって言う時には、سرکار sarkar (貴殿) があります。もっと恭しくいうと「閣下」的に جناب janab があります。会社にかかってきた電話を秘書がとった時に相手を確かめます。「どちら様ですか」「あなた様は?」という時にجناب عالی janabe ali と言うのをよく耳にしました。jenabは閣下という尊称ですが、jenabe ali は「あなた」の敬称になります。

次は「言う」です。普通は  گفتن  goftan ですね。でも「仰る(おっしゃる)」に相当するのが  فرمودن farmdan です。
なんと言いましたか? چه گفتی
なんと仰いましたか? چه فرمودی

次は「来る」です。普通は آمدن  Omadan でしたね。丁寧に「お出でになる」「いらっしゃる」の場合は تشریف آوردن  tashrif avardan を使います。この tashrif を使うと幅が広がります。
tashrif bordan  تشریف بردن    「行く」の丁寧語
tashrif dashtan     تشریف داشتن   「居る」の丁寧語

このような言葉はある程度会話ができるようになると、自然に覚えるようになるものです。こんな時にはこんな風に言うのだと自然に気づくものです。そうなると本物になってくるのです。私自身は長い間現地での会話から遠ざかっているので、思うように言葉が出なくなってきました(謙遜?(笑))。最近はインスタグラムでやり取りすることが多くなったので徐々に思い出すことが多くなりました。それでは今日はこれまでにしておきましょう。 روز بخیر

小川亮作訳『ルバイヤート』26~34「太初のさだめ」

岩波文庫、小川亮作訳、オマル・ハイヤーム著『ルバイヤート』の第3章「太初(はじめ)のさだめ」をお届けします。テキストの電子化は「青空文庫」さんによるものです。ここに感謝して利用させて頂きます。

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太初《はじめ》のさだめ

26

あることはみんな天《そら》の書に記されて、
人の所業《しわざ》を書き入れる筆もくたびれて*、
さだめは太初《はじめ》からすっかりさだまっているのに、
何になるかよ、悲しんだとてつとめたとて!

27

まかせぬものは昼と命の短さ、
まかせぬものに心よせるな。
われも君も、人の掌《て》の中の蝋《ろう》に似《に》て、
思いのままに弄《もてあそ》ばれるばかりだ。

28

嘆きのほかに何もない宇宙! お前は、
追い立てるのになぜ連れて来たのか?
まだ来ぬ旅人も酌《く》む酒の苦さを知ったら、
誰がこんな宿へなど来るものか!

29

おお、七と四*の結果にすぎない者が、
七と四の中に始終《しじゅう》もだえているのか?
千度ならず言うように酒をのむがいい、
一度行ったら二度と帰らぬ旅路だ。

(30)

土を型に入れてつくられた身なのだ、
あらましの罪けがれは土から来たのだ。
これ以上よくなれとて出来ない相談だ、
自分をこんな風につくった主が悪いのだ。

(31)

礼堂《マスジッド》*のともしび、火殿《ケネシト》*のけむりがなんだ。
天国の報い、地獄の責めがなんだ。
見よ、天の書を、創世の主は
あることはみんな初発《はつ》の日に書いたんだ。

(32)

宇宙の真理は不可知なのに、なあ、
そんなに心を労してなんの甲斐《かい》があるか?
身を天命にまかして心の悩みはすてよ、
ふりかかった筆のはこび*はどうせ避《さ》けられないや。

33

天に声してわが耳もとに囁《ささや》くよう――
ひためぐるこのさだめを誰が知っていよう?
このめぐりが自由になるものなら、
われさきにその目まぐるしさを逃《のが》れたろう。

34

善悪は人に生まれついた天性、
苦楽は各自あたえられた天命。
しかし天輪を恨《うら》むな、理性の目に見れば、
かれもまたわれらとあわれは同じ。

 

小川亮作訳『ルバイヤート』1~15「解き得ぬ謎」

岩波文庫、小川亮作訳、オマル・ハイヤーム著『ルバイヤート』のまえがきと第1章「解き得ぬ謎」をお届けします。テキストの電子化は「青空文庫」さんによるものです。ここに感謝して利用させて頂きます。

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まえがき

ここに訳出した『ルバイヤート』(四行詩)は、十九世紀のイギリス詩人フィツジェラルド Edward FitzGerald の名訳によって、欧米はもちろん、広く全世界にその名を知られるにいたった十一-十二世紀のペルシアの科学者、哲学者また詩人、オマル・ハイヤーム 〔Omar Khayya_m(’Umar Khaiya_m)〕の作品である。
フィツジェラルドが、一八五九年にその翻訳を自費出版で初版わずかに二五〇部だけ印刷した時には、若干《じゃっかん》を友人に分けて、残りはこれを印刷した本屋に一冊五シリングで売らせたのであったが、当時はいっこうに人気がなく、いくら値を下げても買手がつかないので、ついには一冊一ペニイの安値で古本屋の見切り本の箱の中にならべられる運命となった。出版してから三年ばかり後のこと、ラファエル前派の詩人ロゼッテイの二人の友人が、散歩の途次偶然、埃《ほこり》に埋もれたこの珍しい本を発見して、彼にその話をした。ロゼッテイは同志の詩人スウィンバーンと一緒に件《くだん》の店に出かけて行って、ちょっとその本を覗《のぞ》いただけで直ちにその価値を認め、おのおの数冊ずつ買って帰った。翌日彼らは友人に贈るためになお数冊買うつもりでまたその店へ行ったが、店の者は前には一冊一ペニイだったのを今度は二ペンスだと言った。ロゼッテイは怒りと諧謔《かいぎゃく》をまぜた抗議口調でその男に食ってかかったが、結局二倍の値段で少しばかり買って立ち去った。それから一、二週間後には残りの『ルバイヤート』の値段は一躍一ギニイにも跳《は》ね上ったという。
このように数奇な運命をたどったフィツジェラルドの翻訳は、ラファエル前派の詩人たちの推称によってようやく識者の注目をひくにいたり、初版後九年を経た一八六八年に第二版、それから四年後の七二年に第三版、また七九年には最後の第四版が出版され、フィツジェラルドの死後『ルバイヤート』はますます広く読まれるにいたった。ことに十九世紀末から今世紀の初めにかけてオマル・ハイヤーム熱は一種の流行となって英米を風靡《ふうび》し、その余波は大陸諸国にも及んだ。ロンドンやアメリカには『オマル・ハイヤーム・クラブ』が設立され、またパリでは彼の名が、酒場の看板にまで用いられるほどであった。フィツジェラルドの翻訳はいろいろの体裁で翻刻され、各国語に訳された。さらにまたフィツジェラルドのこの奔放《ほんぽう》な韻文訳以外にも、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、イタリイ語等への直接ペルシア語からの韻文や散文の訳が数多く試みられた。わが国でも、明治四十一年(一九〇八年)にはじめて蒲原有明《かんばらありあけ》がフィツジェラルドの訳書中から六首を選んで重訳紹介して以来、今日までに多くの翻訳書が出た。今ではもうフィツジェラルドの名訳はそれ自身英文学のクラシックに列せられている。オマル・ハイヤームの名はこうして世界的なものとなった。
詩聖ゲーテはその有名な『西東詩集』の中で、人も知るごとく、ペルシア語の原文さえも引用して、古きイランの詩人たちを推称した。彼は言った――「ペルシア人は五世紀間の数多い詩人の中で、特筆に値いする詩人としてわずかに七人の名しか挙げないと言われている。しかし彼らが斥《しりぞ》ける残余の詩人の中にさえも、私などよりは遙《はる》かに傑《すぐ》れた人々がたくさんいるのにちがいない」と。自負心の強いこの詩人にしてこの言《げん》をなした、もって傾倒のほどが知られよう。だが彼の挙げた七人の詩人の中にはわがオマル・ハイヤームの名は含まれていない。ゲーテはオマルをも『ルバイヤート』をも知らなかったものと見える。ハイヤームの詩人としての名は昔も今もペルシアではすこぶる高い。だから田舎《いなか》の農夫でもその詩の一首や二首は知っている。現代イラン人の書いた文学史にはオマルの名は八大詩人の中に数え上げられている。それにもかかわらず、彼の詩に盛られた思想が、狂信的なイスラム教(回教)と相容《あいい》れないばかりか、これを冒涜《ぼうとく》する性質さえ持っていたために、ペルシアにおけるイスラム教勢力が衰えた最近代にいたるまでは、文学史上でハイヤームの詩人的才能を讃《たた》えた例はなかったもので、したがってヨーロッパのペルシア学者も、フィツジェラルドや彼にオマルを推称した友人の東洋学者以前には、あまり『ルバイヤート』に注意を払わなかった。そういうわけで、一八三二年に死んだゲーテとしてはフィツジェラルドの翻訳(一八五九年出版)に接する機会はもちろんなかったし、またそれ以前のドイツ語訳によってハイヤームを知るという機会もなかった。彼はまさに「私などよりは遙かに傑れた人々がたくさんいるのにちがいない」と予期したとおり、最も傑れた詩人の一人を逸したわけである。
自ら挙げた七人のペルシア詩人中の一人で、十四世紀に生きていたハーフェズのペシミズム溢れる抒情詩から、ゲーテは多大の影響を受けたと言われている。もしも彼にしてハーフェズの創作上の先師であったオマル・ハイヤームを知っていたならば、この東方に深く憧《あこが》れた詩人の『西東詩集』には、さらに色濃いオマル的な懐疑の色調が加えられたかも知れない。

本書に収めた一四三首はペルシア語の原典から直接訳したもので、テクストにはオマルの原作として定評のあるものだけを厳選し、また最近のイランにおける新しい配列の仕方に従って、「解き得ぬ謎《なぞ》」、「生きのなやみ」、「太初《はじめ》のさだめ」、「万物流転《ばんぶつるてん》」、「無常の車」、「ままよ、どうあろうと」、「むなしさよ」、「一瞬《ひととき》をいかせ」の八部に分類した。もちろんハイヤームが最初の写本を友人に示した当時にはこのような配列順序にはよらなかったであろう。しかも彼自身の配列方法は今では不明であるし、普通の写本のようにイロハ順で漫然と並べるよりも、内容の類似点を捉《とら》えたこの配列の方が遙かに合理的だと考える。各四行詩に附した番号はこの分類にはかかわりなく、全体に通ずる通し番号である。オマルのものかどうかなお多少疑いの余地あるものは冒頭の番号を( )で包んだ。他はすべて彼の作として異論がない。

はじめ、フィツジェラルドの英訳をテクストとした森亮《もりりょう》氏の傑《すぐ》れた訳業に啓発されて、全部|有明《ありあけ》調の文語体で翻訳したが(解説二、「ルバイヤートについて」の項参照)、その後|佐藤春夫《さとうはるお》氏のすすめにより口語体に改めた。同氏の御親切に対して深謝するものである。なお挿絵は小林孔《こばやしこう》氏に負うところ大である。
昭和二十二年八月二十日
松戸にて   訳者

目次

まえがき
解き得ぬ謎《なぞ》1-15
生きのなやみ  16-25
太初《はじめ》のさだめ  26-34
万物流転《ばんぶつるてん》35-56
無常の車 57-73
ままよ、どうあろうと 74-100
むなしさよ 101-107
一瞬《ひととき》をいかせ 108-143

解き得ぬ謎《なぞ》


  1

チューリップのおもて、糸杉のあで姿よ、
わが面影のいかばかり麗《うるわ》しかろうと、
なんのためにこうしてわれを久遠の絵師は
土のうてなになんか飾ったものだろう?

もともと無理やりつれ出された世界なんだ、
生きてなやみのほか得るところ何があったか?
今は、何のために来《きた》り住みそして去るのやら
わかりもしないで、しぶしぶ世を去るのだ!

自分が来て宇宙になんの益があったか?
また行けばとて格別変化があったか?
いったい何のためにこうして来り去るのか、
この耳に説きあかしてくれた人があったか?

魂よ、謎《なぞ》を解くことはお前には出来ない。
さかしい知者*の立場になることは出来ない。
せめては酒と盃《さかずき》でこの世に楽土をひらこう。
あの世でお前が楽土に行けるときまってはいない。

生きてこの世の理を知りつくした魂なら、
死してあの世の謎も解けたであろうか。
今おのが身にいて何もわからないお前に、
あした身をはなれて何がわかろうか?

(6)

いつまで水の上に瓦《かわら》を積んで*おれようや!
仏教徒や拝火教徒の説にはもう飽《あ》きはてた。
またの世に地獄があるなどと言うのは誰か?
誰か地獄から帰って来たとでも言うのか?

創世の神秘は君もわれも知らない。
その謎は君やわれには解けない。
何を言い合おうと幕の外のこと、
その幕がおりたらわれらは形もない。

この万象《ばんしょう》の海ほど不思議なものはない、
誰ひとりそのみなもとをつきとめた人はない。
あてずっぽうにめいめい勝手なことは言ったが、
真相を明らかにすることは誰にも出来ない。

このたかどのを宿とするかの天体の群
こそは博士らの心になやみのたね
だが、心して見ればそれほどの天体でさえ
揺られてはしきりに頭を振る身の上。

10

われらが来たり行ったりするこの世の中、
それはおしまいもなし、はじめもなかった。
答えようとて誰にはっきり答えられよう――
われらはどこから来てどこへ行くやら?

11

造物主が万物の形をつくり出したそのとき、
なぜとじこめたのであろう、滅亡と不足の中に?
せっかく美しい形をこわすのがわからない、
もしまた美しくなかったらそれは誰の罪?

12

苦心して学徳をつみかさねた人たちは
「世の燈明*」と仰がれて光りかがやきながら、
闇《やみ》の夜にぼそぼそお伽《とぎ》ばなしをしたばかりで、
夜も明けやらぬに早《は》や燃えつきてしまった。

(13)

この道を歩んで行った人たちは、ねえ酒姫《サーキイ》*、
もうあの誇らしい地のふところに臥《ふ》したよ。
酒をのんで、おれの言うことをききたまえ――
あの人たちの言ったことはただの風だよ。

(14)

愚かしい者ども知恵《ちえ》の結晶をもとめては
大空のめぐる中でくさぐさの論を立てた。
だが、ついに宇宙の謎には達せず、
しばしたわごとしてやがてねむりこけた!

15

綺羅星《きらぼし》の空高くいる牛――金牛星、
地の底にはまた大地を担《にな》う牛*もいるし、
さあ、理性の目を開き二頭の牛の
上下にいる驢馬《ろば》の一群を見るがよい。

小川亮作訳『ルバイヤート』16~25「生きのなやみ」

岩波文庫、小川亮作訳、オマル・ハイヤーム著『ルバイヤート』の第2章「生きのなやみ」をお届けします。テキストの電子化は「青空文庫」さんによるものです。ここに感謝して利用させて頂きます。

生きのなやみ

16
今日こそわが青春はめぐって来た!
酒をのもうよ、それがこの身の幸だ。
たとえ苦くても、君、とがめるな。
苦いのが道理、それが自分の命だ。

17
思いどおりになったなら来はしなかった。
思いどおりになるものなら誰(た)が行くものか?
この荒家(あばらや)に来ず、行かず、住まずだったら、
ああ、それこそどんなによかったろうか!

18
来ては行くだけでなんの甲斐(かい)があろう?
この玉の緒の切れ目はいったいどこであろう?
罪もなく輪廻(りんね)の環(わ)の中につながれ、
身を燃やして灰(はい)となる煙はどこであろう?

19
ああ、空(むな)しくも齢(よわい)をかさねたものよ、
いまに大空の利(と)鎌(かま)が首を掻(か)くよ。
いたましや、助けてくれ、この命を、
のぞみ一つかなわずに消えてしまうよ!

20
よい人と一生安らかにいたとて、
一生この世の栄耀(えよう)をつくしたとて、
所詮(しょせん)は旅出する身の上だもの、
すべて一場の夢さ、一生に何を見たとて。

21
歓楽もやがて思い出と消えようもの、
古き好(よしみ)をつなぐに足るのは生(き)の酒のみだよ。
酒の器にかけた手をしっかりと離すまい、
お前が消えたって盃(さかずき)だけは残るよ!

22
ああ、全く、休み場所でもあったらいいに、
この長旅に終点があったらいいに。
千万年をへたときに土の中から
草のように芽をふくのぞみがあったらいいに!

23
二つ戸口のこの宿にいることの効果(しるし)は
心の痛みと命へのあきらめのみだ。
生の息吹(いぶき)を知らない者が羨(うらや)ましい。
母から生まれなかった者こそ幸福だ!

24
地を固め天のめぐりをはじめたお前は
なんという痛恨を哀れな胸にあたえたのか?
紅玉の唇(くちびる)や蘭麝(らんじゃ)の黒髪(くろかみ)をどれだけ
地の底の小筥(こばこ)に入れたのか?

25
神のように宇宙が自由に出来たらよかったろうに、
そうしたらこんな宇宙は砕きすてたろうに。
何でも心のままになる自由な宇宙を
別に新しくつくり出したろうに。

 

アルメニアとアゼルバイジャンの紛争(その後)

ナゴルノカラバフ地域を巡るこの旅の紛争もどうやら停戦に到ったようである。10日、アルメニアのパシニャン首相、アゼルバイジャンのアリエフ大統領、それに仲介したロシアのプーチン大統領の三人が共同声明に署名して、停戦に合意した。決着の結果はアルメニアがこれまで実効支配していたナゴルノカラバフの一部を失った。但し、旧自治州の帰属については触れられておらず根本的な解決には至っていない。それは先送りされたということである。

過去にも1994年に欧州安保協力機構とロシアの仲介で両者が停戦合意したこともあったが、アルメニアが旧自治州の実効支配を認める内容であったため、アゼルバイジャン側には不満であった。今回の停戦合意により、両者の衝突は停止することになるが、根本的な解決を先送りしている以上、この先に再び紛争が再燃しないという保証はない。米大統領選、その後の開票にまつわる混乱に乗じて、この地域に対するロシアの影響力が強まったという印象である。