ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の最後の戦い

前回はモンゴルが来襲してイル・ハン国を初めとした複数のハン国ができたと述べた。以前掲載した歴史図のこの部分を切り取ったのが上図である。東のインドにはデリー・スルタン朝が、西のエジプトにはマムルーク朝の名がある。マムルークとは奴隷という意味で、アイユーブ朝を滅ぼしてマムルークが建てた王朝である。マムルーク朝については採りあげたい気もするが、ここではスルーしておこう。後日採りあげることがあるかもしれない。ここで見てもらいたいのは、イル・ハン国とマムルーク朝の間である。1299年という数字があり、オスマン帝国の領域が細い縦の帯で始まっている点である。そして1517年にマムルーク朝を滅ぼすというところで領域の幅が広くなっている。しかしながら、この歴史図は前にも述べたが、ビザンツ帝国は描かれていない。今回はビザンツ帝国(395~1453)が都コンスタンチノーブルをオスマン軍によって陥落させられた、そして滅亡していった当時の歴史を振返ることにしよう。

  • セルジューク朝末期においてイスラム化したトルコ系民族が中央アジアからアナトリア(小アジア)に移動し、オスマン朝(1299)を建国した。
  • バルカン半島にはビザンツ帝国、イランの地域はイル・カン国からティムールへ。インドはデリー・スルタン朝。
  • 1299 オスマン帝国建国:オスマン1世(1299-1326)
    1354 ヨーロッパ侵入始まる
    1362 アドリアノープルを占領
    1366 アドリアノープルへ遷都
    アドリアノープルとは古代都市ハドリアノポリスの後身。現在のトルコ最西端のエディルネ州の州都エディルネのこと。2000年の人口12万人。ギリシア国境まで5キロの地点。
  • 1389 コソヴォの戦い
    オスマン帝国のムラト1世がセルビア・ボスニアなどのバルカン半島のスラヴ勢力をコソヴォで破った戦い。この結果、ドナウ川以南のバルカン半島は19世紀にいたるまでイスラムのオスマン帝国の支配下におかれつづけた。セルビア人はコソヴォの戦いに敗れた6月15日を国辱記念日としている。
  • 1389 バヤジット1世即位(1389-1402)
    1394 スルタンの称号を受ける
    1402 アンカラの戦い
    ティムールとの戦い。バヤジット1世は捕虜となった後、病死。以後11年間空位時代となり滅亡の危機に陥る
  • 1413 メフメト1世即位(1413-1421)
    1444 ヴァルナの戦いでハンガリー、ポーランドを撃破
    メフメト2世即位(1444-46、51-81)
  • 1453 コンスタンティノープル攻略(=ビザンツ帝国滅亡)

長々と書いてきたが、今回伝えたいのはオスマン軍がビザンツ軍の最後の砦コンスタンチノープルを陥落させた戦いの奇想天外な戦法だけである。例のように山川出版のヒストリカの図を借りて説明する。

オスマン軍は敵の心臓部である金角湾に艦隊を入れようとするが入れない。ビザンツ軍が金角湾の入り口に鉄の鎖を配備したからである。攻めあぐねたメフメト2世は艦隊を山越えさせるという歴史に残る奇想天外な戦法を考えたのである。図の金角湾の入り口の右側、ボスフォラス海峡側から矢印のルートの山を切り開き木道をつくり、艦隊を引きずりあげて山越えさせたのである。舟が山に登ったのである。「船頭多くして舟山に上る」という諺は「リーダーがたくさんいると、意見が対立して、本来登るべきは川なのに、迷走して山へ進んでしまう」ということであるが、この話は実際に舟が山を越えて敵陣に乗り込んだという、私の大好きな話なのだ。

画像の出所:山川出版社の歴史図説ヒストリカ

キーワード:オスマン、ヴィザンツ、メフメト2世、金角湾、イスタンブール、コンスタンチノープル

モンゴルの襲来

まずはモンゴルが台頭した地域の様子を要約してみよう。

  • 10世紀のはじめ頃、中国の北部に遼(916~1125年)という国があった。遼は金(1115~1234年)という国に滅ぼされるが、遼の残党が中央アジアに逃げて西遼(1132~1211)を建てた。西方からはカラ・キタイとも呼ばれた。東の金、西のセルジューク朝と覇を競った
  • 中央アジアのアラル海(現在は環境破壊によって消滅しつつある湖として有名になってしまった)に流れ込むアム川沿いの豊かな草原地帯の農耕地帯はホラムズと呼ばれた。セルジューク朝はここに総督をおいていたが、権力を保有するようになった結果、ホラムズ朝(1077~1231)を建てた。
  • 同じ時期に草原地帯の東でもチンギス・ハンが統率する新興勢力が成長していた。そして1206年にモンゴルという国が生まれた。
  • 1220年、モンゴルがホラズム朝との戦いに勝利し、ホラズム朝は1231年に消滅した。
  • 1227年、チンギス・ハン没

1256年、モンゴルの大軍が現在のイランの地に押し寄せた。指揮したのはシンギス・ハンの孫のフラグだった。

フラグの軍はイラン全土を制圧し、バグダードへ。バグダードはまだアッバース朝のカリフ本拠地ではあったが、すでに弱体化しており、簡単に陥落した。カリフも殺された。アッバース朝は1258年に滅亡した。そしてチンギス・ハンの子孫たちが上図で示したような国を建てていったのである。

  • チャガタイ・ハン国(1227~1370)
  • オゴタイ・ハン国(1224~1310)
  • キプチャク・ハン国(1243~1502)
  • イル・ハン国(1258~1411)

いつものように、山川出版のヒストリカによって、これらの国を地図でみると次のようになる。

モンゴル軍の攻撃・虐殺が行われた後に、広大な領域がモンゴルの支配下に入ったのである。これまで述べてきたイスラム世界の中心部(イラン・イラク辺り)はイル・ハン国となった。首都はタブリーズであった。現在はイランに所属する地方都市であるが、イランの首都テヘランの西北西の方角、トルコに近い地域である。1973年頃の冬に1人でこの辺りを旅したことがある。雪はなかったが非常に寒かったことを覚えている。その時写した写真は白黒であるためか、なおさら寒さを感じさせている。

イスラム世界はモンゴルに征服されてしまったが、そこでもイスラム商人は活躍した。当時の世界にとってイスラム商人は重要な役割を果していた。彼らなくして商業・経済は成り立たなかったということでもあろう。複数のハン国はイスラム化していったことが非常に興味深く思うのは私だけではあるまい。

 

十字軍の遠征(2)

サラディンはイエメンに軍隊を派遣し、紅海を通ってインド洋、さらには東南アジア、中国に至る海の交易路を確保した。第3回十字軍のあとも遠征は第7回(1270年)まで繰り返し行われた。が、第3回以来、十字軍側は劣勢であった。ここまで書いてきたことを読むと、十字軍とイスラムがエルサレムを支配下に置こうと、何度か戦いを繰り返したという簡単な言葉で言い表してしまいそうであるが、実際にはそうではない。ヴェネツィアの商人たちが商圏拡大の利を求めて遠征したこともあった。少年・少女たちが奴隷商人に売り飛ばされた事件もあった。その歴史はもっと複雑である。

第1回十字軍で勝利したキリスト側はエルサレム王国を造ったと述べたが、それ以外にも、エデッサ伯国、アンティオキア公国、エルサレム王国、トリポリ伯国など、またエルサレム王国の属国として、ガリラヤ公国、ジャッファとアスカロン伯国、トランスヨルダン領、シドン領なども挙げることができる。このような細々としたことはあったということだけを知っておけばいいだろう。そして、十字軍が築いた要塞も数多くあった。前回紹介した『十字軍物語から』図を4枚拝借して、ここに紹介しておこう。

これほど立派な要塞が築かれていたのである。遠征して、ちょちょいのちょいと築けるようなものではなかったろう。彼らの本気度を感じることができるのではないだろうか。

十字軍の戦いについて述べてきた。イスラム教徒対とキリスト教徒の争いであるが、戦いの勝者が敗者に対してとった扱いをみるとイスラム側の方が寛容であったように思うのであるが、それも決めつけることはできない。たとえ数少ない蛮行のうちの1つであっても、被害者にとっては許されざる行為である。それでは、キリスト教徒とイスラム教徒が共存した明快な歴史はないのだろうか?いや、それがあるのである。シチリヤでのことである。

http://www.vivonet.co.jp/rekisi/a06_jujigun/fede.html このサイトは「世界史の窓」というウェブであり、世界史のことを知るうえで非常に役に立つサイトである。ここにはシチリヤの歴史のなかで以下のようにイスラムとキリスト教徒の共存について記されている。

877年にシラクサが陥落して全島をイスラムが支配した。首都はパレルモ。イスラムの支配は宗教に関して寛容で、税金さえ払えば今までどおりキリスト教を信仰できた。シチリアには高いイスラム文化が持ち込まれ、島は発展した。

 イスラムの支配は200年続いた。シチリアをイスラム教徒から奪回したのがノルマン人のロベルト・ギスカルドである。彼は、フランスのノルマンディに生まれ、南イタリアに単身渡ってきて傭兵になった。そして、徐々に力をつけてノルマン人のリーダになり、瞬く間に南イタリアを支配下に治めた。1071年、弟のルッジェーロ1世をシチリアに派遣し征服した。

 風雲児ロベルトはローマ教皇と対立して何度も破門された。しかし、カノッサの屈辱で有名な教皇グレゴリウスを、ドイツ皇帝ハインリヒ4世の攻撃から助けている。1085年、東ローマ帝国征服を目指しギリシアに遠征するが、熱病にかかり亡くなった。

シチリア王国
アラブの面影が残るモンレアーレ大聖堂
 1130年、教皇はルッジェーロ1世の息子ルッジェーロ2世に王位を与え、シチリア王国(ノルマン朝)が誕生した。ノルマン人は支配者となったがその数は非常に少なく、自然とギリシャ人やアラブ人を多く官僚として登用した。従来のイスラム支配体制が踏襲され、イスラム教徒やキリスト教徒、ユダヤ教徒が仲良く暮らす国ができた。ヨーロッパが十字軍の熱狂の中にあった時代に、これは驚異のできごとだった。

十字軍の遠征(1)

上は塩野七生さんの『十字軍物語』の表紙である。塩野さんは『ローマ人の物語』のあと、これを著したのであるが、読んでいて非常に面白かった。私がここに書いている文章は単に歴史の流れを記述しているにすぎないが、彼女の著作は読んでいると、ドラマを見ているような気がしてくる。ドラマの中の風景が映像が見えてくるのだ。

第1回十字軍は1096年に始まった。そこで当時の中東地域に乱立していた国々を先ずピックアップすることにしよう。

  • ファーティマ朝(909~1171)
  • ブワイフ朝(932~1062)
  • ガズナ朝(962~1186)
  • カラ・ハン朝(10世紀中ごろ?~12世紀?)
  • セルジューク朝(1038~1194)

ブワイフ朝はペルシア人、ガズナ朝、カラ・ハン朝、セルジューク朝はトルコ人によるイスラム国家である。アッバース朝は衰退しており、バグダードはブワイフ朝が支配下に治めていた。が、アッバース朝のカリフを打倒するのではなく保護するという形をとっていた。一方、ファーティマ朝はアッバース朝のカリフに真っ向から否定して自らのカリフ政権を樹立したのである。非常に複雑な様相を呈していたのである。

前回と重複する部分も多いが、エルサレムとは紀元10世紀ごろにユダヤの王ダビデが神殿を建設したところであり、ダビデの子ソロモンは神殿を立派なものにした。時がたち、神殿は破壊され、その後再び第二神殿が再建された。その頃にイエスが十字架の刑に処せられ、いったん埋葬される。彼の復活を信じ、彼を救世主とみなすキリスト教が成立した。その後、135年にローマ帝国がエルサレムの町を破壊し、神殿も破壊した。イスラムがエルサレムを征服したのは638年のことである。イスラム側の勢力の興亡もあり、970年にはファーティマ朝がエルサレムを支配していた。ファーティマ朝が11世紀後半に弱体化すると、セルジューク朝がエルサレムを占領するようになった。この占領を率いた軍人アトスズは略奪や異教徒を含む住民の虐殺などを禁止して、エルサレムの平安は維持されていたという。1098年には再びファーティマ朝がエルサレムを奪還した。少々ややこしいのであるが、イスラム世界でも勢力争いが盛んになっていた時代であった。

さて、そこでいよいよ十字軍の登場である。11世紀頃からキリスト教徒の間では聖地エルサレムへの巡礼熱が高まっていた。1095年、クレルモンの宗教会議においてウルバヌス2世がエルサレム奪還のために十字軍の遠征を提唱。1096年から第1回十字軍の遠征が始まった。

第1回(1096~99年):4万人を超える規模の十字軍は食料を用意して出たわけではなく、進軍する地域の住民から食料を奪い、レイプ、虐殺などを行いながらエルサレムに向かったのである。沿道の住民は十字軍に対抗する術もなく、震えあがっていた。エルサレムにおいてもイスラム教徒やユダヤ教徒の虐殺を行った。その結果、十字軍はエルサレムを奪還して、エルサレム王国を建設した。

第2回(1147~49年):十字軍はセルジューク軍の反撃を受けて、シリア付近で敗退。

第3回(1189~92年):この遠征は、十字軍の遠征の中でも特に注目されるものではないだろうか。エルサレムが再びイスラムの支配下になった有名な戦いなのだ。トップに紹介した『十字軍物語2』の帯に「イスラムにサラディンあり!」とあるように、この戦いでサラディンという英雄が出現したのである。彼はファーティマ朝で宰相にまで出世したあと、ファーティマ朝のカリフが死ぬと、「アッバース朝のカリフがイスラム世界の唯一のカリフであると宣言し、自分はスルタンであると称してエジプトに君臨し、アイユーブ朝を創始したのである。ファーティマ朝はシーア派であったが、彼のアイユーブ朝はスンナ派であった。当時セルジューク朝の中から勢力を拡大していたザンギー朝のヌール・ウッディーンが死すと、彼の領土の大部分を併合して、十字軍との戦いに備えて作戦を練った。1187年、ヨルダン川の水源である湖に近いヒッティーンの丘でサラディンは十字軍勢を撃破した。さらにエルサレムを攻撃して陥落させた。彼はキリスト教徒もユダヤ教徒もエルサレムに住むことができるようにした。3つの教徒が共存できる聖地としたのである。が、ローマ教会はここで第3回の十字軍派遣を決めたのである。この戦いは2年にわたり、激戦をくりかえしたのであるがサラディンの勝利となる。エルサレム王国はエルサレムを失うが、シリアの海岸部に拠点を確保することができてエルサレム王国の名は残すことができた。サラディンはヨーロッパからの巡礼者を迎えて保護することを約束したのである。

サラディンは武勇に秀でた強い英雄というだけでなく、寛容な精神でもって敵を受け入れた大人物であった。キリスト教側からもサラディンは高く評価された歴史に残る人物であった。余談かもしれないが、イラクのフセイン大統領のことを思い出してもらいたい。彼はイラクのクルド地区に近い所の出身であった(彼自身はクルド人ではない)。それ故、フセインは俺はサラディンの生まれ代わりだとか言っていたことがある。そう、サラディンのルーツはクルドであると思われるのである。サラディン(正式名称はサラーフ=アッディーンであるが、ヨーロッパにはサラディンと伝わった)

聖地エルサレム

このブログも2か月目に入り、テーマも10世紀になってきた。この後は、イスラム世界とキリスト世界の対立である十字軍を取りあげようとするのである。十字軍とはそもそもエルサレムという聖地奪還という目的であった。それ故に、まずはエルサレムについて知ってもらうことが重要であろう。

読者の皆さんは既にエルサレムについての知識を実は有している。このブログのオリエント時代の処を思い出してほしい。ユダヤ人たちはカナンの地から、エジプトに行き、そこでの苦難ののちに再びカナンの土地に戻ってきたのだった。そこに短い期間ではあったが王国を造ったのだった。ソロモンやダビデという名君がでて、エルサレムに神殿を建設したのだったね。エルサレムとはそういうところなのだ。その国も滅び、ユダヤ人たちがバビロン捕囚となったあと、アケメネス朝のキュロス大王によって解放されたというような歴史はオリエントのカテゴリーで述べたとおりである。エルサレムはユダヤ教の聖地であると同時に、キリスト教の聖地でもある。はたまたイスラム教の聖地でもある。それぞれの聖地たる所以を述べていこう。

上の地図は日本聖書協会発行の『聖書』の巻末の聖書地図を拝借したものである。タイトルは「新約時代のパレスチナ」とある。エルサレムがあり、南にはベツレヘムがある。イエスが生まれたところである。

ユダヤ教の聖地:上述したようにユダヤ人とエルサレムとの関係は密接である。エルサレムはユダヤ教の神殿があった場所であるから聖地なのである。世界中にちりじりばらばらに離散していたユダヤ人たちがシオンの丘に帰ろうと願い続けたシオンの丘とは神殿があった高台である。神殿跡には外壁だけが残っている。それが「嘆きの壁」である。エルサレムを訪れるユダヤ人たちが古代の神殿を偲んで祈る最大の聖なる場所である。エルサレムがユダヤ教の聖地であることは、非常に明快である。

キリスト教の聖地:キリスト教はユダヤ教徒であったイエスがユダヤ教から派生させたものであるから、エルサレム周辺はイエスの人生(?)の足跡が残っているわけである。現在、エルサレムの中でキリスト教の聖地となっているのは「聖墳墓教会」である。近くにはイエスが磔になった丘(ゴルゴダの丘)がある。イエスが磔台を担いで歩かされた道ヴィア・ドロローサ(苦難の道の意)もある。そして聖墳墓教会にはイエスの墓がある。そこはイエスが復活した場所でもある。これだけでエルサレムは聖地として十分な資格があるであろう。でも、その場所、特に聖墳墓教会のある場所がイエスが葬られ、その後復活した場所であると、誰がどのようにして特定することができたのであろうか。キリスト教がローマ帝国によって公認されたのは313年のことである(ミラノ勅令:コンスタンチヌス1世 がリキニウス帝とミラノで会見した際に発した勅令。キリスト教を初めて公認し,長かったキリスト教迫害に終止符を打った画期的なもの)。320年頃にコンスタンチヌス帝の母であるヘレナがエルサレムを巡礼した。そして、イエスが葬られた場所を特定して聖墳墓教会が建てられたと言われているのである。

イスラムの聖地:ではイスラムにとってエルサレムはどのような曰くつきの場所であるのだろうか。イスラムの第一の聖地はメッカである。次いでメディナ。エルサレムは第三の聖地であろう。エルサレムはムハンマドが天に昇ったという伝説がある場所なのである。ムハンマドはある日の夜愛馬にまたがってメッカからエルサレム迄を一夜にして飛んで行ったという。エルサレムの岩の上から天上に昇ることができて、天上で神と会話したとかという伝説である。その時に今行われている礼拝の数を5回にするなどということも決められたとか。それ以前はもっと多かったとか。うろ覚えではあるが、そのようなことを昔読んだことがある。とにかくその伝説の岩の上にモスクが建てられたのである。その場所はユダヤ教の神殿があった丘でもある。岩は建物の内部に保護されたことになる。建設はウマイヤ朝第5代カリフであるアブドゥルマリクが688年に着工したという。この岩また旧約聖書でもアブラハムが息子イサクを犠牲に捧げようとした(イサクの燔祭)場所と信じられている。

三者三様の聖地としての曰くがあるわけである。いずれも一神教、そしてアブラハムを尊ぶ宗教でもある。聖墳墓教会、岩のドーム、嘆きの壁などというキーワードが並んだが、それらの映像・画像はユーチューブやインターネットで山ほどでているので、ここでは割愛する。どうかそちらでご覧いただきたい。

さて、これも有名な話であるが旧エルサレム市街の中での住み分けである。下の図が示すようにイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒たちの居住区が区分けされているのだ(実際にはもう一区画アルエニア人地区もあるが)。金曜日になるとイスラム教徒が岩のドームへ礼拝に向かう。金曜の夜から土曜へと今度はユダヤ教徒が嘆きの壁に集まっていく。そして日曜日はキリスト教徒たちが聖墳墓教会へ向かう。三者が曜日をずらせて行動する。長い間三者が争うことなくスムースな日常生活があったのである。パレスチナ問題として争うアラブとイスラエル、イスラムとユダヤ間の熾烈な争いごとは第一大戦後のオスマン帝国の領土分割、第二次大戦後のイスラエル独立宣言から始まった、きわめて新しい紛争である。(もちろん、十字軍というキリスト対イスラムという争いもあったが、それについては次回以後で詳しく取りあげよう)

上の図の出所は帝国書院『タペストリー』

イスラム世界の分裂

前々回に示したイスラム世界の歴史図は非常によくわかるように描かれていると称賛したのであるが、それでも実際の地図上ではどうなっていたのだろうか。それも知ってみたいと思うのではないだろうか。歴史図の場合は時代の縦の流れも見えたが、地図に表すとしたら、ある時代で平面的に表すことになる。そこで探してみた。講談社・後藤明著『イスラーム歴史物語』の121頁がそれである。

これは8世紀初めのイスラム世界である。この時代ではアッバース朝と後ウマイヤ朝の間の今のモロッコの辺りにイドリース、ルスタム、アグラブの3国が並んでいる。ここにあるルスタムについては歴史図にはなかったものであるが、実際にはあったハワーリジュ派の王朝である。それぞれの年代をあげると、ルスタム朝(777~909)、イドリース朝(789~926)アグラブ朝(800~909)ということである。ここではアッバース朝の東部では異変はおこっていない。そこで10世紀後半のイスラム世界が次図である。

アッバース朝の全盛期を築いたハールーン・アッラシードの死後、息子たちがカリフの地位を争った。そのような争いに乗じてホラサーンのターヒルが独立を宣言した(812)。9世紀後半になると東の地域でぞくぞくと独立政権が増えていることは歴史図の通りである。そして10世紀の後半が上の図であるが、カラ・ハン朝、サーマーン朝、ブワイフ朝などが生まれている。そして、アッバース朝の西側は先述したモロッコ辺りの3カ国は既に消滅し、ファーティマ朝が登場しているのである。目まぐるしく国が入れ替わる、まさに興亡の歴史が展開された時代である。

というものの当時のイスラム世界の中心はバグダードであり、アッバース朝であった。ユダヤ教やキリスト教の聖地であるエルサレムはイスラム支配化にあった。時代の流れとともに、つまり上述したような興亡の歴史の中で、エルサレムはその後、ファーティマ朝の支配下に置かれた、その後はセルジューク朝の支配下になるのであった。そして十字軍の遠征と続くのである。   (次回はエルサレムの予定です)

イラン革命から40年

次の写真はイランの新聞 Ofta-b (太陽の意味)のトップである。「40周年盛大!」

イラン暦 Bahman 22日(日本の2月11日)にイランでは革命40周年の迎える。1979年のこの革命は当時のパーラビー国王を追放して成し遂げた革命であった。先進国への道を加速化させていた王政は脱イスラムを掲げ、様々な改革を推進していた。王の革命は「白色革命」と名付けられて多分野にわたるものであった。教育革命では文字の読み書きのできない人を撲滅するために、多くの青年が全土に派遣された。その成果もあった。農地改革も行われた。しかしながら、地方の豪族、広大な寄進地(ワクフ)を有するモスク・イスラム関係者達は反対であった。女性の社会進出を目指した女性解放の流れはイスラム関係者から反発を受けた。王はそのような状況を顧みずに諸改革を行った。イスラム界からの抵抗には強権を発して押さえつけた。イラン革命で帰国して、革命後の最高指導者に就いたホメイニ師は王に抵抗したために国外追放になった人物であった。

王政を磐石なものにするために、反政府的な言動を押さえつけて、投獄した。テヘランのエビンというところには牢獄があった。人々はエビンと聞くと震えあがった。5人に1人、いや3人に1人はサヴァク(秘密警察)だとも言われていた。我々外国人であっても、政治に対する批判は慎んでいた。というよりも、我々外国人にとっては、そのような裏の事情は詳しくは分からなかった。そして、国王が推進しようとする経済開発計画に則ったプロジェクトに参画している日本人をはじめとした外国人たちは王の推進する改革は正しいものであると思っていた。私は農業天然資源省のプロジェクトでカスピ海沿岸のラシュト市に住んでいたことがある。日本と同じような気候・景色の所であった。この町に機械織りのカーペット工場があり、そこの従業員たちが政府批判の行動の一環でストライキをしたそうだ。そうだ、と書いたのは、革命後の記録から知ったのであった。革命の前1年以上前のことである。つまり、そのころから革命への動きはあったのであるが、私には分からなかった。ただ、数年前から物価が異常に高騰してきていることは実感していた。はじめの頃、自宅の家賃は13500リヤルであったが、革命1年ほど前には同じ家ではないが9万リヤルであった。人々の生活は確実に苦しくなっていた。アバダンの映画館が焼き討ちされたりするようになって、いよいよ反王政運動が明らかになっていた。石油会社の従業員たちが運動に加わった。学生が、作家が、いわゆる知識人と称される人たちが運動に参加するようになった。私が見ていた革命前の風景はそのようなものであった。

次の記事は英文紙 Iran daily である。ロウハニ大統領がアメリカが歩み寄るのなら、イランは受け入れるというようなことを発言している。国内では保守派過激派が主流をなしており、ロウハニ大統領も舵取りが難しい今日である。

President Hassan Rouhani said Wednesday that Iran’s motto is “Iran with the entire world” and even if the US repents and changes its course, Iran is ready to accept its repentance.

He made the remarks in a meeting with ambassadors and heads of missions of foreign countries to Tehran on Wednesday, marking the 40th anniversary of the victory of Islamic Revolution of Iran.

“Despite the US adaptation of unjust policies towards Iran for years, we are ready to accept US repentance if Washington makes precise calculations, apologizes to Iran for its past inferences, recognizes the glory and dignity of the Iranian nation and the great Islamic Revolution and talks to the Iranian people respectfully,” the president said, according to president.ir. 

Our nation seeks friendly and humane relationship with all great nations, particularly our neighbors, he said.

President Rouhani said the Islamic Republic of Iran advocates a Middle East free from nuclear weapons and WMDs and a world against violence and extremism.

The United States seeks to put pressure and disappoint the Iranian nation, but our people are more united than ever.

Referring to the victory of the Iranian nation in the revolution, he said it was the victory of the right over wrong and democracy over dictatorship.

 

イスラム世界の変容

次に示す図は、毎度のことながら帝国書院『最新世界史図説タペストリー』126頁「イスラーム世界の変容」と題した図から拝借したものである。それまで一つに統一されていたイスラム世界であったものが、アッバース朝の時期に後ウマイヤ朝が西に樹立され、その後ファーティマ朝ができ、どんどん分裂していった。その辺りの歴史をこの図は地理的な位置も考慮し、日本の時代も併記して、非常に分かりやすく図化されたものである。

時代を下に追ってみると、イル・ハン国やチャガタイ・ハン国の名も見える。これらはいうまでもなくモンゴルの進出とともにできた国である。そのようなイスラム世界を征服したモンゴル人が建てた国までもがイスラム化していることに私は歴史の面白さを感じるのである。イスラムのすごさというか、影響力はなんだったのかと考えるのである。それらはまた各々の国について取り上げた時に改めて述べることにする。さらに時代を下げていくと、オスマン帝国が現れる。東のインドにはムガル帝国も現れる。

さて、問題は次回からのテーマをどうするかである。図のように乱立した諸国、諸王朝について細かく取り上げるのも面白いのである。図が示すようにアラブ系の王朝、イラン系の王朝、トルコ系の王朝、はたまたモンゴル系の王朝まで登場してくるのだから。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)はこの図では埋没してしまっているが、オスマン軍に敗れるまでは存在している。

こうして書いているうちに、考えも定まってきた。ここまで拡大してきたイスラム世界に対して西欧キリスト教世界は脅威の念を抱くようになった。8世紀に始まるイベリア半島のイスラム支配に対してキリスト教徒の反撃の動きが11世紀から活発となり、国土回復運動につながっていった。また十字軍の遠征も11世紀末から始まっていった。次回からは中東・イスラム世界と異教勢力(キリスト教世界⇔イスラム世界⇔モンゴル軍)というような方向に進むことにしよう。

閑話休題:ムスリム(イスラム教徒)の人口

イスラム世界の歴史を続けてきましたが、今回はちょっと休憩して、ムスリム(イスラム教徒)の人口を取りあげましょう。

イスラム教徒が多い国のいくつかを挙げるとすると、インドネシアが約2億人、パキスタンとインドが1.8億人程度、バングラデシュも1.5億人位でしょうか。大雑把な値ですので、その程度と把握してください。この4カ国で約7億人になります。

次に中東地域をみるとエジプト、ナイジェリア、イラン、トルコあたりが7千万~8千万人、イラク、サウジアラビア、シリア・・・モロッコ、アルジェリア・・・・など数千万人程度と思われます。中東はイスラムが誕生した地域なので、ムスリムが多いことは確かなのですが、実際に人口総数として多いのは最初に述べた国々、つまりアジアなのです。この4カ国のほかに、マレーシアや中央アジアに行けばウズベキスタンなどもムスリムが多い国ですね。それにくらべると中東の国々は人口自体が少ないところが多いわけです。しかしながら、国の総人口のほぼ全員がムスリムであったりするわけです。右を向いても左を向いてもムスリムという状態です。逆にマレーシアではマレー系はイスラム、インド系はヒンズー、中国系はまた別という風に、ムスリムばかりではありません。インドネシアは人口2億人のほぼ皆がムスリムであります。一概にこうだと決めつけることはできませんね。

前振りはそのくらいにして、冒頭の表を見てください。これはアメリカのピュー研究所(Pew Research Center) が発表したものですが、2010年のムスリム人口をほぼ16億人としています。キリスト教徒は約22億人です。世界全体の比率はイスラム23%、キリスト31%です。それが2050年にはどうなるかという予測がなされているわけです。イスラムは27.6億人となり、キリスト教は29.2億人となり、その差は縮まります。比率でみると、イスラムが30%、キリストが31%です。この間に増える人口数はイスラムがなんと11.6億人でキリストは7.5億人と予測されているのです。そして、もっと先のほうにグラフを伸ばしていくと、2070年には両者の人口が同じになり、その後はムスリム人口がキリスト教徒を追い越していくことになるのです。

世界中で3人に1人がムスリムという時代になっていくのです。日本でも外国人労働者の受け入れを大幅に緩和する法律ができました。ムスリムも増えるでしょう。私たちはもはやイスラムを無縁な宗教、ムスリムを無縁な人々と無視することはできないのです。少しでもイスラムのことを理解しようとする姿勢は不可欠な時代なのです。

 

アッバース朝(3)イスラム帝国の分裂

繰り返しになるけれども復習の意味も兼ねて、イスラム誕生からアッバース朝までを図示してみた。

イスラム誕生からウマイヤ朝に至る歴史を上の図一枚で表すことができた。次にウマイヤ朝は領土を広げたが、アッバース軍との戦いで敗れたのでしたね。この時、アッバース軍はウマイヤ朝の本拠であったシリアで、ウマイヤ家の者たちを見つけしだい殺していった。戦争や革命とはいつの時代もこのような残酷なもの。しかしながら、この時にかろうじて逃げることができた者がいた。アブドゥル・ラーマンという男である。彼はお付きのもの一人を連れて、エジプトから北アフリカを転々として、やがてイベリア半島にたどり着いたのである。彼はそこで支持者を得ることができて、そこでウマイヤ朝を再興することができたのであった。東のアッバース朝に対して西に後ウマイヤ朝が勃興したのであった(756年)。さて、下の図を見ると、アッバース朝と後ウマイヤ朝の間にファーティマ朝というのがある。これは成立が909年であるから、もう少し先のことなのではあるが、この王朝の始祖ウバイドゥッラーがカリフを宣言して、アッバース朝の権威を否定したのである。アッバース朝が滅んだのではなく、同時代に3人のカリフの国が存在するというイスラム世界にとっては異常な分裂状態になったということである。

ファーティマ朝について補足すると、この王朝はシーア派である。シーア派の主流は十二イマーム派であると前に述べたことがあるが、それではなく七イマーム派である。シーア派であるから初代がアリーであることには変わりないが、その後、枝分かれした一派なのである。後日、この王朝が大活躍する歴史上の事件がおきるので、覚えておいて欲しい。

後ウマイヤ朝が立ち上がったとしても、アッバース朝が後ウマイヤ朝を征服するにはあまりにも遠く、それほどの強力な軍勢があるわけでもなかった。イスラム世界はあまりにも広くなりすぎていた。それを中央集権的に治めるのは難しくなっていた。また、イスラムは非アラブ民族にも深く浸透してきており、非アラブ民族のイスラム世界も拡大していた。