イスラム誕生の時代背景

イスラムがアラビア半島の西部、紅海沿いのメッカに誕生したことはすでに述べた。今回は当時の中東地域の状態がどのようであったのか述べてみたい。ササン朝(226~651)がビザンツ帝国(395~1453)と争っていたこともすでに述べたが、上図で示す通り、両者の間では継続的な戦争状態が続いていた。そのことによって絹の道を通じて行われていた商業活動がリスクを回避するためにアラビア半島へ迂回するルートを選ぶようになっていった。インド洋からアラビア海にかけての水域は海にシルクロードと呼ばれるほどに商業活動が活発な海域になっていった。アデンやメッカ、メディナなどの土地が貿易中継地となって繁栄したのであった。メッカの富める商人たちとムハンマドが対立したのはそうような時代であった。元来、部族性を基礎とする遊牧社会のアラブでは互いに授けあう社会だったが、大商人が富を独占し貧富の差が拡大するという社会的な矛盾が激化していたのだ。

イスラム暦とは

前回、イスラム暦の紀元は622年のヘジラの年であると述べた。そこで今回はイスラム暦について説明しよう。まず暦というものが世界に1つというものではないということを改めて認識しましょう。中国ではまもなく春節(正月)になります。日本でも昔は旧暦を使っていました。マヤ暦というのも数年前に話題になりましたね。ユダヤ暦というのもありますね。だから、イスラムでは独自のイスラム暦を使っているからといっても、それは何も特別なことではないということを先ずは認識しておいてください。てそこでイスラム暦です。

太陰暦である。ということは月の満ち欠けに基づいた暦であるということ。ひと月は新月から始まる。それぞれの月には名前がついている。9番目の月の名はラマダーンといって断食月である。12番目の月は巡礼月。詳しくは次のようになる。

29日の月と、30日の月が交互に繰り返すから、それぞれが都合6回ずつになる。つまり1年の日数は355日である。我々の1年が365日に較べると11日間少ないことになる。従って、我々の暦は季節に一致しているが、イスラム暦では季節が少しずつずれてくる。分かりやすくいうと、例えば今年我々の1月1日とイスラム暦の1月1日が一緒だったとすると、我々の暦の今年の12月20日にイスラム暦では一足早く翌年の1月1日になる。そうして毎年11日ずつ前へ前へと行くので1月1日が冬から次第に秋になり、だんだん夏になっていくとうことになる。だから、あの断食の月も秋になることもあれば夏になることもあるわけである。お判りいただけたであろうか。

イスラム世界での行事、祝祭日などはイスラム暦をもって執り行われる。一方で、現代のようなグローバル化された時代においては、国際間のやり取り上でどうしても西暦も必要になっている。従って、多くの国々では西暦と併用することが一般的である。昨年だったか、サウジアラビアでも西暦を一般化するような方針を打ち出したようだった。そうなると、今より1年が11日増えることになる=働く日が増えるから反対だというような声もあったとか報じられていた。当事者でないと分からない感覚だと思ったのである。

イスラム暦は太陰暦であると言ったが、イスラム暦と紀元を同じくした太陽暦もある。それはイランの暦である。イランも同じイスラムの国である(但し、十二イマーム派のシーア)ので、イスラムの行事はイスラム暦に従うのは当然であるが、日常生活の暦は太陽暦を用いており、正月の元旦は毎年3月の春分の日である。このことは既にゾロアスター教のところで述べたとおりであるが、ゾロアスター教の影響である。イラン人の暦には西暦とイスラム暦とイラン暦の3つが一緒になっているのである。

ムハンマドの登場:イスラム誕生

イスラムが誕生したのは7世紀のことである。ユダヤ教やキリスト教に較べると、ずっと新しいのである。7世紀、アラビア半島のメッカで一人の男が神の啓示を受けたということからイスラムは始まった。この男とはムハンマドである。イスラムの創始者といえば、今ではムハンマドというのが定着しているが、以前の日本ではムハンマドのことをマホメットと呼んでいた。それはなせだろうか?アラビア半島はアラビア語の世界である。アラビア語でムハンマドと書いた場合、そのスペルは m h m d と書く。子音ばかりで母音がない。マホメットという呼び方も、そのような母音を記さないことに原因があるのであろう。冒頭の文字は筆者が書いたムハンマドというアラビア文字である。

ムハンマドの生い立ちから始めることにしよう。彼は571年にメッカに生まれた。当時のアラビア半島は部族社会であった。ムハンマドの一家はクライシュ族の支族であるハーシム家に属していた。彼が生まれる前に父は死去しており、6歳のときに母親も他界したため、叔父に養育されたという。この時に叔父の息子アリー(ムハンマドとは従兄弟である)と兄弟のように育ったのであるが、このことを読者には覚えておいてもらいたい。25歳のときに15歳年上の未亡人で女商人のハディージャと結婚し、その後二人の間に二男二女を授かったが、男子二人は成人前に早逝した。

610年ころ(40歳ころ)にメッカ郊外のヒラー山で瞑想に耽るようになり、天使ジブリール(ガブリエル)が現れて神の啓示を受けたとされている。その後何度か啓示を受けた後、妻のハディージャに支えられて、預言者の自覚をもって、イスラムの布教活動を始めた。布教を始めたといっても簡単なものではなかった。ムハンマドは当時のメッカの社会の状態を憂いていたのである。大商人たちが富を独占していること、彼らの利益追求の姿勢、飲酒や賭博の蔓延などなどを批判して、社会の変革を訴えようとしたのだった。全ての人々は平等であると訴えた。彼の布教活動を理解しめしたのは第一に妻のハディージャ、次に従兄弟で兄弟のように育ったアリー、そして友人アブー・バルクたちであった。布教活動が進むにつれてムハンマドには商人たちから圧力がかけられた。抵抗するも多勢に無勢であったろう。ムハンマドはメッカの人々から迫害をうけてメッカを去った。行った先はメディナである。この移動をイスラムでは「ヒジュラ(ヘジラ)」日本語では「聖遷」といって、イスラムの歴史の重要な出来事である。イスラムの人々は我々とは異なる暦を使っている。イスラム暦である。

イスラム暦の紀元はこの事件が起きた西暦622年である。

ササン朝(2)ローマ帝国との争い

ササン朝(226-651)の時代、ヨーロッパ世界ではローマ帝国が発展していた。しかしながら、ローマ帝国は皇帝テオドシス1世が亡くなるとき(395年)に東を長男アルカディウスに、西を次男のホノリウスに与えた。ローマ帝国は東と西に分かれた分割統治となったのである。その後、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に悩まされ、100年足らずの476年に崩壊する。東ローマ帝国はオスマン帝国に敗れた1453年まで長きにわたって繁栄した。このような時代背景を踏まえた上で、ササン朝とローマ帝国との覇権争いを見ることにしよう。

シャープール1世(在位242~272年)が260年にエデッサの戦いでローマ軍を破り、皇帝ウァレリアヌスを捕虜とした。4世紀にはユリアヌス帝(361~363年)がササン朝との戦いでクテシフォンまで迫ったが傷を負い戦死した。ササン朝のホスロー1世は579年ビザンツ帝国(東ローマ帝国)との戦いで戦死した。ホスロー2世(590~628年)は614年にビザンツ帝国の領土であったエルサレムを攻撃し、イエスが磔になったという十字架を持ち帰った。ローマ側のヘラクレイオス1世(610~641年)が628年にクテシフォンを占領した。・・・・このように歴史年表に現れている主だった戦いの記録からも両者の敵対関係を知ることができる。

冒頭の写真であるが、私の背後に写っているのが、文中で述べたエデッサの戦いの戦勝記念のレリーフ碑である。シャープール1世が馬上から、捕虜にしたローマ皇帝ウァレリアヌスを見下している。一方、ローマ皇帝は跪いているという図柄である。このように強力な勢力を誇ったササン朝を打ち滅ぼした勢力がイスラムであった。

ササン朝ペルシア(1)

ササン朝ペルシアを手元にある数研出版『世界史辞典』で引いてみると、以下のように記載されている。

ササン朝(Sāsān)226-651 中世ペルシアの王朝。名はその先祖イスタフルのマズダ教の祭司ササンに基づくという。アルダシール1世(226-241)がパルティアの衰微に乗じて、クテシフォンに即位、諸王の王と号し、ゾロアスター教を国教としたが、総じて他宗教にも寛容。領土を広げて古代ローマ帝国と対立。6世紀中ごろ、ホスロー1世のとき、黄金時代を現出、しばしば東ローマ帝国に侵入したが、同世紀末から衰え、ニハーヴァンドの戦いでイスラム帝国に敗れて崩壊、まもなく名実ともに滅んだ。ペルシア固有の華やかな技法にギリシア、インド的要素を加えた銀器・青銅器・ガラス器・連珠紋模様の絹織物などのササン朝美術はシルクロードを通じて当方に伝えられた。

ササン朝の特徴の第一は上述されている中の1つ「ゾロアスター教の国教化」であろう。ゾロアスター教については既にこのブログの中でアケメネス朝の王族が信仰していたことを述べた。ダレイオス大王はゾロアスター教の神・アフラマズダが我を王位に就けたと宣言している。ササン朝になると、更にその傾向は強くなり、ササン朝時代のレリーフには「王権神授」を表す絵柄が多くみられる。

上の写真はNaqshe-Rajabにあるレリーフである。アルデシール1世の王権神授の図である。下の写真はターゲ・ボースタンにあるレリーフである。これはホスロー2世がアナヒータ神とアフラマズダ神から光輪を授けられている図である。

ターゲ・ボースタンにはこのほかにも美しいレリーフがある。次の写真は天使あるいはアナヒータ神でしょうか。非常に美しいと思いました。(写真は筆者が撮ったものである)

第二の特徴は、ササン朝では諸文明を融合した高度な文化が生まれたことである。優れた様式や技術は、ササン朝を滅ぼしたイスラム世界にも継承されるとともに広く東西各地へ伝播し、その地方の文化に影響を与えた。わが日本にもその影響が奈良に残っている。法隆寺の「獅子狩紋錦(ししがりもんきん)」には日本に生息しない獅子(ライオン)を描かれている。ササン朝ペルシアの「帝王獅子狩文銀皿」の獅子をモデルにしたという説がある。山川出版のヒストリカには次の図でササン朝文化の伝播が説明されている。

奈良正倉院にある漆胡瓶(しっこへい)がササン朝の影響を受けたものであり、同様に他地域でも同じように影響を受けた瓶が存在するという説明である。ササン朝の洗練された文化が銀器・青銅器・ガラス器などの優れた工芸品を生み出した。そして、それらの品はシルクロードを経て各地へ伝わった。東方へのシルクロードの中国の起点(終点)は長安であった。そして、当時の日本へと伝わったのである。奈良正倉院には西方から伝わった工芸品が多数保存されていることを読者はご存知の通りである。今回はここまでにしておきましょう。

ササン朝ペルシアの台頭

アレクサンドロス大王の死後、彼の帝国は大きく分けると3つに分裂していった。プトレマイオス朝のエジプト、アンティゴノス朝のマケドニア、そしてセレウコス朝シリアであった。西ではローマが地中海世界を征服し発展していた。その当時の勢力図を山川出版社『世界史図録ヒストリア』では次のように描いている。

上段はBC270年頃でアレクサンドロスの帝国の領土を引き継いだセレウコス朝が広大な領土を有しているが、下段のBC200年頃の図ではセレウコス朝の東部にバクトリアとパルティアが勢力を拡大していることがわかる。更に、帝国書院『最新世界史図説タペストリー』の次の図ではパルティアがさらに拡大している。そして、その下の図になればササン朝ペルシアがペルティアにとって代わっている。この間の歴史の流れについては割愛するが、アケメネス朝ペルシアが滅亡したあと、再びササン朝ペルシアが台頭したのである。

西暦224年アルデシール1世がパルティア(中国名安息)を倒して首都クテシオン(現在のイラク領内)を占領し、ササン朝を建国した(226年)。ササン朝の詳しいことは次回以後に。

アレクサンドロスの帝国!

いよいよアレクサンドロス大王の登場である。アケメネス朝ペルシアを滅ぼしたのは、マケドニアの若き英雄アレクサンドロスであった。上の画像は講談社発行興亡の世界史第1巻『アレクサンドロスの征服と神話』の表紙である。タイトルの背景はペルセポリスである。馬の顔のようなのは柱頭に据えられたものであり、これは伝説的な架空の動物(鳥?)である。たしかペルシア語でhomaと呼んでいたように思う。余談はさておいて、アレクサンドロスはペルシアを征服したが、ペルシアの制度や文化を否定することなく、また自己のギリシア・マケドニアのそれを押し付けるのでなく、両者の融合を図った。彼自らがペルシアの女性を娶り、部下にもそのように奨励した。ペルシアとギリシアの融合:東と西の融合が進んでいった・・・・ヘレニズム文化である。

アケメネス朝ペルシアの大帝国はアレクサンドロスの帝国となった。彼はさらに東方へ領土を拡大しようとしたが、兵士たちの多くに疲れが現れていた。故国を遠く離れ、過酷な自然条件のもとでの長い遠征の途であった。兵士たちの不満も高まりつつあった。そんな折に、アレクサンドロスは突然この世を去ったのであった。BC323年、バビロンにて病死、32歳の若さであった。この若さでの死は彼に後継者を定めさせる思いも時間も与えていなかった。リーダーを亡くした帝国は混乱状態になった。アレクサンドロス亡き後は、上図のように3つに分裂する。マケドニア本国はアンティゴノス朝に、エジプトはプトレマイオス朝に、そしてペルシア一帯を含む東方はセレウコス朝となったのである。エジプトのプトレマイオス朝といえばクレオパトラだ。そうなるとローマ帝国も登場する。華やかな世界史となりそうではあるが、ここ中東世界ではそれぞれの王朝が図に記しているように200年から300年後には全てが滅亡しているのである。興亡の世界史とはよく言ったものである。

ナクシェ・ロスタム(Naqsh-e-Rostam) 王の墓群

前回、アケメネス朝はアレクサンドロス大王によって滅ぼされたと書いた。次のテーマに移りたいところであるが、ナクシェ・ロスタムについて書き残しておきたい。ナクシェとは絵、ロスタムとはペルシアの伝説物語の英雄の名前である。英語で表記するとNaqsh-e-Rostam ペルシア語でنقش رستم‎ である。ここはペルセポリスから北へ約4kmほどのところにある王族の墓が並んでいる場所である。ビストゥーンの磨崖碑と同じように垂直に立っている岩山の壁面に造られている。墓は4つ並んでいるのだが、左の3つから少し離れた右の方に1つが少し左の方を向きかげんで並んでいる。一番左からダレイオス2世、アルタクセルクセス1世、ダレイオス1世、クセルクセス1世の順番である。前回の王の系図をみれば4人の関係がわかるであろう。

最初にここを訪れたのは1972年であったと思う。自分も二十代であった。その時には誰もいなくて、このような歴史的遺産に対する取り扱いに驚いたものだった。あれから何度も訪れた。日本から来訪者が来る度にイスラハンとペルセポリスを案内したついでにここにも来た。いつからか入場料(といっても囲いがしてあるわけでもないが)を徴収する人がいるようになった。金額も大した額ではないが、一応、歴史的な遺産として扱われるようになった。いつ行っても晴天ばかり(これはイランなら北のカスピ海沿岸を除いてほとんどのところがそうであるが)。青い空に磨崖壁の遺跡が美しく映えるのである。

アケメネス朝の滅亡

ペルセポリスはダレイオス1世が建設したが、完成したのはクセルクセス1世のときである。この王朝の特徴としてサトラップ制、王の目王の耳、王の道などは既に述べたが、ほかには貨幣制度の導入がある。ペルシアの金貨は帝国の統一貨幣としての役割を果し、国内の商業の発展を促進した。また、ギリシアなどでも通用し、当時の世界通貨的な面を持つようになった。また、農業も重視され、被征服地から新しい作物を持ち込むことなども行われた。イラン北西部辺りで始まった地下水路(カナート)がこの時代になると乾燥した高原地帯でも広く普及していった。カナートは現在でもイランを中心に各地でみられるが、降雨の少ない中東地域では非常に重要な施設である。飛行機の窓から下を見た時に、山の裾野から平地に向かって〇状のものが連なっているのが見えることがある。これはカナートを掘った時に地下から掘り出した土饅頭のようなもので、中心部に穴があいているのである。この〇をつなぐ線の下に地下水路が流れているのである。その構造は次の図のようになっている。カナートの終点は地表になり、そこはオアシスである。この水のおかげで人が住むことができ村ができる。隊商の人々やラクダにとっての貴重な水を提供しているのである。

アケメネス朝は上の系図が示すように11代国王まで続いて滅亡するのであるが、この間、ギリシアとの度重なる戦いもあった。その一つマラトンの戦い(BC490)で、この時にギリシア側の戦士が勝利を伝えるために走ったことが現在のマラソンの起源となっていることは皆さんご存知のことですね。このペルシア帝国を滅ぼしたのはマケドニアの若き英雄アレクサンドロスであった。ペルセポリスはアレクサンドロス軍の攻撃で炎上し滅び去ったのであった。

ダレイオス大王の偉業② ペルセポリス

ペルセポリスはダレイオス大王が造ったペルシア帝国第三の首都であり、ここの宮殿跡が残っている。ピエール・ブリアン著『ペルシア帝国』によれば、「王家の食卓には毎日、王と側近だけでなく、高官から行政官、帝国内の諸民族の代表、王宮の衛兵、寵臣など、宮廷に仕えるすべての臣下ー総計1万5千人分の食事が用意される」とある。ここからも宮殿の規模の大きさがわかる。実際に現地を見ると乱雑に残された柱跡や、宮殿の門、壁面の様々な図柄の彫刻や楔形文字に圧倒される。様々なレリーフに描かれている人々は朝貢のために来た者たちで、その衣装や貢物の形から、どこの国から何を持ってきているのかが特定されているのである。ここでは講釈することはせずに、写真をアップすることでペルセポリスを味わっていただきたい。写真をクリックすると拡大されます。