拙著『中東世界を読む』(創成社)138頁~139頁の部分を抜粋する。
地図を見るとシリアはトルコの南、イラクの北西、ヨルダンの北に位置している。西側は地中海に面しているが、この西側の南半分にレバノンが食い込んでいる形となっている。レバノンの南側にはイスラエルが接している。地中海沿岸では古代からフェニキア人などが活躍したことが知られている。この地域はヒッタイト、アッシリア、バビロニア、ペルシアなど幾多の大国の影響下に置かれた歴史を持つ。さて、ペルシアの支配はアレクサンドロス大王の征服によって終わるが、その後この地域はセレウコス朝シリアとなる。シリアはその後紀元前64年ポンペイウス皇帝の時代にローマの属州となる。レバノンのバールベックの遺跡はローマ時代の1世紀に建てられたものである。ジュピター神殿は大部分が崩壊してしまったが、神殿跡には6本の柱が残っている。また、遺跡の南側にはギリシャ風のバッカス神殿があるが、こちらは祭殿や柱、天井の彫刻など多数が残っている。またシリアの最も有名な遺跡はパルミラである。パルミラはシルクロードの西のはずれに位置し、紀元前1世紀から2世紀にかけて築かれたオアシス都市であり、美しいことから「シルクロードのバラ」と呼ばれた。遺跡には巨大な柱が並び、劇場や大浴場、神殿跡が残っている。3世紀頃には女王ゼノビアが大帝国を築いたが、3世紀にローマ軍に滅ぼされた。ゼノビア女王は首に鎖をかけられローマ市中を引き回された。さて、7世紀になるとアラビア半島西部のメディナ、メッカ一帯でイスラムが起き、その勢力はあっという間に周辺に広がっていった。・・・
このくだりにゼノビアという女性が登場するのである。ゼノビアという女王があの遺跡で有名なパルミラという国を治めていたのである。ゼノビアとはどんな女性であったのだろうか。パルミラとはどんな国であったのだろうか。世界史の窓では次のように説明されている。
パルミラとは:
パルミュラともいう。シリア砂漠のほぼ中央に位置するオアシス都市で、ペルシア湾方面からダマスクスと地中海東岸の海岸都市を結ぶ隊商貿易の中間の要衝として栄えた。紀元前1世紀のヘレニズム時代から商業都市として繁栄したが、1世紀からはローマの勢力がこの地に及んだ。
3世紀にはその東のイラン高原に興ったササン朝がシリアに進出するとそれに抵抗し、ローマとササン朝の中間にあって女王ゼノビアはシリアからエジプト、小アジアにかけての勢力を築いた。272年、ローマ帝国のアウレリアヌス帝(軍人皇帝の一人)が遠征軍を派遣し、パルミラを制圧した。女王のゼノビアは、才色兼備の女王でありローマ軍とよく戦ったが、敗れて捕虜となりローマに連行され、パルミラもアウレリアヌス帝によって破壊された。
ゼノビアとは:
18世紀イギリスの史家ギボンの『ローマ帝国衰亡史』第11章では、このパルミラと女王ゼノビアについて述べている。
(引用)・・・おそらくゼノビアこそは、アジアの風土風習が女の性(さが)として与える隷従怠惰の悪癖をみごとに打破してのけた、ほとんど唯一の女傑だったのではなかろうか。・・・その美貌はクレオパトラにもおさおさ劣らず、貞節と勇気でははるかに上だった。最大の女傑というばかりでなく、最高の美女としてもその名は高い。肌は浅黒く、・・・歯並みは真珠のように白かったという。漆黒のおおきな瞳は、ただならぬ光を帯びて輝き・・・声は力強く、しかも実に音楽的だった。
この頁に二つの画像はショッピングサイトで売られているスカーフである。ゼノビア女王を描いたものである。数万円の価格がついていた。ISが中東地域で文化施設を破壊したためにパルミラの遺跡も現状がどうであるかは不明である。遺跡で有名なパルミラの裏にゼノビアという女性がいたことを知っていただければと思い記事にした。ローマ市中を鎖につながれて引き回されたというが、この時の鎖は金の鎖であったという。