コーランについて(11):第21章ーーー預言者たち

久しぶりにコーランです。この章を取り上げた理由は特にありません。コーランを取り出して、パッと開いたところが、この章だったのです。いつものように訳文は岩波文庫・井筒先生のものです。

上の画像はコーランのこの章の冒頭の部分です。昔イランで買ったものです。コーランはご存知のようにアラビア語で書かれています。画像を見ると、コーランの文章の下に小さな文字が書かれているのが見えますね。これはアラビア語のコーランの意味をペルシャ語で書いているのです。イランの言葉はペルシャ語ですので、アラビア語のコーランは読めても意味が分からない人も大勢います。従って、こうしてペルシャ語で意味を併記しているのです。イスラム教徒にとってコーランはアラビア語で唱えるのが鉄則です。イラン人もみんなアラビア語で唱えているのは言うまでもありません。

さて、今回の第21章が預言者たちと題されるのは何故でしょう。この章では、ムーサー(モーセ)、ハールーン、イブラーヒーム、ルート、イスハーク、ヤアクーブ、ヌーフ(ノア)、ダーウード、スライマーン、アイユーブ・・・・・そのほかの預言者たちについて言及されていることから、この名が付いたようです。先ずはイブラーヒームについて言及している辺りを紹介しましょう。

(1) ~(3) 人々がうかうかよそ見しているうちに、総決算の時は刻々と近づいてきた。いくら次々に新しいお諭が下されても、みんなは遊び半分に聞き流すばかり。一向に気がはいらぬ。しかも、不義の徒輩、こちらに聞かせぬつもりのひそひそ話で、「なんだ、これは君たちとおなじただの人間ではないか。立派に目が見えておりながら、君たち、妖術にやられる法はあるまい」などと言っている。

冒頭でいきなり信心深くない人間のことを取り上げて、次のように嘆いている。

(4)~(6) 「神様は天と地のどこで言われていることでもすっかり御存知。まことに早耳で、何から何まで御存知におわします。」と彼(ムハンマド)が言えば、さらに彼らは言い返す。「なあに、愚にもつかない夢ごたまぜ。」「どうせあの男のでっち上げ。」「あの男は詩人だ(当時は、詩人は妖霊に憑りつかれた人と考えられていた)。」「昔の使徒のように、一つお徴(おしるし=奇蹟)でもやって見せたらいいに。」今までも、我ら(アッラー)が滅ぼした邑(まち)はどれもこれも信仰しなかったもの。それでもあくまで信仰しないつもりか。

しばらく後になると、次のように壮大な神の力を力説する。

(31)~(34)  信仰なき者どもには分からないのか、天と地はもと一枚つづきの縫い合わせであったのを、我らがほどいて二つに分けた上、水であらゆる生きものを作りだしてやったということが。これでも信仰しないのか。また我らは大地の揺れをとめるために山塊をどっかと据え、そこに峡谷を縦横にはしらせ道となした。これもみな、なんとかして人々を正道に導こうとてしたこと(天地自然の不思議をみて信仰にはいるようにとしたこと)。さらにまた、我らは大空をもって、がっしりとまった(落ちてこないようにしっかりとめられた)屋根となした。それでも、彼らは、こういう神兆に平気で顔をそむけるのか。彼(アッラー)こそは、夜と昼と太陽と月とを創造し給うたお方。みな大空の中を泳いでいる。

(52)~(59 ) その昔、我らはイブラーヒーム(アブラハム)に正しい行きかたを授けた。あの男のことは我らもはじめからよく知っていた。あれが父親とその一族に向って「そうやって貴方がたが崇めたてまつっているその彫像は、一体なんです」と言った時のこと。「わしらの御先祖様がたの崇めておられたものじゃ」と一同が答える。「それでは、みなさん確かに道を踏み違えておられたのですよ、御先祖様たちも、貴方がた御自身も」と言う。「これ、お前、本気でそんなこと言っているのか。それとも悪ふざけしているのか。」「とんでもない。みなさんの本当の主は、天と地を統べ給うお方、それを初めてお創りになったお方なのです。私はそれの証人の一人です。誓って申します。みなさんが私に背を向けてあちらへ行ってしまったあとで、必ず私があの偶像(でく)どもに一泡ふかせて見せましょう。」とそう言って、彼は(邪神の彫像をことごとく)ばらばらに叩きこわしてしまった。但し、たった一つ、大物だけ残しておいた。これは(あとで)みながこのもののところへやって来るように(わざと)そうしておいたのであった。

アブラハムが人々に偶像崇拝を咎めて、それらを壊したのであった。だけど、一つだけ残したのには理由がある。後日、みんながそこに集まってけしからんと騒ぐだろう。その折に再び説諭するというシナリオのようである。

(63) ~(69 ) 「これ、イブラーヒーム、お前か、我々の神様がたにこんなまねをしたのは」と一同が尋ねた。「いえいえ、ほら、この大物のしわざです。あの連中(こわされた神々を指す)にきいてごらんなさい、もし彼らに口がきけるものなら」と彼が言う。そこせ一同、額を集めて協議となり、「悪いのはこちら側だった(物も言えない偶像を神とあがめたりした我々の方が間違っていた)と言う。(しかし反省したのもつかの間)、たちまちひっくりかえって。「この方々(神々を指す)に口がきけないことはお前(アブラハム)初めから知っていたくせに。」「さ、そこです」と彼が言う。「それでは、みなさん、アッラーをよそにして、毒にも薬にもならないようなものを神と崇めていらっしゃるんですね。いやはy、なんとなさけないことか、アッラーをよそにして、あのようなものを崇めるとは。みなさん、わからないのですか。」「あれ(アブラハム)を火炙りにしてしまえ。どうせやるなら、君たち(俺たち)の神々がたにお味方申せ」とみなが叫んだ。そこで我ら(アッラー)は「これ、火よ、冷たくなれ。イブラーヒームに危害を加えるな」と命じたのであった。

信仰深きない人々を相手にアッラーの凄さをPRするかのように我とイブラーヒームの働きかけがまるでコントを見ているように映像が浮かびます。イスラムで偶像崇拝を禁じ、それを破壊した初期の状態が動画をみているように目に浮かんでくるようです。中々興味深い内容でした。この後、ほかの預言者にも言及するわけですが、今日のところはここまでにしておきましょう。

 

 

草間彌生のテルアビブ展が開催されています。

エルサレムポスト-イスラエルニュース
Yayoi Kusama’s Tel Aviv exhibition takes viewers back to childhood
11月18日のエルサレム・ポスト紙は上のようなタイトルの記事を載せました。訳すと草間彌生のテルアビブ展は、来館者を子供時代に戻します」なります。

記事の一部を自動翻訳で紹介します。
パンデミック以来、観光業は完全に停止し、日出ずる国への入国は依然として困難です。テルアビブ美術館の館長であるタニア・コーエン・ウッツィエリは、次のように述べています。
草間は、絵画、コラージュ、彫刻、ビデオ、パフォーマンス、インスタレーション、ファッション、文学、音楽など、数多くのメディアと協力し、現在の展覧会のために特別に作成された2つの新しいモニュメントも作成しました。
そして、確かに、美術館に足を踏み入れたとき、私は期待を感じることができました。いつもの夜ではありませんでした。草間彌生は、私たちの時代で最もクリエイティブで重要なアーティストの1人です。

草間さんの写真や「かぼちゃの精霊」という作品の画像も掲載されているのですが、著作権の侵害になるといけないのでここには上げられません。インターネットで検索すれば「新聞名」「草間彌生」「テルアビブ美術館」程度で簡単に見つけることができると思います。
高齢にもかかわらず日本の作家が外国でも注目されていることは誇らしく思いますね。

 

世界史学習:パルティアとササン朝ペルシア

1.パルティア

 

作業1: A=ローマ帝国 B=パルティア王国 C=クシャーナ朝
作業2: 絹の道(シルクロード)

2.ササン朝ペルシア

問題の答: トラヤヌス帝⇒a パルティア王国 ホスロー一世⇒b 東ローマ帝国

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イラン民族が築いたペルシア帝国といえば、アケメネス朝、ササン朝、サファヴィー朝の3つが帝国という名称をもって有名であるが、今回取り上げたパルティア王国もイラン民族の築いた王国であった。「世界史の窓」ではパルティア王国を以下のように説明している。

遊牧イラン人の建国
紀元前3世紀の中頃から紀元後3世紀初めまでの約5百年にわたり、イラン高原を支配した、イラン系民族の国家。アルサケス朝とも言い、パルティア帝国ともいう場合もある。パルティアはイラン西北部ホラーサーン地方の一部で、カスピ海南岸の地方。前3世紀にバクトリア王国に追われた中央アジアの遊牧イラン人パルニ族がこの地に定住、ヘレニズム国家の一つセレウコス朝シリアの支配を受けていた。
前247年ごろ、パルティアはセレウコス朝から独立をはたし、さらに前238年、族長アルサケスが即位してアルサケス朝を開いた。都はいくつかを移動した後、イラン北部のヘカトンピュロスとされた。セレウコス朝滅亡後、イラン高原からメソポタミアに進出し、クテシフォンに遷都。紀元後1~2世紀には、西のローマ帝国、北のバクトリア、東のクシャーナ朝と争いながら、東西交易路を抑え、繁栄した。しかし、特にローマとの抗争は国力を消耗させ、226年に農耕イラン人のササン朝ペルシアに滅ぼされる。

パルティアを滅ぼしたササン朝もイラン民族であるが、ササン朝は農耕民族であり、パルティアは遊牧民であった。それにしても、パルティアは500年程も続いた割には、注目度が低いように思われる。中国では「安息」という名で呼ばれた。

 

 

2021年アラビア書道作品展(京都会場)

10月の川崎会場に続いて、京都会場にて11月16日から21日の期間で開催されます。会場は「京都市国際交流会館」京都市左京区粟田口鳥居町2番地の1。京都市地下鉄東西線蹴上駅下車徒歩6分です。

川崎会場では主に東日本の人たちが出品しましたが、今回は関西から西の人々の作品が主です。私の場合は名古屋ですので、今年は川崎会場に出品しました。京都会場には出品を予定していませんでしたが、急遽、作品を作って出すことになりました。まだまだ満足のできるものではありませんが、年々少しずつ良くなっているとは思います。以前は、自分で見て「ここが上手く書けた」とか思ったものですが、今は「ここが駄目!」「ここをもう少しこう書かなければ!」と欠点が分かるようになりました。つまり、あるべき理想の形が分かってきたように思います。思っても、書けないというのが現実で、それが次への意欲になるのです。今回の作品をここで紹介します。

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オリエント世界の風土

前回の世界史学習の答を記入しておきましたので、確認してください。ネタ本となっているタペストリーの該当部分をちょっと取り上げておきましょう。

四角い枠の中の文字が小さいので、以下に書いておきましょう。
「エジプトはナイルの賜物」
ヘロドトスはエジプトの豊かさを、定期的に氾濫を繰り返して沃土をもたらすナイル川のめぐみとしてこうよんだ。

「塩害に悩む」
この地域では早くから灌漑農業が行われ、穀物の収量も増えた。一方で、灌漑用水に含まれる塩基物によって、土壌中の塩分も増加していった。そのため流域は最古の農業地帯でありながら、徐々に農業は衰退していったと考えられる。また水量が豊かで、ときに大洪水を引き起こした。

「肥沃な三日月地帯」
9000年前、人類が最初に農耕を始めた地域の一つ。平原と高原の境にあたる、森林の多様な植物と開墾しやすい平原が出会う地。

「ギルガメッシュ叙事詩」
古代メソポタミアの英雄でウルクの王とされているギルガメッシュの伝説的叙事詩。「旧約聖書」の「ノアの箱舟」の原型だとされる洪水説話が記載されている。

「ベヒストゥーン碑文」
ラガシュ周辺の「王の道」に面した岩壁に刻まれた碑文。ダレイオス1世の業績が彫られている。

「遊牧民の地」
アラブとは遊牧民を意味し、アラビアとは彼らが住んでいる地、すなわち砂漠を意味する。半島中央には246万㎢(日本の約6.5倍)の砂漠がある。

最後の項目の中の「アラブ」についての説明の部分は少し違和感があります。アラブとはアラビア語を母語とする人々の集団と言った方がいいでしょう。

更にユーフラテス川について次のような図と説明があります。

こちらは、このままでも読めますね。
先日紹介したナツメヤシ(デーツ)がメソポタミア原産であり、年二回の収穫ができ、食料として以外の用途にも幅広く利用されてきたことが紹介されています。
さらに、メソポタミア文明を支えたのは粘土とアシであると説明しています。
粘土と葦というのが興味深いです。私はアシがペンに使われたことはよく知っていました。一見ひ弱いと思う葦が船材、建築材に使われたのですね。葦のペンのことですが、実は私はそれを沢山持っているのです。

アラビア書道を始めた時に、買い求めたのです。アラブでは葦ペンを使って文字を書いていたのですから、アラビア書道も葦ペンを使うわけです。しかしながら、葦ペンは弱いです。葦にも色々あるでしょうから、固めのものを使うでしょう。でも、日本なら竹があるので、いま私たちは竹を利用しています。中東の人たちも今は竹を手に入れることができるので竹を利用することが多いと思います。話がアラビア書道のペンにまで及びました。それではまた。

 

書籍紹介:アケメネス朝ペルシア・史上初の世界帝国

前回の記事投稿が、10月9日でした。アラビア書道展が川崎で開かれたので、そちらを訪れたついでに子供たちの家に行って1週間ほど滞在してきました。子供たちというより、目的は久しぶりの孫二人と会いたかったわけです。コロナのせいで2年近く会ってませんでした。といっても、昼間は孫たちは学校や保育園に行ってるわけですから、私は暇なわけです。今回はパソコンを持参しなかったので、暇つぶしのために見つけたのがタイトルの新書版です。

 

中公新書、阿部拓児著『アケメネス朝ペルシア・史上初の世界帝国』880円+税です。書店で偶然発見したのですが、発行は今年の9月ですから新刊です。とっさに思ったことはアケメネス朝ペルシアだけで一冊の本を一般人向けに出版することができるんだ!ということです。失礼かもしれませんが「へえ、こんな本でも売れるのかなあ?」という思いでした。アケメネス朝ペルシャは当然世界史で学ぶところでありますし、キュロス大王やダレイオス大王とペルセポリスの遺跡、そしてこの帝国がアレクサンドロス大王に滅ぼされたことなどで興味・関心もある人は多いでしょう。でも、その中間の部分つまり、ダレイオス大王の最盛期から末期に至る間のことはあまり関心がない人が多いと思っているのです。正直、自分もそうでした。そのような偏見に満ちた私感はここまでにしましょう。ペルシアに興味のある人は是非とも読んでいただきたい本だと思います。

まず、最初に伝えたいことはダレイオス大王がアケメネス朝の初代の王かもしれないということです。普通は初代がキュロス大王で二代目が息子のカンビュセス、そして3代目にするか4代目かと紛らわしいダレイオス大王となるのですが、キュロス大王の国とダレイオス大王の国は分ける考え方もできると諸説を紹介しています。私もこの説は以前から知っています。青木健氏はその著書の中で、キュロス大王から3代目までをチシュピシュ朝としています。今、世の中にでている歴史書の中の系図で、アケメネス朝は以下の図になっています。

確かにダレイオス1世(ダレイオス大王)はキュロスの直系ではありません。しかし遡れば繋がるということになるわけです。しかし真実はそうではなくて、ダレイオス大王が自らが王位についた正統性を主張するために作り上げた可能性があるというのです。それに関することがらがいくつか示されるのが大変興味深い。

カンビュセスが死んでダレイオス大王の時代になるわけであるが、カンビュセスの死とそこにまつわるストーリーもいくつかのシナリオが示されておりこれまた興味深いものであります。普通は、カンビュセスが実の弟を殺害し、秘密にしていた。しかし、それを知った弟に瓜二つのそっくりさんが、カンビュセスのエジプト遠征中に弟になりすまし王位就任を宣言する。慌てて引き返すカンビュセスが馬から落ちて死ぬとかなのでありますが、このあたりのストーリーも諸説があり、面白い。

とにかく、大昔の歴史であり、その当時を伝えるのがヘロドトスの『歴史』やクテシアスの『ペルシア史』しかないのである。あと有力なものとしてはベヒストゥーン碑文であり、私も地上100m、断崖絶壁に登りこの碑文を目の前にして感動したのですが、この碑文はダレイオス大王が造った、造らせたものであるから、自分に都合の良いように記している可能性は皆無ではないわけです。

このようにこれまで当たり前とされていた点が、そうでなくなるという内容は中々読みごたえがあるものです。しかし、一般読者にはそこまで細かい点は必要ないと思う点もあるので、適当に取捨選択してページをめくればいいでしょう。

 

 

 

 

 

2021年度アラビア書道展が始まります。

今年も作品展の季節になりましたので、作品を発送しました。会期は12日から17日6日間です。上の画像が私の作品です。3年連続してオマル・ハイヤームのルバイヤートの中から選んだ一つです。右側にナスタアリーク書体(ペルシャ書体)です。右面のサイズはA3です。左側にもA3サイズに詩の和訳と挿絵を入れていますが、額の幅に合わせて少し重ね合わせています。約3カ月間、何枚も書きましたが、最後まで満足できる出来ではありませんでした。س や  ن  の丸い部分の形が奇麗に書けないのです。また、長く伸ばして書く部分の曲がり具合が流麗に書けなかったりするのです。こちらが良ければ、あちらがダメとかになるのです。結局すべての部分がいいと思うようには書けない。これが今の自分の実力なのでしょう。

昨年もそうでしたが、今年の作品展もアラビア書道だけではなく、ペルシア書道、モンゴル書道、ハングル書道とのコラボ作品展なのです。多種多様な作品が展示されますので、お近くの方は是非とも御覧ください。そして11月にはアラビア書道単独での作品展が京都で開催されます。
こちらは2年ぶりの開催となります。私は出品を予定しておりませんが、もしかして、新しい作品が書き上げられるなら、出品するかもしれません。こちらの方の案内状も以下に紹介しておきます。

 

アフガニスタンのタリバンについて

アフガニスタンでタリバンが政権を奪取したために、イスラムについて尋ねられることが少し多くなりました。イスラムに対する関心が増えることはイスラムを正しく理解されるためにはいいことでしょう。まず、タリバンとは何なのでしょうか。ネットでweblio辞書のサイトには次のように書かれています。
タリバーン【Taliban】
「タリブ(イスラム神学生)」の複数形。「タリバン」「ターリバーン」とも》アフガニスタンのイスラム原理主義者による武装集団。1996年首都カブールを占領して内戦後のアフガニスタンを支配。偶像崇拝を排斥する立場から同国バーミヤンの石仏を破壊した。2001年のアメリカ同時多発テロの指導者ビンラディンをかくまったとして米軍の攻撃を受け、同年11月に政権は崩壊した。2006年ころから再び攻勢を強めている。

「タリバンはイスラム神学生」である。それだけではイスラム世界にはどこにでもあるイスラム神学生と同じでしかありません。タリバンは何が違うのでしょうか。「イスラム原理主義者による武装集団」ともあります。さて、原理主義者とはどういう定義なのでしょうか。原理主義という言葉は英語のfundamentalismを訳したもので、もともとはキリスト教の用語で、聖書の無謬性を主張する思想や運動(キリスト教根本主義)を指す言葉である。イスラム世界では自らが原理主義と名乗るようなことはなかったのです。1979年にはイランで革命により王政が崩壊し、イスラム政権が発足して今に至っています。イスラム法による統治をうたっています。でもそれはイスラム法に則る社会秩序を築くということで、原理主義というものではありません。サウジアラビアも厳格なイスラムの国です。彼らの宗派はワッハーブ派というものです。アラブの多くの国の人々がイスラムを信仰しているわけですが、地域や時代により厳格さが薄らいだところも沢山あります。そういう場合に、イスラムの原点に戻ろうという動きもあったりします。そういう場合は「イスラム回帰」あるいは「イスラム復興」などと表現されます。イスラム教徒自らが「原理主義」と名乗るようなものではないのです。

「偶像崇拝を排斥する立場から同国バーミヤンの石仏を破壊した」ともあります。あたかも偶像崇拝を配する立場の連中がバーミヤンの石仏を破壊したことは、イスラムの立場では当たり前のことであるように記されています。そうでしょうか。イスラム教徒のことをムスリムと言いますが、ムスリムたちは偶像崇拝をすることはいけないことだと教えられ、そのように信じています。それはそれで悪いことではありません。それが信仰というものでしょう。でもムスリムが他の宗教の信仰者たちが崇拝している文化財を破壊してもいいわけではありません。

次に1947年以後のアフガニスタンの歴史を年表形式で紹介します。

  • 1747年、パシュトゥーン人によるドゥッラーニー朝が成立。
  • 1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。
  • 1838年、第一次アフガン戦争(~1842年)
  • 1880年、第二次アフガン戦争(~1880年)に敗れ、イギリスの保護国となる。
  • 1919年、アマーヌッラー・ハーン国王が対英戦争(第三次アフガン戦争)に勝利し、独立を達成。
  • 1973年ムハンマド・ダーウードが無血クーデターを起こして国王を追放。共和制を宣言して大統領に就任。
  • 1978年、軍事クーデターが発生(四月革命)。大統領一族が処刑される。人民民主党政権成立。革命評議会発足。
  • 1979年ソ連軍によるアフガン侵攻開始。親ソ連派のクーデターによってアミン革命評議会議長を殺害し、バーブラーク・カールマル(元)副議長が実権を握る。社会主義政権樹立。

アフガニスタン内戦

1979年12月 ソ連がアフガニスタンへ軍事侵攻

1978年に成立した共産主義政権を支援するためであったが、反政府組織がソ連と戦い内戦状態となる。1989年のソ連軍の完全撤退まで10年間続いた。

代表的な反政府組織:

ラッバーニ率いるタジク人主体の                                   イスラム協会

ドスタム率いるウズベク人主体の                                  イスラム民族運動

ヘクマティヤール率いるバシュトゥーン人主体の          イスラム党

ハザラ人主体のシーア派勢力                                        イスラム統一党

これらの勢力はソ連と戦ったわけであるが、ソ連撤退後に戦い合うことになる。1992年平和協定

1994年 平和協定が破棄され、大規模な軍事衝突へ。ここで台頭したのがイスラム原理主義者のターリバーンである。(パキスタンから支援をうけて勢力拡大。1996年9月に首都カーブルを制圧「アフガニスタン・イスラム共和国」を樹立。

長くなったがアフガニスタンにソ連軍が侵攻したのが1979年、その後、内紛が続いたのであるが、ソ連に対抗するために米国は様々な集団にテコ入れをして、米国の都合のいいように育て上げていったのです。タリバンもその一つであり、1989年のソ連軍撤退後にタリバンは急成長していった。細かいことをいう必要はありません。要はタリバンというイスラム集団を都合のいいように政治的集団として育て、利用していった結果が今のタリバンなわけです。タリバンがまっとうなイスラム精神を保持した(あえて言えば)原理主義集団などという輩ではないのです。

イスラムの美②:陶器

前回の「イスラムの美①:タイル」の評判が良かったので、タイルに続いて陶器を紹介することにしました。前回同様にヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の所蔵品の紹介です。

白地藍黒彩文字文壺。エジプトまたはシリア。14世紀。高さ37センチ。

青釉黒彩透彫鳥首水差。イラン、カーシャーン。12世紀末~13世紀初期。高さ29センチ。

白地色絵人物文鉢。イランおそらくカーシャーン。12世紀末期~13世紀初期。直径20.7センチ。

白釉雄牛像。シリア。12世紀。高さ22.2センチ。

白地藍黒彩草花文壺。イラン。17世紀。高さ52.5センチ。

白地藍黒彩獣文壺。イラン。17世紀。高さ29.8センチ

左:白地藍黒彩三美人図鉢。イランおそらくカーシャーン。13世紀初期。直径29.7センチ。
右:ラスター彩騎馬人物図皿。イラン。1208年。直径35.2センチ。

グルガーン出土陶器類各種。全品が13世紀初期のカーシャーン産フリットウェア器物の埋蔵品の一部。このような上質の陶器を扱った行商人の手持ち商品と推定される。

白地藍彩アラベスク文台付鉢。トルコおそらくイズニク。15~16世紀。高さ23.5センチ。

白地多彩草花文台付鉢。トルコおそらくイズニク。16世紀中期。高さ26.5センチ。

白地多彩花文モスク・ランプ形壺。トルコおそらくイズニク。1557年頃。

白地多彩花文墓標。トルコおそらくイズニク。16世紀。高さ42.2センチ。

白釉青彩赤ラスター彩蓋付壺。イタリア、グッピオ。1510年頃。

左:白地藍黒彩草花文鉢。イランおそらくカーシャーン。13世紀初期。直径24.4センチ。
右:白地藍彩葡萄文皿。トルコおそらくイズニク。16世紀初期。直径39.1センチ。

円卓天板。9枚の別個のタイルから成り、それぞれイランの国民叙事詩『王書』に啓発された場面を描いたものである。中央図下部の銘文は、当品がロバート・マードック・スミス少将の注文によりアリー・ムハンマド・カシュガル・イスファハニーが、西暦1887年に相当するヒジュラ歴1304年に制作したものであることが記されている。直径136センチ。

12世紀以後の各地で作られたものであるが、中には日本の陶器と見間違うようなものもありますね。イスラム世界のものであるのに、人物像が描かれているものもあることに、オヤッと思われた方がいるかもしれません。でもそれらは、イランの作品です。イランはご承知のようにシーア派の国であります。イランでは第4代カリフ・アリーの肖像を飾ることがあるように、人物像を描くことを厳格に禁止しているわけではないようです。ペルシャの絵皿には独特の顔の人物像が描かれているものです。

 

イスラムの美 ①:タイル

2021年も早や9月になりましたね。コロナは一向に静まる気配がありません。本来ならば行楽の秋、芸術の秋ということで何処も賑わいを増す季節になるのでしょうが、今年はそうもいかないようです。せめて、ここではイスラムの美を楽しむことにしましょう。今回はタイルです。イスラム世界を旅するとモスクの美しさに強烈な印象を覚えるのではないでしょうか。勿論絢爛豪華なモスクばかりではありませんが、豪華でないモスクでもそれなりの美しさを感じるような気がします。

モスクを美しいと感じるとき、それは色彩からかもしれません。あるいは花や唐草をあしらった模様、いわゆるアラベスク模様かもしれません。私たちのアラビア書道の仲間には、モスクを見た時の文字の美しさに魅せられてアラビア書道を始めたという方が大勢おられます。色彩であれ、模様であれ、文字であれ、それらはモスクの外壁を覆っているタイルの美しさなのです。今回はヴィクトリア・アンド・アルバート美術館発行の「Palace and Mosque – Islamic art from the Victoria and Albert Museum 」の中のタイルを紹介させていただきます。つまり、これらはこの美術館に所蔵されているものです。

メッカ・カーバ神殿図解のタイルである。トルコ、おそらくイズニクでの17世紀の作であろう。縦が61センチ。

押型ラスター彩青釉文字唐草文小型ミフラーブ。イランおそらくカーシャーン、14世紀初期。高さ62センチ。

ラスター彩草花文十字・星形タイル。イランおそらくカーシャーン。1261ー62年の年代銘記。

ラスター彩釉文字文方形タイル。イランおそらくカーシャーン。1307ー08年頃。高さ35.8センチ。

白地多彩花文組タイル。トルコおそらくイズニク。17世紀。高さ188.6センチ。

白地多彩野宴図組タイル。イラン、エスファハーン。17世紀。幅221.5センチ。

白地多彩文字タイル。トルコ。1727年。主調となるのは書道文字装飾で、神の名、預言者ムハンマド、さらにアブー・バクル、ウマル、ウスマーン及びアリーの最初の歴代カリフ4名の名が様式化されてあしらわれている。この組み合わせはシーア派がアブー・バクル、ウマル、ウスマーンの正統性を拒絶していることから、スンナ派イスラムへの帰依を表す。高さ29センチ。

押型ラスター彩青釉タイル。バフラーム・グール図。イラン、タフト・イ・スレイマーン。13世紀末。高さ31.5センチ。

白地多彩チンターマニ(変形宝珠)文タイル貼暖炉。トルコおそらくイスタンブル。1731年。高さ365センチ。

それぞれの画像には詳しい説明もあるのですが、ここではこれらのタイルの美しさを楽しんでいただければと思います。