ペルシャ語講座20:can, must, 相当の語句

英語には can や must などの助動詞があって、使う機会も多いですね。ペルシャ語も同様です。今回はそういったものを取り上げましょう。

先ずは 「~することができる」 英語の can にあたる語です。

原型 語幹 英語の  can
توانستن  توان 日本語の ~できる
  I can go میتوانم بروم
  I could go توانستم بروم
  You can go میتوانی بروی
  He can go

can に相当する語は上表のとおり タヴァーネスタンです。語幹は タヴァーンです。従って、現在形の場合は ミータヴァーナ の後ろに人称語尾をつけて、一人称単ならミータヴァーナム、二人称単ならミータバニ、三人称単ならミータバーナドとなるわけです。会話(口語)ではミートウナム、ミートウニ、ミトウナド(ミトウネ)などになります。و という文字はヴァともオウとも読めるので、こうなるのでしょう。その方が言いやすく、自然にそうなっていくようです。

次は 「~しなければならない」 英語の must にあたる語です。

原型 語幹 英語の  must
بایستن 日本語の~しなければならない
  I must go (I have to go) باید بروم
  I had to go بایست بروم
  You must go باید بروی
  He must go باید برود

「~しなければならない」のペルシャ語基本形はバーエスタンです。上の表で語幹を空白にしていますが、一応語幹は بای ba-yということなのですが、バーエスタンの現在形は人称に関わらず全てバーヤッドなのです。そして、行くのばあいはベラヴァム、ベラヴィ、ベラバドと人称語尾を変化させます。canの場合はタバーネスタンの語尾も変化させましたが、こちらは変化させなくていい。過去形はこちらも人称変化せずにバーエストを使います。似たような語で「おそらく~するだろう」的なものにシャーヤッドという語があります。これも人称変化なしでシャーヤド ベラヴァド(彼はおそらく行くだろう)などと使います。そうそう、よく使う語では「~したい」「~したかった」という場合がありますね。英語でいう want to ~です。こちらも整理してみましょうか。

原型 語幹 英語の  want to ~
خواستن  خواه 日本語の ~したい
  I want to go میخواهم بروم
  I wanted to go خواستم بروم
  You want to go میخواهی بروی
  He wants to go میخواهد برود

基本形のkha-stanはそれ自体が「欲する」という意味ですから、リンゴが欲しいなどというときにも使うわけですが、動詞の前に使って、~したいという言い方ができます。私は行きたい=ミーkha-ham beravad, となるわけです。私は~を食べたいならミーkha-ham bekhoramとなります。未来形のときと混同しそうになるかもしれませんね。

トルコ政府が「アヤソフィアのモスク化」を決定

昨日のニュースでトルコのアヤ・ソフィアがモスク化されることになったと報じられました。世界各国から批判的なコメントが出ていることも。トルコに旅行されたなら、イスタンブールで必ず訪れる名所です。近くのスルタン・ハフメドモスクと共に多くの人が訪れるところです。このアヤ・ソフィアについて岩波書店発行の『新イスラム事典』は次のように記しています。

537年ビザンティン皇帝ユスティニアヌス1世によって首都コンスタンティノープルに造営されたギリシャ正教会の最も重要な聖堂。直径32m、高さ54mの大ドームを中心にすえ、内部はモザイクで覆われた。1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国に征服されると、ただちにモスクに改造された。16世紀の建築家シナンは、このビザンティン建築の最高傑作をしのぐために苦心した末、スレイマニエ・モスクなどトルコ・イスラム建築の傑作を残した。19世紀末にアヤ・ソフィアをギリシア正教会に復帰させようとの国際世論もあったが、1935年にトルコ共和国政府によって博物館とされた。近年、イスラム復興運動の高まりにより、博物館の一角がモスクとしても使われている。

建築家シナンのことは、このブログでも書いたことがある。気になる方は、目次から検索して遡って読んで頂きたい。もともとキリスト教徒であったシナンではあったが、イスラムに改宗し、そして、イスラム建築の傑作を生みだしたのである。

キリスト教会から転用したために、モスクとなったアヤ・ソフィアでは内部のモザイクの人物の部分を塗りつぶしたのであった。博物館となったアヤ・ソフィアではその部分をはがして元のモザイク画を見ることができる。それが次の写真である。もう、20年ほど前に私が学生をつれて旅行した時に写したものである。

今回のニュースを聞いて私が思うのは、アヤ・ソフィアをモスクにすることの是非ではない。オスマン帝国の人々が奪い取った領土にあった宗教施設を自分たちの宗教に合わせて利用したのなら非難はできまい。まして、その後の時代の流れに応じて、博物館としての扱いをしたことも讃えられることではないだろうか。しかし、今回の決定によって、アヤ・ソフィアの先ほどお示ししたような露わになっていたモザイク画がどう扱われるのかということが心配である。

私自身はイスラムの精神は寛容である(寛容な宗教であるとは言わない)と思っている。しかし、偶像崇拝を嫌うためにバーミアンなど各地で貴重な文化財を破壊したイスラム教徒と称する連中と同じようなことをして欲しくないのである。イスラムの寛容さを見てみたいのである。

ペルシャ語講座19:練習問題の答の補足

前回の練習問題の答を前回の末尾に記載しておきました。少し、補足説明しておきます。

کتاب  と  کتابی の使い分けについてです。以下、ケターブとケタービーと書きます。答えのペルシャ語をみて、ケターブの語尾にイーを付いたのと、付いてないのがあることにお気づきでしょうね。問題文をあとから英文で追加した理由がそこにあるのです。

This is the book. این کتاب است
This is a book. این کتابی است
2つの文を比べてください。a bookと限定していないほうに イーがついています。

「私に本をください」の場合、「その本を」という意味ならば「ケターブ」でいいですが、「何か面白い本を何かくださいというようなニュアンス。つまり本を限定していないような場合」にイーを付ける形になります。あまり細かいことは考えなくてもかまいません。最初はそんなことは考えずに「ケターブ」を使えばいいでしょう。使っているうちに、皆が使っている用法も分かってくるので自然に覚えるようになると思います。

ペルシャ語講座19:語彙と練習問題(1)

今回からは、ちょっと実用的な内容にしていきましょう。

P語 発音 意味
 این in this これ、この
 آن an that あれ、あの
 جا ja place 場所
 اینجا inja here ここ
 آنجا anja there あそこ
 کجا koja where?  どこ?
 من man I   私
 تو tou thou  あなた、おまえ
 او u he, she  彼、彼女
 ما ma we  私たち、我々
 شما shoma you  あなた達(単数も可)
 ایشان ishan they  彼ら、彼女ら
 آنها anha those, they  それら、彼ら、彼女ら
 میز miz table テーブル
 صندلی sandali chair 椅子
 کتاب ketab book 本
 مداد medad pencil 鉛筆
 قلم qalam pen ペン
کاغز kaghaz paper 紙
 پنجره panjare window 窓
 پا pa foot 足
 پارو paru a kind of wooden spade
 چیز chiz thing 物
 چه che what? 何?
 به be to  ~へ
 و va and そして
 یا ya or  あるいは
 است ast (he,she,it) is 三単現のbe動詞
 نیست nist (he,she,it) is not 上の否定形
 داد dad (he,she,it) gave 三単の与えた
 دید did (he,she,it) saw 三単の見た
 بله bale yes  はい
 نخیر nakheir no  いいえ
 آیا aya 疑問文の冒頭の語

先ずは最初に覚える基本的な語彙でしょうか。発音はローマ字で記しましたが、a の場合は アの時もあればアーと伸ばすときもあります。伸ばすときには a の文字の上に横棒をつけるといいのですが、やりかたがわからないのでできませんでした。ا  آ の文字をアレフと呼びますが、これがある場合は概ね伸ばす a がおおくなるでしょう。また他には miz はテーブルという意味です。日本語でかくと、ミズ ではなくて ミーズになります。ی という文字を m と z の間に使っています。語学の専門家なら上手に説明できるのでしょうが、私はそこまではできません。発音をとりあえずローマ字で記していますが、そういう面があって必ずしも正確ではないということをちょっと理解しておいて下さい。


それでは練習問題に入りましょう。次のペルシャ語を訳してください。2番め以後の答は数日後にペルシャ語のあとに書き込んでおきますので、後日確かめて下さい。

答え:
① 本はここにあります。
② 鉛筆はあそこにあります。
③ あれはテーブルです、そしてこれは椅子です。
④ これはペンです。
⑤ 彼は(彼女は・それは)どこですか?
⑥ 彼は(彼女は・それは)ここにはいません。
⑦ これは何ですか?
⑧ これは(一冊の)本です。
⑨ それはどんな本ですか?
⑩ 彼は(彼女は)私に本を一冊くれました。
⑪ 彼は(彼女は)私にペンをくれました。
⑫ 彼は(彼女は)あなたをどこで見ましたか?
⑬ 彼(彼女)は彼(彼女)をここで見ました。
⑭ 彼(彼女)はこの鉛筆を私にくれました。
⑮ 彼(彼女)はテーブルとイスと本を見ました。
⑯ 彼(彼女)はペンと鉛筆を彼(彼女)に与えました。
⑰ 彼(彼女)は我々を見ました。
⑱ 椅子はここにはありません。

次の日本語をペルシャ語にしてください。
①これは本です。This is the book.
②彼は本を見ました。He saw a book.
③彼はどこでペンと鉛筆を見ましたか。Where did he see the pen and the pencil.
④彼は本を一冊私にくれました。He gave a book to me.
⑤ここにテーブルがあります。Here is the table.
⑥これはなんですか。What is this?
⑦これはペンです。This is a pen.
⑧彼はペンと鉛筆をあなたに与えました。He gave the pen and the pencil to you.
⑨本はここに、そして鉛筆はあそこにあります。The book is here and the pencil is there.
⑩あれはなんですか。What is that?
⑪あれは椅子です。That is a chair.
⑫彼はどこで本を見ましたか。Where did he see the book?
⑬彼はそれをここで見ました。He saw it here.
⑭彼はあなたを見ました。He saw you.


こちらの答えも数日後に記しておきます。本日(8日)上の日本語の問題文に英語を付記しました。ペルシャ語にするときに、日本語のあいまいさをカットできそうだと思うからです。

回答を以下に貼り付けておきます。

とりあえず答えを上のように書いておきました。語順などは少々変わっていても構いません。少し解説を加えたい点がありますが、それは次回にいたします。

 

 

 

サウジアラビア映画:少女は自転車にのって

冒頭の画像でお分かりのように、今回は映画の紹介です。サウジアラビア映画なのでちょっと珍しいのではないでしょうか。でも、日本語の字幕が入って、日本で上映された映画でして、私は3年ほど前にDVDを入手しています。

あらすじは、DVDのカバー(上の画像)にこのように書かれています。「サウジアラビアの首都リヤドに住む10歳のおてんば少女、ワジダ。彼女は男友達のアブドゥラと自転車競走がしたくて、母親に懇願するが、サウジアラビアでは女性が自転車に乗ることさえも良しとしない戒律がある為に、全く相手にされない。そんなある日、素敵な自転車を見つけ、いつか手に入れることを誓う。そして、必死にアルバイト代を稼ぐが、自転車代には程遠い。諦めかけていたそんな時、学校でコーラン暗唱コンテストが行われることになったのだ。コーランは大の苦手のワジダだったが、その優勝賞金で自転車を買うために迷わず立候補するが・・・」

カバーのあらすじはここまでである。また、インターネットの映画紹介のサイトでも書かれているあらすじはこの程度である。これが映画や販売されているDVDに対する礼儀なのであろう。従って私もそれ以上のあらすじを書くのは控えることにする。映画紹介のサイトを見ていると、偶然に7月5日から10日まで東京の岩波ホールで、この映画が上映されることになっている。まさにタイムリーな投稿になった。

さて、この作品はサウジアラビア初の女性監督によるものである。女性だから珍しいということではなく、サウジアラビアという社会環境に置かれた女性の視点で作られたのであろうと期待するのである。そして、この監督自身はドイツで活躍しているとのこと。でも、この作品はサウジアラビアで撮影されているということなので、見ることのできないサウジの風景を知ることができるのである。

反体制運動などの芽が出ないようにということなのか、集会などが禁止されているサウジアラビアでは、1970年代には認められていた映画館営業が禁止になっていた。2018年にはそれが解禁になったというが、どの程度普及したのかなどの現状は私には分からない。

いずれにせよ、サウジアラビアの映画がみえることは数少ないチャンスであろう。

ペルシャ語講座18:新しいペルシャ語参考書紹介

今回は新しく発行された(2020/4/14)ペルシア語 (世界の言語シリーズ15) (日本語) 単行本(ソフトカバー) を紹介しておきます。と言っても、私自身が既に入手しているわけではありません。私はイラン大使館の iranbunka ‌がアップしている instagram で、このことを知りました。iranbunnka の紹介文を以下に引用しておきます。‌

この価値ある著作は、大阪大学外国語学部の竹原 新とベヘナム・ジャヘドザデBehnām Jāhedzādeh両先生によるもので、同大学の「世界の言語シリーズ」として出版された。現在、Amazon等で販売されている。
同書は、初級から中級初めにかけての1年分の言語学習24レッスン科目が用意され、1科目ごとに練習に求められる軸となる読みやすい会話テキストが掲載されている。
このテキストは、イランと日本の何名かの人物が登場する物語形式で「タカシ」をメインキャラクターを中心として進んでいき、ペルシア語学習期間中にクラスメートたちとともにイランへ向かう。著者らは科目の合間に、イランの言語や文化に関して楽しく読めるノートも提供している。

早速アマゾンで調べるとありました。価格は2860円。ペルシャ語の参考書などは単語集のようなものでも結構高価なので、リーゾナブルと言えるでしょう。実際に、ペルシャ語のテキスト自体が少ないので、これから学習する人には有難いことだと思います。思い起こせば、50余年前に私が学習したときに、日本で発行された参考書は何もありませんでした。丸善で洋書を取り寄せなければなりませんでしたが、今のようにインターネットで情報が採れるような状態ではありません。先生からの情報だけが頼りでした。それで得た参考書が以前に紹介したLambton著のPersian Grammar と Persian Vocabulary の2冊だけでした。一年間の国立大学の授業料が12,000円という時代に、貧乏学生にとって洋書を買うのは大変な支出でした。

上の二冊がその本です。左は学生時代のものではなくて、社会人になってイランに駐在している時代(1970年代)に本屋で再購入したものです。多分海賊版ではないかと思う節があります。そして、右側が Vocabulary です。学生時代に買ったその物ですから、見事に色あせて古さを感じます。中身を覗いてみましょう。

それなりに勉強した形跡がありますね。ペルシャ語の単語の意味を英語で知って、その英語の意味を知らなければ、英和辞書で調べるということの繰り返しであったように思います。もう一つのグラマーの方は、文法の説明をしている英文内容を把握できないこともあるわけですが、そのようなことが結局は勉強になったということだったのです。今回冒頭で紹介したような参考書があるのは学習のためには非常に効率よく学べると思います。学習には良い環境だと思います。十二分に活用すればいいと思います。でも、昔は昔でそれで良かったなと今は思います。でも、いま一から新しい言語を学ぶなら、このような本を選んだ方が早道でしょうね。

ペルシャ語講座17:動詞の未来形

今回はちょっと前に進めて、動詞の未来形を取り上げましょう。例えば「私は明日大阪に行きます」を英語では「I will go to Osaka tomorrow/」と未来形のwill goを使います。英語ではwillを使うわけです。ペルシャ語では未来形を表す助動詞として خواستنを使います。語幹は  خواه です。また、go に相当するのは raftan です。語幹はravです。ちょっと整理してみましょう。

その前に、動詞の形について以前にも書いていますが、もう一度きちんと説明しておきましょう。動詞は先ずは基本となる形があります。私は動詞の基本形または原形といっていますが、参考書では不定法や不定詞や不定形という場合が多いです。その動詞の基本形の末尾は ن -an となっています。更に تن  tan、 دن  -dan、 یدن -idan の3つに分けられます。つまり動詞の基本形は〇〇タン、〇〇ダン、〇〇ディダンの3通りしかないということです。

そして、動詞の基本形から  ن -an を取り除いたものが過去形の基本形となります。この基本形に人称別の語尾をつけると過去形ができます。過去語幹とでも名付けましょう。

基本形 過去語幹
 go رفتن raftan رفت raft
 give دادن dadan داد dad
 ask پرسیدن porsidan پرسید porsid

未来形から話がずれていきますが、ついでに現在形です。

基本形 現在語幹
 go رفتن raftan رو rav
 give دادن dadan ده dah
 ask پرسیدن porsidan پرس pors

ちょっとややこしいのですが、動詞の基本形とともに、語幹というのがあります。これは覚えなければなりません。掛け算の九九を覚えるように口ずさんんで覚えるようなものです。例えば go なら、raftan–rav,  give ならdadan–dah, askならporsidan–porという風にです。そして、現在形を作る場合には必ず mi میを前につけます。 私は行く= miravamとなるわけです。あなたは行く=miraviですね。話し言葉では必ずしもこの通りの発音ではありませんが(miravam➡miram,  miravi➡miri)、先ずは基本を身に着けるのが先でしょう。先ほどの過去語幹に対して現在語幹と名付けておきましょう。

さて未来形です。先ほどخواستن を使うと言いました。خواستن の語幹は خواه です。下の表に go の現在形と未来形を記入しました。現在形は動詞の語幹に人称語尾をつけました。未来形はخواهの末尾に人称語尾をつけて、あとはすべてraftで良いわけです。覚えやすいのではないでしょうか。

 I go miravam میروم I will go خواهم رفت
 You go miravi میری you will go خواهی رفت
 He goes miravad میرود He will go خواهد رفت
 We go miravim میرویم We will go خواهیم رفت
 You go miravid میروید You will go خواهید رفت
 They go miravand میروند They will go خواهند رفت

簡単に説明しましたが、それほど難しいものではありませんね。また、否定形の場合は خواه の前にن naをつけて下さい。 نخوا となりますから、I will not goなら نخواهم رفت となります。na khaham raf です。

最後になりますが、私自身は殆ど未来形を使って話したことはありません。ほとんど現在形で用は足せたと思うのです。最初に書いて例文の「明日、大阪に行きますなら」「Fardo be Ozaka miravam」で良いと思います。

 

コーランについて(2):第96章・・・凝血

コーランはイスラムの創始者ムハンマドが神からうけた啓示を編纂したものである。ムハンマドが最初に啓示を受けた部分がこの章に綴られている。それゆえ、コーランの中でも重要な章である。

慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名(みな)において・・   (ここの部分は全部の章の初めについている。今後、この部分は省略する。)

  1. 誦め、おまえの主の御名において、(森羅万象)を創造し給うた(主の御名において)、
  2. (つまり)彼は人間を凝血から創造し給うた。
  3. 誦め、そしておまえの主は最も気前よき御方であり、
  4. 筆によって(書くことを)教え給うた御方であり、
  5. (つまり)人間に彼の知らなかったことを教え給うた(御方)である。
  6. ・・・・19節まで続く

訳文は前回も引用させていただいた作品社の『日亜対訳クルアーン』からである。森羅万象ありとあらゆるものを創造したのは神であり、人間に人間の知らなかったことを教えたのも神であるという。啓示の始めに相応しい章句であると思う。

冒頭の句=誦め の読み方は「よめ」である。神の啓示を伝えた大天使ジブリールが「よめ」と言うと、ムハンマドは「私は読むことができません」と言ったとか?この天使のジブリールはキリスト教ではガブリエルと呼ばれる天使のことである。そして、ムハンマドの「誦めません」という答えに対して、ジブリールはさらに「誦め」と言ったのが第3節である。

つまり、ムハンマドは読み書きができない人であったらしい。それゆえに神から与えられた啓示を記録することもできないので、記憶を頼りに啓示を伝えることは至難の業であったろうと思う。そして、コーランが編纂されたのは、彼の死後の正統カリフ三代目ウスマーンの頃である。生前にムハンマドが伝えた啓示を取りまとめるという作業はさぞかし大変だったことだろう。

コーランについて(1):第1章・・・開端

2019年1月31日と2月1日に「イスラムの啓典:コーランについて(1)と(2)を書いています。あれからもう1年以上が経過したのですね。今後、時々になるでしょうが、コーランの中身について、少し詳しく取り上げてみようと思います。今回は第1章を取り上げましょう。

コーランの初めの章ですから、「開端」とか、「開扉」と訳されています。イスラム教徒の人たちは、この章を毎日の礼拝の時に唱えます。そうです、礼拝は毎日5回ですから、この章句も5回唱えることになります。コーランは全部で114の章で成っていますが、それぞれの章はいくつかの節で構成されています。この開端の章は7つの節でできています。最も短い章は108章でして、わずか3つの節しかありません。第1章が「開端」と名付けられているように、全ての章には名前が付けられています。追々紹介していきましょう。さて、開端の章ですが、日本語訳を紹介しておきましょう。訳は岩波文庫(井筒俊彦著)「コーラン」より。

慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名(みな)において・

  1. 讃えあれ、アッラー、万世(よろず)の主、
  2. 慈悲ふかく慈愛あまねき御神、
  3. 審き(さばき)の日の主宰者。
  4. 汝こそ我らはあがめまつる、汝にこそ救いを求めまつる。
  5. 願わくば我らを導いて正しき道を辿らし給え、
  6. 汝の御怒りを蒙る人びとや、踏みまよう人々の道ではなく、
  7. 汝の嘉し(よみし)給う人々の道を歩ましめ給え。

井筒先生の訳は文語調であるので現代人には少し難しいい気もします。そこで作品社(中田考監修)『日亜対訳クルアーン』の訳を以下に紹介してみましょう。

  1. 慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において
  2. 称賛はアッラーに帰す、諸世界の主に、
  3. 慈悲あまねく慈悲深き御方、
  4. 裁きの日の主宰者に、
  5. あなたにこそわれわは仕え、あなたにこそ助けを求める。
  6. われらを真っすぐな道に導き給え、
  7. あなたが恩寵を垂れ給うた者たち、(つまり)御怒りを被らず、迷ってもいない者たちの道に

こちらの訳にしても同じように難しく感じるかもしれないが、意味はお分かりいただけることでしょう。アッラー(神)がいて、我らは神に仕え、そして神は我らを導いてくださるようにという祈りの文言であろう。日本語訳を紹介したのであるが、日本語のこの訳文を唱えてもコーランを唱えたことにはならない。キリスト教の聖書は、日本語訳の物はそれはそれで日本語訳された聖書である。が、イスラムの場合はコーランが書かれたアラビア語で詠むことが必須なのである。おそらく、多くの言語に訳されていくうちに神の言葉の真意が伝わらなくなってしまうという危惧からそうなったのであろう(私見)。従って、貴方がイスラム教徒になったなら、コーランをアラビア語で唱えなければならないのです。せめて、この第1章だけは唱えられるようにしておきましょう。私はイスラム教徒ではありません。でも勉強はしています。この開端の章をアラビア書道で書いたものが次の画像です。これ一枚をまあまあ良しとして書けるまで3か月かかっています。それでもその前のナスヒー書体の時は6カ月もかかったのでした。

さて、今回はこれまでにしておきます。今後、どういう風に各章を取り上げていくか、大きな課題ができました。旧約聖書との関係なども面白いかなと思っています。お楽しみに!

 

中東の美:ペルシャ絨毯

これまで色々な記事を書いてきたので、ペルシャ絨毯についても既に書いた気がしていた。でも、そうではなかったようである。今回はそのペルシャ絨毯について書いてみよう。冒頭の画像は昔テヘランの書店で買った本の表紙である。タイトルが「Oriental Rugs and Carpets」であるから、ペルシャ絨毯だけでなく、中央アジア、例えばサマルカンドや中国の緞通などについても書かれているので、それぞれの特徴も分かるので興味深い書籍である。この本からいくつかの画像を拝借させて戴くことにする。

ペルシャ絨毯の場合は「織る」というよりも「結ぶ」という方が合っているかもしれない。縦糸に結び付けていく感じである。上の図の左側の列が「トルコ結び(Turkish knot)」と呼ばれる結び方である。上段は正面から見たもので、中断は上からセクション(断面)で見たもの、そして下段は縦糸2本に結び付ける方法である。右列は「ペルシャ結び(Persian knot)」と呼ばれる方式である。縦糸にこのように糸を結び付けて、それを道具をつかって上から下に押さえつけるように締め込むような感じと言えばいいだろうか。

絨毯織りに使う道具である。上の二つは縦糸の間に入れて、結んだ糸を下に抑え込むものであろう。あとは糸を切ったりするためのナイフや鋏類であろう。普通は次の画像のように絨毯を立てて織っていくわけである。大きなサイズのものを織る場合は、横に数人が並んで織ることもある。珍しい方式では、立てるのではなく水平において織っていく方法もある。

ペルシャ絨毯の美しさの要素の一つは色である。古い伝統をもつペルシャ絨毯は現代のような化学染料が存在しない時代からの産物である。従って、天然の染料で糸は染められた。もちろん今ではすべての絨毯が天然染料で染めた糸を使っているわけではないのは仕方ないことであろう。また糸の種類も絨毯の良し悪しに関係する。もともと古い時代から絨毯は生活の必需品であった。建物の中、テントの中・・・絨毯は日本でいえば畳に相当するわけである。だから、絨毯は華美や豪華さを求めるものではなかったはずである。私が最初に絨毯を買った場所はイランのシスタン州・ザヘダン市から、また車ではるか東のパキスタン国境に近い町ザボールで、1972年のことであった。その土地周辺のローカル色豊かな絨毯2枚ものであった。それの糸はウール(羊毛)であった。ウールの絨毯は実用的でそれで充分であった。あれから既に50年近く経ったことになる。

これがその50年前の絨毯である。古くなり色も褪せてきたが、絨毯としての役目は健在である。いわゆる高級なペルシャ絨毯の洗練された趣はないが、地方色豊かな人間味溢れる図柄であると思っている。愛着のある絨毯である。

ウールであると言った。他にはコットン糸(綿糸)の物もある。イランの北東部辺りのトルクマン達が織る絨毯は綿糸のものが多かったように思う。もちろん、ウールもある。さらに絹(シルク)もあるであろう。今、日本のお店でも、またイランに行って絨毯屋を除いても、目を引く美しい絨毯は「オール・シルク」ですと言われるだろう。本当に美しいのはそういう絨毯であることに間違いはない。多分、我々日本人が買うとなると、それは装飾品として求めるのであろうから、このような絨毯が望まれるのであろう。でも、絨毯は飾り物ではなく、やはり部屋に敷いて使ってもらいたいものだ。例えば次の画像のこの絨毯はオール・シルクの少々大きめのものである。オール・シルクの製品は見る角度によって光の反射の影響で色が濃くなったり薄くなって見えるのである。そして、絨毯の厚みが非常に薄い。模様も糸が細い分だけ細やかな模様が出来上がる。素晴らしい出来栄えになる。私はこの絨毯も普段から敷いて使い古しているので汚れもでてきたし、傷もできてきたが、厭わずに使っている。

次の絨毯もオール・シルクである。これは小さいサイズなので玄関のマットに使用している。これは20年ほど前にゼミ生の学生一人を連れてイランとトルコ旅行に行ったときに、学生の勉強のために絨毯の買い物の仕方を実戦で形式で教えたときのものである。テヘランのバザールの絨毯屋をうろうろして気に入ったのがこれであったが、その日の値段交渉はまとまらず、翌日もう一度行って交渉したが、まとまらず。何度も行って交渉するのがお互いの楽しいゲームなのである。そして、イスファハンとシーラーズの観光に3日ほど行って帰ってから、またこの店に行って、最終的に買い求めたものである。産地はコムである。今頃コムの絨毯は人気が高いという。

次の絨毯はイスファハンであるが、中級品である。というのはウールが主で、一部にシルクを使っているのである。シルクは花柄の輪郭部分などに使われており、その部分は光って見えるので美しい。オール・シルクに較べると厚みがある。そうそう、ペルシャ絨毯は薄ければ薄いほど評価が高いのである。中国の緞通は何と言っても厚みがあってフカフカの肌触りが良いらしいが、ペルシャ絨毯は反対である。だから、新しい絨毯を買うと、それを家の前の道路に置くことがある。その上を車が走っていくのである。そうして、表面の毛羽が擦られていい具合になるというのである。

この絨毯はそう薄くはないが、それでも旅行用のスーツケースに折りたたんで入るくらいのものである。

話は自分の絨毯になってしまったが、これなどは中級の下程度のものであって、決して自慢できるものではない。でも繰り返すが絨毯は消耗品であるというのが私の考えである。でも、ペルシャ絨毯は長持ちするのも事実である。そして、模様の細かさであるが、これはパソコンが普及して画像を画素数で表すように、ペルシャ絨毯も一定枠の中にknot(結び目)がいくつあるかが尺度になる。いい絨毯なら表は勿論美しいが、裏も美しい。だから、あえて裏返して置いておく場合もある。オール・シルクなら、どんなものでも裏返してもいいだろう。

トルコに行けばトルコの絨毯。パキスタンにも独特の絨毯がある。国によって柄が特徴あるように、ペルシャ絨毯も産地によって絵柄が異なっており、ほぼ特定できるのである。そして、いいものには絨毯の隅に産地と工房のの前が織り込まれているのである。先述の玄関に敷いているものの工房が次のように示されている。

ちょっと書き疲れたので今日はここまでにしておきましょう。