アラビア太郎と石油利権

先月の4月には「中東の石油」という記事を11回続けました。そこでは中東の石油が英仏蘭米の石油会社に支配されていた歴史を紹介しました。そして、産油国がその支配から資源を取り返すことができたのはまだ最近のことであることを理解していただけたと思います。イランの石油国有化の時には出光石油会社が石油市場からボイコットされたイランの石油を日章丸Ⅱ号で買い付けに行きました。資源を持たない日本企業の行動でした。同様に石油資源の獲得に奔走した人物がいました。それが通称アラビア太郎=山下太郎です。

そして、1957年12月、サウジアラビアとクウェートの沖合にあった中立地帯の石油開発に関して半分の権益を有していたサウジアラビア政府と利権協定を締結したのでした。そして、翌1958年7月には残りの半分の権益を有するクウェート政府とも利権協定を締結したのでした。この山下太郎はとういう人物だったのでしょうか。

山下太郎は明治22年(1889年)、秋田県生れ。祖父母の養子となり山下姓を名乗る。小学5年から東京の慶應義塾普通部に通い、その後、札幌農学校(現在の北海道大学)に入学した。
1909年3月、札幌農学校を卒業。従兄の山下九助とともにオブラートを発明し、1914年に特許を取得した。山下オブラート㈱を設立。会社は隆盛するが、山下太郎は海外貿易の資金を得るために会社を売却する。

1916年結婚。ロシアのウラジオストックで鮭缶を買い占めてて設けたり、第一次大戦中にはアメリカから硫安を輸入・販売し、巨利をえた。国内のコメ相場の高騰に際しては、アメリカの米を輸入するが米騒動などにより失敗。満鉄との取引でも損害を被っったり、成功したりを繰り返す。第二次大戦の敗戦により、満州の資産を失うも、戦後は石油資源の獲得に奔走したのだった。

昭和31年(1956年)、日本石油輸出株式会社を創立し先述のサウジアラビアとクウェートとの利権交渉を始め、協定に調印することができた。その結果、日本政府や財界の支援を得てアラビア石油会社が設立され、日本石油輸出㈱の権利を継承した。
1960年:カフジ油田で採掘に成功
1963年:フート油田で採掘に成功

石油資源のない日本にとってアラビア石油の石油は貴重なものであった。山下太郎は英雄であった。このような日本の資本によって開発された石油は「日の丸石油」とも呼ばれたのでした。

アラビア石油も産油国からみれば外国資本に利権を与えた石油です。欧米の石油会社に与えた利権と同じです。1974年にはサウジアラビアとクウェート政府による60%の事業参加協定が発効したのです。こうしてアラビア石油の利益は減少していくことになりました。そして、

2000年:サウジアラビア政府との利権協定が終了しました。
2003年:クウェート政府との利権協定が終了しました。
アラビア石油は撤退はせずに、同油田でのサービス契約で油田操業に係ることになったのです。サウジアラビアの利権延長交渉では、サウジ側が日本に対して産業用の鉄道建設支援などの要求があったのですが、日本政府はそれを受け入れることができなかったのでした。こうして日の丸石油も先細っていったのでした。

 

想い出の中東・イスラム世界:たまには考古学者の気分

2020年5月11日の夕方です。コロナの感染者増加が若干緩やかになってきたようです。ここ東海地方の愛知、三重、岐阜でも新たな感染者がゼロという日が複数回でるようになりました。また、今日の東京は先ほど午後4時ごろの発表では15人ということでしたので、少しホッとしました。そこで、想いで話をひとつアップしましょう。

上の画像が想い出の品です。1975年頃のことです。私は仕事でイランのラシトという町に駐在していました。妻とゼロ歳の娘も一緒でした。その時の子育ての思い出は、すでにこの思い出のカテゴリーにアップしています。娘を連れて散歩する家の周りには羊がいた画像をアップしています。そのラシトでのことです。

ラシトはイランの北部ギーラーン州の中心です。北部ということはカスピ海沿岸ということです。南の方のペルセポリスなどの古代遺跡とは遠く離れた地域ですが、紀元前に造られた土器などが沢山発見されているアムラッシュという村があるのもこの地域です。そういう知識を少しもっていました。

想い出の品は、古い土器です。休みの日にバザールを歩いたり、町を歩いたりしている時に、家具の店がありました。そのお店のショーウィンドーの片隅にこの土器が置かれていたのでした。アムラッシュのことを知っていたので、きっと古いものなんだろうなと思いました。そして、中に入って「この土器はいくら?」と尋ねたのですが、「それは売り物ではありません」との答えでした。飾りというか、家具との組み合わせでインテリア的に置いているようなことでした。売り物ではないとのことでしたが、「売ってくれませんか?」というと、両手を広げて困ったジェスチャー。そして「どうぞ、持って行ってください。」というので、「おいくらお支払えばいいですか」。「どうぞ、持って行ってください。日本人のあなたは我々のお客さんです。どうぞ(ベファルマイイ)」というのです。私は日本円で2千円相当程を手渡して持ち帰ったのでした。

あれから45年。私はこの土器を大切にしていました。紀元前の古い土器なんだから。日本へも持ち帰ったのでした。決して美しいものではないので、飾ることはしないで、段ボールの箱にいれて納戸の奥にしまっていました。

昨年のことです。この土器のことを思い出して、取り出しました。そして、正確にはこの土器はいつ頃のものなのだろうかと気になり始めたのでした。そこで、写真を撮って、ある美術館に問い合わせをして見たのです。オリエントが専門の美術館で、何度も訪れたことがある美術館ですが、近くではないのでメールで画像を添付したのでした。数日して返事をいただくことができたのでした。

結果の要点は以下の通りでした。
イラン鉄器時代III期~パルティア時代初期くらいの土器だと思われる。実年代では、紀元前7~紀元前3世紀、あるいは紀元前後といったところでしょうか。この時代のギーラーンの土器は在地性がきわめて高く、比較検討が難しく、年代幅も大きくなります。
ギーラーンは北と東に開け、西と南に閉じています。
唯一、セフィードルードだけがイラン高原からの人とモノの移動ルートなのです。この地では、青銅器時代以前の人類の痕跡はほとんどしられていません。
ところが、鉄器時代以降、急速に人口と富が集積し、多数の副葬品を伴う墓が営まれます。
写真の土器もそうした中の一つで、墓の副葬品です。

1950年代末からこの地域の盗掘が盛んとなり、大量の古物が市場に流出しました。
当館で管理する資料の4分の一くらいがこれらに当たります。

ということで、珍しいものではないのですが、少なくとも紀元前の土器であるということが判明したのです。考古学的、また、骨董品や美術品的な価値はないようですが2千年余前の物であることに、気分がワクワクするのです。どんな人が作ったのだろうか、使ったのだろうか? ロマンを感じるではありませんか!

中東の石油(11):セブン・シスターズ

中東の石油シリーズの最後は「セブン・シスターズ」という題にしたい。中東の石油利権を手に入れて、中東の石油だけでなく世界の石油を牛耳ってきた石油会社は「国際石油資本」とか「石油メジャーズ」と呼ばれることがある。このブログの中でも欧米の石油会社が競って中東の石油利権を手に入れてきたことを述べてきた。そのような中で、彼らの仲間に入ろうとして競ったが、勝てなかった男がいた。そして、彼は対抗した相手を「7人の魔女」と呼んだのであった。その男、とはイタリアのエンリコ・マッティである。ウィキペディアでは彼のことを以下のように記している。

エンリコ・マッテイ(Enrico Mattei、1906年4月29日 – 1962年10月27日)は、イタリアの実業家、政治家。長年にわたりイタリア国営石油会社ENIを率い、当時ヨーロッパの石油市場を独占していたメジャーに対抗した。マッテイはキリスト教民主主義の党員であり、1948年から1953年にかけては議員も務めた。1962年に飛行機事故により死亡したが、メジャーとの対立を続けたその経歴から謀殺の噂が今も絶えない。

末尾に書かれているように、彼の突然の死はメジャーズによって仕掛けられた暗殺であるというのが定説である。冒頭の画像は、1926年にイギリスで生まれたジャーナリスト、アンソニー・サンプソンが著した『セブン・シスターズ / 不死身の国際石油資本』の表紙である。彼はエンリコ・マッテイが「7人の魔女」と呼んだ7つの石油会社を「セブン・シスターズ」として石油の歴史と石油会社の熾烈な競争を書き著した。私の手元にあるこの本は石油界のおどろおどろした歴史の内情がつぶさにわかる名著である。セブン・シスターズとは次の7社である。(ウィキペディアより引用)

  • スタンダードオイルニュージャージー(後のエッソ石油、その後1999年にモービルと合併しエクソンモービル)
  • ロイヤル・ダッチ・シェル(オランダ60%、英国40% )
  • アングロペルシャ石油会社(後のBP)
  • スタンダードオイルニューヨーク(後のモービル、その後1999年にエクソンと合併してエクソンモービル)
  • スタンダードオイルカリフォルニア(後のシェブロン)
  • ガルフ石油(後のシェブロン、一部はBP)
  • テキサコ(後のシェブロン)

スタンダード石油が誕生した後、数多くの石油会社が設立された、合併や再編成、消滅を繰り返して現在に至っている。少し古いがその推移を図示したものが岩波新書の瀬木 耿太郎著『石油を支配する者』(1988)から拝借して紹介しておこう。

この新書は現在でもアマゾンを利用すれば手に入る。値段も手ごろであるので、是非とも読んでもらいたい一冊である。(終わり)

中東の石油(10):OPECの結成後

テーマがあちこちに移り、目まぐるしいかも知れないが、ご容赦願いたい。今回はまた「中東の石油」に戻ることにしよう。前回はOPECが結成されて、徐々に産油国の力が強くなってきたというところで終わった。その続きである。

産油国が強くなったというものの、メジャーズに利権を与えるという契約の基本は変わっていなかった。そこで、1972年には、メジャーズに対してパーティシペーションを求める交渉が開始された。パーティシペーションとは、産油国がメジャーズに与えた利権に参加するというものであった。OPECを代表して交渉にあたったのはサウジアラビアのヤマニ石油相であった。この交渉に加わった産油国はイラク、クウェート、サウジアラビア、カタール、アブダビの湾岸産油国であった。イランは名目上とはいえ、既に石油国有化を終えていたので、この交渉には参加していない。

交渉をめぐり、メジャーズ間の意見は分裂した。結局、国有化されるよりはパーティシペーションへと傾いていった。ヤマニは長い交渉の末に、1972年10月にメジャーズと「一般協定」の締結に成功した。協定により、石油会社の25%を産油国が所有することになった。そして、その比率は1983年までに51%にまで引き上げるというものであった。さらに産油国が獲得できるようになった持分25%相当の原油を石油会社が買い戻す価格(バイバック価格)について、アラムコのメンバー4社は公示価格の93%という高い水準を認めたのであった。この価格の高さだけでなく、誰が原油を買い戻すのか(手に入れるのっか)ということが大きな問題であった。石油会社同士がもめるばもめるほど産油国の立場が強くなっていった。

当時、アメリカにおける原油生産量が下降しだし、アメリカは本格的に石油輸入国になった。パーティシペーションによって産油国が得た原油がスポット市場に姿を現すようになり、原油価格は上昇した。OPEC諸国のパーティシペーションの比率や、原油価格の買い戻し価格が予想より高かったことから、イランはコンソーシアムと条件改善を求めて交渉を開始した。しかし、コンソーシアムがイランの要求に応じないため、1973年にパーラヴィー国王はコンソーシアムとの協定期間を1979年以後は延長せずに、契約を終結させることを発表した。この時、私はイランに駐在していたので、テヘランでこの発表を聞いた。役所の建物には垂れ幕が垂れ下がり、国王の英断を讃えていた。契約終了予定の1979年とはイラン革命が成立した年である。国王自身は追放(逃亡)の身となり、真の国有化を見ることができなかった。歴史とは皮肉なものである。

クウェートの場合はどうであっただろうか。OPECが設立された1960年にクウェート国営石油会社(KNPC)が設立された。この会社はクウェート石油会社(KPC:既に述べたメジャーズの会社)が生産した石油製品をクウェート国内で販売することを目的としていたが、KNPCはスペインの企業と合弁会社を設立し探鉱・開発にも進出していった。前述したように、OPECの一員であるクウェートもKOCに対して25%の事業参加協定を調印したのであったが、クウェートの場合は議会が最終的に批准せずに、クウェート政府は1974年にKOCの60%を取得し、1976年には100%つまりすべての株を取得し国有化に至ったのであった。さらにクウェート政府はKNPCの株もすべて取得し完全国有化した。そして、1980年には石油関連部門を統括するために100%政府所有のクウェート・ペトローリアム・コーポレーション(KPC)を設立した。

イラク石油会社(IPC)も1972年3月、イラク政府に対して20%のパーティシペーションを承諾した。しかし、イラク政府は、その年の6月にIPCの国有化を発表した。産油国にとって国有化が即、パーティシペーションより有効な結果を生んだかというと、決してそうではない。原油生産・精製事業を自力で操業することはできなかったし、販売面ではメジャーズのボイコットを受けた。しかしながら、イラク政府は1964年に既に探鉱・開発・生産を目的として国営イラク石油会社(INOC)を設立していた。INOCはソ連と1967年に協定を結び、ソ連から必要な設備の供給を受け、石油開発・輸送・販売等の支援を受けていた。両国は通商条約を結び、イラクとソ連との間には友好関係が築かれていった。国有化されたIPCの原油が西側にボイコットされた時、イラク政府はソ連に安く引き取らせて切り抜けた。

アラムコのメンバーであるエクソン、テキサコ、シェブロン、モービルも1972年3月にサウジアラビア政府に対して20%のパーティシペーションに合意した。さらに12月には1973年1月以後、25%に比率をアップし、以後一年ごとに5%ずつ増やし、1981年には51%とする「一般協定」に調印した。1974年には「一般協定」が改定され、サウジアラビアの参加比率は60%に改められた。そして、1980年には完全な国有化に至ったのであった。

OPEC結成の1960年から第一次石油危機前後の70年代前半にかけて、産油国が自国の石油資源を外国石油会社から取り戻してきた経緯をごく簡単に紹介した。このような経緯があったから、イランは二度と天然資源の利権を外国企業に与えることはしないと憲法で規定している。他の産油国もほぼ同様な考え方である。この資源を持たない我々は産油国との友好関係を上手に築き、末永くエネルギー源を確保できるような外交関係を確立させなければならないのであるが、現実はどうであろうか。

 

 

 

イラン映画「友だちのうちはどこ?」

昨日(2020年4月27日)の中日新聞のホームシアターというコラムで表題の映画が紹介されていた。ブルーレイが4800円(税別)、DVDが3800円(税別)らしい。映画は1987年制作で、監督が有名なアッバス・キアロスタミである。8歳の小学生がクラスメートのノートを間違って持ち帰ったので、それを返しに行こうと友達の家を探して歩くというストーリーである。その過程で、学校の先生、家族、村人たちとの接触があるわけだが、結局友だちには会えず、ノートを返すこともできなかった。それだけの話である。このコラムの筆者は「イラン革命の後、検閲が厳しくなる一方だった87年に撮影された映画だけに、監督のアッバス・キアロスタミは、困難に直面して困ったり、知恵を絞ったりする少年の姿を借りて、検閲に対する批判や自由に映画が作れないことへの不満を語っているのかもしれないと思う」と記している。

確かに当時は検閲が厳しい時代であった。男女間の恋愛感情を直接的に表現することは難しかった。体制に対する批判的な内容もNGであった。それがゆえに、イラン映画は表現の自由が制約された中でいかに表現するかを競い合った。それゆえにイラン映画は「鋭く研ぎすまされてきた」のであると、私は思う。

ただ、この作品では、私は筆者が言うように「検閲に対する批判や、自由に映画が作れないことへの不満」を語っているようには感じなかった。私が、この作品を通して感じたのは、「誰も少年の思いに気づくことなく、気づこうともしない、また、理解しようとしない大人たちの身勝手さ」であった。それはもしかしたら、大人たちが体制であって、少年が国民であったのかも知れない。もしそうだとしたら、キアロスタミ監督の体制に対する批判になるのかもしれないが。とにかく、映画の週末になるにつれ「やるせない」思いが湧いてきたのであった。そして、最後の教室での場面。友だちに返そうとして、開いたノートから白い花が現れたとき、そのやるせない思いが、ぱっと吹っ飛んだのであった。素晴らしい演出であった。この花についてコラムの筆者は「ノートにはさんでおくんだよ」とくれた老人の優しさがうれしいと記している。やはりこの映画において、この花の存在は秀逸であった。

私がこの映画を見たのも1980年代末である。NHKで放映されたのを見た。ビデオに撮った。そして、機会があれば人にも紹介した。その後、キアロスタミの三部作なるものも見た。一つは1992年『そして人生はつづく』である。

そして『オリーブの林をぬけて』(1994年)の3つで三部作と言われている。その後、1997年には『桜桃の味』でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。1999年の『風が吹くまま』はヴェネツィア国際映画祭審査員賞特別大賞を受賞した。東日本震災後の映画を作るために来日し、2012年には、『ライク・サムワン・イン・ラブ』を日本で製作した。2016年7月4日、がん治療で訪れていたパリで逝去。76歳であった。・・・イラン映画についてもっと紹介したい気持ちが湧いてきた!

ペルシャ語講座(14の続き):数の表し方

昨日は曜日の名前を紹介したあとで数の表し方になりました。数についてもう少し追加しておきましょう。前回は100と1000まででしたね。

1000 hezar ヘザール
2000
3000
10000
50000
100000
900000
1000000

1000から、2000、3000、4000・・・・は千のhezarの前に2、3、4、・・・を付けていきます。1万では千が10個ですから、ダ・ヘザールでいいわけです。2万なら千が20ですから、ビスト・ヘザールとなります。10万だと千が100個ですからサド・ヘザールですね。そして、百万になると、そのままミリオンです。発音はミリオゥーンです。百万はイェク・ミリオゥーン、2百万ならド・ミリオゥーンです。

とりあえず、数の表し方をちょっと追加しておきました。上の表は空欄ばかりですが、今日はちょっと忙しいので後日埋めておきます。ご自分で書き込んでみて練習するのもいいかも知れませんね。

ペルシャ語講座14:曜日や時刻

ペルシャ語を母語とするイランでもコロナウィルスにより、大変な状況が続いています。現在は隣国のトルコの感染が急増したようです。皆さんもどうぞお気をつけて下さい。今回は時の表し方の一部として曜日や時刻の表現を取り上げましょう。

先ずは曜日です。

曜日 ペルシャ語 ローマ字 カタカナ
金曜日 جمعه jom’e ジョッメ
土曜日 شنبه shanbe シャンベ
日曜日 یکشنبه yek-shanbe イェク・シャンベ
月曜日 دوشنبه do-shanbe ド・シャンベ
火曜日 سهشنیه se-shanbe セ・シャンベ
水曜日 چهارشنبه chahar-shanbe チャハール・シャンベ
木曜日 پنجشنبه panji-shanbe パンジ・シャンベ

イスラム世界では金曜日が休日なので、金曜日を一番上にしました。我々の日曜日に当たるわけです。これが「ジョッメ」、土曜日が「シャンベ」です。日曜日以後はシャンベの前にイェク、ド、セ、チャハール、パンジを付けます。これは1、2、3、4、5という数字の呼び方です。つまりイェク・シャンベは1シャンベということです。ド・シャンベは2シャンベということです。簡単で覚えやすいでしょう。

数字がでてきたので、数字をやってしまいましょう。

0 صفر sefr セフル
1 یک yek イェク
2 دو do
3 سه se
4 چهار chahar チャハール
5 پنج panji パンジ
6 شش shesh シェシュ
7 هفت haft ハフト
8 هشت hasht ハシュト
9 نه noh
10 ده dah

1~10までは上の通りです。最初は覚えにくいかも知れませんが、何度も繰り返すうちにひとりでに身についてくるものです。ただ、数字はこれだけではありませんね。11から20までも覚えなければなりません。英語では13から19まではteenという語が付いてましたね。ペルシャ語も同じです。10のダという語が11から19まで付くのです。同じように表を作ってみます。この表を作るのが中々大変面倒なことを分かってもらえたらありがたいです。

11 یازده yazdah ヤーズダ
12 دوازده davazdah ダヴァーズダ
13 سیزده sizdah スィーズダ
14 چهارده chahardah チャハールダ
15 پانزده panzdah パーンズダ
16 شانزده shanzdah シャーンズダ
17 هفده hefdah ヘフダ
18 هیفده hejdah ヘージュダ
19 نوزده nuzdah ヌーズダ
20 بیست bist ビスト

一応上の通りなのですが、これが標準語とでも言いましょうか。口語では、15~18のところが、プーンズダ、シューンズダ、ヒーヴダ、ヒージュダの方が一般的だと思いますし、自然にそのような発音になっていく気がします。

21からは20のビストのあとに1、2,3,4・・・を付ければ良いわけです。英語の twentyのあとにワン、ツウ、をつけるのと同じです。ですから、30,40,50・・・・を覚えればいいわけです。下に示しましょう。

20 بیست bist ビスト
30 سی si スィー
40 چهل chehel チェヘル
50 پنجاه panjah パンジャー
60 شصت shast シャスト
70 خفتاد haftad ハフタード」
80 هشتاد hashtad ハシュタード
90 نود navad ナヴァド
100 صد sad サド
1000 هزار hezar ヘザール

例えば21の場合、20の後ろに1をつけると言いましたが、実際には 21 + and +1 です。ペルシャ語で and は و va ヴァとなります。21= بیست و یک  ビスト ヴァ イェク なのですが、実際には ビストウイェクというふうにヴァの音はo になります。22=ビストウド、33=スィオーセ、55=パンジョーパンジです。

ちょっと長くなり、時刻のことは扱えませんでした。今日はここまでにしておきましょう。

放送大学のこと

昨日放送大学の講座「中東の政治」について紹介しました。そして、今朝のことですが、6時にそろそろ起きようかなと思って、ベッドからテレビを点けました。チャンネルを回していると、BS231チャンネルで「中東の政治」の高橋和夫先生の講義が始まったところでした。今日の科目は「世界の中の日本」でした。タイトルから判断すると、この科目は中東に焦点を当てたものではないと思ったのですが、今回のテーマは「オスロ合意」でした。オスロ合意というのは、1993年、ノルウェー外相の仲介でイスラエルとPLOが初めて和平交渉に合意した出来事でした。パレスチナ暫定自治協定が成立したわけです。ここで和平へのロードマップが作られて、和平が実現するであろうと淡い期待が生まれたのでした。

当事者であったパレスチナのアラファト議長、イスラエルのラビン首相、ペレス外相には1994年にノーベル平和賞が送られたのでした。でも、あれから30年近くが経過した今も和平はほど遠いのが現状です。

今日の講義はオスロ合意がパレスチナとイスラエルに中立的な立場であるノルウェーという国が公平な仲介をした結果ではないということを、ノルウェーの歴史学者のインタビューをいれて説明していました。イスラエル寄りのノルウェーが、イスラエルという強者の意向を反映するように仲介した結果であると。アラファトも、それをよく理解していて、その時のパレスチナという弱い立場では、これに合意するしかなかったという見方でした。

それ以前のPLOはフセインのイラクのバックアップがあった。イスラエルに敵対するパレスチナにはアラブ諸国の支持があった。ソ連のゴルバチョフ政権も味方した。しかし、イラクのクウェート侵攻、そして湾岸戦争により、湾岸のアラブ諸国はイラクとは対立する立場になった。アラファトはそのイラクと袂を分かつことなく、イラクの侵攻に若干の理解を示したことから、アラブ諸国もPLOへの支援を止めてしまう。湾岸戦争で石油収入の途絶えたイラクはもはやPLOを支援する余裕は無くなってしまった。ソ連はゴルバチョフがペレストロイカを推し進め、冷戦も終結に向かった。ベルリンの壁が崩壊した。アラファトに肩入れしていたソ連自体が崩壊してのであった。これが上述の赤太線で示した「弱い立場」である。

オスロ合意の背景を分かりやすく講義していました。この科目は中東に焦点をあてたものではありませんが、幅広い視野で世界を見つめることができると思いました。次回も視聴してみます。皆様にもお勧めいたします。

放送大学新講座:中東の政治

2020年4月から放送大学の講座で「中東の政治」が始まりました。番組表を見るとBS232チャンネルで土曜日の17時15分からとなっています。私自身はBS231チャンネルで金曜日の午前6時45分からのものを見ています。

 

講師は国際政治学者である高橋和夫先生です。国際政治学者ですが、最も強みのある専門分野は中東関係です。中東で何かがあった時には、テレビのコメンテイターとして引っ張りだこの先生です。私よりずっと若いと思います。アメリカのコロンビア大学大学院で博士課程の単位取得(1979年)をされています。日本では1974年3月に大阪外国語大学外国語学部ペルシャ語科を卒業されています。ということは、私の後輩にあたるわけであります。在学時代が重なっていないので面識はありませんが。それはともかくとして、3回までの講義を聞きました。なかなか分かりやすいと家族は申しておりました。第2回は放送大学のスタジオからではなく、受講生を前にした講義でした。友人であるというピアニストも登場し、講義内容に合わせた音楽のピアノ演奏を随所に入れるというものでした。受講者を飽きさせない良い手法だと感心しました。ここまで書いてきて、今回の文章が「です」「ます」調になっていることに気づきました。それはきっと高橋先生に対する敬意がそうさせたのだと思います。

実は、2月頃からコロナが大流行していて、日本、いや世界中が大変な状態になっています。それで感染防止のために3つの密を避けるようにとの要請ですね。従って、私が主宰している月一度の「中東・イスラム学習会」である「南山会」も2月以来開講していないのです。そこで、私の講義の代わりと言っては高橋先生に失礼なのですが、私の受講生たちに放送大学のこの講座を見るように案内しています。このブログをご覧下さっている皆様にも、放送大学の講座をお勧めいたします。テキストも販売されていますが(冒頭の画像)、なくても良く分かります。15回の講座内容は以下の通りです。

 1.新しい列強の時代
 2.冷戦期のアメリカの中東政策
 3.アメリカの一極覇権
 4.オバマ
 5.「アメリカ・ファースト」の時代
 6.ロシアとイスラム世界
 7.冷戦の頃
 8.プーチン
 9.中国
 10.北朝鮮/小さな軍事大国
 11.イラン/成功の代償
 12.トルコ/新たなるオスマン帝国の夢
 13.イスラエル/ハイテクパワーのジレンマ
 14.サウジアラビア/石油大国の幻想
 15.クルド民族の戦い

 

中東の石油(9):OPECの結成

イランを初めとした中東産油国が徐々に石油メジャーズとの交渉力を強めてきたのが、1950年代であった。イランの石油国有化は失敗したのであったが、それが産油国には教訓となった。一国だけではメジャーズには勝てない。産油国の団結が必要だということである。今回は結成60年を迎えたOPECの結成がテーマである。

前回述べたように、イランの石油開発にメジャーズ以外の新規参入者が増えた。メジャーズは新規参入者との販売競争には原油価格を切り下げることで対抗することができた。しかし、原油価格の切り下げは産油国の収入を減少させるので、産油国側は不満が増大した。そして、産油国は原油価格を磁力でコントロールしたいと考えるのは自然の成り行きであった。新規参入者による合弁会社の石油開発はイランだけでなく他の産油国でも増加しつつあった。そのような時に、ベネズエラやサウジアラビアは石油輸出国機構(OPEC)の結成を呼びかけた。その結果、1960年にイラクのバグダードにおいて、イラン、クウェート、サウジアラビア、イラク、ベネズエラの五か国によってOPECが結成された。結成の主目的は、石油収入の維持および増大、すなわち、原油価格を高水準に維持することにより石油収入の増大を図ろうとした。しかしながら、OPEC結成後の約10年間は結集した力を発揮することができなかった。それができるようになったのは、1970年代に入ってからのことであった。

テヘラン協定:
1971年2月14日、ペルシャ湾岸産油国6カ国と石油会社13社との間でテヘラン協定が締結された。これはペルシャ湾岸原油公示価格をバレルあたり一律に35セント引き上げたうえ、さらに今後5年間にわたって毎年2.5%+5セントずつ段階的に引き上げていく内容であった。石油会社の所得税も55%に引き上げられた。この協定はOPECが価格決定に係ることができるようになった点に大きな意義があった。また引き続き行われたリビアと国際石油会社との間でも公示価格を大幅に引き上げるトリポリ協定が調印された。OPECの結束が勝利し、以後、メジャーズと産油国が協議して価格を決定することになり、メジャーズがそれまでのように独自で価格を決定する力をもはや有することができなくなっていた。私が最初にイランに行ったのがテヘラン協定が結ばれた1971年の11月であった。国王時代であった。国王は石油会社との交渉に成果を得たこともあって自信に満ち溢れていた。その2年後の第一次石油危機を経て、イランは石油収入を増大させていくと同時に、次々と開発計画を打ち出して投資していった。私たちも含め、日本企業・日本人がイランに続々と入っていった時代であった。