上はペルシャ湾と当時のペルシャの地図である。ペルシャ湾内に黒い実線が描かれており、チグリス川を遡りバグダードに続いている。さらにもう一本の線がブシェールからシラズ、イエズディ、イスパハン、テヘラン、レシトへと続いている。現在ではシーラーズ、ヤズド、イスファハン、テヘラン、ラシトと表記されている都市である。これは明治時代に、この地に足を踏み入れた日本人が辿ったルートである。
その男の名は吉田正春。彼は明治13年(1880年)にカージャール朝ペルシャとの国交樹立のための調査団を率いて現在のイランを訪れた。ブッシェール港に着いた彼らは先ず、現在のイラクの首都バグダードを往復してから、イランの首都テヘランに向かったのであった。
この調査の旅が実現するまでの経緯を少し説明しておこう。明治7年(1874年)1月、榎本武揚が駐露特命全権公使となり、サンクトペテルブルクに赴いて、樺太・千島交換条約を締結したのであるが、その後、1879年に訪欧の帰途にロシアに立ち寄ってペルシャ皇帝ナーセロッディーン・シャーに会う機会があった。そこで、皇帝から国交樹立の条約締結の提案があった。榎本武揚は帰国後に国交樹立の前段階の調査団を派遣することを決めた。その結果、団長として外務省御用掛である吉田正春が選ばれたのである。
吉田正春以外のメンバーは、参謀本部から工兵大尉古川宣譽、大蔵省商務局から大倉組商会副頭取の横山孫一郎、大倉組商会社員土田政次郎、七宝焼き磁器商の後藤猪太郎、小間物商の藤田多吉、金銀細工物商の三河鋳二郎であった。
一行は、明治13年4月に軍艦比叡で東京を出発し、途中、香港着4月23日、香港発5月1日、シンガポール着5月7日、ボンベイ着5月20日、ペルシャのブシェール港に到着。ブシェールに到着したのであるが、吉田と横山は先ずバグダードに行って、再びブシェールに戻っている。そして、改めてテヘランを目指したのである。外務省の資料は次のように記している。
1878年(明治11年)、榎本武揚(えのもと・たけあき)駐ロシア公使が、ロシアでペルシャ国王(ガージャール朝の第四代ナーセロッディーン・シャー)および総理大臣と会見したことが、明治の日本とペルシャとの交流のきっかけとなりました。特使派遣を知らせる井上馨(いのうえ・かおる)外務卿からペルシャ外務卿への通牒(1880年4月1日付)によれば、この榎本公使とペルシャ国王との会見をきっかけとして、両国間に通商協定を結ぶ機運が生まれ、交易の準備として、まずは商況調査のための使節団が派遣されることとなりました。
特使に選ばれたのは、外務省御用掛の吉田正春(よしだ・まさはる)でした。吉田は幕末の動乱に際して土佐藩の改革にあたった吉田東洋(よしだ・とうよう)の息子で、東洋が土佐勤王党によって暗殺された後は後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)(明治政府で官僚・政治家として活躍)のもとで育てられた経歴をもっており、幕末から明治初期にかけての動乱を体感してきた人物でした。使節団には、吉田を団長として、参謀本部から派遣された古川宣譽(ふるかわ・のぶよし)陸軍工兵大尉、大倉組副社長の横山孫一郎(よこやま・まごいちろう)や同社員の土田政次郎(つちだ・まさじろう)、七宝焼陶器や小間物、金銀細工の商人が参加していました。
一行は1880年4月に、インド洋での演習に向かう軍艦「比叡」で東京湾から出発し、5月にはペルシャ湾岸のブーシェフルに到着しました。その後吉田と横山はバグダッドへと旅行した後、再びブーシェフルに戻って古川らと合流し、7月の下旬から9月にかけてシーラーズ、イスファハンを経てテヘランへと北上の旅を続けました。
吉田使節団の道中はまさに冒険というべき苦労の旅でした。途次、砂漠で遭難しそうになったり、現地人に医者と間違えられたり、険しい崖道を夜闇の中命からがら進んだり、といった稀有な体験をしながら、テヘランに到達したようです。
一行は同年9月27日、ペルシャ国王ナーセロッディーン・シャーに謁見しました。この時に国王が吉田に与えた言上は、国書として日本側に渡されました。その国書には、両国はお互いに「亜細亜州」の国として、その心情は一致すると述べられていました。
この時の会見の模様は、吉田が帰国後に提出した「謁見始末」に詳しく報告されています。吉田はまた、政府に提出した報告書に基づき『回疆探検 波斯之旅』(1894年発行)という書籍を著しました。国王はアジアでともに近代化をめざす国として日本に強い関心を示し、日本の政体・徴兵制度・鉄道建設など様々な問題についての詳細な質問を行ったことが「謁見始末」に記されています。この会見は、外国からの訪問者に対する会見としては異例の長時間に及んだということです。
9月17日に王に謁見したとあるから、ブシェールを出発した日がはっきりと分からないのであるが6月初めとすると、4ヵ月近くかかったことになる。そして、『回疆探検 波斯之旅』(1894年発行)という書籍を著したとある。その書の表紙の画像が次である。
なかなか古めかしい表紙である。国会図書館のサイトのデジタル資料として公開されているものである。これも是非見てみたいものであるが、私が入手しているものは、中央公論社の中公文庫1990年12月に発行された復刻本のようなものである。その表紙画像も次に示しておこう。
文語体で書かれているので読みにくいけど、興味があれば厭わずに読めるものである。これによると、テヘランに到着するまでの当時のペルシャの様子が描かれているので非常に興味深い。中から部分的に紹介してみよう。
第三章:ブシールよりシラズに到る道中(表記も原文通り):
ブシールよりテヘランに到らんとするには、その旅装の都合二様あり。荷物を多く持ちたる者は隊商(キャラバン)に入るべく、また軽装急行の者は駅伝(チャバル)に拠らざるべからず。駅伝の方法はおおむね普通旅客の成し得るところにあらずして、かの国の官吏または外国人に限りこれが便に藉(か)ることを得、すなわち費用を多くして日数を短くする方なり。隊商はその体ほぼアラビアに似たれども、途上はアラビアに比して見ればまず大抵安全なる方と言わざるべからず。・・・・・
まどろっこしいので、自分の言葉で書くことにする。
駅伝は費用が高いが時間的に早く行ける。ペルシャ側の役人の勧めなどもあり駅伝を利用することにするが、荷物が多いものもいるので、隊商利用と駅伝利用の二つの組に分けてシラズに向かって出発したそうである。
途中で現地の子供が口の中を大怪我をしたのに出会った。吉田たちを外国人と知って、助けを求められたことがあった。医者でもないし、どうしようもなかったが、泣き疲れたので仕方なく、砂糖水をなめさせることしかできなかった。それでも感謝されて、その場を立ち去ったというようなことも書かれていた。
ラバに乗った印象は次のように記している。「鞍上は馬よりも穏やかであるが、ゴー、ストップを御するのは難しい。口の引っ張る力が強いので、力いっぱい腕に力を入れても止まってくれない。普段騎乗に慣れていない自分たちはしばしば墜落した」とロバの背に乗り四苦八苦している様子が目に見える。今から見れば珍道中であったようだが、過酷な旅であったろう。いくつかの挿絵も紹介しておこう。
一行はテヘランで王に謁見したのであるが、すぐに会えたのではなく、結局テヘランには4ヵ月滞在したとある。テヘランでの仕事がメインであったが、カスピ海沿岸のギーラーン州のラシトに回った。そして、船でバクー(現在のアゼルバイジャン)に行きそこからトルコ経由のルートに変更している。ラシトは私が45年ほど前に妻と1歳の娘と共にしばらく住んでいた町である。正春はラシトについて、以下のように記している。
「ギーラーン州に入れば到るところ村落相連なり、田野広廓、石は皆苔衣を帯び、樹は皆老大陰をなせり。・・・・ここに至って余は初めて信ぜり。テヘラン以南の荒れ果てた地をもってペルシャの国は皆同じということは言えないと。・・・」。カスピ海沿岸は雨も多く、湿度も高いので風景は日本とそっくりなところなのだ。正春もそれをみて、ペルシャは砂漠の地ばかりではないということを自分の目で見て知ったのであった。気候・風土が似ているということは、生活様式も似通ったものがある。ラシトに住んでそのようなことも私は驚いたのであった。例えば、冬に家庭で暖をとるのに、コタツがあった。
さて、長くなってしまったので終わりにしようと思うが、先ほどの外務省の資料の記述に、吉田は幕末の動乱に際して土佐藩の改革にあたった吉田東洋(よしだ・とうよう)の息子で、東洋が土佐勤王党によって暗殺された後は後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)(明治政府で官僚・政治家として活躍)のもとで育てられた経歴をもっており、幕末から明治初期にかけての動乱を体感してきた人物でした。という部分があった。そうなのだ。吉田正春は吉田東洋の息子である。土佐から東京にでて英語を学び外務省に勤めるようになった。このペルシャの旅のあと、彼は政治運動にも参加する。板垣退助などとも親交があったはずである。
一つのことを調べて、あることを知ると、そこからまた芋づる式に新たなことを知るきっかけになる。正春が乗っていった軍艦比叡は前回紹介したエルトゥールル号の遭難生存者をトルコへ送還した軍艦であった。そして、その正春のことを知ると、彼が吉田東洋の息子で、時代的にもきっと坂本龍馬とも交流があったと思わざるを得ない。実は10年ほど前に正春のことを知りたくて高知に行ったことがあるのです。知を求め、広げることは何と快感なんだろう。