テーマがあちこちに移り、目まぐるしいかも知れないが、ご容赦願いたい。今回はまた「中東の石油」に戻ることにしよう。前回はOPECが結成されて、徐々に産油国の力が強くなってきたというところで終わった。その続きである。
産油国が強くなったというものの、メジャーズに利権を与えるという契約の基本は変わっていなかった。そこで、1972年には、メジャーズに対してパーティシペーションを求める交渉が開始された。パーティシペーションとは、産油国がメジャーズに与えた利権に参加するというものであった。OPECを代表して交渉にあたったのはサウジアラビアのヤマニ石油相であった。この交渉に加わった産油国はイラク、クウェート、サウジアラビア、カタール、アブダビの湾岸産油国であった。イランは名目上とはいえ、既に石油国有化を終えていたので、この交渉には参加していない。
交渉をめぐり、メジャーズ間の意見は分裂した。結局、国有化されるよりはパーティシペーションへと傾いていった。ヤマニは長い交渉の末に、1972年10月にメジャーズと「一般協定」の締結に成功した。協定により、石油会社の25%を産油国が所有することになった。そして、その比率は1983年までに51%にまで引き上げるというものであった。さらに産油国が獲得できるようになった持分25%相当の原油を石油会社が買い戻す価格(バイバック価格)について、アラムコのメンバー4社は公示価格の93%という高い水準を認めたのであった。この価格の高さだけでなく、誰が原油を買い戻すのか(手に入れるのっか)ということが大きな問題であった。石油会社同士がもめるばもめるほど産油国の立場が強くなっていった。
当時、アメリカにおける原油生産量が下降しだし、アメリカは本格的に石油輸入国になった。パーティシペーションによって産油国が得た原油がスポット市場に姿を現すようになり、原油価格は上昇した。OPEC諸国のパーティシペーションの比率や、原油価格の買い戻し価格が予想より高かったことから、イランはコンソーシアムと条件改善を求めて交渉を開始した。しかし、コンソーシアムがイランの要求に応じないため、1973年にパーラヴィー国王はコンソーシアムとの協定期間を1979年以後は延長せずに、契約を終結させることを発表した。この時、私はイランに駐在していたので、テヘランでこの発表を聞いた。役所の建物には垂れ幕が垂れ下がり、国王の英断を讃えていた。契約終了予定の1979年とはイラン革命が成立した年である。国王自身は追放(逃亡)の身となり、真の国有化を見ることができなかった。歴史とは皮肉なものである。
クウェートの場合はどうであっただろうか。OPECが設立された1960年にクウェート国営石油会社(KNPC)が設立された。この会社はクウェート石油会社(KPC:既に述べたメジャーズの会社)が生産した石油製品をクウェート国内で販売することを目的としていたが、KNPCはスペインの企業と合弁会社を設立し探鉱・開発にも進出していった。前述したように、OPECの一員であるクウェートもKOCに対して25%の事業参加協定を調印したのであったが、クウェートの場合は議会が最終的に批准せずに、クウェート政府は1974年にKOCの60%を取得し、1976年には100%つまりすべての株を取得し国有化に至ったのであった。さらにクウェート政府はKNPCの株もすべて取得し完全国有化した。そして、1980年には石油関連部門を統括するために100%政府所有のクウェート・ペトローリアム・コーポレーション(KPC)を設立した。
イラク石油会社(IPC)も1972年3月、イラク政府に対して20%のパーティシペーションを承諾した。しかし、イラク政府は、その年の6月にIPCの国有化を発表した。産油国にとって国有化が即、パーティシペーションより有効な結果を生んだかというと、決してそうではない。原油生産・精製事業を自力で操業することはできなかったし、販売面ではメジャーズのボイコットを受けた。しかしながら、イラク政府は1964年に既に探鉱・開発・生産を目的として国営イラク石油会社(INOC)を設立していた。INOCはソ連と1967年に協定を結び、ソ連から必要な設備の供給を受け、石油開発・輸送・販売等の支援を受けていた。両国は通商条約を結び、イラクとソ連との間には友好関係が築かれていった。国有化されたIPCの原油が西側にボイコットされた時、イラク政府はソ連に安く引き取らせて切り抜けた。
アラムコのメンバーであるエクソン、テキサコ、シェブロン、モービルも1972年3月にサウジアラビア政府に対して20%のパーティシペーションに合意した。さらに12月には1973年1月以後、25%に比率をアップし、以後一年ごとに5%ずつ増やし、1981年には51%とする「一般協定」に調印した。1974年には「一般協定」が改定され、サウジアラビアの参加比率は60%に改められた。そして、1980年には完全な国有化に至ったのであった。
OPEC結成の1960年から第一次石油危機前後の70年代前半にかけて、産油国が自国の石油資源を外国石油会社から取り戻してきた経緯をごく簡単に紹介した。このような経緯があったから、イランは二度と天然資源の利権を外国企業に与えることはしないと憲法で規定している。他の産油国もほぼ同様な考え方である。この資源を持たない我々は産油国との友好関係を上手に築き、末永くエネルギー源を確保できるような外交関係を確立させなければならないのであるが、現実はどうであろうか。