アラビア書道でルバイヤート

アラビア書道をやっていることはまだこのブログには書いてなかったかもしれません。習いだしてからかれこれ5年にはなるでしょう。ナスヒー書体、ルクア書体を終えて、今はナスタアリーク書体(ペルシア書体)を練習しています。そして、今年の作品展の日程が11月に決まりました。まだまだ力不足なのですが、ペルシア書体で四行詩に挑戦しようとおもいます。それで先日、教室の先生に好きな詩のお手本を依頼しました。そして、書いてくださったのが上の写真です。なんと教室の先生ではなくて、本田先生が書いてくださったのでした。

本田先生は日本のアラビア書道界の第一人者というのは勿論ですが、世界のアラビア書道界の第一人者なのです。先生の作品は大英博物館にも所蔵・展示されているのです。マレーシアのイスラムアート美術館でも多数展示されているそうです。インターネットで調べると、素晴らしい先生の作品を見ることができます。もう文字というよりはまさに芸術的な絵画のような宇宙の世界です。頂いたお手本はまさに書道ですが、もったいないのでお手本はコピーを使うことにして、大事に取っておくことにしました。自分でこのように上手に書けることができる日が来るようにせっせと練習しようと思います。

この書について説明しましょう。ペルシアの詩人オマル・ハイヤームの四行詩ルバイヤートの中の一つです。岩波文庫の『ルバイヤート』の表紙には次のように書かれています。「生への懐疑を出発点として、人生の蹉跌や苦悶、望みや憧れを、短い四行詩(ルバイヤート)で歌ったハイヤームは、11世紀ペルシアの詩人である。詩形式の簡潔な美しさとそこに盛られた内容の豊かさは、19世紀以後、フィッツジェラルドの英訳本によって多くの人々に知られ、広く愛読された。日本最初の原典訳」そして、小川亮作の和訳が次の通りです。

  • 今日こそわが青春はめぐってきた!
  • 酒を飲もうよ、それがこの身の幸せだ。
  • たとえ苦くても、君、とがめるな。
  • 苦いのが道理、それが自分の命だ。  

また、ペルシア文学の研究者・岡田恵美子さんは次のように訳している。

  • いざ、青春のめぐりくる日、
  • 酒を飲もう、酒こそわが喜び。
  • その酒が苦くとも、とがめるな、
  • わたしの生命だから苦いのだ。

そして、小生は次のように訳してみました。

  • さあ、いま私は青春の真っただ中、
  • 酒を飲む、それがわが喜び。
  • その酒が苦くても良し、
  • 苦いのは我が人生だから。

キーワード:アラビア書道、四行詩、ルバイヤート、オマル・ハイヤーム、小川亮作、岡田恵美子、

白色革命後の1970年代のイラン

白色革命のあと、横道に逸れていたので軌道を戻そう。当時のイランは国王が近代化を進めるために教育の普及、経済発展を推進しようとしていた。そして70年代に入った。私が最初にイランに入ったのが1971年秋のことである。それから2年ほどたった時に第四次中東戦争が勃発したのだった。それが第一次石油危機(石油ショック)である。

インターネットの「世界史の窓」では第四次中東戦争を次のように説明している。・・・1973年10月6日、エジプト軍はシナイ半島で、シリア軍はゴラン高原で、一斉にイスラエル軍に攻撃を開始、不意をつかれたイスラエル軍は後退を余儀なくされた。エジプト大統領サダトの主導した奇襲作戦は成功を収め、中東戦争で初めてアラブ側が勝利を占めたかに見えた。しかし、ようやく体制を整えたイスラエル軍は反撃に転じ、シナイ半島中間で踏みとどまった。その時点でアメリカが停戦を提案、開戦後ほぼ1ヶ月で停戦となった。
十月戦争、ラマダン戦争、ヨム=キプール戦争 アラブ側ではこの戦争を「十月戦争」または「ラマダン戦争」といい、イスラエル側はちょうど開戦の日がユダヤ教の祝祭日ヨム=キプール(贖罪の日)だったので、「ヨム=キプール戦争」といっている。

この戦争でイスラエル軍不敗の神話が崩れ、エジプト大統領サダトはこれを有利な材料としてシナイ半島の返還をイスラエルに迫った。またサウジアラビアをはじめとするアラブ諸国の産油国の組織であるアラブ石油輸出国機構(OAPEC)は、イスラエル支援国に対するアラブ原油の販売停止又は制限をするという石油戦略をとり、さらに石油輸出国機構(OPEC)は原油価格を4倍にしすることを声明した。これはイスラエルを支援する欧米や日本に大きな打撃を与え、第1次石油危機(オイル=ショック)と言われている。・・・・

戦争自体は短期間で終わったのであったが、第一次石油危機と言われたように、世界に与えた影響は非常に大きかった。石油資源を輸入に依存する日本では大騒ぎになった。ガソリンスタンドは営業時間を短縮する。テレビ局も深夜は放送をストップする。石油製品の枯渇するかもしれないと、買いだめが行われた。トイレットペーパまでが買いだめの対象となってパニック状態であった。1973年の秋に私は赴任から2年が経過したので1カ月の帰国休暇で帰国したが、上空からみる日本の夜景は暗かった。でも、日本はこれが契機となって省エネルギーを積極的に進めていったのである。

原油価格は4倍に跳ね上がった。産油国の石油収入が膨大なものとなった。イランも同じであった。国王は経済発展計画をどんどん進めようとした。経済五カ年計画が策定されて実行に移されていった。実行する途中でも計画はどんどん拡大されていって、計画規模も膨れ上がっていった。世界中からこの開発計画に便乗しようと企業が集まってきた。数多くの日本企業も進出してきていた。主要な商社は勿論のことであるが、メーカや通信事業社、技術援助の専門家達である。我々のようなコンサルタンツ企業はプロジェクトを立案しては国際入札にかけていた。我が社の当時のメインプロジェクトは石油ショック以前から取り組んでいたタレガン(Taleghan)プロジェクトであった。テヘランの西方にあるガズビン市の北方の山中をタレガン川が流れている。この川はこのまま流れてセフィードルード川となってカスピ海に通じる川である。この川をダムを造って堰き止めて、ガズヴィン平野に導水するというものであった。堰き止めた水を掘削したトンネルを通して流域変更するという大規模なものであった。タレガン川のダムは建設中であったが、ガズヴィン側に設けたジアラン堰はもう完成してすでに通水していた。建設資金は世界銀行の融資、設計と施工管理は我が社、建設コントラクターはドイツ、施主は水電力省であった。我が社は実績が認められて、そのあと、シスタン州や、ギーラーン州などでもプロジェクトを沢山受注していったのであった。

日本が参加したプロジェクトで有名なのがIJPCであった。イラン日本石油化学プロジェクトというもので、商社がオーガナイザーになって日本企業の技術を発揮した石油化学プラント基地の建設であった。有名なプロジェクトなので説明は省くが、我が社もイランに精通したコンサルタンツということで、一部業務を担った。例えば建設資材として必要なアグレゲートなどの調達プランなど、私自身は日本企業の従業員の社会保険の仕組みや手続きなどのアドバイザー的なことも引き受けた。でも、この大プロジェックとは後日イラン革命のために中途でストップしたことは言うまでもない。

話を国王の政治に戻そう。すでに1951年のイラン石油の国有化については述べている。結局は失敗に終わったのでしたね。そして、その後のイランの石油事業をスムーズに運営できるようにイランコンソーシアムという組織ができたという説明をした。分かりやすく言うと欧米の石油会社(メジャーズ)がイランの石油事業(油田の操業、精製、流通、販売)を牛耳ったということだ。その契約を国王は1973年の5月に変更することに成功したのである。契約は条件を変更して継続ではあるが、イランの油田の操業権を取り戻すことには成功した。テヘランの街のビルの壁には垂れ幕が下がって、このことを快挙とした。国王の手柄と奉った。

イランは活況を呈していた。開発が進められて雇用も増えた。地方からテヘランに出てくれば、何らかの職にありつける。すでにテヘランで働いている人は故郷の身内を呼び寄せる。と同時に諸物価が高騰しはじめた。最初私が借りたフラットは17,500リヤルであった。当時の為替レートは1リヤルが約4円であったから7万円ほどであった。地方の現場からテヘランに帰ってきた一人いのスタッフが泊まる広さはあった。その後、私は何度が引っ越しをした。しばらくはテヘランを離れてカスピ海沿岸の町ラシトでの勤務を経て再びテヘランに戻ってからの最後の賃料は9万リヤルであった。36万円という膨大な金額になっていた。1978年のことであった。これでは一般市民にとってもたまったものではなかった。政府は物価統制を打ち出すものの焼け石に水であった。そうなると市民の不満が高まる。政治への批判も当然でてくる。それらを取り締まることになる。SAVAKサバクが恐れられるようになっていた。SAVAKとは? 秘密警察のことである。少々話が暗くなってしまうので今日はこの辺までにしておこう。文中の写真は1975年カスピ海沿岸のプロジェクト現場を走り回っていたころのものである。

キーワード:イラン、白色革命、第一次石油危機、第四次中東戦争、石油ショック、原油価格、経済開発、国王

 

 

書籍紹介:アブー・ヌワース著『アラブ飲酒詩選』その1

書評としたいところだが、それはおこがましい。ちょっとした感想程度を述べるだけだし、「このような本があるよ」というだけなので、書籍紹介とした。これからもそうしようと思う。

画像は岩波文庫の表紙であり、そこにアブー・ヌワースについて書かれているのが読めるだろうか。重複するが読みやすいように以下に書き留めてみる。「アブー・ヌワースは8世紀から9世紀にかけてアッバース朝イスラム帝国の最盛期に活躍し、酒の詩人として知られる。現世の最高の快楽としてこよなく酒を愛した詩人は酒のすべてを詩によみこんだ。その詩は平明で機知と諧謔に富み今もアラブ世界で広く愛誦されている。残された1000余の詩篇から飲酒詩を中心に62編を選訳。」

8世紀の人である。アッバース朝(750~1258年)の人である。アッバース朝といえば、このブログでも紹介した王朝である。バグダードに立派な円形都市を建設し繁栄した王朝である。第5代のカリフ、ハールーン・アッラシードが最盛期を築いたのであった。彼の在位が786~809年であるから、アブー・ヌワースは丁度その時代に生きた人物である。彼が生まれたのはアフワズ(現在はイラン領内)で747年から762年あたりと言われ、757年頃というのが有力な説であるとのこと(本書の解説による)。

早速であるが、先ずは彼の詩を紹介しよう。前述のとおり彼の詩は「酒」が主人公である。イスラム社会において酒は飲んでいいの?という疑問は後回しにしよう。

タイトルは「ユダヤ女」とある。ユダヤ女の処で飲む酒は、楽しさも倍増すると言っている。彼女は瞳がきれいで、月のように美しい。手のひらはしっとりと、ナツメヤシの木の芯のよう。まずはユダヤ女である。ユダヤ女が周囲にいて、酒場にいけばユダヤ女がいて、飲み交わすことのできる世界であったということがわかる。当時はアラブとユダヤ人が仲良くしていた時代であったようだ。アラブ人とは異なる目鼻立ちのユダヤ女を美しいと思い、その美しさは「月のようである」と詠っている。女性の美を月に例えるのがアラブだということもわかった。もっともアブー・ヌワースは純粋なアラブ人ではないようだ。生誕地がアフワズであり、両親はペルシア人であった可能性が高い。イスラム帝国がササン朝ペルシアを滅ぼしたあと、ササン朝の優秀な人材はその後のイスラム支配下の社会でも能力を発揮するように扱われたという。現代人が想像するほど民族や宗教の摩擦は少なかったことが一つの詩からもわかるのである。

アラブ人がユダヤ人と酒場で仲良くしていると書いたが、次の詩はどうだろうか。「ユダヤ人の酒家」という題である。

2節目「主人がイスラム教徒でないことが腰帯で分かったとき、我々はそれを喜び、彼は我々を恐れた」とある。ユダヤ人である彼はイスラム教徒の我々を恐れ、我々は上から目線の態度である。やはり両者の間には壁があるのであるが、客として軽口を叩ける社会のようだ。酒を禁じられているイスラム教徒にとってユダヤ人の店は逃避できる場であったのかも知れない。この詩はまだ続く、そして次の頁の最後の一節を見てほしい。

「礼拝の時が近づくと、急いで酒を注がせ、酔いどれて礼拝をやり過ごすのを君は見る」 

本書の解説によると、アッバース朝の最盛期には文化は爛熟し、生活が奢侈になった。そうなると、道徳の退廃も見られた。イスラムの下では、本来飲酒は禁じられているにもかかわらず、酒は半ば公然と飲まれたという。この詩で見るように礼拝に行かずに済むように酒を飲むということもあったのであろう。礼拝に行くべき時だということはわきまえているのである。でも、酒を食らうことにのって、礼拝に行かない理由付けをしているように感じた。「礼拝など糞くらえだ!酒持ってこい!」という気持ちではなく「礼拝に行こうと思ったのに、俺、酒飲んじゃったよ。」という心境ではないだろうか。

上の詩はどうだろうか。イスラム社会では普段でも酒が禁じられている。断食の月(ラマダン月)になると、なおさら酒はダメでしょう。でもこの詩人は「だが、我々はやってのける、人にはできないことを。」と詠う。「夜から朝まで飲み明かすのだ、大人も子供もみんなして。」「我々は歌うのだ、好きな詩を大声で。」「私に酒を注いでくれ、鶏がろばに見えるまで。」と。酒を飲み明かすのは大人だけではない。子供もみんなとは少々行きすぎだろうが。

この文庫本には62篇の詩が収められている。飲酒の詩をいくつか紹介したが、飲酒詩が38篇と半数以上を占めているのは、彼が酒の詩人と言われるからには当然のことである。が、残りの詩は恋愛詩が10篇、称賛詩2篇、中傷詩が4篇、哀悼詩1、たしなめの詩2、禁欲詩5の合計62篇である。称賛詩のひとつは5代カリフであるハールーン・アッラシードを讃える詩である。アブー・ヌワースとカリフは同時代の人であるが、それだけでなく実際に接点があったのである。その辺のことも興味深いことであるし、飲酒詩以外の詩も、もっと紹介したいので、今回のテーマは、書籍紹介:アブー・ヌワース著『アラブ飲酒詩選』その1としておこう。

キーワード:アラブ飲酒詩選、アブー・ヌワース、アッバース朝、バグダード、ハールーン・アッラシード、ユダヤ、アラブ、ラマダン、禁酒、

米国とイラン

昨日の新聞はアメリカがイランにサイバー攻撃を仕掛けたと報じています。イランがアメリカの無人偵察機を撃墜したことへの報復だそうです。アメリカはイランに対話せよと言っていることに対してイランは話し合いには応じない姿勢を崩していません。アメリカは対話に応じさせようと更に制裁を強めようとします。圧力を加えて話し合いに応じさせようとする姿勢です。

でも、それって普通の人の感覚ではないですね。話し合いに持ち込もうとするなら、緊張状態をいったん解いた状態で話し合いましょうというのが普通ですね。戦争状態にある両者が停戦・休戦協定を話し合おうとするなら、いったん戦闘状態を停止させて、話し合いをするのではないでしょうか。アメリカはイランに対して話し合い、対話に誘おうという一方で制裁を強めているわけですから、つじつまがあいません。

アメリカはパレスチナに5.4兆円の経済支援策を打ち出しました。少し前にはパレスチナ和平案を提示する予定でしたが、イスラエルのリクードが連立政権を樹立できなかったために、できませんでした。トランプの娘婿が和平案を提示する予定でした。彼は今回の経済支援策を「パレスチナの人々と地域のより明るく繁栄した未来に向けた枠組みだ」と主張しています。今回も彼がイスラエルからの点を稼ぐためのパフォーマンスでしょう。

パレスチナがどう反応するかはわかりませんが、アメリカの一連の行動の真意は皆さんもうお分かりですね。

パレスチナ問題というのはパレスチナ人とユダヤ人との民族対立から始まりましたね。それがイスラエルが建国することによって、イスラエル対アラブ諸国の対立になりました。しかし、アラブはイスラエルの軍事力の前に勝つ見込みのない戦いには意欲を示さなくなっています。もちろんハマスなどはそうではないでしょうが、アラブ諸国はイスラエルと戦争しても勝てるとは思っていません。

イランはアラブではありません。アラブとはイスラムという枠の中では同胞かもしれませんが、アラブのスンナ派に対してイランはシーア派です。考え方が根本的に違います。シーア派イランはたとえ武力で負けると分かっていても筋を通そうとした戦いは貫きます。これまでアラブイスラムがユダヤイスラエルに対して抱いていた憎悪をイランは捨てていません。イスラエルは狂信的なシーア派イランが一番怖いのです。

トランプが今やっていることは、パレスチナ問題で対立していたイスラエルの敵をアラブからイランに変えようとしているのです。パレスチナにはイスラエル優位の和平を成立させる。そして、イスラエルの最大の敵イランを懲らしめることにより、トランプはアメリカのユダヤロビーから歓迎される大統領になる。それがトランプ再選への道になると考えているのでしょう。

キーワード:イラン、トランプ、サイバー攻撃、パレスチナ、ユダヤ、イスラエル、リクード、パレスチナ和平

 

安倍首相訪イ

安倍総理がイランのロウハニ大統領と握手している写真です。現地のペルシア語新聞Iranの今日のトップでした。画像の上のタイトルは直訳すると「良い方向への変化は道中である」つまり「緊張緩和へはまだ道半ば」ポジティブにいうと「緊張緩和に歩き始めた」というニュアンスでしょうか。全ての新聞が安倍首相とロウハニ、あるいはハメネイとの会談を取りあげています。そんなおり、昨日小生が記したホルムズ海峡で事件が起きました。安倍さんが現地にいて曲がりなりにも意見交換したときの発生ですから、最高指導者ハメネイの指示ではないでしょう。アメリカはイランの仕業だとPRしていますが、真偽のほどは不明です。もし、イランの仕業だとすると革命防衛隊の暴走でしょう。そうだとすればハメネイの求心力・指導力が弱まったということになりますから、いまはまだそうではないと思います。米とイの緊張が緩和されないほうがいいのは誰でしょうか。明日の学習会の私の講義はきっと熱っぽくなるでしょう(笑)。

昨日のフェイスブックです:今日、安倍総理がイランに向けて出発しました。イランと米との良き仲介者となれるのでしょうか。トランプ大統領のポチとしての使い走りではなく、日本の国益のために独自の外交が望まれます。日本にとってイラン原油の輸入比率は減少してきていますが、それでも重要な輸入元です。米イ関係がもつれて戦いになったら、イランはペルシア湾をホルムズ海峡で封鎖することができます。そうなるとUAE,クウェート、カタールからの輸入(全輸入の45%)も途絶えることになります。最大の輸入元であるサウジからの原油も影響は受けますが、紅海側からのルートも可能でしょう。しかし、それもイェメンとの関係などがからみます。サウジからの輸入にもある程度影響が出るでしょう。とにかく日本の指導者は中東地域の紛争解決に対して積極的に汗を流す必要がありましょう。今週末の学習会はこんな問題を取り上げます。

 

白色革命

パーラヴィー朝の二代目シャーはアメリカの庇護を受けることによって、次第に王としての立ち位置を安定化させてきた。私が初めてイランに行ったのは1971年の秋であった。長期駐在の予定であった。妻帯者の単身者は毎年1回の帰国休暇が与えられたが、独身者は2年に1回であったから、しばらくは帰国できないという覚悟での出発であった。深夜にメフラバード空港に到着して、市内へ向かう車の中からみた第一印象は「街路が明るい」ということだった。深夜なのでどこの店や会社も閉じているのであるが、どこも電気や照明が煌々と点いていたのである。ここは石油の国、火力発電で電気は豊富にあるのだ。このあと2年後の1973年になると第一次石油危機(オイルショック)が起きて、原油価格は4倍に跳ね上がった。産油国のオイル収入は急増した。イランでも石油収入を財源とした五カ年開発計画が打ち出され、開発プロジェクトに参加しようとして、外国企業がイランに押し寄せていた。

若干24歳でイランを訪れた私は、この国の前途洋々たる未来を感じた。石油のない日本にとってイランは重要なパートナーであり続けるだろうと思った。このころのシャーは自信に満ち溢れていた。近い将来、イランは世界の七大大国の一つになるのだと宣言した。彼の自信の裏づけは「白色革命(ホワイト レボルーション)」を成し遂げたことにあったのであろう。彼が成し遂げた白色革命を紹介しよう。

彼がシャーに就いたときに述べたように、彼は「強いイラン」を志向していた。したがって強い軍隊や兵器を望んだのではあるが、1958年に隣国イラクで王制が崩壊し共和制に転じたことなどから、安定した国家づくりには社会制度や教育の改革が必要であると考えるようになっていた。シャーの改革が始まった。その目標とは「すべての人々にパンを」「すべての人々に家を」「すべての人々に衣服を」「すべての人々に健康な生活を」「すべての人々に教育を」であった。そして最初の取り組みは農地改革であった。1963年1月9日、テヘランで開かれた第一回農業協同組合全国大会の席で改革の必要性を説き、次の最初の6項目を発表し、その後も立て続けに新たな項目を発表した。

  1. 農地改革・・・小作人への土地の供与
  2. 森林、牧場の国有化
  3. 国有企業の株式会社への転換と農地改革への協力
  4. 労働者への企業利益の配分
  5. 選挙法改正・・・完全な普通選挙の実施、特に婦人参政権の実現
  6. 教育普及部隊の創設。大学入学資格取得者が民間奉仕として村々に教育を広める。
  7. 健康部隊の創設。医学・歯学・看護学などの学生が地方の村で治療や講習を無料で行う(1964年1月21日)
  8. 開発部隊と復興部隊の創設ー農業の近代化。村、都市の近代化に協力する(1964年9月23日)。
  9. 「公正の家」と呼ばれる村の裁判所の設置(1965年)
  10. 全ての水資源の国有化(1968年)
  11. 全国都市計画。開発部隊がこれに協力した。
  12. 行政改革。国民教育の改革とも関連。6、7、8の部隊は「革命の兵士たち」と呼ばれ、彼らをボランティアの婦人や若い女性たちが支援した。そして、1975年には次の5項目が追加された。
  13. 大企業の株の49%までを労働者に売却。買い入れには国の資金が貸し付けられ、配当により返済できる(8月)。
  14. 消費者保護価格。統制によりインフレと闘う(8月)
  15. 無償初等教育義務化(8年間)。さらに中等、大学教育も受けた教育と同じ期間国家に奉仕すれば無料となる(12月)。
  16. 二歳までの新生児と母親に対する食糧の無償配布(12月)。
  17. すべてのイラン人への社会保障および年金の普及(12月)。最後に、1977年に2項目が追加された。
  18. 土地、建物の投機に対する闘いー土地価格、家賃などの上昇を抑制し、投機にブレーキをかける。
  19. 腐敗、収賄に対する闘い。

農地改革について彼はその著書『私は間違っていたのか』のなかで、次のようにのべている。「わたしは1941年、かねてから望んでいた私個人の所有になる農耕地を政府に移管した。この私の行動は農村の構造に変化をもたらす一種の革命であったために、当時の政府は何もしようとしなかった。そこで私は、政府に移管した土地を取り戻して、直接農民に分け与えた。モサデクが政権を握ると、またもや私の計画に反対した。私が思いのままに計画を運べるようになったのは、彼の失脚後のことである。」農民に農地を与えることは、それまでの地主階級の土地を取りあげることである。地方豪族などの大地主は当然この改革を望まない。イスラム世界であるイランではモスクも大地主である。モスクはムスリムからあらゆる物の寄進を受けるが土地もその一つである。宗教界が農地改革はイスラムを冒涜するものであると非難した。1963年1月、シャーは農地改革法案に対する国民投票を呼び掛けた。これに対して、国民投票をボイコットするように呼び掛けたのがホメイニであった。ホメイニは農地改革の是非だけでなくシャーの政治そのもの、例えば国防予算の無駄遣い、官僚の腐敗、文化の荒廃にまで言及して説教を重ねた。結局ホメイニはイランから追放になったのであるが、そのホメイニが1979年のイラン革命時において亡命先から帰国してシャーと入れ替わるという皮肉な運命が待ち構えていたのであった。

農地の権利書を与えられて喜ぶ農民たち。

白色革命の項目を追加していった1975年というと、私がイランに居たころである。私はシャーの改革の姿勢を高く評価していた。青年たちが地方に出向いて、教育兵団や開発部隊などとして社会を良くしようとしている姿に感動した。この国には資源がある。それは天然資源だけでなく、将来を担う人的資源が育まれようとしていると感じた。ただ、シャーからモサデクの話がでたが、モサデクの功績はイラン石油の国有化である。シャーとの対立はあったものの、モサデクは真の愛国者であった。それは多くのイラン人も感じていたことであり、モサデクは現在のイランでも英雄として国民の心にある。

キーワード:白色革命、ホワイトレボルーション、農地改革、パーラヴィー国王、

 

 

トランプ大統領来日

トランプ大統領が来日して大相撲を桟敷席で観戦するなど、これまでの大統領とは少し違いましたね。昨夜は宮中晩さん会。両陛下の笑顔が印象的でした。私としては米・イラン問題に関心があります。早速今日のイランの英語新聞Iran Dailyを見てみました。一面トップに取り上げられています。

 

ペルシアからイランへ

話の順番をどうしたらいいのか悩むところである。カージャール朝ペルシアが崩壊し、パーラヴィー朝が成立した。この王朝の初代シャーがレザー・ハーンであった。彼は列強に負けない国造りをするために精力的に働いた。改革を進めた。国家の近代化に努めたことは国民の支持を得たが、次第に独裁性が強まっていった。また、次第にドイツに接近していく彼に対して、イギリスとソ連から圧力がかかり、結局追放されて息子(1919~1980)が後継者として第2代目のシャーに就いたわけである。1941年のことである。レザー・シャーはモーリシャス島に流されたあと、最後は南アフリカでこの世を去った。若き二代目の王は「私は帝位についたとき、難問の渦巻く島に投げ出されていることに突然気が付いた」と後に述懐した。彼は英ソと三国同盟を結び第二次世界大戦を切り抜けた。しかし、若き王は戦後深まった英露の対立の間で板ばさみになり、国のリーダーとしての実権を行使することができない状態が続いた。

国王とアメリカの関係が始まったのはこの時であった。1949年1月、アメリカの国務省がまとめた政策はイランについて「戦略的に重要な中東において、ソ連と国境を接する一連の独立国のうちで最も弱い一環」と述べられており、さらに二カ月後にはアメリカ大使が「私見ではソ連がイランに戻るのは“もし”の問題ではなく、“いつ”の問題だ・・・」と秘密報告を送っていた。アメリカはイランに1949年から余剰武器に供与を始めていた。国王は近代兵器を希望し、イラン軍のアメリカでの訓練を望んでいた。

1950年代に入り、戦後の民族主義に目覚めたイラン国民は資源ナショナリズムを訴えるようになった。1951年には民族主義運動の代表格であったモサデク博士が首相となり国民的な英雄となっていった。議会はモサデクが主導権を握り、国王の存在が薄れた。イランにおける石油開発、生産、流通を一手に担っていた英国籍のアングロ・イラニアン石油会社は国有化により石油産業のすべての資産が接収され、法廷闘争となった。1952年にはイランがイギリスとの断交に踏み切った。アメリカは国有化には反対であったが、アメリカの石油会社にとってはイランの石油界に参入する好機でもあった。イギリスは再びイランでの石油生産を望んでいた。英米の利害が一致した。その答えは「モサデクの排除」であった。権力を奪われようとしている国王とモサデクの対決が計画されていく。国有化により石油収入が途絶えた状況で給料をもらえない人々が増え、社会不安が高まる中で反モサデク運動が展開された。CIAはこのモサデク政権転覆計画をアジャックス(A Jacks)作戦と名付けて実行した。ザヘディ将軍がモサデクに代わり首相の座につき、国王は復権したのである。アメリカに庇護された国王はますますアメリカに傾倒していく。石油事業を再びスタートさせるために「イランコンソーシアム」が設立されて、その後のイラン石油産業を牛耳ることになる。当然そこにはアメリカが参入して、以後イギリスとアメリカの立場が逆転したのである。

表1は当時の中東諸国における石油産業を操る石油会社に対するメジャーズの出資を%で表したものである。イランのコンソーシアムにはメジャーズ5社が35%+米企業連合5%の40%の参入を果たしているのである。英、仏、米、蘭という当時の大国の石油メジャーズがすべて顔をそろえているのである。そのことにより、イラク、サウジアラビア、クウェート、バーレーンなどの石油についても話し合いで生産をコントロールできたのである。中東の石油生産を調整できるということは石油価格をもコントロールできたということである。中東においてメジャーズがやってきたことは、それはまた一つの歴史である。それについては改めて取りあげることにする。

冒頭の画像は1976年に発行された切手である。パーラヴィー朝第2代のシャーが王位についてから35年を記念した非常に大きい切手である。私はその頃にイランにいたので買ったものである。日本への手紙にも貼って受け取る人を驚かせたものである。

次回はシャーの改革について話をしよう。

キーワード:パーラヴィー朝、石油メジャーズ、イランコンソーシアム、モサデク首相、ザヘディ将軍、

 

想い出の中東・イスラム世界:カスピ海沿岸での子育て

平成から令和へと時代が変わった。新天皇即位のお祝いや十連休という初体験を多くの日本人が満喫したようだ。私事では娘一家の4人が帰ってきてくれたので、近くの行楽地に泊りがけでいくこともできて、二人の孫たちと楽しく過ごすことができた。孫の年齢は7歳と3歳である。孫たちは私の持つスマホを開いては、旅行中に写した写真や動画を見ている。3歳の孫ですら、自由自在に操作している。私たちの子供の時代(孫の親達)には想像もできなかったことである。

私の娘が生まれるころ、我々夫婦はイランのカスピ海沿岸のラシト(Rasht)という町に住んでいた。出産のために妻が帰国して、3ヵ月経った頃に子供とともに再びラシトに戻ってきた。今から40年ほど前のイランの田舎町である。スーパーマーケットがあるわけでもない。鶏の肉を料理したければ、鶏を買ってくるのだった。鶏をバラすことからやるのだった。もちろん、日本人の若い妻にはできないから、メイドさんがすべてやってくれるのであった。現地の料理も時々作ってくれた。その時は我々二人が食べる何倍もの量を大きな鍋で作ってくれた。彼女の家族の分も計算して作るのだ。我々はそんな生活を面白がって楽しんでいた。天井裏に蝙蝠が巣を作って、日が暮れだすとそこから蝙蝠が一斉に飛び出していく姿には驚いた。蝙蝠の赤ちゃんが落ちてくることもあった。そんな時にはメイドさんの旦那が天井裏に入っていって、蝙蝠を追い出して奇麗にしてくれた。楽しい思い出ばかりが浮かんでくる。

さて、生後3か月の赤ちゃんをメイドさんは可愛がってくれた。彼女の名はソラー(Sorah)。昼間は妻と二人で漫才のような会話をしながらの子育てだった。私は仕事から帰った後とか休みの日に子供を連れて散歩にでるのが常だった。イランの人が寄ってきては「ナーゼ、ナーゼ(可愛い、可愛い)」と言ってくれた。そして「ペサル?(男の子?)」と念を押すのだった。実は娘ので「ドクタル アスト(娘だよ)」と言うと、あわてて再び「ナーゼ、ナーゼ」と強調してくれた。確かに男の子のようであったことは確かなのだが。

時々おもちゃなどを日本から届けてもらうこともあった。でも、日本と同じようにはできない。その辺にあるものがなんでも玩具である。ある時はカボチャに目鼻を書いて遊び相手にした。

散歩に連れて行くのは家の周辺である。でも、周りの風景は日本ではない。でも、イランの風景というと砂漠や木のない山であるが、カスピ海沿岸は日本と同じような緑の多い風景である。生活様式も日本と似ている点が多い。働き者の女性が多く、彼女たちはチャドール(身体を隠すベール)を腰に巻き付けて作業する土地柄だ。話がそれたが、家のすぐ裏にいけば羊がいた。子供は羊たちをみて育ったと言えるかもしれない。イランでは犬は飼わない。犬を嫌う。「ペダレ サッグ」という言葉があるが、「くそ野郎」というような意味で相手を罵倒するときに使う。ペダルは父(親父)、サッグは犬である。最近ではペットに買う人もいるとは聞いているが。

夏は日本同様にこの地域は湿気が多い。蒸し暑い。でも乾燥したイランではそれが良いのである。カスピ海沿岸はショマール(北)という風に呼ばれており、イラン全土からリゾートへ来るという感覚なのである。私たちもカスピ海で泳いだ。もちろん赤子の娘も。次の写真がそうである。夏だから娘も8カ月ほどになっている時であろう。

カスピ海で泳いだ日本人の最年少かもしれない。最後は我が家である。平屋のゆったりした(悪く言えばだだっ広い)家であった。噴水の池があり、子供は何度も落ちかけた。これが40年余前である。

2011年にこの町を再訪したときに行ってみたら、そのまま残っていた。周辺はすっかり様変わりしていたが、我が家だけは残っていた(次の写真2枚)。この地はラムサールへ向かうため、早朝6時ごろに訪ねたので、インターフォンを押して住んでる人に会うことは断念したが、懐かしい思い出の場所である。もし、住人に会っていたら「どうぞ、どうぞ。中に入って下さい」となり、おもてなししてくれて出発が大幅に遅れてしまったことであろう。

キーワード:ラシト、Rasht、カスピ海