ペルシアからイランへ

話の順番をどうしたらいいのか悩むところである。カージャール朝ペルシアが崩壊し、パーラヴィー朝が成立した。この王朝の初代シャーがレザー・ハーンであった。彼は列強に負けない国造りをするために精力的に働いた。改革を進めた。国家の近代化に努めたことは国民の支持を得たが、次第に独裁性が強まっていった。また、次第にドイツに接近していく彼に対して、イギリスとソ連から圧力がかかり、結局追放されて息子(1919~1980)が後継者として第2代目のシャーに就いたわけである。1941年のことである。レザー・シャーはモーリシャス島に流されたあと、最後は南アフリカでこの世を去った。若き二代目の王は「私は帝位についたとき、難問の渦巻く島に投げ出されていることに突然気が付いた」と後に述懐した。彼は英ソと三国同盟を結び第二次世界大戦を切り抜けた。しかし、若き王は戦後深まった英露の対立の間で板ばさみになり、国のリーダーとしての実権を行使することができない状態が続いた。

国王とアメリカの関係が始まったのはこの時であった。1949年1月、アメリカの国務省がまとめた政策はイランについて「戦略的に重要な中東において、ソ連と国境を接する一連の独立国のうちで最も弱い一環」と述べられており、さらに二カ月後にはアメリカ大使が「私見ではソ連がイランに戻るのは“もし”の問題ではなく、“いつ”の問題だ・・・」と秘密報告を送っていた。アメリカはイランに1949年から余剰武器に供与を始めていた。国王は近代兵器を希望し、イラン軍のアメリカでの訓練を望んでいた。

1950年代に入り、戦後の民族主義に目覚めたイラン国民は資源ナショナリズムを訴えるようになった。1951年には民族主義運動の代表格であったモサデク博士が首相となり国民的な英雄となっていった。議会はモサデクが主導権を握り、国王の存在が薄れた。イランにおける石油開発、生産、流通を一手に担っていた英国籍のアングロ・イラニアン石油会社は国有化により石油産業のすべての資産が接収され、法廷闘争となった。1952年にはイランがイギリスとの断交に踏み切った。アメリカは国有化には反対であったが、アメリカの石油会社にとってはイランの石油界に参入する好機でもあった。イギリスは再びイランでの石油生産を望んでいた。英米の利害が一致した。その答えは「モサデクの排除」であった。権力を奪われようとしている国王とモサデクの対決が計画されていく。国有化により石油収入が途絶えた状況で給料をもらえない人々が増え、社会不安が高まる中で反モサデク運動が展開された。CIAはこのモサデク政権転覆計画をアジャックス(A Jacks)作戦と名付けて実行した。ザヘディ将軍がモサデクに代わり首相の座につき、国王は復権したのである。アメリカに庇護された国王はますますアメリカに傾倒していく。石油事業を再びスタートさせるために「イランコンソーシアム」が設立されて、その後のイラン石油産業を牛耳ることになる。当然そこにはアメリカが参入して、以後イギリスとアメリカの立場が逆転したのである。

表1は当時の中東諸国における石油産業を操る石油会社に対するメジャーズの出資を%で表したものである。イランのコンソーシアムにはメジャーズ5社が35%+米企業連合5%の40%の参入を果たしているのである。英、仏、米、蘭という当時の大国の石油メジャーズがすべて顔をそろえているのである。そのことにより、イラク、サウジアラビア、クウェート、バーレーンなどの石油についても話し合いで生産をコントロールできたのである。中東の石油生産を調整できるということは石油価格をもコントロールできたということである。中東においてメジャーズがやってきたことは、それはまた一つの歴史である。それについては改めて取りあげることにする。

冒頭の画像は1976年に発行された切手である。パーラヴィー朝第2代のシャーが王位についてから35年を記念した非常に大きい切手である。私はその頃にイランにいたので買ったものである。日本への手紙にも貼って受け取る人を驚かせたものである。

次回はシャーの改革について話をしよう。

キーワード:パーラヴィー朝、石油メジャーズ、イランコンソーシアム、モサデク首相、ザヘディ将軍、

 

想い出の中東・イスラム世界:カスピ海沿岸での子育て

平成から令和へと時代が変わった。新天皇即位のお祝いや十連休という初体験を多くの日本人が満喫したようだ。私事では娘一家の4人が帰ってきてくれたので、近くの行楽地に泊りがけでいくこともできて、二人の孫たちと楽しく過ごすことができた。孫の年齢は7歳と3歳である。孫たちは私の持つスマホを開いては、旅行中に写した写真や動画を見ている。3歳の孫ですら、自由自在に操作している。私たちの子供の時代(孫の親達)には想像もできなかったことである。

私の娘が生まれるころ、我々夫婦はイランのカスピ海沿岸のラシト(Rasht)という町に住んでいた。出産のために妻が帰国して、3ヵ月経った頃に子供とともに再びラシトに戻ってきた。今から40年ほど前のイランの田舎町である。スーパーマーケットがあるわけでもない。鶏の肉を料理したければ、鶏を買ってくるのだった。鶏をバラすことからやるのだった。もちろん、日本人の若い妻にはできないから、メイドさんがすべてやってくれるのであった。現地の料理も時々作ってくれた。その時は我々二人が食べる何倍もの量を大きな鍋で作ってくれた。彼女の家族の分も計算して作るのだ。我々はそんな生活を面白がって楽しんでいた。天井裏に蝙蝠が巣を作って、日が暮れだすとそこから蝙蝠が一斉に飛び出していく姿には驚いた。蝙蝠の赤ちゃんが落ちてくることもあった。そんな時にはメイドさんの旦那が天井裏に入っていって、蝙蝠を追い出して奇麗にしてくれた。楽しい思い出ばかりが浮かんでくる。

さて、生後3か月の赤ちゃんをメイドさんは可愛がってくれた。彼女の名はソラー(Sorah)。昼間は妻と二人で漫才のような会話をしながらの子育てだった。私は仕事から帰った後とか休みの日に子供を連れて散歩にでるのが常だった。イランの人が寄ってきては「ナーゼ、ナーゼ(可愛い、可愛い)」と言ってくれた。そして「ペサル?(男の子?)」と念を押すのだった。実は娘ので「ドクタル アスト(娘だよ)」と言うと、あわてて再び「ナーゼ、ナーゼ」と強調してくれた。確かに男の子のようであったことは確かなのだが。

時々おもちゃなどを日本から届けてもらうこともあった。でも、日本と同じようにはできない。その辺にあるものがなんでも玩具である。ある時はカボチャに目鼻を書いて遊び相手にした。

散歩に連れて行くのは家の周辺である。でも、周りの風景は日本ではない。でも、イランの風景というと砂漠や木のない山であるが、カスピ海沿岸は日本と同じような緑の多い風景である。生活様式も日本と似ている点が多い。働き者の女性が多く、彼女たちはチャドール(身体を隠すベール)を腰に巻き付けて作業する土地柄だ。話がそれたが、家のすぐ裏にいけば羊がいた。子供は羊たちをみて育ったと言えるかもしれない。イランでは犬は飼わない。犬を嫌う。「ペダレ サッグ」という言葉があるが、「くそ野郎」というような意味で相手を罵倒するときに使う。ペダルは父(親父)、サッグは犬である。最近ではペットに買う人もいるとは聞いているが。

夏は日本同様にこの地域は湿気が多い。蒸し暑い。でも乾燥したイランではそれが良いのである。カスピ海沿岸はショマール(北)という風に呼ばれており、イラン全土からリゾートへ来るという感覚なのである。私たちもカスピ海で泳いだ。もちろん赤子の娘も。次の写真がそうである。夏だから娘も8カ月ほどになっている時であろう。

カスピ海で泳いだ日本人の最年少かもしれない。最後は我が家である。平屋のゆったりした(悪く言えばだだっ広い)家であった。噴水の池があり、子供は何度も落ちかけた。これが40年余前である。

2011年にこの町を再訪したときに行ってみたら、そのまま残っていた。周辺はすっかり様変わりしていたが、我が家だけは残っていた(次の写真2枚)。この地はラムサールへ向かうため、早朝6時ごろに訪ねたので、インターフォンを押して住んでる人に会うことは断念したが、懐かしい思い出の場所である。もし、住人に会っていたら「どうぞ、どうぞ。中に入って下さい」となり、おもてなししてくれて出発が大幅に遅れてしまったことであろう。

キーワード:ラシト、Rasht、カスピ海

 

第一次大戦後の中東:イギリスの三枚舌外交

第一次世界大戦でオスマン帝国が降伏したのは1908年である。その後、セーヴル条約やローザンヌ条約を経て、現在のトルコが生まれたことは前回述べた通りである。さて、今回はそれ以外のオスマン帝国の領土であった中東地域の戦後処理について述べるわけであるが、それには第一次大戦の時にさかのぼる必要があろう。

  • 1915年:フセイン・マクマホン書簡:イギリスはオスマン帝国を攻略するうえでアラブを味方にする必要があった。イギリスはカイロに駐在していた高等弁務官であるヘンリー・マクマホンにイスラムの聖地メッカの太守であるフセイン・イブン・アリと交渉させていた。両者の交渉のやり取りが「フセイン・マクマホン書簡」と呼ばれるものである。そこには、彼らアラブ側がイギリス軍に参戦してオスマン帝国に勝利すれば、現在のシリア周辺にアラブ人の国を造ることを認めると約束したことは書かれている。ここでアラブ人を率いて大活躍したのが「アラビアのロレンス」である。
  • 1916年:サイクス・ピコ条約:イギリスとフランスは戦争中から、オスマン帝国の領土を分割して分け合うということを秘密裏に協議していた。その合意がサイクス・ピコ条約である。合意の内容は「シリア周辺はフランスの影響下に置かれる」というものであった。フセインに約束したことと、相反する協定であった。
  • 1917年:バルフォア宣言:1917年11月にイギリスはユダヤ人に対してユダヤ人国家の建設を支援することを表明した。バルフォア外相がロスチャイルドに充てた書簡で「ユダヤ人のためのナショナル・ホームをパレスチナに建設することを支援する」という内容で、「バルフォア宣言」と呼ばれている。

このようにイギリスは第一大戦後にオスマン帝国の領土分割について、矛盾する画策を行っていたのである。イギリスの狡猾なやり方は「二枚舌」ではなく「三枚舌」というべきものである。イギリスのどこが紳士の国であるのだろうか。このような経緯があったために、フセイン達はアラブの独立国家を樹立しようと行動を起こしたのは当然である。それを制して、英仏は植民地化へ動く。結果的にイギリスとフランスの委任統治領というものが誕生するのである。また、ユダヤ人たちも自分たちの国家を建設しようとして移住しようとしてきたのである。

  • 英国の委任統治領
  • イラクの地域・・・・・・・・後にイラク王国(1921年)⇒イラク共和国
  • トランスヨルダンの地域・・・後にヨルダン・ハシムヤット王国(1928年)
  • パレスチナの地域・・・・・・ユダヤ人流入⇒イスラエル独立宣言(1948年)
  • 仏国の委任統治領
  • シリアの地域
  • レバノンの地域

書いてしまえば簡単に見えるが、実際にはそうではない。アラブ人たちはフセインの息子たちがシリアの地域で独立を宣言すると、フランスが制圧するという戦争状態であったわけである。委任統治というと穏やかに委任されて治めてあげるように聞こえるが、体のいい植民地化である。そんなものがうまくいくはずがない。イラクとヨルダンの国にはフセインの息子を国王に据えて打開策を図ったのである。シリアとレバノンにしても、伝統的な大シリアという地域とレバノン地域の国境を作為的に線引きして、分離して団結させないように画策したのである。ユダヤ人とパレスチナ人(アラブ諸国対イスラエル国)間の紛争、いわゆるパレスチナ問題の原因もここに始まっているのである。まだまだ述べたいことはあるが、気が立ってくるので今日はこの辺にしておこう。

キーワード:サイクス・ピコ条約、フセイン・マクマホン書簡、バルフォア宣言、委任統治領、アラビアのロレンス、セーヴル条約、ローザンヌ条約、イラク、ヨルダン、

 

オスマン帝国(5):第一次世界大戦後のトルコ

上は宮田律著『中東イスラーム民族史』から転載させてもらったオスマン帝国の系図である。1299年に始まったこの王朝も1922年に幕を閉じたわけである。そして新生トルコ、現在のトルコが誕生した。今回はオスマン帝国が第一次世界大戦で降伏したあたりのことを取りあげよう。

第一次大戦後の1920年8月10日に連合軍とオスマン帝国との間で講和条約(セーヴル条約)が締結された。この条約により、オスマン帝国は広大な領土の殆どを失った。詳しいことは省くがオスマン帝国にはアナトリア半島の中ほどの限られた地域だけが残されるような条約であった。特筆すべきことは、この条約にはオスマン帝国内にあったアルメニア人地域、クルド人地域に将来の独立を見据えた自治を認めるという内容があったのである。

出所:山川出版社『中東現代史1』

ここで立ち上がったのが、トルコ共和国建国の父ケマルであった。彼はセーヴル条約を締結したカリフ政権を倒して革命政権を樹立した。そして彼の新政府は連合国との間でセーヴル条約に代わる新たな講和条約(ローザンヌ条約)を1923年に締結して、今現在のトルコの領土の国境を確定させたのである。そしてケマルの改革が始まった。

  • トルコ発展のために宗教と政治を分離した(政教分離)。憲法からイスラム教を国教とする条文を削除した。
  • トルコ語の文字をアラビア文字からアルファベットに換えた。
  • 一夫多妻を禁じ、1934年には女性の参政権を実現。
  • トルコ人としての意識強化  などなど。

クルドやアルメニアという他の民族を抱えたトルコである。宗教や民族にはかかわらず、トルコに居住する人はトルコ人であるという国民国家的な思想の下でケマルは国づくりをしようとしたのであろう。それが高じると「トルコにクルド人はいない。彼らはトルコの山岳地帯に居住するトルコ語を忘れたトルコ人である」というような発言も出てきたのであろう。クルド語の使用を禁止したり、印刷機を壊し、書物を破棄させたようなことも行った。・・・・アルメニア人の大虐殺などという問題もトルコで起ったのである。こうして、トルコは辛うじて現在のトルコの領土を確保することができた。しかし、その他の地域であるシリア、イラク、パレスチナ辺りの処理はどうなったのであろうか。イギリスとフランスの委任統治領が誕生していったのである。それは次回に譲ことにしよう。

キーワード:オスマン帝国、第一次世界大戦、セーヴル条約、ローザンヌ条約、ケマル、政教分離、委任統治領

 

カージャール朝からパーラヴィー朝へ

英露の圧力下でカージャール朝ペルシアは衰退していった。このカージャール朝時代に日本はペルシアと国交をもつのであるが、その前にペルシアがどのような国であるのか視察に出た一行がある。それを率いたのは吉田正春である。土佐藩の出である。土佐藩で吉田と言えば、参政・吉田東洋を思い起こすであろう。NHKの大河ドラマ「龍馬伝」を見た方は吉田東洋が暗殺された場面を覚えているかもしれない。吉田正春とは東洋の息子である。父東洋が死したあと、彼を養育したのは遠縁に当たる後藤象二郎である。吉田正春が当時のペルシアを視察した記録が残されており、その頃のペルシアを知る貴重な資料である。この時の様子は後日「日本と中東との関係」で改ためて取り上げることにする。

第一次大戦後の1925年にレザー・ハーンがクーデターによって実権を握ると、カージャール朝に代わってパーラヴィー朝を興して自らシャーと名乗った。近代化に努めて1925年にはペルシアという国名をアーリア人の国という意味を込めてイランと改めた。イラン人の祖先は北から移住してきたアーリア人とされており、イラン人はそれを誇りにしている。イラク人などのアラブ人と間違われると「俺たちはアラブではない。アーリア人だ」と声をあげる。レザー・ハーンがレザー・シャーとなってイランは改革を進めた。このブログではオスマン帝国が崩壊して新生トルコに至る部分はまだ登場していないのであるが、パーラヴィー朝が始まった時は既に新生トルコの時代になっている。レザー・シャーはオスマン帝国が解体されてトルコ民族の国が消滅しかけたことを見てきた。そしてケマルが新生トルコを建設したことを目の前で見ていた人物である。彼はケマルのやり方を手本として帝国主義に立ち向かおうとした。が、結局、彼も帝国主義には勝てなかったのが結論である。彼は追放されて、幼い息子が王位に就き、それを保護するという大国がイランを翻弄したのであった。私がイランにいた1970年代のテヘランにはシャー・レザー通りという空港に通ずる東西の道路があり、テヘラン大学近くのロータリーには彼の銅像があった。そのロータリーは通称「メイダーネ・モジャッサメ」と呼ばれていた。モジャッサメとは彫像という意味である。このパーラヴィー朝も1979年に崩壊するのであるが、この王朝については、オスマン帝国から新生トルコの項を書いた後で取りあげることにしましょう。

冒頭の写真は1976年に住んでいたテヘランの我が家(アパートメント)

キーワード:パーラヴィー朝、レザー・シャー、イラン、アーリア人、

立憲革命(カージャール朝ペルシア)

前回のタバコボイコット運動(1891年)はペルシアの利権をことごとく獲得していった帝国主義に対する抵抗であった。抵抗運動の中心であった宗教界の要人や有力商人たちの政治的発言力は高まっていった。そんな時代である1904年から日本がロシアと戦ったのであるが、東洋の小さな国がロシアという大国と戦ったことは中東世界でも大きな関心事であった。そして日本が日露戦争に勝利したとなると、日本という国の分析が始まったのであった。日本の勝利の要因は「日本が立憲君主国であったからである」と。

上の図で見るように、1905年から憲法の発布と議会の開設を求める運動が起きてた。そして、それを勝ち取ったのであったが、その時のシャー(王)が死去したあとに就任したシャーは1908年に議会を解散し、憲法も停止してしまった。これにより、ペルシア全国で反政府運動が湧き上がったのであった。カスピ海沿岸のラシュト市やイスファハーン市からは国民軍が結成されてテヘランに集結した。その結果、シャーを廃位に追い込み、新たなシャーを擁立して、国民国家を作ることにしたのであった。この流れが立憲革命と呼ばれるものである。しかしながら、ここでロシアが武力干渉して、議会の機能を停止してしまったのである。

カージャール朝は今度はロシアの帝国主義に翻弄されてしまった。そしてロシアとイギリスはカージャール朝の領土を勝手に線引きして自分たちの勢力圏を設定したのである。1907年の英露協商である。

キーワード:立憲革命、英露協商、カージャール朝、タバコボイコット運動、

タバコボイコット運動

いつものように山川出版社のヒストリカから上の図を拝借した。カージャール朝時代のペルシアとアフガニスタンの地域の様子が簡潔にまとめられている。前回述べたようにイギリスやロシアがペルシアに対して影響を与えようとして近づいてきたのであったが、ペルシアはペルシアでまたアフガニスタンへ進出する野心も持っていた。それゆえにこの図ではアフガンがでてくるのである。アフガンの向こうにはインドがある。イギリスにとってはこの地域は対ロシアの戦略からも非常に重要な地域であった。

さてカージャール朝ペルシアはロシアとの戦争に敗れ、領土の一部は割譲することになったあとには社会不安が高まった。バーブ教徒の乱とでているが、イスラムから派生した新興宗教である。この流れをくむ宗教が今現在も存在して、ペルシアだけでなく世界に少しずつ広がっている。もちろん現在のイランではこの宗教は認められていない(本題から外れるのでここまでにする)。政治的に弱体化したカージャール朝は財政的にも破綻をきたすようになる。そこに目をつけたイギリスは多額の資金援助を王室に差し出すのである。援助と言っても貸付、融資である。王族はその金で贅沢三昧をしては、また融資を受ける繰り返しであった。イギリスはペルシアにおける様々な利権を要求し、それを獲得していった。例えばペルシアにおける紙幣の発行することまで売り渡したのであった。最も有名なのがタバコである。世界史では「タバコボイコット運動」として紹介されているものである。

1890年王であるナーセロッディンシャーがイギリス人のタルボットに50年にわたってタバコ売買の独占権を与えたのである。酒を飲めないイスラム世界のペルシアの人々にとってタバコは大切なものであった。これに反発した国民が一斉に起こしたのがタバコボイコット運動であったつまり好きなタバコを国民がみんな我慢して吸わないことを続けたのであった。そして、この利権の売買を取りやめさせることに成功したのであった。この大衆運動が成功したのは、聖職者たちの組織的な指令があったからである。組織的な反対運動が大きな力となった。直接的にはミールザ・ハッサン・シーラーズィーが発したファトゥワの効果が大であるが、注目されるのはアフガーニーであった。彼はイスラム世界が一団となって帝国主義と立ち向かう必要があると説いて、各地を飛び回った。名前からしてアフガニスタン地方の出身であろうが、バグダードで学び頭角を現したようである。

この運動は現在のイランにおけるナショナリズムの最初の出来事として歴史上特記される出来事になっているのである。

図には「タバコ・ボイコット運動」のしたに「立憲革命」というのがある。これについては次回にしよう。

 

カージャール朝(1796~1925年)ペルシアと帝国主義

オスマン帝国、サファヴィー朝ペルシアと段階を経てきた。オスマン帝国はまだ滅びてはいない。一方、あのイスファハーンの繁栄を誇ったサファヴィー朝ではアッバース1世の後の王族たちは乱れ、退廃的になり、最後はアフガン族などに攻められ、1736年に滅びてしまう。その後、ペルシアの地ではシーラーズを拠点とするザンド朝(1750年 – 1794年)が成立するが、そこのカリム・ハーンの宮廷ではサファヴィー朝時代にキジルバシュを構成したトルコ系カージャール族のアーガー・モハンマドが人質になり、幽閉生活をおくっていた。彼は1779年にそこから脱出し、17年の歳月をかけて群雄割拠するペルシアを統一したのであった。そしてテヘランを都としてカージャール朝が成立したのである。しかしながら、カージャール朝はイランの歴史のなかでもっとも外国からの圧力に苦しんだ時代であった。近年でも欧米諸国から核開発疑惑による制裁を受けてきたのであったが、数年前に核合意がなされ、イランも国際社会と柔軟に付き合えるようになりかけたのであったが、今はトランプ大統領の核合意離脱に始まる米のイラン制裁により、国民は苦渋に満ちた生活を送っているのであるが、カージャール朝時代のイランも列強帝国主義の犠牲者であった。

  • カージャール朝と列強の思惑
  • フランス:ナポレオン戦争時代、ロシアに対抗するためにペルシアの支援を期待して使節を派遣
  • イギリス:フランのこのような方針に対抗して、東インド会社のジョン・マルコム卿をイランに派遣して、軍事協力や通商に関する協定を締結。
  • ロシア:南方進出を図り(南下政策)、ペルシアも対象であった。カフカースの領有を主張=ペルシアはフランスに支援を求めるが、仏と露のチルジットの和約により仏は支援できず。ペルシアはイギリスの支援を求めて1818年にテヘラン条約を結んだ(ペルシアがロシアと交戦したばあいに、英はペルシアを支援する)。

1812年にナポレオンがロシアに進軍すると、イギリスはペルシアとロシアの和平を望むようになる。ころころ変わる列強の思惑。

  • 1796年~  カージャール朝がペルシアを統一
  • 1798年   ナポレオンがエジプト侵入
  • 1805年   ワッハーブ派がメディナを占領
  • 1805年~  エジプト総督ムハンマド・アリーの政治改革
  • 1806年~  ロシア=トルコ戦争
  • 1811年   エジプトが事実上の独立
  • 1813年   ロシアとペルシアでゴレスターン条約
  • 1821年   ギリシア独立戦争
  • 1826~26  第二次ロシア=イラン戦争
  • 1828年   トルコマンチャーイ条約

ゴレスターン条約とは1813年にアゼルバイジャンのゴレスターンでロシアとカージャール朝との間で締結された条約。カフカース地方の領有を巡って両国は1804年から8年間にわたって断続的に戦争を続けていたが、カージャール朝の敗北に終わった。この結果、ペルシアはアラス川以北のアゼルバイジャン地方をロシアに割譲し、グルジアに対する主権も放棄した。また、カスピ海の航行権をロシアの船だけに認めることに同意した。

トルコマンチャーイ条約とは1828年にタブリーズの南東のトルコマンチャーイにてロシアとカージャール朝との間で結ばれた条約である。ゴレスターン条約で取り決められなかったアルメニアのエレヴァンとナヒチェヴァンの領有権をめぐって、両国は26年に再び戦争を起こしたが、カージャール朝が敗北した結果、アラス川以北のカフカース地方を最終的に失った。また多額の賠償金を支払い、さらに治外法権やロシアに有利な関税協定を結ばされることになった。そして、その後のカージャール朝と列強との間でも不平等条約が締結されるきっかけとなった。

イギリスやロシアがペルシアでどのような卑劣なことをしたのか。書こうとすることは山ほどあるが、それは次回以後にしよう。余談ではあるが、テヘランの下町、バザールに近い所にカージャール朝の王(シャー)の宮殿が残っている。ゴレスターン宮殿である。中に入り見学することができる。カージャール朝というと、王族が退廃して何もかもを売り払ったというイメージなのであるが、宮殿内には何もないわけではない(笑)。結構立派なもの、諸外国から贈られたものなどが豪華に展示されている。

カージャール朝というと自分は、この時代の絵画の特徴を思い起こすのだ。それは人物を描いた時の目の大きさである。ぎょろっとした大きな目を見ると、すぐにこれはカージャール朝時代の絵であるとわかる。いったい何を見据えていたのだろうか。大きな目を開いて列強連中の悪行を見ていたのであろうか。

 

オスマン帝国とサファヴィー朝ペルシア

サファヴィー朝のイスファハーンから、長々と歴史が横道にそれたようだ。そこで、ちょっと整理してみよう。オスマン帝国が出現して東ローマ帝国を滅ぼすほどの強力な国家になった。そして、西方へ、つまりヨーロッパへ、キリスト教世界の方へ領土を拡大していった。欧州にとってそれは脅威であった。現実にウィーンまで遠征が行われたのである。一度ならず二度も(成功したわけではないが)。一方、東にはオスマンの建国から200年遅れて、サファヴィー朝が成立した。隣同士の両国は常に緊張関係にあった。民族はトルコ民族⇔イラン民族ということになる。イラン民族というのはアーリア人であるから、よく間違えられるイラク人とは全く異なる民族である。イラク人はアラブである。オスマン帝国もサファヴィー朝も共にイスラムであるが、前者はスンニー派、後者はシーア派である。両国の争いはスンニー派対シーア派との対立であるとする見方もあるが、それが争いの最大の理由ではない。最大の理由は隣同士に存在する国同士が覇権を争い、領土を侵害されないようにする争いであって、どこにでもある紛争原因である。戦いが進行すればその過程の中で宗派の違いは戦いのモチベーションを上げることにもなるであろう。

さて、視野を広げて両国を俯瞰してみよう

冒頭の図のオスマンとサファヴィー朝の間に黄色い円を書き足した。そこはクルディスタンである。クルド人(クルド民族)が住んでいる一帯であり、歴史的にクルディスタンと呼ばれてきた地域である。今現在もシリア紛争、イスラム国紛争の場で活躍している民族である。一方トルコからは敵対視されている民族である。彼らはこのクルディスタン地域に住んでいて、オスマンとサファヴィー朝の戦いの歴史の中で大きな影響を受けてきたのである。オスマンの支配下にあればオスマン側として戦い、サファヴィー朝支配下にあればサファヴィー朝側として戦わされた。時にはクルディスタンが分裂状態にあれば、クルド人同士が戦うことにもなった。オスマンの支配下にあった時、一部のクルド人たちはアフリカの方に移住させられたケースもあった。クルディスタンでまとまって居住していたクルド人たちの平和は次第に分断されてきた。そして、それが決定的になるのは第一次世界大戦後である。

図が示すようにサファヴィー朝はオスマン帝国よりもいち早くアフガン民族によって滅ばされてしまう。そしてその後にカージャール朝が成立するのである。そうなるとオスマンに敵対する英国を初めとした西側がカージャール朝に接近してオスマンの背後から圧力をかけようとする。その前にカージャール朝が瀕死の状態になってしまう。英露がカージャール朝を思うがままに懐柔することに成功するのである。列強による帝国主義が中東に押し寄せてくるのであった。