書籍紹介:古代メソポタミア全史

最近購入した中公新書を紹介する。小林登志子著『古代メソポタミア全史』である。副題として「シュメル、バビロニアからサーサーン朝ペルシアまで」が付いている。定価1000円(税込み1100円)である。まだ数ページしか読んでいないので中身の感想を書くことはできない。このブログの読者にはこの本の中身がわかるように目次を次にアップしておこう。

メソポタミア文明に興味のある私にとってこの辺りの歴史は興味深い。ハンムラビ法典などは子供の時の社会(歴史)で習ったことはあるが、世界最初の法典であり「目には目を」の精神が背景にあるという程度のことしか習わなかった。詳しい歴史は高校の世界史でも扱われてはいなかったと思う、アッシリアについてもそうである。アッシリアのオリエント統一という語句は重要語句として習うが、アッシリアそのものの歴史はあまり扱われていなかったと思う。これから読むのが楽しみである。

まだ少ししか読んでいないが、これを最後まで読むことができる一般読者は果たしてどれ位いるだろうかという思いもした。例えば12頁の部分を例に挙げてみよう。
シュメル人自身は自らが住んでいる地方を「シュメル」とは呼ばなかった。「シュメル」は後代のアッカド語で、シュメル人自身は「キエンギ(ル)」と呼んでいた。一方、「アッカド」はシュメル語で「キウリ」という。まとめるとアッカド語の「シュメルとアッカドはシュメル語では「キエンギとキウリ」といい、シュメル人も、アッカド人も「バビロニア」とは呼ばなかった。・・・・・
一般読者にとってアッカド語でどういうか、シュメル語でどういうかはどうでもいいように思うのである。地名などでも当時の地名で書いておいて括弧の中に(現題名〇〇〇)となっている。最初から現題名で書いてくれた方がスムーズに読めそうであるが、著者にとってはそれが正しい表記であり、親切心一杯なのであろう。分かる気もするのである。私は読んでみようと思う。特に最後の方のサーサーン朝の部分を先に読んでみるだろう。誤解しないでもらいたい。本書を紹介したのは、お勧めだからである。

中東世界の女性たち:ハディージャ

ハディージャとはいうまでもなく、イスラムの創設者「ムハンマド」の最初の妻である。25歳頃のムハンマドと結婚したハディージャは40歳位であり、夫とは死別していた寡婦であった。裕福な商人であった。東京堂出版の黒田壽郎編『イスラーム辞典』では次のように説明している。色々な書籍で彼女についての記述を読んだが、これが一番詳しくて正しいように思えたので、拝借することにした。

彼女はクライシュ族のフワイリドの娘で二度の結婚歴を持ち、財産と独立を備えた裕福な商人であった。ムハンマドを雇い入れたハディージャは、彼をシリアに向う隊商の長として派遣したが、彼はその使命を見事に果たしている。誠実で責任感のある人がらに心を動かされたハディージャは、ムハンマドに結婚を申込んだ。時にハディージャは40歳、ムハンマドは25歳であったといわれる。この結婚はムハンマドにとって大きな意義をもつものであった。その一つは、メッカでの主たる活動である商業において、彼にその才能を磨く機会を与えたことである。さらに彼の精神的発展にも大きな役割を果たしている。
ハディージャにはワラカと呼ばれるキリスト教徒の従兄弟がいた。啓示を受けたムハンマドが、自分はユダヤ教徒およびキリスト教徒のそれと同じ啓示を受けているというい確信を持つに至ったのは、ワラカとハディージャの助けによると伝えられている。また預言者としての使命に確信を失った時、ムハンマドを励まし、確信を再びとり戻させたのはハディージャそのひとであった。彼女はイスラームに帰依した最初の人物であった。
ハディージャはムハンマドとの間に、女四人、男二人の子供をもうけたが、息子二人は夭逝している。ムハンマドにとって、ハディージャの信頼はきわめて重要であった。彼は生涯、妻を思い起こすたびに愛と感動と感謝の念にあふれたと伝えられる。
「この世にあるいかなる女性もハディージャには値しない。私を信じる者がいない時に、彼女だけが私を信じてくれた。皆が私の言葉を嘘とみなしたのに、彼女は真実であると受け入れてくれた。」
ハディージャはヒジュラの三年前、おそらく619年にこの世を去った。彼女が生きている間、ムハンマドは他に妻を娶らなかった。

他の資料を見るとハディージャは二人の夫と結婚の経験があり一人は生別、一人は死別とある。またムハンマドとの間の子供は三男四女であったとも。いずれも男子は夭逝しているのは同じである。また、ハディージャは生前ムハンマドに他の妻を持つことを許さなかったともある。(以上岩波の新イスラム事典)。大きな差異はないが、こちらのほうはムハンマドが自発的に他の妻を持たなかったのではなく、ハディージャが許さなかったと少々ニュアンスが違っているのが面白い。またハディーシャの従兄弟のワラカがキリスト教徒というのは、ネストリウス派キリスト教修道僧であるという資料もある。私はコーランを読んでいるとムハンマドは旧約聖書のことをよく知っていたんだなと思う。元々読み書きのできない彼がどうして知識を吸収したのだろうかと思ったものであるが、彼の周りにワラカのような人物がいたということで納得がいくのである。イスラム誕生以前のアラビア半島にはユダヤ教徒もキリスト教徒も沢山いたのである。
またムハンマドが隊商の長としてシリア辺りまででかけたのであるが、そのような長距離を駱駝でトボトボと灼熱の砂漠も通過したであろうに、大変な苦労をしたことであろう。冒頭の画像を参考にされたい。

 

 

キャビアの想い出

 

世界三大珍味といえば、フォアグラ、トリュフ、キャビアである。長くイランに居たことがある小生にとってキャビアには懐かしい想い出がある。今日はキャビアについて書いてみよう。
キャビアはチョウザメの卵の塩漬けである。カスピ海以外ではアムール川でも採れることが知られているが、カスピ海産のキャビアが世界で一番評価が高いだろう。カスピ海産といってもロシア側のものよりイランで採れるものの方が高級?高品質と言われていた。今は日本でもチョウザメを養殖してキャビアを生産しようとしているところがある(例えば愛知県の山村)。チョウザメは成長してキャビアができるまでには10年はかかるとかである。話をイランのキャビアに戻そう。
キャビアの品質はチョウザメの種類によっても異なる。最も大きなチョウザメのベルーガ (Beluga) は体調 3m から4m、体重300kgを超えるものがある。キャビアの粒も大粒で黒より灰色に近い。産卵まで20年以上かかり、体重の15%程度のキャビアを採ることができる。体調2m程度のがオシュトラ(Astra) である。キャビアは中粒で茶色気味の黒褐色、時には金色に変化するものもあり、ゴールデンキャビアといって珍重される。私はカスピ海沿岸のラシュトの町に2年ほど滞在したことがあるが、その時に何度かお目にかかることができた。最も小さいチョウザメがセヴルーガ(Sevruga)である。体長1~1.5mで体重も25㎏以下であるため、キャビアも小粒である。色は暗灰色で黒に近い。日本でキャビアというと殆どこのキャビアであるが、他の大きなチョウザメのキャビアの味の方が数倍上である。

上の表は私が随分前にキャビアの生産量を調べた時のものである。イラン暦の年で書いているので1365年元旦=1986年3月であるから、以下、1991年、1996年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年である。ご覧の通りキャビアの生産量は年々減少している。試験場では1970年頃から養殖を行っていたが簡単ではないようだ。チョウザメの肉の量も示されているが、1379年からはキャビもその数値に含まれている。ちなみにチョウザメの肉の味は淡白で嫌みのない美味しいものであった。塩味で炙る(キャバーブ)エスタージョンキャバーブをホテルのレストランで何度も食べた。いつも醤油を持って行ってちょっと付けるととても美味しかった。チョウザメのことをペルシア語ではماهیان خاویاریという。キャビアの魚という意味である。英語はSturgeonである。ホテルのボーイは「エスタージョンキャバーブ」と大きな声で私たちに勧めてくれたものだった。

私の勤めていた会社の社長は日本からイランに来るときにはいつも高級なマグロの塊?山?を沢山買い占めて持参してきた。それを大使館やら商社の支店長など、現地の有力者たちへのお土産にしたのだ。そして日本に帰るときにはキャビアを買い占めて日本へのお土産にしたのだった。私がテヘランにいるときはキャビアを買いに行くのが私の役目になっていた。キャビアは専売品なので専売公社のオフィスへ買いにいった。一度に沢山は売ってくれないから苦労したものである。ある程度通って顔なじみにもなってきたので苦労はなくなったが、その都度、手土産を持参したものである。彼らが一番喜んだのは日本や外国の少しセクシーな写真の多い雑誌類であった。

キャビアの産地であるラシュトに住んでいるときに、キャビアを買いに行く役目はなかったが、自分のために買う機会が増えた。売りに来るのである。専売品なので横流しの物なのかもしれないが、日本人なら買ってくれると思って家に来るのである。しかもそれがゴールデンキャビアなのである。ゴールデンキャビアは市場には出ていないので最高の珍味であるが、味は特にうまいわけではない。キャビアだって好きでないという人は沢山いる。私は酒の肴にして食べたが美味かった。何しろ日本に比べて格安なのだからガバッと食べることができた。若かったから飲んだ後、ちょっとご飯を食べるが、ご飯の上にキャビアをドンとのせて掻き込むのである。最高の贅沢であった。ケチ臭くチビリチビリ日にちをかけて食べているうちに、傷んでいることに気づかず酷い目に遭った日本人を医者に連れて行ったこともある。キャビアで当たると怖いのである。

冒頭の画像はアマゾンで販売しているキャビアの一部である。もう長い間、キャビアを食べたことがない。

中東世界の女性たち:ゼノビア

拙著『中東世界を読む』(創成社)138頁~139頁の部分を抜粋する。
地図を見るとシリアはトルコの南、イラクの北西、ヨルダンの北に位置している。西側は地中海に面しているが、この西側の南半分にレバノンが食い込んでいる形となっている。レバノンの南側にはイスラエルが接している。地中海沿岸では古代からフェニキア人などが活躍したことが知られている。この地域はヒッタイト、アッシリア、バビロニア、ペルシアなど幾多の大国の影響下に置かれた歴史を持つ。さて、ペルシアの支配はアレクサンドロス大王の征服によって終わるが、その後この地域はセレウコス朝シリアとなる。シリアはその後紀元前64年ポンペイウス皇帝の時代にローマの属州となる。レバノンのバールベックの遺跡はローマ時代の1世紀に建てられたものである。ジュピター神殿は大部分が崩壊してしまったが、神殿跡には6本の柱が残っている。また、遺跡の南側にはギリシャ風のバッカス神殿があるが、こちらは祭殿や柱、天井の彫刻など多数が残っている。またシリアの最も有名な遺跡はパルミラである。パルミラはシルクロードの西のはずれに位置し、紀元前1世紀から2世紀にかけて築かれたオアシス都市であり、美しいことから「シルクロードのバラ」と呼ばれた。遺跡には巨大な柱が並び、劇場や大浴場、神殿跡が残っている。3世紀頃には女王ゼノビアが大帝国を築いたが、3世紀にローマ軍に滅ぼされた。ゼノビア女王は首に鎖をかけられローマ市中を引き回された。さて、7世紀になるとアラビア半島西部のメディナ、メッカ一帯でイスラムが起き、その勢力はあっという間に周辺に広がっていった。・・・
このくだりにゼノビアという女性が登場するのである。ゼノビアという女王があの遺跡で有名なパルミラという国を治めていたのである。ゼノビアとはどんな女性であったのだろうか。パルミラとはどんな国であったのだろうか。世界史の窓では次のように説明されている。

パルミラとは:
パルミュラともいう。シリア砂漠のほぼ中央に位置するオアシス都市で、ペルシア湾方面からダマスクスと地中海東岸の海岸都市を結ぶ隊商貿易の中間の要衝として栄えた。紀元前1世紀のヘレニズム時代から商業都市として繁栄したが、1世紀からはローマの勢力がこの地に及んだ。
3世紀にはその東のイラン高原に興ったササン朝がシリアに進出するとそれに抵抗し、ローマとササン朝の中間にあって女王ゼノビアはシリアからエジプト、小アジアにかけての勢力を築いた。272年、ローマ帝国のアウレリアヌス帝(軍人皇帝の一人)が遠征軍を派遣し、パルミラを制圧した。女王のゼノビアは、才色兼備の女王でありローマ軍とよく戦ったが、敗れて捕虜となりローマに連行され、パルミラもアウレリアヌス帝によって破壊された。

ゼノビアとは:
18世紀イギリスの史家ギボンの『ローマ帝国衰亡史』第11章では、このパルミラと女王ゼノビアについて述べている。
(引用)・・・おそらくゼノビアこそは、アジアの風土風習が女の性(さが)として与える隷従怠惰の悪癖をみごとに打破してのけた、ほとんど唯一の女傑だったのではなかろうか。・・・その美貌はクレオパトラにもおさおさ劣らず、貞節と勇気でははるかに上だった。最大の女傑というばかりでなく、最高の美女としてもその名は高い。肌は浅黒く、・・・歯並みは真珠のように白かったという。漆黒のおおきな瞳は、ただならぬ光を帯びて輝き・・・声は力強く、しかも実に音楽的だった。

この頁に二つの画像はショッピングサイトで売られているスカーフである。ゼノビア女王を描いたものである。数万円の価格がついていた。ISが中東地域で文化施設を破壊したためにパルミラの遺跡も現状がどうであるかは不明である。遺跡で有名なパルミラの裏にゼノビアという女性がいたことを知っていただければと思い記事にした。ローマ市中を鎖につながれて引き回されたというが、この時の鎖は金の鎖であったという。

中東世界の女性たち:シバの女王

前回はアフガニスタンの女性キャスターの服装の話題だったので、今回もそれに関連して「中東世界の女性たち」と題しましょう。イスラム世界ではなく中東世界です。

最初は「シバの女王」です。シバの女王といえば、エルサレムのソロモン王と知恵比べをしたことで有名な人物である。現在のイエメン辺りが彼女の王国であったという伝説の人物である。伝説と同時に歴史上の人物でもある。現在のイエメンは世界で最も貧しい国の一つに数えられるが、かつては幸福のアラビアと呼ばれるほどの豊かな国であった。乳香、香料など貴重な品の産地として有名であった。また、古代都市マーリブつには世界で最も古いダムが造られていたことが知られている。ダムが建設されて灌漑がなされたということである。マーリブダムの辺りではシバの女王の宮殿跡だとされる「月神殿(アッワーム)」の遺跡が発掘されている。

シバの女王がソロモンに会いに行った当時の簡単な地政図は次のようになる。ダヴィデやソロモンがユダヤ人の国を作り栄えた時代であった。この時代と先ほどの月神殿の時代がマッチするのか疑問視されたこともあったが、月神殿の地下にもっと古い時代のものがあるらしいということで、ソロモンとの知恵比べの話は根拠のない話ではないという見方が強くなったのである。ソロモンとシバの女王の知恵比べの話はネットを見ればいくつも出て来ることであろうから、ここでは触れない。ここで言いたいことは、イスラム世界ではないが、イスラム以前の中東世界において男性のソロモン王に対しても引けを取らない女性がいたということである。

 

イスラム女性の服装

色々なメディアでアフガニスタンのテレビの女性キャスターが復帰したことを伝えていた。発信元は共同通信だ。中日新聞の6月7日にもその記事がでていた。

タリバン政府の勧善懲悪省が顔を覆わずに出演していたロマ・アディルさんを降板させるよう命令を出し、テレビ局もそれに従ったのであったが、本人の強い意志の下でテレビ局が彼女を復帰させたというのである。イスラム社会における女性の服装は国や地域により差がある。アフガニスタンではスカーフのように頭を隠すだけではなく、顔全体を覆うのが一般的である。今回の彼女の行為に対してアフガニスタンでは勧善懲悪省の命令を支持する声もあるし、彼女の行動を支持する声もある。国際社会では彼女を支持する声の方が多いだろう。タリバン政権が今後彼女に対してどのように手に出るのか国際社会は注目することになるでしょう。

昨年11月にこのブログではコーランの第4章「女性」を取り上げたことがあります。この章はかなり長い章であり、女性が相続する場合のことなどが事細かく書かれていましたね。そして、女性の章というのですが、服装については書かれていませんでした。そこで、イスラム女性の服装については、コーランでは何処の章にどのように書かれているのでしょうか?

答えは第24章第31節です。
「慎み深く目を下げて、陰部は大事に守っておき、外部に出ている部分は仕方がないが、その他の美しい所は人見せぬよう。胸には蔽いを被せるよう。」このような記載があります。井筒俊彦先生の訳本からの引用ですが、外部というのはおもてとフリガナを打っています。顔の部分は外部になるので「仕方ない」部分になるのではないでしょうか。となると顔は隠さなくても良いという解釈が成り立ちそうです。問題は次の部分「その他の美しい所」です。女性の顔を美しいと感じる人は多いでしょう。男たちが虜になる美しいものだと言えるかもしれません。そうすると隠しておかなければなりません。でも、その程度の記述なので色々な解釈が国によって異なるのでしょうね。今度改めてイスラム女性の様々な服装について取り上げてみたいと思います。

 

重信房子(日本赤軍元最高幹部)出所

5月8日に重信房子のことを書きました。その彼女が20年の刑期を終えて、28日に出所しました。中日新聞の記事を紹介いたします。

写真に写っている本人の左にいるのが先般紹介した『アラブの春の正体』の著者である娘のメイさんです。私たちの世代は大学時代は紛争に明け暮れた時代でした。3年次以後は休講になることも多く、ある者は学生運動に走り、ある者はノンポリを決め込んで、これ幸いと遊んだものでした。大学を卒業して3年目の1971年にイランに赴任した私にとって、同じ中東のテルアビブで1972年に岡本公三が小銃を乱射して数多くの人を死傷させてたことはショックな事件でした。日本赤軍は上の新聞記事に書かれているように複数の大事件を起こしました。重信房子は日本赤軍の最高幹部だったのです。あれから50余年が経ち、時代は変わりました。重信は逮捕された後に日本赤軍の解散を表明しましたが、赤軍のメンバーだった者達が消滅したわけではありません。今なお、7名が国際手配されています。


次の記事は重信のメディアの質問に対する回答の一部です。読んでみてください。

イスラエルのパレスチナ占領を、ロシアのウクライナ侵攻と重ねて、ダブルスタンダードであると語っています。考えさせられることがないわけでもありません。良くないことではないとはっきりしていることでも、止められない現実がこの世には山ほどあるのです。地球人の劣化が進んでいます。
日本も同様です。特に日本の政治家の劣化、品格の欠如は残念です。政府が胡麻化したり、改竄したり、黒塗りで隠蔽する風潮は、一流企業にも波及しています。有名企業での不正行為が次々と明らかになっても反省の色もない時代に成ってしまいました。重信房子の出所に伴い、色々考える1日でした。

 

エジプトのパン騒動:ロシア・ウクライナ戦争の影響

上の画像は MIDDLE EAST MONITOR の少し前の記事の写真です。記事の内容の一部を要約して抜粋すると以下の通りです。

パンデミックと世界のGDPの3.60%の縮小の影響で国際経済がうめき声を上げている間、エジプトは2020年と2021年の両方で3%を超える世界記録の成長率を祝いました。
コロナウイルスの攻撃に続くウクライナに対するロシアの戦争は、この経済成長を打ち砕くようになりました。それはエジプトの観光業に大きな打撃を与えました。また、小麦と石油の価格の上昇のために耐え難い財政的圧力がかかるようになりました。

エジプトは原油と石油派生物の純輸入国であり、年間1億2000万バレル以上の原油が輸入されています。過去数年間、政府は1バレルあたり約61ドルの石油価格予算を起草しました。世界のバレル価格が120ドルを超え、これが150ドルを超える可能性があると予測されているため、エジプト政府は予算の割り当てを2倍にする必要があります。

もう1つの打撃は、小麦と食料の価格です。エジプトは世界最大の小麦輸入国であり、2021年に1160万トンが国内に持ち込まれました。エジプトの供給大臣、アリ・モセリ氏は、政府は小麦の価格を1トンあたり255ドルと想定しましたが、現在は350ドルを支払っています。残念ながら、エジプトの輸入の86%は、ロシアとウクライナの2つの戦争国からのものであるため、問題はここで止まりません。

政府がすでに継続的な物価上昇、賃金の凍結、補助金の撤回で人々に負担をかけていたときに打撃が来ました。政府は、電気、水、燃料の補助金をほぼ廃止し、食糧補助金の価値と受益者数を削減しました。また、重量を減らした後、補助金付きのふすま(バラディ)パンの価格が上がることになりました。

4月7日のこのブログにウクライナとロシアの戦争が中東の小麦の供給に大きな打撃を与えていることを書きましたが、いまエジプトではその影響がパンの価格に現れてきたわけです。各地でデモが起こり、政府に抗議する運動が広がっているということです。エジプトでは過去何度もパン騒動と呼ばれる動きで政府が揺さぶられた歴史があります。今回のウクライナの戦争の影響が世界各地に影響を及ぼし、それが拡大しつつあることが目に見えるようになってきています。早く、終結してほしいものです。

書籍紹介:「アラブの春」の正体 / 欧米とメディアに踊らされた民主化革命

2010年にチュニジアで起きた民衆の行動が、反政府運動へと拡大し、政権が崩壊したのでした。その余波が中東各国に広がり、エジプトの政権も崩壊したのでしたね。反政府運動の波は長期独裁を続けて来た国々の指導者たちを怯えさせたものでした。その一連の流れをマスコミはすぐに「アラブの春」と名付けたのでした。それは、1968年春にチェコスロバキアで起きた民主化の動きを意味した「プラハの春」という言葉を捩ったものでした。このときにはソ連と東欧軍が介入したのですが、結局は民主化が勝利したのです。

マスコミがジャーナリストが「アラブの春」という言葉を連発する状況をみて私は「春などすぐに来るわけはない!」と思っていたので、この言葉を聞くたびにうんざりしたのでした。結果はその通りでした。一部の国では政権が交代したものの、そこに春が来てはいないのです。いまでは、死語となった「アラブの春」です。

そんな死語となった「アラブの春」を題材とした書物を、今日は紹介いたします。書物の紹介というよりは、書物の存在を紹介したいのです。タイトルは冒頭の通りです。2012年、角川書店発行の新書(角川oneテーマ21)で著者は重信メイです。彼女は「はじめに」の中で次のように語っています。「アラブで生まれ育ち、いまは日本に暮らしている私の目からみたアラブの春について書いています」と。そうです、彼女はアラブで生まれ育ったのです。新書の帯には「大手メディアが伝えない革命の真実」と書いています。アラブの春の運動の経緯や事実関係は知っていたのですが、私は彼女の目からはどう見えていたのだろうかと興味を持ったのでした。著者の名前に魅かれたのです。彼女の母親は「重信房子」です。重信房子とパレスチナ人男性との間に生まれたのが著者「重信メイ」なのです。当時読み終えて特に満足感も違和感もない感想でした。知らないことも沢山あったので、そうなんだと受け入れたものでした。一度読んだだけなので、汚れもなく新品同様を維持しています。ただ一カ所だけ最終章の「おわりに」の中でパレスチナ問題について語った部分に鉛筆で線が引いてあります。次の言葉が印象に残ったのでした。
パレスチナとイスラエルの問題は、宗教的な問題ではないということです。イスラム教とユダヤ教の対立ではありません。
イスラエルは確かにユダヤ教徒がつくった国ですが、彼らに土地を奪われたパレスチナ人はイスラム教徒だけではありません。キリスト教徒も無宗教の人たちもいます。そういう人たちがみんなでかつて自分たちやその親が住んでいた土地を取り戻すために、イスラエルの占領政策に抵抗しています。
弾圧、差別、自由がない・・・だから抵抗しているのです。宗教のためではなく、生活のために戦わざるをえない。そのことをまず知ってほしいと思っています。
私がこのあとがきでパレスチア問題を取り上げたのは、この問題とアラブの春は決して無関係ではないからです。
チュニジアやエジプトで人々が訴えたのは、まさに「人間的な問題」です。・・・・・・」
パレスチナ問題を宗教の問題ではないという辺りは全く同感です。私も以前から同じように考えていました。さらに言うならばイスラム同士での紛争ではすぐにスンナ派とシーア派の対立だと決めつけることが多いのですが、対立の真の原因はそんな単純なものではないと考えています。

さて、この本の紹介を今日行った意味にもう皆さんはお気づきですね。重信房子が近く刑期を終えて出所することになるのです。彼女の今については新聞各紙が書き始めているので、そちらをご覧ください。毎日、短歌を詠んで日々を送っているようです。歌集も出版されるようです。これまでの過去を踏まえた歌のようで、いくつかを読みましたが、興味というか、うーんそうなんだという思いが湧いてきました。テルアビブ、ハーグなどなど、様々な思いが浮かんでくるようです。

ロシア・トルコ戦争(露土戦争)について

ロシアのウクライナ侵攻は依然として続いている。ウクライナ東部はほぼロシアが制圧したようであるが、ウクライナ側の抵抗は止まず、多くの市民が犠牲になっている。今回はオスマン帝国時代に中東で起きた「ロシア・トルコ戦争」を回顧してみよう。

まずはインターネット上の「世界史の窓」の記述を引用させていただこう。
17世紀末以来、ロシアにとっては、海上では黒海の制海権を得て、両海峡から東地中海方面に進出すること、陸上ではバルカン半島のスラヴ系民族を統合して勢力を拡大すること、いわゆる南下政策は、国家的野望であり、悲願であった。その地域はすでにオスマン帝国が押さえるか、その属国が治めており、ロシアが南下を図ろうとするかぎり衝突を避けることはできない。ロシアとオスマン帝国との間では、17世紀後半から19世紀後半まで200年間に、大小の戦争が12回に渡って行われている。それらを総称してロシア=トルコ戦争と言う。そのなかでもロシアのエカチェリーナ2世の時の2次にわたる戦争と1877~78年の戦争が重要。一般的にロシア=トルコ戦争(露土戦争)とは、19世紀のものに限定する場合が多い。

つまり、トルコとロシアの間では何度も戦争が行われたのである。

ピョートル大帝時代:
黒海北岸にもオスマン帝国の勢力圏が及んでおり、クリミア半島にはオスマン帝国を宗主国とするクリム=ハン国があったので、まずオスマン帝国に対して攻勢をかけた。ピョートル1世は、1696年、黒海につながるアゾフを占領した。その後、北方戦争が起こったため、バルト海方面への進出が主となった。1711年、北方戦争の最中、亡命していたスウェーデンのカール12世の意を受けたオスマン帝国がロシアに宣戦、プルート河畔の戦いでロシア軍が敗れたため、アゾフをオスマン帝国に一時返還する、ということもあった。

エカチェリーナ2世(在位 1762~96年)の時代
エカチェリーナ2世のときに再び南下政策が活発化し、オスマン帝国への侵攻が再開された。
第1次ロシア=トルコ戦争:1768年にロシア軍が、クリミア半島、バルカンに陸軍を進め、黒海では海軍がオスマン海軍を破る。1774年、キュチュク=カイナルジャ条約でダーダネルス=ボスフォラス海峡(両海峡)の商船の航行権などを獲得。ロシアのクリム=ハン国の保護権を認められた。しかし、クリム=ハン国のクリミア=タタール人は依然としてオスマン帝国のスルタンに従う姿勢を崩さなかった。そこでロシアは、1783年に強制的にクリム=ハン国を併合し、ロシア化をはかった。そのため多くのクリミア=タタール人がオスマン帝国領に移り、救援を求めた。
第2次ロシア=トルコ戦争:1787年、オスマン帝国はクリミア=タタール人の要請を入れて、ロシアにクリミア半島と黒海北岸の軍隊の撤退を要求、ロシアはそれを拒否して開戦となった。この戦争では、イギリスとスウェーデンがオスマン帝国を、オーストリアがロシアを支持したために、国際問題化した。ロシアとオーストリアは共に出兵し、特にロシア陸軍はオスマン帝国領内に深く進攻し、イスタンブル(コンスタンティノープル)に迫まった。1792年、イギリス、スウェーデンが手を引き、オスマン帝国は孤立したため講和に応じ、ヤッシーの和約で、オスマン帝国がロシアのクリミア半島領有を認めた。このクリミア半島併合は、ポーランド分割とともにエカチェリーナ2世の領土拡張の成功となった。
バルト海政情悪化の影響:ロシアとオーストリアが同盟してオスマン帝国との戦いとなったとき、イギリスとスウェーデンがオスマン帝国を支援し出兵した。ということは、バルト海を巡る諸国のあいだの対立となるのでにわかに政情が不安定になり、バルト海の船舶航行ができなくなることを意味し、ポーランドやロシアからフランスに運ばれる小麦などの穀物がストップした。そのためフランスでは穀物価格が急騰し、1788年には折からの荒天による凶作が重なり、食糧不足・物価高騰が起こった。パリ市民には不満が鬱積し、それが翌年のフランス革命勃発のきっかけのひとつとなったのだった。

クリミア半島にはクリミア=ハン国があり、そこはオスマン帝国を宗主とする属国であったわけである。ハン国と呼ばれたことから、この国はジンギス=ハンの末裔のモンゴルの国であった。
クリミア自治共和国の位置
近代のクリミアは、1783年のロシア帝国によるクリミア・ハン国併合に始まる。1921年にはソビエト連邦の下にクリミア自治ソビエト社会主義共和国が設置されたが1945年に廃止され、代わって置かれたクリミア州は1954年にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管された。ソビエト連邦の崩壊に伴い1991年にウクライナが独立すると再び自治共和国の地位を得たが、2014年クリミア危機でウクライナ国内法を無視する形で一方的に独立を宣言。続いてロシアによるクリミアの併合が宣言され両国による領有権をめぐる対立が続いている(この部分はウィキペディア参照)。
今現在はクリミアのロシアの占拠を国際社会は認めていないわけであるが、こうして過去の歴史を振り返ってみると、領土などは常に変化し続けてきたわけである。日本のような島国では、そのような実感は殆どないのであるが。でも沖縄がかつては琉球王国であったが、いまは日本に併合されている。東北の北の方から北海道には倭人はいなくて蝦夷の地であったのを倭人が進出?していった。北海道へも退去移住して開拓していった。島国の日本であるからこの程度であったのだろう。陸続きで国々が存在する地域では、力によって現況を変えることは多々あったことを知るのである。今まさに歴史は繰り返すのを目の当たりに見ているような気がする。繰り返さないで欲しいのだが。