中東諸国❶:サウジアラビア

今年度もあと半月になりました。これまで勤めて来た非常勤講師の仕事も終えることにしました。そこで今回は中東諸国のプロフィールを改めて整理したいと思うのです。現役のときは自分のデーターベースを常時アップデートしていましたが、非常勤になってからは必要な部分のみを見てきました。原点に戻って、改めて中東諸国の現状を整理したいと思います。というものの、現地の国々の資料をにアクセスするのは個人の立場としては難しい(費用が掛かる)ので、やはり米国の資料に頼ることにします。とりあえず今回はサウジアラビアです。

概要 サウジアラビアはイスラム誕生の地であり、メッカとメディナの二つの聖地が在る。現在のサウジアラビアはアラビア半島の大部分を統一したイブン・サウドによって1932年にスタートした。石油、天然ガスの世界最大級の生産国である。
元首 King and Prime Miniser SALMAN bin Abd al-Aziz Al Saud
政府代表 同上
政体 絶対君主制
首都 リヤド (Riyadh)
国土面積 215万㎢  *日本は38万㎢だから5倍以上
人口 3480万人(2021年7月時推定) 推定成長率1.62%
これはサウジアラビアの人口ピラミッドです。 人口ピラミッドは、国の人口の年齢と性別の構造を示し、政治的および社会的安定、ならびに経済発展についての洞察を提供する可能性があります。 人口は横軸に沿って分布しており、左側が男性、右側が女性です。 男性と女性の人口は、縦軸に沿って横棒で表された5歳の年齢層に分類され、最も若い年齢層が下に、最も古い年齢層が上になります。 人口ピラミッドの形は、出生率、死亡率、および国際的な移住の傾向に基づいて、時間の経過とともに徐々に進化します。 <br/> <br/>詳細については、「定義とメモ」ページの人口ピラミッドのエントリを参照してください。
年齢構成
0-14歳: 24.84%(男性4,327,830 /女性4,159,242)
15-24歳: 15.38%(男性2,741,371 /女性2,515,188)
25-54歳: 50.2%(男性10,350,028 /女性6,804,479)
55-64歳: 5.95%(男性1,254,921/女性778,467)
65歳以上: 3.63%(男性657,395 /女性584,577)(2020年推定)
人種 アラブ(90%)
言語 アラビア語(公用語)
宗教 イスラム教徒(公式、市民はスンニ派85〜90%、シーア派10〜15%)、その他(東方正教会、プロテスタント、ローマカトリック、ユダヤ教、ヒンズー教、仏教、シーア派を含む)(2012年推定)
注:さまざまな信仰の駐在員コミュニティ(人口の30%以上)、スンニ派イスラム教の政府認可の解釈と矛盾するほとんどの形式の公の宗教的表現は制限されています。非イスラム教徒はサウジアラビアの市民権を持つことは許可されておらず、非イスラム教徒の礼拝所は許可されていません(2013)
経済概要 サウジアラビアは石油ベースの経済であり、主要な経済活動に対する政府の強力な統制があります。世界で実証済みの石油埋蔵量の約16%を保有し、石油の最大の輸出国としてランク付けされており、OPECで主導的な役割を果たしています。石油セクターは、予算収入の約87%、GDPの42%、輸出収入の90%を占めています。

サウジアラビアは、経済を多様化し、より多くのサウジアラビア国民を雇用するために、民間部門の成長を奨励しています。サウジアラビア経済、特に石油およびサービス部門では、約600万人の外国人労働者が重要な役割を果たしています。しかし同時に、リヤドは自国民の失業を減らすのに苦労しています。サウジアラビアの当局者は、特に若者の人口が多いことを重視しています。

2017年、王国はGDPの8.3%と推定される財政赤字を被りました。これは、債券の売却と準備金の引き出しによって賄われていました。王国は、かなりの外国資産を引き出すか借りることによって数年間高額の赤字を賄うことができますが、設備投資を削減し、電気、水、石油製品への補助金を減らし、最近5%の付加価値税を導入しました。2016年1月、皇太子と副首相のムハンマド・ビン・サルマンは、サウジアラビアが国営石油会社ARAMCOの株式を上場する意向であると発表しました。これは、収益と外部投資を増やすためのもう1つの動きです。政府はまた、石油市場の縮小を受けて、経済の民営化と多様化をより綿密に検討している。歴史的に、サウジアラビアは多様化の取り組みを発電に集中させてきました。電気通信、天然ガス探査、および石油化学セクター。最近では、政府は、ヘルスケア、教育、観光産業における民間部門の役割の拡大について投資家に働きかけています。サウジアラビアはしばらくの間、多様化の目標を強調してきましたが、現在の石油価格の低さにより、政府は長期的なスケジュールに先立ってより抜本的な変更を余儀なくされる可能性があります。

経済 農産物
牛乳、ナツメヤシ、鶏肉、果物、スイカ、大麦、小麦、ジャガイモ、卵、トマト産業
原油生産、石油精製、基礎石油化学製品、アンモニア、産業ガス、水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)、セメント、肥料、プラスチック、金属、商用船の修理、商用航空機の修理、建設工業生産の成長率
-2.4%(2017年推定)労働力
1,380万(2017年推定)
注: 310万人のサウジアラビア人と1,070万人の非サウジアラビア人で構成されています労働力-職業別
農業: 6.7%、産業: 21.4%、サービス: 71.9%(2005年推定)

失業率
6%(2017年推定)、5.6%(2016年推定)
注:データは総人口に関するものです。サウジアラビア国民の失業率は2倍以上です

失業、15〜24歳の若者
合計: 27.2%、男性: 21.5%、女性: 43.8%(2020年推定)

輸出入 輸出
1841.1億ドル(2020年推定)
2858.6億ドル(2019年推定)輸出-パートナー
中国20%、インド11%、日本11%、韓国9%、米国5%(2019)輸出-商品
原油、精製石油、ポリマー、工業用アルコール、天然ガス(2019)輸入
1,798億ドル(2020年推定)

輸入-パートナー
中国18%、アラブ首長国連邦12%、米国9%、ドイツ5%(2019)

輸入-商品
自動車、放送機器、精製石油、包装医薬品、電話(2019)

 

ペルシア語講座 34:ペルシア語はインドヨーロッパ語族です!

次第に暖かくなり、すこし春めいてきましたね。久しぶりに今回はペルシア語の話です。ペルシア語はアラビア文字を使用することは、このブログを読んでいただいているかたは既にご存知の通りです。ですから、ペルシア語とアラビア語は言語学的には近い関係にあると思われがちですが、まったくそうではありません。日本語と中国語の関係と同じようです。日本語は中国語と全然違う言葉ですが、日本語は中国で発達した感じを使用している。それと同じように考えるといいでしょう。ペルシア語の歴史を簡単に説明するのは難しいのですが、古代ペルシア語の楔型文字から、ある時はパフラビー文字を使い、イスラムによる支配のあと、アラビア文字を使用しているわけです。それはそうとして、ペルシア語は言語学的にはインド・ヨーロッパ語族に属する言葉なのです。

インド・ヨーロッパ語族となると英語と同じということです。ですから、ペルシア語と英語は同じグループなのです。ペルシア語習得の難易度は英語程度と言えるでしょう。私にとっては男性や女性名詞がある言語などに比べると易しい言葉だと思っています。アラビア語と比べるとこれはもう圧倒的にアラビア語は難易度が高いです。大学で習ったときに教授は「難しいということが分かればそれでいい」と言われました。

さて、ペルシア語を学生時代に学んで、それが英語と同じグループだと実感したのは、英語の daughter という単語でした。ペルシア語では دختر と書いて dokhtar と読みます。中学生の時に英語の daughter を習ったときに、なぜ gh があるのだろうと思ったのでした。英語ではこのghを発音しなくなったけど、ペルシア語では発音しているわけです。同じ語源の単語だということですね。そういう目で見ると、兄弟の brother は برادر barodar バローダルです。

勿論、英語と共通の単語ばかりというわけではありませんが、そういうことを知るとペルシア語が遠い存在ではなくなったのでした。。アラビア語から取り入れた単語が多いのも特徴です。本来のペルシア語の単語とアラビア起源の単語とを並べて強調するようなこともあります。日本語でも今は外来語が沢山溢れています。ペルシアではフランス語の外来語が多いかもしれません。テレビは英語でもテレビジョンですが、ペルシア語ではテレビジオーンとフランス語っぽく発音します。プレゼントはカアドウです。勿論、ヘッディエと言う語もありますが、カアドウの方をよく耳にしました。電話で受話器を取った時にはアロー、アローです。ありがとうはメルシーが普通。日本語でも若い人々の会話は今風に変化しています。他の言語もきっとそうなのでしょうね。今日はここまでにしておきます。

想い出の中東・イスラム世界:パーラヴィー国王の切手

前回はロシアとウクライナの戦争にこじつけて、無理やり中東の金貨に結びつけたのでした。金貨に描かれていたのはイランのパーラヴィー国王でした。今回は、パーラヴィー国王つながりで、世界最大級の切手を紹介いたしましょう。1979年の革命までの1970年代は彼の全盛期でした。この切手の大きさにもそれが伺われるのではないでしょうか。子供時代に切手収集に夢中になっていた私が買ったのは言うまでもありません。沢山買いました。そして、日本の色々な人に書いた手紙に貼り付けました。当時の通信手段は手紙だったのです。

会社の事務的な通信はテレックスでした。電話回線を通じて文章を印字するタイプライターのような機器がありました。国際電話(国際通信)料が時間で加算されるので、事前に原稿をタイプしてテープに穴をあけて(さん孔というのかな)、電話回線が通じたらそれを一気に流すというものでした。緊急の場合は国際電話ですね。プライベートな場合の通信となると、国際電話はやはり高くつくので、もっぱら手紙になるわけです。今のようにメールがあれば随分違ったでしょうね。また、孫の様子を日本の祖父母たちに見せることは今ではラインやスカイプで世界中どこでも簡単ですが、70年代はそんなものはありません。我々は8mmフィルムで撮影して、フィルムを送ったのでした。親たちはそのフィルムを現像して映写機で映して見たわけです。今考えると隔世の感がしますが、その当時は最先端だったのです。

この国王の切手は1枚だけ記念にとってあります。これを貼って家族に送った手紙もとってあります。次の画像がそうです。封筒の幅いっぱいに貼った切手の大きさがお判りでしょう。私も若かったころの思い出の一枚です。

ロシアのウクライナ侵攻と金貨

平和の祭典であるオリンピック冬季大会が開催されて終了しました。その一方で、平和とは真逆のウクライナとロシアの問題が危機的な状況になっています。ロシアはウクライナの中の2つの州の親ロシア地域の独立を承認するというのです。親欧米化するウクライナを放っておけないわけです。ロシアにとってはNATOの拡大を見過ごせないわけです。問題は複雑です。ドイツの東西統一、つまり西ドイツと東ドイツが一緒になった時あたりまで遡って議論する必要もあるでしょう。そちらのことはそちらの専門家に任せましょう。

この問題で私たち一般人に与える影響はどうでしょう。世界情勢が不安定になると原油が高騰しています。ガソリン価格が170円以上になっています。ロシアから欧州へ天然ガスの供給が止まる可能性もあります。そのために日本の輸入している天然ガスを融通できないかという打診もあったようです。原油や天然ガスとなると豊富な中東が注目されるようになってくるでしょう。

また金が高騰していますね。グラム7000円を超えていました。そこでこのブログとしては中東の金貨を1枚紹介することにします。イランの国王時代(パーレヴィー国王)に発行されていたパーレヴィー金貨です。1~5パーレヴィーの5種類があり、1が8グラム、5が40グラムほどです。次の画像は私が所有する5パーレヴィーの大きな金貨です。この金貨の価値が上がることよりも、戦争のない平和になってほしいものです。

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モスクを知る❺:トルコのモスク

 

今回はトルコ型のモスクとしたいのだが、私も含めて建築やモスクの専門家でない者にとっては、そんなに詳しいことは必要ないだろう。そこで、簡単にトルコのモスクと題したのであるが。

トルコの首都イスタンブールは元々はビザンツ帝国の首都であった。その名はコンスタンチノープルである。コンスタンチヌス帝の名前からきている。このブログの中でもビザンツ帝国がオスマン軍に攻略されて陥落したことは何度か述べたと思う。ビザンツ帝国の都には当時から素晴らしい建築物が存在していた。有名なのがキリスト教正教会の大聖堂(ハギア=ソフィア聖堂)である。これがイスラムのモスクとして転用されているアヤソフィアである。従って、アヤソフィアを見て、トルコのモスクはこうであるというのは間違っているだろう。というものの、それに匹敵するモスクを造ろうとしたのだから、トルコのモスクはこのようでいいということなのだろう。

ビザンツ帝国はオスマン軍に敗れて国は滅亡した。しかしながら、彼らは「国は敗れても、大聖堂を築くことのできる技術や文化をオスマンたちは手にすることはできないだろう」と言ったという。そして、このキリスト教正教会の大聖堂を見て、その技術の高さに驚き、あの大きなドームを自らの手で造りたいと発奮した男がいた。ミマール・シナンであった。

このシナンについて、「世界史の窓」では次のように記している。
シナンは、ギリシア系のキリスト教徒の家に生まれ、若くしてデウシルメによってイェニチェリとなり、スレイマンに従って各地を転戦しながら、架橋や陣地構築技術を身につけ、50歳を過ぎてから、スレイマン1世の悲願であったハギア=ソフィア聖堂を凌駕する規模のモスクの建築に取り組み、1557年に完成させた。そのほか、数多くのモスク建設や水道建設にあたり、オスマン帝国時代の技術水準の高さを示す建築を残している。そして更に次のような引用をしている。(引用)シナンの出自はギリシア系キリスト教徒であったといわれている。1494年から99年頃の間に、小アジアのカイセリの近くで生まれたらしい。当時のトルコでは、ギリシア系住民の子弟から特にすぐれた人材を登用し、イスラム教に改宗させて徴用する制度があった。その中核が、イェニチェリと呼ばれる、スルタン直属のエリート軍団であった。シナンはそのイェニチェリの中で、技術将校として才能を発揮し、スレイマン1世に認められ、宮廷の主任建築官にまでなった。百歳という長い寿命のなかで、81の大規模なモスク、50の小規模なモスク、55の学校、19の墳墓、32の宮殿、22の公衆浴場などを建てたといわれている。首都におけるシナンの代表作といえるモスクが、シュレイマニエ・ジャミイ(一般にスレイマン=モスク)である。1550年に着工、1557年に完成した。<浅野和生『イスタンブールの大聖堂』2003 中公新書 p.198>

彼自身がかつてはキリスト教徒であったこと。オスマン帝国には異教徒であるキリスト教徒を徴用して育てる制度があったことなども興味深いことである。イスタンブールに行けば彼の手掛けたモスクにも出会うことができるのである。また、少し離れるがエディルネという街にも彼が建てた有名なモスクがある。シナンがモスクを建てようとした土地はチューリップ畑であった。地主は土地を手放そうとはしないので、シナンは足繁く通った。結局、モスクにチューリップを残すことで話がついたのであった。このモスクの建物の中の一本の柱にチューリップが逆さに彫り込まれているという。一度訪れてみたいモスクである。モスクを訪れた人々がチューリップを触って、その物語を回想するのだそうで、チューリップはすり減ってしまった。今はガラスのカバーがつけられているそうだ。シナンの一生を描いているのが、夢枕獏さんの『ミマール・スィナン』である。文庫本2冊の大作であるが、面白いのであっという間に読めてしまう。

最後に神谷先生のサイトでのトルコ型モスクについての部分を一部だけ引用させていただこう。
・・・・・・一方、外部はというと、通常 広い敷地の中央に 整然としたプランで建つので、ペルシアよりは はるかに外観がある。しかし ドーム屋根は 近くで見ると 上部が蹴られて、実際の高さほどに 偉大には見えないし、常に黒っぽい鉛板で葺かれた姿は ややグルーミーでさえある。外観を誇示しようとはしなかった と言えるし、しかも どのモスクもよく似た外観をしているので、いささか退屈な感も なしとしない。あくまでも 内部空間の探求が主目的なのであって、外部の形は その結果にすぎなかったのだろう。
オスマン帝国は トルコばかりでなく エジプトから東欧まで支配したので、グレーのドーム屋根と鉛筆型のミナレットがセットになった トルコ型モスクを、津々浦々に建てた。その最高傑作が、トルコ史上最大の建築家(ミマル)シナンが設計した イスタンブルのスレイマニエ(スレイマン1世のモスク)と、エディルネの セリミエ(セリム2世のモスク)である。

トルコの素晴らしいモスクの写真はネットを見ればたくさん出て来るので、是非ともご覧いただきたい。

モスクを知る❹:ペルシア型のモスク

前回モスクにはアラブ型、ペルシア型などがあることを知ったので、その辺りについて考えてみよう。先ず、イスラムが生まれたのはアラブ社会の中である。そこで生まれた礼拝の場であるモスクは当然アラブ型といえるだろう。いま、ペルシア型のモスクというと何が違うのであろう。ペルシアはアラブとは異なる文化圏である。イスラムが7世紀に誕生して、イスラム世界を拡大し始めた時、北西にはビザンツ帝国が、北にはササン朝(226年 – 651年)という二つの帝国が存在していた。そのササン朝は642年にニハーヴァンドの戦いでイスラム軍に敗れ、その後滅亡したのである。こうした歴史を経てペルシアはイスラム化していったのである。そこで造られたモスクがアラブ型のものとは異なっていても不思議ではない。ササン朝ペルシアといえば、シルクロードを経て中国へ、そして奈良へと洗練された文化を伝えた国である。その後のモスク建築にも独特の様式が取り入れられているのであろう。

先日紹介した神谷武夫氏のサイトでは次のような説明がある。
モスク建築の歴史に 画期的な変化をもたらしたのは、ペルシア(現在のイラン)が、ササン朝の遺産である「イーワーン」を モスクに もちこんだことである。初めはごく控えめに、中庭に面する礼拝室のアーケードの中央スパンを 他よりも幅広くし、アーチの高さも高くして、ミフラーブに向かう中央身廊を強調したのだった。この場所に イーワーンを設置すると、中庭が一気に活気づく。ササン朝宮殿のイーワーンは玉座や謁見室としての機能をもっていたのだが、この場合には そうした機能は不要なので、モスクを造形的に美化しようという意図のほうが強かった。

フィールーザーバードの アルダシール宮殿遺跡(イーワーンの元)


こうして中心軸が強調されると、中庭において このイーワーンと向き合う面にも その対応物が欲しくなる。そこで ここにもイーワーンを設けて向かいあわせると「ダブル・イーワーン型」のモスクとなる。列柱ホールが中庭を囲んでいただけの単調なモスク型は、こうして大いにメリハリのある建築となった。さらに、中庭を囲む他の2辺の中央にもイーワーンを設置すると、4基のイーワーンが 縦・横の中心軸上に向かいあう「四イーワーン型」のモスクとなって、飛躍的に造形効果が増大する。

ザワレの金曜モスク

 四イーワーン型の 最初の作例といわれるのは、12世紀の ザワレの金曜モスクである。地方都市なので 規模は小さく、中庭は約 16m角の正方形である。そこに 各辺の長さの 1/3ほどの幅をもつ イーワーンが 向かいあうのだから、アラブ型モスクとは まったく異なった中庭空間となった。4基のイーワーンに囲まれた中庭の求心性は強烈で、奥の礼拝室自体よりも シンボリックな空間となる。イスファハーンの金曜モスクでは、アッバース朝時代の 古典的な列柱ホール・モスクが、12世紀に 四イーワーン型モスクへと 劇的に変えられた。イーワーンのアーチの内側は 半ドームや半円筒形ヴォールトの天井とされ、しばしば華麗な ムカルナス装飾 がほどこされた。アラブ人よりも、見た目の美しさを重視する ペルシア人の 感性の発露だったと言える。

さて アラブ型からペルシア型への 変化部分は 、他にもあった。まず 屋根の不燃化である。アラブ型では シリア・ビザンティンの伝統に従って 木造の陸屋根が基本であったが、ペルシアでは 木材の欠如から、すべてをレンガ積みでつくろうとする。柱から柱へは すべてアーチを架け渡し、4つのアーチで囲まれた区画ごとに 小ドーム天井を架けたのである。それと同時に、ミフラーブの手前は 柱を取り除いて広い正方形の空間をつくり、ここに 大きなドーム屋根をかけた。この 天井の高い場所が主空間となり、均質的なアラブ型とはちがう、メリハリのある礼拝室となったのである。

以上で大体の違いがお分かりであろう。ペルシア型の最大の特長はイーワーンである。四角い壁のような入り口がアーチになっている面である。このイーワーンが四角い中庭を囲む対面の2カ所、あるいは4面に設けられているわけである。有名なイスファハンの「王のモスク(現在のイマーム・モスク)の図面は以下の通りである。

王の広場から入っていくと図の中庭にでるのであるが、中庭を囲む四面がイワーンであることがわかるであろう。王の広場から入っていくときに通る最初の門もイーワーンである。次の写真はそれを私が写したものである。

ドームと尖塔という取り合わせのアラブ型に対してペルシア型はイーワーンとタイルが特徴と言えるかもしれない。ペルシア型にも尖塔はある。前にも述べたことがあるが地方の素朴なモスクが好きである。私が写したそんなモスクのイーワーンも紹介しておこう。

モスクを知る❸:モスクの分類

前回、モスクの形というタイトルで書いたのであった。が、それは基本的なことだけであった。もっと総合的に言及しなければモスクを知ることにはならないだろうと思う。というのはモスクと言っても地域によってかなり違ったものがあるからである。それらをどうまとめればいいのだろうか。モスクを分類するとどうなるのだろうか?インターネットで「モスクの分類」と検索すると神谷武夫氏のサイトに出会った(http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/1_primer/types/types.htm)。
神谷さんは建築家である。世界各地を旅して、インドやイスラム、ロマネスクの建築文化を研究している方である。
彼によれば、モスク建築の分類法としては ① 材料別 ② 機能別 ③ 構成別 という方法が考えられるとしている。

①材料による分類:
やはり建築家らしいと思った。私はアラブの一般的なモスクとイランのモスクは正面から見た形が異なると思っていたので、分類となるとまずは外観だろうと考えていたのである。しかし、建築家は建築に使用する資材から分類している。地域によって、利用できる資材が異なるであろう。従って、モスクを建築するについても、現地で容易に手に入るものを利用するのだと。もっともな話だ。
の分類によれば『「土のモスク」、「レンガのモスク」、「木のモスク」、「石のモスク」に大別される。現代では 鉄筋コンクリートのモスク、鉄とガラスのモスク、空気膜構造の 布のモスク、さらには プラスチックのモスクさえも考えられるが、ここでは伝統的な材料のみを考えることにする。』とある。イスラム建築、イスラムのモスクというと第一にレンガ造りをイメージする。そして、雨の降らない地域では泥を固めた土壁など、土を利用するのもある。私自身は木のモスクをイメージしたことはないが、山岳地方で木材が採れる地域ではモスクも木で造られるのである。そのような説明とともに、それぞれのモスクの画像も紹介されている。是非とも上述した神谷氏のサイトにアクセスして読んでもらいたい。

②機能別:第2の「機能別」というのは、そこで行われる礼拝が 個人用なのか、集団礼拝用なのか、葬祭用なのか、年に2度の大祭用なのか といった、規模と目的による種類分けである。このように記されているのだが、私には少しピンと来ない。集団礼拝が行われる大きなモスクと、そうではない比較的小さなモスク程度にしておきたい。あちこちに「金曜日のモスク」と呼ばれるものがあるが、それらは前者になるのだろう。

③構成別:この項は、神谷氏のブログの説明をそのままお借りしてここに張り付けておく。第3の「構成別」というのは、プランおよび空間構成による「型」の分類である。単室型と中庭型の違いは すでに見たので、歴史上で広く行われたモスク形式の 典型を求めると、「アラブ型」、「ペルシア型」、「トルコ型」、「インド型」の4つがある。最初のアラブ型は、アラビア語と同じように イスラーム圏全体で行われた建築形式であり、モスクの基本形となった。
モスクの代表的な 4つのタイプ
 アッバース朝が弱体化すると、各地が政治的に独立するとともに イスラーム以前からの文明を受けついだ独自の建築文化を発展させる。とりわけ 近世(16~17世紀)に イスラーム圏を分割するかのごとくに鼎立した3つの大帝国は、それぞれに 特徴的なモスク形式を確立することになる。すなわち ペルシアのサファヴィー朝、トルコのオスマン朝、インドのムガル朝である。それぞれの帝国は大規模なモスクを各地に建てたし、近隣諸国にも そのスタイルを普及させたので、ペルシア型、トルコ型、インド型のモスクが、アラブ型と並ぶ モスク建築の典型になったのである。以下に、それぞれの特徴を 詳しく見ていくことにしよう。とあるのである。しかしながらその説明を全てここに張り付けることはエチケットに反すると思うので、皆さんが各自、そのサイトにアクセスして勉強してもらうことにしよう。そのうえで、後日、私の目で見たアラブ型とペルシア型の比較でもやることにしようと思う。

モスクを知る❷:モスクの形

イスファハンで写したモスク

前回に続いて「モスク」です。今回はモスクの形?をテーマにしましょう。多くの方はモスクのイメージを抱いていることでしょう。ドームの天井をもった建物があり、周囲にミナレットと呼ばれる尖塔がある。ドームと尖塔、これだけでモスクの画像が十分に浮かんできますね。大和書房発行・山内昌之監修『イスラーム基本練習帳』51頁の図を引用してみましょう。

言うまでもなく図は一例であって、全てのモスクがこのようではない。先ずはミナレットである。高い塔であり、人が登ってここから礼拝の呼びかけ(アザーン)をする場所である。モスクの近くの宿に泊まると、早朝にアザーンの大きな声に目が覚めることも多い。今では塔の上にスピーカーを備え付けて、大音量で流すところが多い。でも地方の田舎の風景のなかで遠くから聞こえるアザーンは何とも言えぬ心地いい気持ちになる。

図は次にミーダーア(清めの水場)を紹介している。形は様々である。小学校の水飲み場のように蛇口が複数個並んでいるものもあれば、大きな池があったりもする。祈りの前には必ず身を浄めなければならない。

一番重要なのが図の下の方の「ミフラーブ」である。イスラム教徒のお祈りは、モスク以外の外でも、あるいは世界中どこにいてもメッカの方角を向いて行わなければならない。その方角を「キブラ」という。ミフラーブはモスクの建物のなかのメッカの方角にあたる部分の壁にくぼみを造って、装飾している。その隣に「ミンバル(説教壇)」がある。人々はミフラーブに向い、その人々に向って導師がミンバルから語り掛けるのである。

日本人が観光ツアーでイスラム世界に行くと、モスクを訪れることもあるだろう。個人で行く場合も美しいモスクは是非とも見てもらいたい。トルコのアヤソフアやブルーモスクのように世界中から観光客が押よせるモスクも、それはそれで素晴らしいものではある。しかしながら、ガイドブックに載っていないような小さなモスクに出会ったなら、そんなモスクにも入って見てほしい。本来の静かな祈りの場である。地元の人々や子供がのんびり遊んでいる風景がある。癒される風景である。次の写真はイスファハンの中で見つけた質素なモスクで写したものである。お気に入りの一枚である。

 

モスクを知る:モスクとは

このブログを始めてから、丸3年が経過しました。最初は中東の歴史から始めました。時の流れに従って、当然、イスラムが誕生して拡大していった歴史なども書きましたね。その後、少々、散漫になり、あれこれ雑多な内容になったような気もします。「石油のこと」「イスラムを知る」「コーランについて」「オスマン帝国について」などは、まだまだ終わってはいません。そんな状態で今、今年は何を中心に書こうかなという思いでして、その結果「モスク」から始めることにしました。自分の知らないことが沢山あるので、調べながらボチボチ書き進めて行きますので、よろしくお願いします。
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❶モスクとは:
簡単に言うと「礼拝所」「礼拝堂」などと和訳されるとおり、イスラム教徒が礼拝を行う場です。日本ではモスクと訳されています。アラビア語ではマスジドです。ペルシア語のイランでは、私の耳にはマスジェッドと聞こえました。トルコ語では?思い、グーグル翻訳をみてみると cami でした。読み方はカミではなくて多分ジャミと言うんでしょう。思い出したのです。東京にあるモスクが東京ジャーミーと呼ばれていることを。それでは日本のモスクという言葉はどこから来たのでしょうか。それは英語です。英語のmosqueをそのままカタカナで使っています。では mosque はどこからかというと、次の通りです。イスラムがスペインに伝わった歴史がありますね。その時にアラビア語の masjid がスペイン語では mezquita メスキータになり、それが英語ではさらに変化して mosque となったのでした。

❷イスラム初期のモスク:
イスラムの創始者であるムハンマドが、ヒジュラ(聖遷)のあと、メディナで家を建てたが、その中庭がイスラム最初のモスクとされているそうです。そこは現在の「預言者のモスク」の場所なのです。
預言者のモスクの無料イラスト素材

イスラムが勢力を拡大していきました。正統カリフ時代のあとにウマイヤ朝 (601-750) が起こりました。ダマスクスでは聖ヨハネ教会の東半分が接収されてモスクになりました。706年にはワリード1世が西半分も買収してモスクが大きくなりました。これがウマイヤ・モスクです。これが現存する最古のモスクと言われているのです。画像をお見せしたいのですが、著作権があるので控えます。

モスクの外壁やアーケードを飾っている建物や樹木などの華麗なモザイクがこのモスクの名を高めているそうです。 

ナスレッディン・ホジャ

2022年も早や10日になりました。日本でもオミクロン株の侵入と共に感染者数がうなぎ登りに増えています。海外では爆発的な増加が止まらずに、先日のアメリカでは一日に110万人という驚くべき実態が報じられていました。そんな中ですが、いやそんな中だからこそ、今日はホジャを紹介して、日々の緊張を和らげたいと思います。ホジャを描いた17世紀のミニアチュール(トプカプ宮殿所蔵)

上の画像はウイキペディアに掲載されているもので、ホジャについては次のように説明している。「ナスレッディン・ホジャ(Nasreddin Hoca)は、トルコ民話の登場人物。トルコ人の間で語り継がれる頓智話、小話の主人公であり、神話・伝説に現れるトリックスターの一人に挙げられる。ホジャの小話を集めた行状記はトルコのイソップ童話とも言われ、トルコ文学史上重要な作品の一つに数えられている。しかし、ホジャが実在の人物であるか、実在したとしてもいつの時代の人物であったかは明確ではない。

頓智話、小話であると説明されている。私は「笑い話」と捉えている。実際にホジャの物語の本を手にした最初はイランでペルシア語のものであった。優しい内容なのでペルシア語初心者でも楽しく理解できるものだった。日本語版は平凡社から『ナスレッディン・ホジャ物語ートルコの知恵話』というタイトルで出版されている。定価2500円(税込み2750円)とちょっとお高い。その中からいくつかを抜き出してみることにしよう。

ホジャが家の中で、指輪を失うたげな。探したげな。探したげな。見つからなんだげな。今度は、戸口の前へでて、そこを探しはじめたげな。隣の衆が見て、訊いたげな。
ホジャどん、何を探してなさる?
自分の指輪を無うしたんじゃ。それを探しとるんですわい。
どこで落としなさった?その指輪を?
家ん中で。
なら、何で、家ん中を探しなさらん?
ホジャはこう答えたげな。
中はひどう暗うてなあ。じゃで、ここを探してますわい。

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集まって喋ってるところで、アラビアからやって来たばかりの男が、彼地はどえろう暑いんで、人々は皆、真裸で歩き廻っとる。と話してたげな。
その場に居たホジャは、すかさず、口を挟んで、
へえぇ、ならば、そこじゃぁ、女と男とが、どうして見分けられるんじゃろかい?

他愛ないと言えばそうかも知れないが、このような話がこれでもか!というくらい沢山でてくるのである。面白いです。

数年前に私がアラビア書道の作品展に出品したものですが、文章はペルシア語の諺です。 یاسین بگوش خر خواندن  というのは直訳すると、「ヤースィンをロバの耳に」で、ヤースィンはコーランの中の一章の名前なので「コーランの一章をロバの耳に」ということ。つまり日本での「馬の耳に念仏」と同じ。それはそれでいいのですが、作品左上の挿絵がペルシア語版ホジャの本に載っていた挿絵を参考にして描いたものです。ユーモラスに書けたと思っています。

ロバにコーランを読んでやっているのがホジャというわけです。