オスマン帝国(5):第一次世界大戦後のトルコ

上は宮田律著『中東イスラーム民族史』から転載させてもらったオスマン帝国の系図である。1299年に始まったこの王朝も1922年に幕を閉じたわけである。そして新生トルコ、現在のトルコが誕生した。今回はオスマン帝国が第一次世界大戦で降伏したあたりのことを取りあげよう。

第一次大戦後の1920年8月10日に連合軍とオスマン帝国との間で講和条約(セーヴル条約)が締結された。この条約により、オスマン帝国は広大な領土の殆どを失った。詳しいことは省くがオスマン帝国にはアナトリア半島の中ほどの限られた地域だけが残されるような条約であった。特筆すべきことは、この条約にはオスマン帝国内にあったアルメニア人地域、クルド人地域に将来の独立を見据えた自治を認めるという内容があったのである。

出所:山川出版社『中東現代史1』

ここで立ち上がったのが、トルコ共和国建国の父ケマルであった。彼はセーヴル条約を締結したカリフ政権を倒して革命政権を樹立した。そして彼の新政府は連合国との間でセーヴル条約に代わる新たな講和条約(ローザンヌ条約)を1923年に締結して、今現在のトルコの領土の国境を確定させたのである。そしてケマルの改革が始まった。

  • トルコ発展のために宗教と政治を分離した(政教分離)。憲法からイスラム教を国教とする条文を削除した。
  • トルコ語の文字をアラビア文字からアルファベットに換えた。
  • 一夫多妻を禁じ、1934年には女性の参政権を実現。
  • トルコ人としての意識強化  などなど。

クルドやアルメニアという他の民族を抱えたトルコである。宗教や民族にはかかわらず、トルコに居住する人はトルコ人であるという国民国家的な思想の下でケマルは国づくりをしようとしたのであろう。それが高じると「トルコにクルド人はいない。彼らはトルコの山岳地帯に居住するトルコ語を忘れたトルコ人である」というような発言も出てきたのであろう。クルド語の使用を禁止したり、印刷機を壊し、書物を破棄させたようなことも行った。・・・・アルメニア人の大虐殺などという問題もトルコで起ったのである。こうして、トルコは辛うじて現在のトルコの領土を確保することができた。しかし、その他の地域であるシリア、イラク、パレスチナ辺りの処理はどうなったのであろうか。イギリスとフランスの委任統治領が誕生していったのである。それは次回に譲ことにしよう。

キーワード:オスマン帝国、第一次世界大戦、セーヴル条約、ローザンヌ条約、ケマル、政教分離、委任統治領

 

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