第一次世界大戦とアラビアのロレンス

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このブログで紹介しているように、現在月に一回程度で「中東・イスラム学習会」、通称「南山会」を開いています。開催日やテーマは、このブログの「学習会の案内」から見ることができます。8月の例会は31日の土曜日に開催しました。テーマは「第一次世界大戦とアラビアのロレンス」でした。その内容をこのブログ(中東を見る視線)用にちょっと整理して、ここにアップしておきましょう。

第一次大戦は1914年に始まったが、その前からオスマン帝国周辺は不安定な状況が続いていた。オスマン帝国は1877年~78年のロシアとの戦争で大敗しており、ヨーロッパの領土の大半を失っていた。バルカン半島のスラブ系民族もオスマンから独立しようとしていた。そのような動きに対してロシアは汎スラブ主義を唱え、オーストリア、ドイツは汎ゲルマン主義を掲げて支援するような情勢であった。1912年の第一次バルカン戦争では、オスマン帝国に対してセルビア、ギリシア、ブルガリア、モンテネグロが戦った。そして、1913年に起きた第二次バルカン戦争は第一次バルカン戦争の戦後処理に不満を抱いたブルガリアがセルビア、ギリシア、ルーマニア、そしてオスマンと戦ったのである。昨日の敵は今日の友、昨日の友は今日の敵状態の混沌とした情勢であった。そんな折の1914年6月28日にオーストリア皇太子がサラエボにて、セルビアの青年に暗殺されるという事件が起こった(サラエボ事件)。これがきっかけとなって第一次大戦が引き起こされた。

簡単にいうと以上の通りであるが、第一次大戦は三国同盟側のドイツ、オーストリアなどと、三国協商のイギリス、フランス、ロシアなどとの戦争となった。そしてオスマン帝国はドイツ側に参加したわけであった。イギリスとフランスは戦争後にオスマン帝国領土を分割して自国の支配下に置こうと画策しており、そのために次のような協定や条約などを結んだ。

  • フセイン・マクマホン協定(1915年):メッカの太守フセイン(フサイン)と英国の駐エジプト高等弁務官マクマホンとの間で複数の書簡が交わされたが、その中で、オスマン帝国とたたかって勝利した後に、アラブ人の国家独立を支持すると約束した。
  • サイクス・ピコ条約(1916年5月16日):英仏の間で取り交わした秘密協定。内容は戦後にオスマン帝国領の中東を英仏で分割支配するものであった。前項のフセインと約束したアラブの国家建設予定地などが英仏の支配下になるというもので、アラブとの約束に反するものであった。
  • バルフォア宣言(1917年11月):イギリスの外務大臣バルフォアがユダヤ人に資金援助を求める対価に戦後処理のなかでユダヤ人の国家建設を支援するというもの。正確には国家とは言ってなくて「ホームランド」という表現であるが、これが現在のパレスチナ問題にまで発展している原因である。

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このような状況の中でロレンスが登場するのである。トーマス・エドワード・ロレンスは1888年にウェールズで生まれた。大学はオックスフォードでジーザス・カレッジに入学し、歴史や考古学を学んだ。1907年と1908年には長期にわたってフランスを旅して中世の城を見て回り、1909年にはレバノンを訪れて十字軍の調査をした。その後もメソポタミアの調査団に加わった。アラビア語にも堪能であったという。ロレンスは歴史学者、考古学者への道を辿っていたようである。

ロレンスは第一次大戦勃発後に陸軍省作戦部第四課(=地図班)で地図を作成する仕事に携わることになる。そして同年1914年12月にはカイロに赴任することになる。1916年10月までがカイロ駐在期であり、その後アラブの反乱に身を投じることになるのである。カイロの陸軍でのロレンスはどちらかというとつまはじきにされていたようである。また、軍がアラブの反乱に積極的に関わろうとする様子でもないことを感じる。そしてまた、サイクス・ピコ条約のことなどを知って、ここは自分の居場所ではないと思い、転任してもらえるように計画した。そして、外務省の直接命令下にある「アラビア局」の所属となったのである。そうしてロレンスはファイサルに会いに行く。ファイサルとはフセイン・マクマホン協定の当事者であるフセインの長男である。ロレンスはファイサルに会う前に弟のアブドゥッラーに会い、ファイサルのところまで案内される。ファイサルとの話し合いのあと、ロレンスが40名ほどのアラブ軍を率いてアカバを攻めることになるのであるが、その辺りの物語が冒頭に画像で示した映画「アラビアのロレンス」のストーリーである。アカバのオスマン軍の拠点は海から接近するであろう敵に対して大砲を海に向けて設置していた。ロレンスは敵の裏をかいて背後から攻めようとしたのである。それには過酷な自然条件のネフド砂漠を横断しなければならなかった。ファイサルたちはそれは無理だと言ったのであるが、ロレンスはアカバを攻略するにはその方法しかないと主張して決行した。映画のストーリーは実際のロレンスの行動をそのまま物語化したものではないが、大筋で合っている。面白い映画であった。私は大学生時代に始めて見たのであるが、その後何度かテレビで放映されたので、その都度みた。そして今はDVD化されたものを持っている。今回の学習会のためにもう一度見直してみた。

アカバを攻略したあと、ロレンスは英雄となる。そして、アラブ軍はヒジャーズ鉄道を破壊してオスマン軍に打撃を与えた。ヒジャーズ鉄道というのはダマスカスから南へ紅海沿いにメッカ迄建設しようとしたものであるが、メディナで終わった約1300kmの鉄道である。その後、アラブ軍はダマスカスに入城して、ダマスカスを陥落させる。

ファイサルは、大戦後の1919年に大シリア国民会議を招集して、大シリア立憲王国を建設しようとした。一方イギリスとフランスはシリアなどを分割支配しようとした。フランスはシリアの北半分を保護下におくことを主張して、武力でファイサルをダマスカスから追い払った。結局フランスは、新たにできた国際連盟から委託されたという形式をとって、シリアの北半分を、レバノンとシリアに分けて統治することになった。イギリスは、シリアの南半分を、ヨルダン渓谷の東(トランス・ヨルダン)とパレスチナに分けて統治し、またイラクも委任統治にした。アラブとの約束を守らずにイギリスはフランスと領土を分割してしまった。アラブ側の不満が収まることはなかった。そこでイギリスは不満を抑えるために、トランス・ヨルダンの国王にアブドゥッラーを、イラクの国王にファイサルを据えることにしたのであった。アラブ地域は結局イラク、シリア、レバノン、トランス・ヨルダン、パレスチナという五つの地域に分割されて、今現在あるような国境ができたのである。

最後にロレンスが描いていた戦後はどのようなものであったのか。彼はこのように言っている。

  • 今日でいうイラクの領域について「クルド人とアラブ人を分割した政府を設立すべきだ」、またシリアにおいては「アルメニア人をアラブ人と切り離して自主独立させるべき」であると。
  • 「自主独立はアラブ人の手で」
  • 「英国軍兵士は全員撤退させよ」「それまで英国人は単純に『英国流儀の英語で統治する政府』を設立してきたが、その代わりにアラブでは、アラビア語の政権を樹立しアラブ人の義勇兵軍隊を修練して、英国兵士は彼の地から撤退させるべきだ」

ロレンスの主張に耳を傾ける必要があったのではないだろうか。

 

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